マギ 短編
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**
「ねぇジャーファル、近いうち一日……半日でも時間をつくれないかしら?」
「すみませんが、しばらくは忙しくて」
「ちょっとでいいの」
「西のほうで想定外のことがありまして。それが落ちつくまでは動けません」
「でもジャーファル……」
"ジャーファルと私にとって大事なことなの"
そう言いかけて、あいまいに微笑んだ。
続けるうちに、自分が話していることが二人の未来のためなのだと考えていたのにただのひとりよがり、わがままなのだと感じられてきてしまって。
国の大事と、個人の事情。比較の対象にもならない。ジャーファルはシンドバッド王と、シンドリアのために働いているのであって、私は彼の目標にすらない、人生の中で、あってもなくても変わらないほんのおまけにすぎない。
「……そうよね、ごめんなさい」
「それが終わったら話をききますから。なにか大事な話ならなおさら落ちついてからのほうがあなたにとっても良いでしょう、なまえ」
「いいの。その、ほんとに個人的なこと、だから……気にしないで。忙しいときにごめんなさい」
「いえ。ではまた後ほど」
「うん」
どうやってこの問題を片付けたものか。
数日前、母親の名前で届いた封筒には、数人の男の紹介状が入っていた。
親と恋人を会わせたことはない。彼氏がいる、とは親に話したことがあるが、彼の位をきいて冗談半分で信じてもらえず、分不相応だ、と言われてしまった。本気であるはずがない、と。
いままでだってこんなものつっぱねてはねのけてきた。まだ身を固める気はなかった。結婚という契約の形でなくとも、彼の姿をみていられるのなら。でもそろそろ、心が折れそうな自分がいる。
そしてある夜、目撃してしまった。
その両膝に女性を乗せた、ジャーファルの姿を。つまらなそうに杯を傾けている。このお祭り騒ぎでなまえが見ているなどとはすっかり気づいていないようだ。
なまえは感情が抜け落ちた顔をしている。絶望でも、諦めでもない。からっぽだ。
「お、おいなまえ。ジャーファルさんから望んだとかじゃないんだぜ。抵抗してたのをシンドバッド王が面白がって無理矢理だなぁ」
シャルルカンが焦ってフォローするが、その効果は薄い。なまえは黙りこくって、地に根が生えたようにしている。そしてようやく、口にした言葉は吐息のように頼りなかった。
「わたし、かえ、る」
「ちょっと待てって。気分転換に向こうで一杯だけでも呑んでかねぇ?せっかくごちそうもあるんだし、俺に付き合ってくれよ」
彼の気遣いに少し気が落ち着いた。
「シャルルカン、ありがと。優しいね。でもやっぱり、今日は帰るわ」
振り返り際に、低いところから手を伸ばしていかにも年上らしくぽんぽんとシャルルカンの頭をなでていった。やわらかな笑顔が胸に痛い。きっと心はずたぼろに引き裂かれているんだろうに。
おかげで数日、両人の間には微妙な距離感が生まれていた。表面上なにもないように見えるが、それでもわかる者にはわかってしまう。
南海生物の襲撃報告があった際、ジャーファルがいつも通り指示を与える。
「今回はヤムライハに主導してもらいます。なまえ、あなたはヤムライハの援護を」
「そうね、ジャーファルがこの場でキスしてくれたらやるわ」
「わお!なまえったら大胆!」
ひゅーひゅー、と指笛を吹き盛り上げようとするピスティ。スパルトスがぎょっと目をむいてピステイのかしましい口を押さえる。シャルルカンは青ざめ、ヤムライハは薄ら笑いを浮かべてことを見守る。
「なにすねてるんですか。馬鹿を言ってないでお行きなさい。被害がでたらどうします」
あくまで冷静に諭すジャーファル。
緊迫した空気が張り詰めていたが、しばらくしてなまえが先に折れた。さびしそうに微笑む。
どきりとする。頭でなく、心が、自分は正しくないことをしてしまったのだと告げる。だが、どうして。それがわからない。
「わかったわ。これじゃあ公私混同だものね。…ふざけてしまってごめんなさい。ヤムライハ、行きましょう」
「え、えぇ。お願いするわ、なまえ」
ヤムライハは素晴らしい魔法使いなので、海洋生物の一匹二匹、軽くいなしてしまう。ほとんど任せきりで、援護を仰せつかったものの大したことはなにもせずに終わった。
騒動が終着したところで、なまえはまっすぐシンドバッドのもとへ向かった。
「私、疲れたのでしばらくお休みをいただきたいのですが」
こんなことを言いだすのは珍しい。体調管理ができる部類であったし、疲れを表面に、ましてや言葉に出すようなことはしない。誰よりも仕事に打ち込んで限界を超えても頑張る恋人のそばにいたらそうなるのかもしれない。
「お、おお構わん、ぞ?よくやってくれた」
「ありがとう存じます。では」
海洋生物の後片付けで周囲は騒がしく、女性一人が席を外しても誰も気づかない。親しい友人ばかりが彼女の目につく。
「なまえ、お祭りには参加しないの?」
ヤムライハが引きとめたが、首を振る。
「ううん。疲れたから、もう休むわ」
声も低く、普段よりおっとりとした口調で、気だるげに肩を回した。それをうたぐることもなく、ヤムライハは彼女の背に最後の誘いをかける。
「そう?でもあとで気がかわったらいらっしゃいよ」
「ええ、ありがとう」
夕日に照らされる、背筋の伸びた後姿を少し眺めて、深呼吸をして優しく呼び止めた。
「ヤムライハ」
「なあに、なまえ。やっぱり一緒に行く?」
「ううん、違うの。……あのね、ほんとに、ありがとう。いろいろと。それだけ、おやすみなさい。お祭り楽しんできて」
「ふふ、楽しんでくるわ。ゆっくり休んでね」
それがなまえからの最後の挨拶だなんて思いつきもしない笑顔で、ヤムライハは別れを告げた。
