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長谷部

お茶淹れてくるね、そう言って席を外した姉の顔は幸福そうに綻んでいたので、私は何も言えず見送るしかなかった。今思えば、手伝うと言ってついていけば良かったのに。そうすれば姉と過ごす時間は増えたし、この客人と二人きりにならずに済んだのに。
 客人、もとい姉の恋人は客間の座卓を前に、姿勢よく座している。セットなのか癖毛なのかストレートながら所々跳ねる短髪は、日本人にしては色素が薄く、一度目にすれば忘れ難い煤色をしていた。伏せられた瞼を縁取る長い睫毛も髪と同じく煤色で、その下から覗く瞳は並の日本人と等しく濃い色をしていたが、僅かに菫色を帯びているようだった。その視線が緩やかに彷徨っている様子から察するに、この男もこの状況にどことなく戸惑いを覚えているのかもしれない。 狼狽える様が似合うような男だとは思っていなかったが、こうしていると年相応の若者めいて、ただの大学生らしくも見える。姉のひとつ下の後輩だというので、そこから更に二歳年下の私は、この男から生意気な態度だとでも思われているのだろうか。思われたところで別に構いはしないので、愛想を繕う気も値踏みするように眺めるのを止める気も更々無いけれど。
 ああ、なぜよりによってこの男なのだろう。 暫しの後、沈黙に耐えかねてか、男が口を開いた。
「あの」
「姉とお付き合いされてるんですよね」
 切り出した男の言葉を遮るように尋ねると、こちらの勢いに圧されてか控えめながらも迷いのない肯定が返された。
「結婚でもする気なんですか」
 重ねて尋ねると、男は面食らったように言葉を詰まらせ、数拍置いて言葉を紡いだ。
「それは、俺の一存で決めることではないので」
 どうやら、姉の意思を聞き入れるつもりはあるらしい。
「なら一時の遊びですか」
「違います」
今度は間髪入れずに否定が返された。
「将来を明確に約束した仲ではありませんが、彼女に望まれる限り、傍を離れるつもりはありません」
 男は真っ直ぐにこちらを見据え、きっぱりと言い放った。
「そう」
 深い彩りを湛えるその瞳だけがやはり、記憶と異なる色をしていた。
 お待たせ、と盆を手に戻ってきた姉が、麦茶のグラスを座卓に並べていく。姉の声と氷の音が、星を撒くように軽やかに鼓膜を揺らす。幾らか胸の内が凪ぐ心地がした。
「私、ちょっと出てくるね」
「えっ、行っちゃうの」
「邪魔者は退散した方がゆっくりできるでしょ?二人っきりで、ね?」
 にこりと笑みを残して席を立てば、姉は気恥ずかしいのか頬を赤らめた。向かいには目を向けずそのまま部屋を出たので、男がどんな顔をしていたのかは知らない。ショルダーポーチを掴んで玄関に向かえば、廊下越しに「気を付けてね」と姉の声が届いた。
 大学入学とともに下宿を始めた姉から、仲の良い同輩や後輩の話を聞く度、ああ今の彼女は一 人ではないのだと、所謂普通の学生生活というものをおくれているのだと、密かに安堵していた。告白されたとか、気になる人がいるのだとか打ち明けられた時も、心底ほっとしたのだ。あの刀は姉を追ってきてはいないのだと。姉は今度こそ人並みの恋愛をして幸せになれるのだと。しかしその安心は早計だった。
「初めましてだよね、紹介するね。お付き合いしてもらっている×××さんです」
 姉が交際相手だと言って連れてきた男は、あの頃と同じ煤色の髪をしていた。 愕然とした。間違いない、あのときの刀だ。やはりあの付喪神は姉を手に入れたのだ。一生どころか、その先まで、恐らくは。
 刀、付喪神、いまではない、姉が審神者なる役職に就いていたときのこと。いまここに産まれ育った私たちとは別の「私たち」のこと。前世の記憶、などと言えば、オカルトめいて聞こえるだろうか。厳密に言うなら、これが本当に「前世」のものなのかは正直自分でもわからない。でも確かに事実で、いつかどこかの「私たち」に起きたことなのだと、その確信は強くある。あの「私たち」も、ごく普通の家庭に姉妹として産まれ、育った。姉の瞳は茶色がかった深い色をしていた。自分のそれよりも少しだけ濃く、夜闇の黒よりぬくもりあるその色が、私はいたく好きだった。しかし、審神者の任に就いて幾何か経った頃、家臣だという男を連れて帰省した姉の瞳は、深く透き通るような、静かな青を湛えていた。
「カラコンにしてみたんだ」
 へらりと笑う姉の、嘘が下手なことくらいは、とっくに知っていた。
 刀の付喪神と親密な間柄になることで、審神者は相手の霊力とやらの影響を受けるらしい。瞳の色が変わったのも、そのせいだろう、と姉は言った。両親の前ではカラコンということで通しておいてほしい、とも。