ありがとう、気を使ってくれて。いままで仲良くしてくれて。何も言わずにごめんなさい。ヤムライハのこと、大好きだった。魔法馬鹿が玉に瑕だけれど、頭が良くて研究熱心、優しくて初心なところも微笑ましい。ピスティもちゃっかりしっかりした性格をし、あれでいて憎めないしたまに連れていってくれる海の散歩は楽しかった。きらきら光る波と、彼女の天使の輪の浮かぶ金髪を眺めるのが好きだった。剣技以外は不器用なシャルルカン。デートのセッティングやプライベートでもよく彼のフォローをしたものだった。真面目なスパルトスも。話というより、いつの間にやら議論になっていた。マスルールはあまりしゃべらない子だったけれど、行動は誠実で、お願い事をたまにきいてもらったりした。終わりをしらない回想に、ずっと浸っていたかったけれど、そうもいくまい。
たっぷり時間をとって湯を使った後、髪を軽く乾かす。しっとりまだ濡れている髪を撫でながら、ふとペンと紙を手に取る。椅子に腰掛けて、まばたきをした。
窓の外からは楽しげな音楽と人々の声がきこえてくる。意思を固めるようにきゅっとペンをにぎりしめた。
さようなら。
心配しないでください。
いままでみんなありがとう。
私のことは忘れてください。
さまざまな置手紙の決まり文句が浮かぶものの、どれもふさわしくないようなきがしてしまう。つらつらと長く書くのはうっとうしく白々しい。簡潔に、伝えたいことを。
恨んでなんていないわ。
あなたにはほかにだれかがあらわれるからだいじょうぶ。
私は幸せだった。
―愛してる。
書き出した全てを斜線で消し、後を残すのも嫌で火をつけて燃やしてしまった。灰に混じって涙が落ちたが、煙が目にしみたことにしておこう。そうして何も想いを残さないことを決めた。だって、どうしていいかわからないのだ。どんな言葉を残していたって、結局は自己満足にしかならないであろうこと。きっとどんなに優しい感謝でも、厳しい恨みのことばでさえジャーファルは理解も納得もしない。もういっそのこと、文字通り煙のように空気に溶けて消えてしまいたかった。
結局祭りへちらとも顔出しをしなかった彼女が気にかかって、ヤムライハが翌日部屋を訪ねるとそこはもぬけの殻だった。
「なまえ、なまえったら!」
隠れているのだろうかと名前を呼ぶが返事はない。ベッドはきれいに整えられ、触れると冷たかった。昨晩ここでなまえが寝ていた形跡がない。
「……どこにいったの?」
誘拐などは考えられない。整然としていて、暴れたような跡もないし、机の上には彼女が普段身に着けていた魔法具がきれいに揃えられていた。全てをそのままに残して、いまにも帰ってきそうな雰囲気なのに。
まさか、散歩にでもでかけているのだろうか。ひとまず騒がずに彼女の部屋で太陽が真上にくるまでは周囲にも黙っていた。彼女を知るものにさりげなくなまえの姿をみなかったかどうか尋ねても、誰も行方を知るものはおらず。
夕方になって戻らないのでさすがにおかしいと、ついに王へ報告して指示を仰ぐ。
「なに。なまえが?休暇を出したから旅行にでも行ったんじゃないか」
どこかのんきに答える王に、苛々が募る。
「どこかに行ったにしろ私にすら何も言わないなんて、変ですわ。魔法具も置いていってるんですもの」
「ふいに戻ってくるかもしれん。明日の夜まで待ってみて、戻らなかったら捜索隊を出そう。ジャーファル、なにか彼女の当てはあるか」
「はぁ、いえ……どこかに行くとかはきいたことありません」
言うべきか言わざるべきか、逡巡して結局ヤムライハは口を開いた。
「先の謝肉祭のとき、王がおふざけでジャーファルさまに女性をけしかけたでしょう」
「お?そんなことがあったかな」
とぼけているのか、真実記憶から抜け落ちているのか。
「ありました。言いづらいんですけど・・・なまえ、見ていたようなんですよね。それがずいぶんショックだったようです」
「え……あのときのことですか?まさか、なまえは参加してないときいてました」
「見てたんですよ、しっかり……それで祭りの参加を拒否したんです」
それはまずい、と王とその付き人は顔色を悪くした。ようやく事態を重く受け止めた二人をみて、ヤムライハは腕を組む。
「捜索隊を組みます。いいですね」
そのまま一か月経っても、依然として行方はわからないまま。
一月の間にだんだんとジャーファルの様子がおかしくなってきた。
ささいなしくじりが続くようになり、じんましんは止まらない。仕事をしていないと出てくるというが、やっきになって仕事に集中しようとして失敗しているようだ。
ときおり呆然としては、体をさすっている。あの仕事人間のジャーファルが仕事が手につかないなんて、と宮中がざわめいていた。
文章を何度読んでも、頭に入ってこない。
「おい、ジャーファル。ここの日付違うぞ」
「え……すみません。これ……。おや……いつでしたっけ」
「はっ?いや、昨日だったろうここは。ほら、議決したやつ。来年から施行する……」
「あ、はい。そうでしたね」
「おい、だいじょうぶか」
「だいじょうぶもなにも、処理しなければならない事案もまだありますし」
思うように片付かない仕事にめまいを覚えて額を押さえた。休憩するつもりはないのに気づけば手が止まり、ため息をついている。その様子をシンドバッドは見てみぬふりをしていたが、もう我慢の限界だろう。ジャーファルの部下も処理に手を焼いてシンドバッドに向かって救難信号を送っている。
彼のプライドも邪魔して素直に休みをくれなど万が一にも言い出さないことはわかっていた。
「もういいから下がれ」
「馬鹿をおっしゃい、これらをあなた一人に任せられますか」
「なぁジャーファル、他にするべきことがあるんじゃないか」
やんわりと、いまだに見つからないなまえを自ら探しに行けと含めたつもりだった。なにが一番彼の仕事の妨げになっているのか、彼がどれだけ恋人を愛しているのか知っているから。それでもジャーファルは意地をはる。なまえの居所探索は他に任せているからと宮中を離れずずっと机にへばりついている。どちらも成果はないけれど。
「いまは政治がだいじです。他はありません」
「そうか。だが今日はここまでにして少しでも睡眠をとっておけ。そして明日はここへ出てくることを禁ずる。少なくとも3日休みをとれ」
「横暴です」
「かまわんさ」
文字通り投げ出されるように、部屋から追い出された。
「休暇などもらっても、どうせ眠れぬものは眠れないんです……なまえ」
締め出された扉の向こうでも同時にため息がもれたのを、ジャーファルは知らない。
できることなら国中を駆け回って探したい、もはやこの島にはいないのかもしれない。そうしたら世界をまわってでも、と。けれど探しても良いのだろうか。自ら望んで失踪したものを無理に連れ戻すような真似をして。愛想を尽かされるのも理解できる。ある日彼女は何かを伝えようとしていた。なにか彼女にとって大切なことを。でも自分のわがままだからとひっこめた。そうしてなんだかんだで流され、あの祭りの夜が決定打だったのだろう。あれは決して浮気などではない。だが傍から見たらどう映っただろうか。恋人の大事を後回しにして酒と他の女に浸っていた男など。
見限られて当然なのだ。なまえは仲直りのチャンスを与えてくれたというのに、それすら拒絶した恋人を捨てたくなるのも無理はない。公で己を誇示したり見世物になるのは嫌っていたはずなのに、人前でキスしろなどと言って。明らかにおかしかった。あのときに話をすべきだった。
こうして行方をくらまされても、仕事に打ち込むなど。行くあてはどこだとか、伝手を辿るにもなにも思いつかなくて。いままで彼女の何を知っていたのだろうかと自身を責めた。知っていたようで全てを知らず、それほど愛していなかったのか。いや、それはない。彼女がそばにいることでどれほど心が休まったことか。
思い出せば思い出すほど、気が狂ってしまいそうになる。何も言わずに姿を消したなまえ。
しても仕方ないとわかっているのに、後悔がうずまくのをとめられない。
さいごに見たのが、悲しそうな笑顔なんて嫌だ。
**
あるときマスルールとモルジアナが森で修行している最中、異変に気付いた。
森が妙に静かだ、という。
「師匠」
「あぁ。お前も気づいたか」
「いつもと様子が違いすぎます。気味が悪いです、この感じ」
「あぁ、俺もだ。少し奥まで行ってみる。あまり俺から離れるな」
「はい」
師弟はお互いの背中を合わせるように周囲を警戒しつつ、森を探索する。
中心部へ行くほど、森は鎮まっていく。
いつもなら森林にひそむ動物達の声がきこえるものなのに、いやに閑散としている。枝に止まっているパパゴラスを見かけたが、通常なら威嚇してくるところを、じっとそこに留まっているだけだった。近づくと、目を閉じて眠っているのがわかる。つついてみると、あっさり転げ落ちた。目を覚まして攻撃してくるかと身構えたが、地面に転がったまま。
これはおかしいと、報告にきた。シンドバッドは隣で空ろなジャーファルをちらりと見て、詳細を語ってくれた二人に感謝を告げた。
すぐさま捜索隊を森の中へ重点的に送り込み、調査させることになった。
なにかの影響があるとみられる場所から、だいたいの中心地を割り出して、原因を探求する。
地面を掘り返すと、ぽっかりと空間があらわれた。
やわらかな緑の褥によこたわる姿は明度を抑えた絵画のようだった。
水気をたっぷり含んだ葉、苔に覆われて踏み入れるとおぼれるように沈むのではないかというほどやわらかな土。そこに敷物をしくでもなくただなすがままに体を置いて、髪が散らばるのもかまわぬようすの女性。周囲に這う蔦は、腕も腰も髪にもゆるくからみついている。一部はそっと握りこむように彼女の指をとりまいているのが印象的だった。やわらかな緑のゆりかごに眠る、かの恋人。
「なまえ」
揺すっても息を乱すこともない。ただその表情はなにも悩みごとなどないかのようにしている。耳からあご、首をジャーファルの手がすべる。こうするとくすぐったいと肩をすくめて笑っていたのに、ただの石像になってしまったかのようだ。
「魔法で眠っているのね。でも魔法具を使ってないから、ルフが混乱して周囲に少しずつ広がって、森に影響してしまったんだわ。なまえらしいつめの甘い失敗ね。今回ばかりはそれに感謝だわ」
「ヤムライハ、どうやったら彼女は起きるんです」
「……悔しいけど、見ただけではわからないわ。調べてみます」
少なくともなまえは生きている。ジャーファルの土気色の顔色がましになったのを見て、ヤムライハは安堵した。
これで少しは正気に戻るだろう。宮殿に戻って、なにか使えそうな魔法式がないかさらってみることにした。
「僕がおねいさんと話してみていいかい」
魔法がらみらしいときいて、ヤムライハにくっついてやってきたアラジンが、杖を握りなおした。
「目を覚まさないのに、話すとは……」
「夢の中に入ってみるよ」
ソロモンの知恵を使って、なまえの意識下に潜り込む。先ほどまで見ていた景色と同じような落ち着いた緑色の空間。しかし光らしい光はなく、暗くてぼんやりしていた。
「なまえおねいさん」
現実とは違って自身の名前に反応して、目を開けた。
「アラジンくん。どうしてここに?……そう、私見つかっちゃったのね……」
振り返ったその姿は、健康体そのものだった。
「おねいさんの夢の中にお邪魔しているんだ。おねいさん、僕と少し話をしないかい?」
「そうね……、みんなききたいことがあるでしょうね」
「うん。どうしておねいさんは眠り続けるんだい?」
「こんなことをして、みんな、愚かだと笑うわね」
「違うよ。心配してるんだよ」
「そんな風に言ってくれてありがとう。そうね。アラジンくんなら私の話もきいてくれるでしょう。ちょっと前ね、親に結婚を催促されて、お見合いさせられそうになったの」
「ジャーファルさんがいるのに、他の人と結婚かい?」
「親と合わせたほうが話が早いと思って、まずジャーファルに時間を作ってもらえないか頼んだんだけど、国事に忙しいからしばらく暇はない、って……
私にとってもシンドリアは大事よ。けれど……」
すう、と息を吸った。
「あぁ、ジャーファルの中の私ってそんなものなのかなぁ、とも思ったの。思ってしまったの。…仕事がいちばんなのは知ってたわ。そんなジャーファルが好きよ。見返りなんていらないから、そばにいて支えていきたいわ。でもずっとこんな付かず離れずの関係なのかしらと考えたら、それで私は構わないけれど、親がせっついて……お見合い話ををすすめていくのだもの。こんなときに、ジャーファルに私を選んで、なんて言えないわ。きっと彼はシンドリアを選ぶ。それくらいわかってるの」
「そんなことわからないじゃないか。きっとジャーファルさんならおねいさんを選ぶよ」