「あの、ひと、お姉ちゃんの特別なの、それとも、お姉ちゃんが、あのひとの特別なの」
 そう訊くと、姉はひどく幸せそうに、とろけるように、微笑んだ。
「両方、だよ」
姉に付き添ってきたその家臣は刀の付喪神だという。若い男の姿をしていた。煤色の髪に、薄紫の瞳。出過ぎたこともせず、姉の後ろにただ静かに控える様はいかにも家臣らしく、そこに浮わついた気配は微塵も無かった。ただ、時折姉に向けられる強く真っ直ぐな視線と、姉と目を合わせたときの穏やかな微笑が、二人の距離を裏付けるようだった。
 男は姉の家族である自分たちに対しても礼儀正しく、非の打ち所も無く思われたが、恐らく家族の中で自分だけが、どうしても男に気を許すことができなかった。この違和感めいた不快感が何なのか、自分でもうまく掴めずにいた。気に食わない、怪しい、信頼できない、どれもしっくりこないが、「いけ好かない」は最も近いかもしれない。或いは不気味さか、危機感か、畏怖か。理屈ではない何かが、男を受け入れ難 いと警鐘を鳴らしていた。 恐らく腹の底が見えないからだ。本心の隠蔽を危惧しているのではない。感情の深淵の果てが窺えないのだ。この男の、姉に対する好意と忠誠は確かなものだろう。しかしその感情の激し さ、大きさを、根深さを、姉は知っていたのだろうか。その好意故に何を為すことも厭わないであろうこの男の恐ろしさに、気づいていたのだろうか。
「誰かを好きになるって、いいねぇ」
 姉が言う。何度目かの帰省の折、風の心地よい晴れの日、縁側。幸せそうな声だった。
「今まで、恋愛らしい恋愛なんてしたこともなかったけど、寧ろそれで良かったかも」
とろけるように姉は笑う。幼い頃から一緒にいた、昔から笑顔でいることの多かった姉の、それなのに初めて見る笑顔だった。
「これが、こんな気持ちになれるのが、長谷部が初めてでよかったな、って、思ってる」
 姉はそのへし切長谷部という刀の付喪神を、心から愛していた。
 巡る思考を野放しにしたまま、最寄り駅の改札を潜り、ホームのベンチに腰を下ろす。今の私たちが育った街の、さほど大きくも小さくもない駅。30分に一本の電車はまだ気配も無く、上下線とも閑静な空気が流れていた。コンクリートのホームに人影は無く、鳩が時折やってきては 二、三言鳴いて去っていく。何本かの電車と、何羽めかの鳩を見送った頃、やがて改札から入ってきた男は、こちらに気づいて瞠目した。あの時の刀とは違う、濃い色の瞳。
「なぜ、」
「沿線に用事」
食い気味に無愛想な応えを返せば、男は僅かに困惑の色を見せた。
「隣空いてるので、どうぞ」
ベンチの右隣を掌で軽く打って示すと、男はややあってからこちらへ歩み寄り、腰を下ろした。
「気を悪くされましたか」
恋人の身内に礼儀を尽くす姿勢は変わりないらしい。
「何か失礼があったなら」
「敬語、いいから」
 言うと、男は戸惑いの目でこちらを見る。
「年下に敬語使う質じゃないでしょ、あんた」
 普通に話せばいいと伝えると、男は暫しの後に了承を示した。
「言っとくけど」
 いま思えば、いくらかの同族嫌悪もあったのかもしれない。決して害を為さない場所で、かの人の隣を強く望みながら、どうか離れないでと願っている。そのためなら自分をどう変えることも惜しくない、何処までだって追いかけていける。そういう質だ、あの刀も、私も。
「先にお姉ちゃんを見つけたの、私だからね」
 男は意図が掴めないとでも言いたげにこちらを見た。
「あんたなんかよりも前から、私は姉のそばにいたって話」
「それは、そうだろうな......生まれた時から一緒だったんだろう、元々他人だった俺とは違う」
「他人どころか、人ですらなかったくせに」
 男は怪訝な顔でこちらを向く。
「それはどういう、」
「ねえ、あなたはさ」
 遮るように訊ねた。
「お姉ちゃんと初めて会ったときのこと、どこまで覚えてる?」
 男が視線を下げる。記憶を辿っているのだろう。その瞳は懐かしむ色をしていた。大切な宝物を慈しむような、そんな顔をしていた。
「大学の、最初のゼミ見学......向かいの席で、笑いかけてくれた。」
「それだけ?」
「ああ」
「本当にそれが最初?」
「だと、思うが......」
 少なくとも俺はそうのはずだ、と男は眉尻を下げる。本当に心当たりが無いらしい。......憶えていないのか、本当に。
「じゃあ、お姉ちゃんの目の色は、わかる?」
 僅かな思案の後、男が応える。
「黒に近い、が」
 男の視線は空に向けられる。そうして姉の瞳を語る。きっとこれまでに何度も見つめてきたのだろう、姉の瞳を。