瞳をしっとり濡らして、なまえは首を重そうにふった。
「わかるの」
「ジャーファルにはこれから先にもふさわしい女性がたくさんあらわれるわ。でも私はもう一生、ジャーファルしか好きになれない。こんな想いをかかえたまま他の誰かと一緒になるなんて耐えられない。そんなことをしたらその人にも失礼だわ。だから、これからずうっと眠るの。もう、どこにも行きたくない……」
「僕は悲しいよ、そんな眠るだけのなまえおねいさんを見ているのは。どうにかして起きてほしいよ。眠る魔法を解くにはどうすればいいんだい?」
「いやよ。誰にも言わないわ。それに無理に目を覚ましたら記憶を失うように魔法をかけたの」
「でも、解く方法があるんだね」
確信をもってそう言うと、失言に気づいたなまえが目を背けた。
「ぜったい、解けないわ。解けるとしたらただ一人だけ。でも無理ね」
「ひとりだけ?その誰かなら解けるってことだね」
「できないわ。そんなことは奇跡でもない限り」
「なまえおねいさん、諦めないで。僕が助けてあげるよ。絶対魔法を解く方法を探し出してみせる。奇跡を信じて待っていておくれ」
「……ありがとうアラジンくん、でも……もういいのよ」
私が助けてほしいのはひとりだけ。そしてそれは、私自身ではない。
「ふぅ……」
なまえの意識を離れて、頭を指で掻くアラジン。
「どうでした、アラジンくん」
「おねいさんは、魔法を解く方法があるって言ってた。誰か、人の手によってしか解けないみたいなんだ。無理に起こすと記憶を無くすみたいだからそっとしておいておくれ」
僕も戻って考えてみる、とその場を去ってしまった。この場にはなまえとジャーファルばかり残される。
「すみませんでした。黙って寄り添ってくれるあなたに甘えて、あなたを顧みずにいました」
「今更になってなまえ、あなたを失いたくない……」
なまえに覆いかぶさって、優しく口づけた。
「……どうして、私……生きて……ジャーファル、どうしてここに」
「私を覚えているのですね」
「……いっそ忘れられれば良かったのに。魔法を解いてしまうなんて、どういうつもり?」
愛しい人が、生きて、動いて、目の前で自分に向かって話している。人心地がした。
「じんましん、どうしたの?仕事してないの?」
ぶつぶつとした肌を遠慮がちに撫でる。心配そうに歪む表情に、どうしてか泣きそうなくらい嬉しくなる。彼女の気持ちはまだジャーファルにあるのだと確信して。
「あなたが眠りについてから仕事ができなくなりました。始終あなたのことを思い出してしまって」
「まさか。ジャーファルが?」
「あなたがいないと思うとなにも考えられなかったんです」
「私なんて、いてもいなくても同じでしょう。もっと美人で、もっと役に立つ女性はたくさんいるわ。シンドリアに尽くしてくれる人が好みなんでしょう」
「確かにシンドリアに貢献してくれる女性が理想でした。でも、尽くしてくれなくても支えてくれなくても、私にはなまえでないとダメなんです」
「私、シンドリアが好きだけれど、ジャーファル一人のことを考えて、そばにいたいだけ。自分勝手よ」
「なまえ、聞いてください。私はもっと自分勝手でした」
「違うわ、ジャーファルはこの国の未来のために頑張ってるんだわ。素晴らしいことよ。私はいつも誇りに思ってる」
真摯な瞳にジャーファルは反論する術を失った。
「私のことはどうでもいいの。ジャーファルのしたいようにしていいのよ。だからいままでのこと忘れて。私はどうとでも生きていけるわ」
「うそばっかりですね。生きていくことも放棄して眠り続けようとしていたのに。周囲がどんな思いをするか想像してみましたか?」
「私の存在なんてすぐ忘れられるわ。ね?」
「忘れないからこそこうやって探し出しました」
「……お願い、辛いの、ほっといて」
やっとジャーファルの注意が、意識が自分ひとりだけに向いたのに、拒絶しかできない自分に涙が出てくる。
「拒否します。させません。させたくありません」
「どうして……」
「あなたを愛してるからですよ」
「……ありがとう、その言葉がきけただけでもうじゅうぶん」
「なまえ、わかっていないようですが、」
「あのね、私結婚するの」
ジャーファルは言葉を呑みこめないまま口を閉じた。
「お見合いするように言われてたの。たぶんその人と結婚することになるわ。その人が嫌で断っても、その次にでもお見合いした誰かと結婚するわ」
頭を抱えて、深いため息をついた。
「……もしかして以前言っていた大事な、個人的な話って、そのことですか」
「そうよ」
「どこが個人的だ!」
「国事と私事じゃ重みが違うでしょう」
なにが国事だ、私事だ、くそくらえ。頭に血が上って、彼女の両肩を掴む。
「では私もわがままを言います。私のそばから離れないでください。お願いです。あなたがいない日々が続くなんて気が狂いそうだ……」
「……ジャーファル、その気もないのに勘違いさせないで」
「いいえ、勘違いではありませんよ。あなたが放棄した、その残りの人生を私にぜんぶください。あなたを誰にも渡したくない。あなたがいないと、私が私でなくなる……なまえでなければダメなんだ、わかるだろ。いいか、無理やりにでも連れ帰ってやる。他の野郎なんぞにくれてたまるか」
口調は押しが強いのに、声には覇気がなく、縋りつくようになまえの肩を握りしめた。
「わかったわ」
目の端からこぼれるものは、視界いっぱいに広がるジャーファルをきらめいて見せた。
「いいわ、連れて帰って。お願い。ジャーファルのそばに置いて。 私のぜんぶ、ジャーファルがもらってください。愛してます」
ジャーファルが膝の上に崩れ落ちた。
ああ、現実にもどってきた。けれど、想像していたような後悔はない。
目の前で、愛してる、と繰り返す愛しい人がいるから。
**
「おかえり。僕は言ったでしょ、ジャーファルさんはおねいさんを選ぶって」
「えぇ、アラジンくん。ありがとう」
**
読んでくださりありがとうございます。
台詞とかは気に入ってるのでいつかは公開を、と進めましたが数年放置することになったりと完璧を目指してはいつまでも日の目を見られない作品でした。
眠り姫ネタですね。