「青みを帯びている......空を溶かしたようだと、思った」
 男の目がこちらに向く。
「同じ色をしているんだな」
 不意に正面から男と視線がぶつかり、咄嗟に目を逸らした。
「......姉妹、なので」
 そうだな、と男が応える。何となく今は男の方へ向き直る気になれなかった。
「なんであんな色してるか、わかる?」
「いや......生まれつきと、聞いたが」
 ああ、こいつはあの温かな色を知らないのだ。憶えていないのだ。塗り替えられる前の、奪ったその色を憶えていない。
「多分、あんたのせいだよ」
 私だけがあの色を憶えている。姉との繋がりだった、姉より少しだけ薄く、それでも大好き だった自らの色を捨てた私だけが、憶えている。私だって全てを憶えているわけではない。現に今の私には、審神者だった姉の最期については 何一つわからない。ただ、今この街に産まれた姉の瞳が青を湛えていること、私の瞳も姉と同じ色をしていること。それは欠けた記憶の手がかりか、答えの一部なのかもしれない。 姉の瞳の青があの刀のせいなら、私の瞳の青は姉のせいで、この男の瞳の闇色も姉のせいだ。
 そして私だけが勝手に追いかけている。部外者のくせに。
「俺の、とは」
「......いい、忘れて、言い掛かりつけたかっただけだから、ごめん」
「ああ」
 まだ腑に落ちないと言いたげな男に「お姉ちゃんを盗られるのが癪だったから」と告げれば、 ややあってからひとまずは納得したようだった。私が姉や男にとって「かわいい妹」だろうが「かわいくない妹」だろうが、本当のところどうでもよかった。この男の、あの刀の心は私にはわからない。この男にも私の心はわからないだろう。それでいい。姉が幸せに笑えるのなら、それ以外のことなんて何もかもがどうでもいい。
「そばにいたいなら、好きなだけ一緒にいればいいよ。私も会える距離を離れるつもりはないけど。でも、今度は絶対、お姉ちゃんをどこにも連れていかないで」
 言いながら、はたと思う。今度は、どこにも、では、以前はどこに連れていかれたというのだろう?疑問を置き去りに口は言葉を吐いていく。出任せではない、切実な思いは確かだった。
「約束して」
「ああ、約束する」
 男は真剣な様子で応えた。相変わらず誠実な質なのだな、と思って、あの頃から誠実さは認めていたのかと気付き、無性に可笑しくなった。
「幸せにしてあげてよ」
「必ず。そのためなら俺は何でもする」
「おっも......」
「あの人の幸せが最優先なんだ、そのくらいでちょうどいいだろう」
「なんでそこまで、お姉ちゃんに?」
「なんで、か......あの人は、俺の幸せそのものだから、かなあ」
「幸せ......」
 その感覚は、何となく、わかる。
「まあ......その、なんだ」
 男が口ごもる。言葉を探すように視線をさまよわせ、また口を開く。
「心配しなくても、俺たちの関係がどう変わろうと、あのひとがあなたの姉であることは変わらない」
 妹がかわいくてしかたないんだそうだ、と男は笑った。
 傾きつつある陽射しと、伸びる影を見ている。最寄り駅のホーム、そこそこ年季の入ったべンチ。今の私たちが育った街の、さほど大きくも小さくもない駅。30分に一本の電車は発って間もなく、上下線とも閑静な空気が流れている。
 男の乗車を見送って、結局電車には乗らなかった。沿線に用事などそもそも無いのだ。
「かわいくてしかたない、かあ......」
 あの刀は己の在りようを根こそぎ変えた。恐らく自らの意思で。姉の隣にいるためだけに。私は瞳の色を捨てた以外、何も変わってはいない。いまも彼女の妹であり続けている。もしも それが、姉の願いによるのだとしたら。姉の願いを叶えたいと、あの刀が望んだのだとしたら。 私の存在が、ふたりに望まれていたと、したら。
 私独りが追いかけているのだと思っていた。振り向き微笑みこそすれ、決して待ってくれることも追ってくれることもないあのひとを、私ばっかりが勝手に追いかけているのだと。
 あの刀の、そしてあの男の幸せは、姉のかたちをしているとして。姉の幸せはどんなかたちをしているのだろう。
 どんなかたちであっても、そのうちの一欠片が私だといい。私の幸せは、きっとその欠片のかたちをしている。
ホームには人が疎らに増えつつある。いつの間にか鳩の行き来は止んでいた。そろそろ巣に帰る頃合いなのだろう。次の電車を見送ったら、私も帰路につくことにしよう。
 夕焼けは透き通るような橙をしていた。
 やさしい色だった。

20220504加筆修正
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