「ねぇジャーファル、近いうち一日……半日でも時間をつくれないかしら?」
「すみませんが、しばらくは忙しくて」
「ちょっとでいいの」
「西のほうで想定外のことがありまして。それが落ちつくまでは動けません」
「でもジャーファル……」
"ジャーファルと私にとって大事なことなの"
そう言いかけて、あいまいに微笑んだ。
続けるうちに、自分が話していることが二人の未来のためなのだと考えていたのにただのひとりよがり、わがままなのだと感じられてきてしまって。
国の大事と、個人の事情。比較の対象にもならない。ジャーファルはシンドバッド王と、シンドリアのために働いているのであって、私は彼の目標にすらない、人生の中で、あってもなくても変わらないほんのおまけにすぎない。
「……そうよね、ごめんなさい」
「それが終わったら話をききますから。なにか大事な話ならなおさら落ちついてからのほうがあなたにとっても良いでしょう、なまえ」
「いいの。その、ほんとに個人的なこと、だから……気にしないで。忙しいときにごめんなさい」
「いえ。ではまた後ほど」
「うん」
どうやってこの問題を片付けたものか。
数日前、母親の名前で届いた封筒には、数人の男の紹介状が入っていた。
親と恋人を会わせたことはない。彼氏がいる、とは親に話したことがあるが、彼の位をきいて冗談半分で信じてもらえず、分不相応だ、と言われてしまった。本気であるはずがない、と。
いままでだってこんなものつっぱねてはねのけてきた。まだ身を固める気はなかった。結婚という契約の形でなくとも、彼の姿をみていられるのなら。でもそろそろ、心が折れそうな自分がいる。
そしてある夜、目撃してしまった。
その両膝に女性を乗せた、ジャーファルの姿を。つまらなそうに杯を傾けている。このお祭り騒ぎでなまえが見ているなどとはすっかり気づいていないようだ。
なまえは感情が抜け落ちた顔をしている。絶望でも、諦めでもない。からっぽだ。
「お、おいなまえ。ジャーファルさんから望んだとかじゃないんだぜ。抵抗してたのをシンドバッド王が面白がって無理矢理だなぁ」
シャルルカンが焦ってフォローするが、その効果は薄い。なまえは黙りこくって、地に根が生えたようにしている。そしてようやく、口にした言葉は吐息のように頼りなかった。
「わたし、かえ、る」
「ちょっと待てって。気分転換に向こうで一杯だけでも呑んでかねぇ?せっかくごちそうもあるんだし、俺に付き合ってくれよ」
彼の気遣いに少し気が落ち着いた。
「シャルルカン、ありがと。優しいね。でもやっぱり、今日は帰るわ」
振り返り際に、低いところから手を伸ばしていかにも年上らしくぽんぽんとシャルルカンの頭をなでていった。やわらかな笑顔が胸に痛い。きっと心はずたぼろに引き裂かれているんだろうに。
おかげで数日、両人の間には微妙な距離感が生まれていた。表面上なにもないように見えるが、それでもわかる者にはわかってしまう。
南海生物の襲撃報告があった際、ジャーファルがいつも通り指示を与える。
「今回はヤムライハに主導してもらいます。なまえ、あなたはヤムライハの援護を」
「そうね、ジャーファルがこの場でキスしてくれたらやるわ」
「わお!なまえったら大胆!」
ひゅーひゅー、と指笛を吹き盛り上げようとするピスティ。スパルトスがぎょっと目をむいてピステイのかしましい口を押さえる。シャルルカンは青ざめ、ヤムライハは薄ら笑いを浮かべてことを見守る。
「なにすねてるんですか。馬鹿を言ってないでお行きなさい。被害がでたらどうします」
あくまで冷静に諭すジャーファル。
緊迫した空気が張り詰めていたが、しばらくしてなまえが先に折れた。さびしそうに微笑む。
どきりとする。頭でなく、心が、自分は正しくないことをしてしまったのだと告げる。だが、どうして。それがわからない。
「わかったわ。これじゃあ公私混同だものね。…ふざけてしまってごめんなさい。ヤムライハ、行きましょう」
「え、えぇ。お願いするわ、なまえ」
ヤムライハは素晴らしい魔法使いなので、海洋生物の一匹二匹、軽くいなしてしまう。ほとんど任せきりで、援護を仰せつかったものの大したことはなにもせずに終わった。
騒動が終着したところで、なまえはまっすぐシンドバッドのもとへ向かった。
「私、疲れたのでしばらくお休みをいただきたいのですが」
こんなことを言いだすのは珍しい。体調管理ができる部類であったし、疲れを表面に、ましてや言葉に出すようなことはしない。誰よりも仕事に打ち込んで限界を超えても頑張る恋人のそばにいたらそうなるのかもしれない。
「お、おお構わん、ぞ?よくやってくれた」
「ありがとう存じます。では」
海洋生物の後片付けで周囲は騒がしく、女性一人が席を外しても誰も気づかない。親しい友人ばかりが彼女の目につく。
「なまえ、お祭りには参加しないの?」
ヤムライハが引きとめたが、首を振る。
「ううん。疲れたから、もう休むわ」
声も低く、普段よりおっとりとした口調で、気だるげに肩を回した。それをうたぐることもなく、ヤムライハは彼女の背に最後の誘いをかける。
「そう?でもあとで気がかわったらいらっしゃいよ」
「ええ、ありがとう」
夕日に照らされる、背筋の伸びた後姿を少し眺めて、深呼吸をして優しく呼び止めた。
「ヤムライハ」
「なあに、なまえ。やっぱり一緒に行く?」
「ううん、違うの。……あのね、ほんとに、ありがとう。いろいろと。それだけ、おやすみなさい。お祭り楽しんできて」
「ふふ、楽しんでくるわ。ゆっくり休んでね」
それがなまえからの最後の挨拶だなんて思いつきもしない笑顔で、ヤムライハは別れを告げた。
ありがとう、気を使ってくれて。いままで仲良くしてくれて。何も言わずにごめんなさい。ヤムライハのこと、大好きだった。魔法馬鹿が玉に瑕だけれど、頭が良くて研究熱心、優しくて初心なところも微笑ましい。ピスティもちゃっかりしっかりした性格をし、あれでいて憎めないしたまに連れていってくれる海の散歩は楽しかった。きらきら光る波と、彼女の天使の輪の浮かぶ金髪を眺めるのが好きだった。剣技以外は不器用なシャルルカン。デートのセッティングやプライベートでもよく彼のフォローをしたものだった。真面目なスパルトスも。話というより、いつの間にやら議論になっていた。マスルールはあまりしゃべらない子だったけれど、行動は誠実で、お願い事をたまにきいてもらったりした。終わりをしらない回想に、ずっと浸っていたかったけれど、そうもいくまい。
たっぷり時間をとって湯を使った後、髪を軽く乾かす。しっとりまだ濡れている髪を撫でながら、ふとペンと紙を手に取る。椅子に腰掛けて、まばたきをした。
窓の外からは楽しげな音楽と人々の声がきこえてくる。意思を固めるようにきゅっとペンをにぎりしめた。
さようなら。
心配しないでください。
いままでみんなありがとう。
私のことは忘れてください。
さまざまな置手紙の決まり文句が浮かぶものの、どれもふさわしくないようなきがしてしまう。つらつらと長く書くのはうっとうしく白々しい。簡潔に、伝えたいことを。
恨んでなんていないわ。
あなたにはほかにだれかがあらわれるからだいじょうぶ。
私は幸せだった。
―愛してる。
書き出した全てを斜線で消し、後を残すのも嫌で火をつけて燃やしてしまった。灰に混じって涙が落ちたが、煙が目にしみたことにしておこう。そうして何も想いを残さないことを決めた。だって、どうしていいかわからないのだ。どんな言葉を残していたって、結局は自己満足にしかならないであろうこと。きっとどんなに優しい感謝でも、厳しい恨みのことばでさえジャーファルは理解も納得もしない。もういっそのこと、文字通り煙のように空気に溶けて消えてしまいたかった。
結局祭りへちらとも顔出しをしなかった彼女が気にかかって、ヤムライハが翌日部屋を訪ねるとそこはもぬけの殻だった。
「なまえ、なまえったら!」
隠れているのだろうかと名前を呼ぶが返事はない。ベッドはきれいに整えられ、触れると冷たかった。昨晩ここでなまえが寝ていた形跡がない。
「……どこにいったの?」
誘拐などは考えられない。整然としていて、暴れたような跡もないし、机の上には彼女が普段身に着けていた魔法具がきれいに揃えられていた。全てをそのままに残して、いまにも帰ってきそうな雰囲気なのに。
まさか、散歩にでもでかけているのだろうか。ひとまず騒がずに彼女の部屋で太陽が真上にくるまでは周囲にも黙っていた。彼女を知るものにさりげなくなまえの姿をみなかったかどうか尋ねても、誰も行方を知るものはおらず。
夕方になって戻らないのでさすがにおかしいと、ついに王へ報告して指示を仰ぐ。
「なに。なまえが?休暇を出したから旅行にでも行ったんじゃないか」
どこかのんきに答える王に、苛々が募る。
「どこかに行ったにしろ私にすら何も言わないなんて、変ですわ。魔法具も置いていってるんですもの」
「ふいに戻ってくるかもしれん。明日の夜まで待ってみて、戻らなかったら捜索隊を出そう。ジャーファル、なにか彼女の当てはあるか」
「はぁ、いえ……どこかに行くとかはきいたことありません」
言うべきか言わざるべきか、逡巡して結局ヤムライハは口を開いた。
「先の謝肉祭のとき、王がおふざけでジャーファルさまに女性をけしかけたでしょう」
「お?そんなことがあったかな」
とぼけているのか、真実記憶から抜け落ちているのか。
「ありました。言いづらいんですけど・・・なまえ、見ていたようなんですよね。それがずいぶんショックだったようです」
「え……あのときのことですか?まさか、なまえは参加してないときいてました」
「見てたんですよ、しっかり……それで祭りの参加を拒否したんです」
それはまずい、と王とその付き人は顔色を悪くした。ようやく事態を重く受け止めた二人をみて、ヤムライハは腕を組む。
「捜索隊を組みます。いいですね」
そのまま一か月経っても、依然として行方はわからないまま。
一月の間にだんだんとジャーファルの様子がおかしくなってきた。
ささいなしくじりが続くようになり、じんましんは止まらない。仕事をしていないと出てくるというが、やっきになって仕事に集中しようとして失敗しているようだ。
ときおり呆然としては、体をさすっている。あの仕事人間のジャーファルが仕事が手につかないなんて、と宮中がざわめいていた。
文章を何度読んでも、頭に入ってこない。
「おい、ジャーファル。ここの日付違うぞ」
「え……すみません。これ……。おや……いつでしたっけ」
「はっ?いや、昨日だったろうここは。ほら、議決したやつ。来年から施行する……」
「あ、はい。そうでしたね」
「おい、だいじょうぶか」
「だいじょうぶもなにも、処理しなければならない事案もまだありますし」
思うように片付かない仕事にめまいを覚えて額を押さえた。休憩するつもりはないのに気づけば手が止まり、ため息をついている。その様子をシンドバッドは見てみぬふりをしていたが、もう我慢の限界だろう。ジャーファルの部下も処理に手を焼いてシンドバッドに向かって救難信号を送っている。
彼のプライドも邪魔して素直に休みをくれなど万が一にも言い出さないことはわかっていた。
「もういいから下がれ」
「馬鹿をおっしゃい、これらをあなた一人に任せられますか」
「なぁジャーファル、他にするべきことがあるんじゃないか」
やんわりと、いまだに見つからないなまえを自ら探しに行けと含めたつもりだった。なにが一番彼の仕事の妨げになっているのか、彼がどれだけ恋人を愛しているのか知っているから。それでもジャーファルは意地をはる。なまえの居所探索は他に任せているからと宮中を離れずずっと机にへばりついている。どちらも成果はないけれど。
「いまは政治がだいじです。他はありません」
「そうか。だが今日はここまでにして少しでも睡眠をとっておけ。そして明日はここへ出てくることを禁ずる。少なくとも3日休みをとれ」
「横暴です」
「かまわんさ」
文字通り投げ出されるように、部屋から追い出された。
「休暇などもらっても、どうせ眠れぬものは眠れないんです……なまえ」
締め出された扉の向こうでも同時にため息がもれたのを、ジャーファルは知らない。
できることなら国中を駆け回って探したい、もはやこの島にはいないのかもしれない。そうしたら世界をまわってでも、と。けれど探しても良いのだろうか。自ら望んで失踪したものを無理に連れ戻すような真似をして。愛想を尽かされるのも理解できる。ある日彼女は何かを伝えようとしていた。なにか彼女にとって大切なことを。でも自分のわがままだからとひっこめた。そうしてなんだかんだで流され、あの祭りの夜が決定打だったのだろう。あれは決して浮気などではない。だが傍から見たらどう映っただろうか。恋人の大事を後回しにして酒と他の女に浸っていた男など。
見限られて当然なのだ。なまえは仲直りのチャンスを与えてくれたというのに、それすら拒絶した恋人を捨てたくなるのも無理はない。公で己を誇示したり見世物になるのは嫌っていたはずなのに、人前でキスしろなどと言って。明らかにおかしかった。あのときに話をすべきだった。
こうして行方をくらまされても、仕事に打ち込むなど。行くあてはどこだとか、伝手を辿るにもなにも思いつかなくて。いままで彼女の何を知っていたのだろうかと自身を責めた。知っていたようで全てを知らず、それほど愛していなかったのか。いや、それはない。彼女がそばにいることでどれほど心が休まったことか。
思い出せば思い出すほど、気が狂ってしまいそうになる。何も言わずに姿を消したなまえ。
しても仕方ないとわかっているのに、後悔がうずまくのをとめられない。
さいごに見たのが、悲しそうな笑顔なんて嫌だ。
**
あるときマスルールとモルジアナが森で修行している最中、異変に気付いた。
森が妙に静かだ、という。
「師匠」
「あぁ。お前も気づいたか」
「いつもと様子が違いすぎます。気味が悪いです、この感じ」
「あぁ、俺もだ。少し奥まで行ってみる。あまり俺から離れるな」
「はい」
師弟はお互いの背中を合わせるように周囲を警戒しつつ、森を探索する。
中心部へ行くほど、森は鎮まっていく。
いつもなら森林にひそむ動物達の声がきこえるものなのに、いやに閑散としている。枝に止まっているパパゴラスを見かけたが、通常なら威嚇してくるところを、じっとそこに留まっているだけだった。近づくと、目を閉じて眠っているのがわかる。つついてみると、あっさり転げ落ちた。目を覚まして攻撃してくるかと身構えたが、地面に転がったまま。
これはおかしいと、報告にきた。シンドバッドは隣で空ろなジャーファルをちらりと見て、詳細を語ってくれた二人に感謝を告げた。
すぐさま捜索隊を森の中へ重点的に送り込み、調査させることになった。
なにかの影響があるとみられる場所から、だいたいの中心地を割り出して、原因を探求する。
地面を掘り返すと、ぽっかりと空間があらわれた。
やわらかな緑の褥によこたわる姿は明度を抑えた絵画のようだった。
水気をたっぷり含んだ葉、苔に覆われて踏み入れるとおぼれるように沈むのではないかというほどやわらかな土。そこに敷物をしくでもなくただなすがままに体を置いて、髪が散らばるのもかまわぬようすの女性。周囲に這う蔦は、腕も腰も髪にもゆるくからみついている。一部はそっと握りこむように彼女の指をとりまいているのが印象的だった。やわらかな緑のゆりかごに眠る、かの恋人。
「なまえ」
揺すっても息を乱すこともない。ただその表情はなにも悩みごとなどないかのようにしている。耳からあご、首をジャーファルの手がすべる。こうするとくすぐったいと肩をすくめて笑っていたのに、ただの石像になってしまったかのようだ。
「魔法で眠っているのね。でも魔法具を使ってないから、ルフが混乱して周囲に少しずつ広がって、森に影響してしまったんだわ。なまえらしいつめの甘い失敗ね。今回ばかりはそれに感謝だわ」
「ヤムライハ、どうやったら彼女は起きるんです」
「……悔しいけど、見ただけではわからないわ。調べてみます」
少なくともなまえは生きている。ジャーファルの土気色の顔色がましになったのを見て、ヤムライハは安堵した。
これで少しは正気に戻るだろう。宮殿に戻って、なにか使えそうな魔法式がないかさらってみることにした。
「僕がおねいさんと話してみていいかい」
魔法がらみらしいときいて、ヤムライハにくっついてやってきたアラジンが、杖を握りなおした。
「目を覚まさないのに、話すとは……」
「夢の中に入ってみるよ」
ソロモンの知恵を使って、なまえの意識下に潜り込む。先ほどまで見ていた景色と同じような落ち着いた緑色の空間。しかし光らしい光はなく、暗くてぼんやりしていた。
「なまえおねいさん」
現実とは違って自身の名前に反応して、目を開けた。
「アラジンくん。どうしてここに?……そう、私見つかっちゃったのね……」
振り返ったその姿は、健康体そのものだった。
「おねいさんの夢の中にお邪魔しているんだ。おねいさん、僕と少し話をしないかい?」
「そうね……、みんなききたいことがあるでしょうね」
「うん。どうしておねいさんは眠り続けるんだい?」
「こんなことをして、みんな、愚かだと笑うわね」
「違うよ。心配してるんだよ」
「そんな風に言ってくれてありがとう。そうね。アラジンくんなら私の話もきいてくれるでしょう。ちょっと前ね、親に結婚を催促されて、お見合いさせられそうになったの」
「ジャーファルさんがいるのに、他の人と結婚かい?」
「親と合わせたほうが話が早いと思って、まずジャーファルに時間を作ってもらえないか頼んだんだけど、国事に忙しいからしばらく暇はない、って……
私にとってもシンドリアは大事よ。けれど……」
すう、と息を吸った。
「あぁ、ジャーファルの中の私ってそんなものなのかなぁ、とも思ったの。思ってしまったの。…仕事がいちばんなのは知ってたわ。そんなジャーファルが好きよ。見返りなんていらないから、そばにいて支えていきたいわ。でもずっとこんな付かず離れずの関係なのかしらと考えたら、それで私は構わないけれど、親がせっついて……お見合い話ををすすめていくのだもの。こんなときに、ジャーファルに私を選んで、なんて言えないわ。きっと彼はシンドリアを選ぶ。それくらいわかってるの」
「そんなことわからないじゃないか。きっとジャーファルさんならおねいさんを選ぶよ」
瞳をしっとり濡らして、なまえは首を重そうにふった。
「わかるの」
「ジャーファルにはこれから先にもふさわしい女性がたくさんあらわれるわ。でも私はもう一生、ジャーファルしか好きになれない。こんな想いをかかえたまま他の誰かと一緒になるなんて耐えられない。そんなことをしたらその人にも失礼だわ。だから、これからずうっと眠るの。もう、どこにも行きたくない……」
「僕は悲しいよ、そんな眠るだけのなまえおねいさんを見ているのは。どうにかして起きてほしいよ。眠る魔法を解くにはどうすればいいんだい?」
「いやよ。誰にも言わないわ。それに無理に目を覚ましたら記憶を失うように魔法をかけたの」
「でも、解く方法があるんだね」
確信をもってそう言うと、失言に気づいたなまえが目を背けた。
「ぜったい、解けないわ。解けるとしたらただ一人だけ。でも無理ね」
「ひとりだけ?その誰かなら解けるってことだね」
「できないわ。そんなことは奇跡でもない限り」
「なまえおねいさん、諦めないで。僕が助けてあげるよ。絶対魔法を解く方法を探し出してみせる。奇跡を信じて待っていておくれ」
「……ありがとうアラジンくん、でも……もういいのよ」
私が助けてほしいのはひとりだけ。そしてそれは、私自身ではない。
「ふぅ……」
なまえの意識を離れて、頭を指で掻くアラジン。
「どうでした、アラジンくん」
「おねいさんは、魔法を解く方法があるって言ってた。誰か、人の手によってしか解けないみたいなんだ。無理に起こすと記憶を無くすみたいだからそっとしておいておくれ」
僕も戻って考えてみる、とその場を去ってしまった。この場にはなまえとジャーファルばかり残される。
「すみませんでした。黙って寄り添ってくれるあなたに甘えて、あなたを顧みずにいました」
「今更になってなまえ、あなたを失いたくない……」
なまえに覆いかぶさって、優しく口づけた。
「……どうして、私……生きて……ジャーファル、どうしてここに」
「私を覚えているのですね」
「……いっそ忘れられれば良かったのに。魔法を解いてしまうなんて、どういうつもり?」
愛しい人が、生きて、動いて、目の前で自分に向かって話している。人心地がした。
「じんましん、どうしたの?仕事してないの?」
ぶつぶつとした肌を遠慮がちに撫でる。心配そうに歪む表情に、どうしてか泣きそうなくらい嬉しくなる。彼女の気持ちはまだジャーファルにあるのだと確信して。
「あなたが眠りについてから仕事ができなくなりました。始終あなたのことを思い出してしまって」
「まさか。ジャーファルが?」
「あなたがいないと思うとなにも考えられなかったんです」
「私なんて、いてもいなくても同じでしょう。もっと美人で、もっと役に立つ女性はたくさんいるわ。シンドリアに尽くしてくれる人が好みなんでしょう」
「確かにシンドリアに貢献してくれる女性が理想でした。でも、尽くしてくれなくても支えてくれなくても、私にはなまえでないとダメなんです」
「私、シンドリアが好きだけれど、ジャーファル一人のことを考えて、そばにいたいだけ。自分勝手よ」
「なまえ、聞いてください。私はもっと自分勝手でした」
「違うわ、ジャーファルはこの国の未来のために頑張ってるんだわ。素晴らしいことよ。私はいつも誇りに思ってる」
真摯な瞳にジャーファルは反論する術を失った。
「私のことはどうでもいいの。ジャーファルのしたいようにしていいのよ。だからいままでのこと忘れて。私はどうとでも生きていけるわ」
「うそばっかりですね。生きていくことも放棄して眠り続けようとしていたのに。周囲がどんな思いをするか想像してみましたか?」
「私の存在なんてすぐ忘れられるわ。ね?」
「忘れないからこそこうやって探し出しました」
「……お願い、辛いの、ほっといて」
やっとジャーファルの注意が、意識が自分ひとりだけに向いたのに、拒絶しかできない自分に涙が出てくる。
「拒否します。させません。させたくありません」
「どうして……」
「あなたを愛してるからですよ」
「……ありがとう、その言葉がきけただけでもうじゅうぶん」
「なまえ、わかっていないようですが、」
「あのね、私結婚するの」
ジャーファルは言葉を呑みこめないまま口を閉じた。
「お見合いするように言われてたの。たぶんその人と結婚することになるわ。その人が嫌で断っても、その次にでもお見合いした誰かと結婚するわ」
頭を抱えて、深いため息をついた。
「……もしかして以前言っていた大事な、個人的な話って、そのことですか」
「そうよ」
「どこが個人的だ!」
「国事と私事じゃ重みが違うでしょう」
なにが国事だ、私事だ、くそくらえ。頭に血が上って、彼女の両肩を掴む。
「では私もわがままを言います。私のそばから離れないでください。お願いです。あなたがいない日々が続くなんて気が狂いそうだ……」
「……ジャーファル、その気もないのに勘違いさせないで」
「いいえ、勘違いではありませんよ。あなたが放棄した、その残りの人生を私にぜんぶください。あなたを誰にも渡したくない。あなたがいないと、私が私でなくなる……なまえでなければダメなんだ、わかるだろ。いいか、無理やりにでも連れ帰ってやる。他の野郎なんぞにくれてたまるか」
口調は押しが強いのに、声には覇気がなく、縋りつくようになまえの肩を握りしめた。
「わかったわ」
目の端からこぼれるものは、視界いっぱいに広がるジャーファルをきらめいて見せた。
「いいわ、連れて帰って。お願い。ジャーファルのそばに置いて。 私のぜんぶ、ジャーファルがもらってください。愛してます」
ジャーファルが膝の上に崩れ落ちた。
ああ、現実にもどってきた。けれど、想像していたような後悔はない。
目の前で、愛してる、と繰り返す愛しい人がいるから。
**
「おかえり。僕は言ったでしょ、ジャーファルさんはおねいさんを選ぶって」
「えぇ、アラジンくん。ありがとう」
**
読んでくださりありがとうございます。
台詞とかは気に入ってるのでいつかは公開を、と進めましたが数年放置することになったりと完璧を目指してはいつまでも日の目を見られない作品でした。
眠り姫ネタですね。
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