マギ 短編
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それはもう真夜中に近い時刻だった。
忙殺という言葉にふさわしく、今日も一日机に座りっぱなしで休憩をいつとったか、というより食事らしいものをとった覚えがあやふやだ。前掛けもインクが染み付いてしまっているし、手にも飛び散った黒い点が、あのそらに浮かぶ星のようにのっている。
凝り固まった筋肉をほぐすように両手を挙げて背伸びをしながら歩く。
まだ食堂の奥のほうから、光がもれて水の音がするのがわかった。考えるとずいぶんと腹をすかしていることに気づいた。しかしこうも遅い時間にまだ自分以外に働いている人間がいようとは考えにくい。
よもや消灯しわすれだろうか、蛇口も閉め忘れなのではないかと思い立ち、念のために確認しようと奥の厨房へ歩を進めた。
もわん、と雲のような湯気に包まれた後ろ姿。頼りない両腕で大きな鍋を抱え、シンクの中に湯をこぼしている。がたん、と鍋を置きなおして、白いもやがすーっと消えてからその人物の横顔がようやくみえた。
「あの……」
「えっわっ……うっそ、ジャーファルさま?」
エプロン姿の女性は思いがけない来客にひどく驚いた様子で振り返った。乱れた髪を整えて、恥ずかしそうに礼をした。
「こんな時間まで残ってるんですか?」
「ええ。明日の分の仕込みがもうちょっとかかりそうなんです」
「あなただけで仕込みを全て?」
少し答えに詰まって、エプロンを握り締めた。鍋をつかむタオルをきれいにたたみなおして、机に置く。
「仕方ないんです。いま人手が足りなくて。……あ、でもジャーファルさまはどうしてこちらに?」
「食堂の外から光が見えたので」
「あぁそうでしたか。それより、こんな時間までお仕事だなんて、お腹空いてらっしゃいませんか?」
ジャーファルが断る暇もなく彼女はいまだに湯気をもうもうと立てている鍋からなにかをひとすくいし、皿に乗ったその上にサイコロ状に切られたものをまぶす。スプーンを添えて机に置いた。机というか、厨房の調理用に作られた木製のやたら広い作業台の隅のことで、これまた簡素な椅子にジャーファルは座らされた。流されて座ってみたはいいが、このような状況と場所に少し落ち着かない。
「このようなものをお出しするのも失礼かもしれませんが、そこそこ食べられると思いますよ。あ、お茶すぐ淹れますね!どうぞ先にお召し上がりください」
皿の上にはほかほかの、ころころとしたほのかな茶色、ベージュといってもいい色の豆が盛られ、真っ白なチーズがかけられている。そうだ、腹は減っているのだ。空腹に促されるまま手を伸ばす。
「ありがとうございます。いただきます」
「どうぞー!」
スプーンを手に取ると、元気よくすすめられた。豆はじゃがいものような食感、それだけでもかすかな甘みがあり、薄くはあるがほかの味付けなどいらないくらいだ。そこにさらに固めの乾いたチーズの塩気がきいている。顔をあげて、湯のみを差し出した彼女に問う。
「これはどんな味付けを?」
「この豆はただお湯で煮ただけですよ。さっきのお鍋は明日のスープに使う豆を下処理してただけなんです。でも、私これが好きなんですよね。こうやってチーズかけるのがとくに」
「わかります……。初めて食べましたが、これはうまい」
「良かった!これはいつでもお出しできるわけではない裏メニューなので、秘密ですよ。あぁ、サラダもいま出しますから」
といった彼女は手際よくドレッシングも作り、生ハムも混ぜた色鮮やかなサラダを皿に乗せてみせた。
「おかまいなく。どうぞ仕込みを続けてください」
「はい、すぐ戻ります。ほんとうにすみません、お肉やお魚は明日の朝届くのでご用意できなくて」
「いえ、とんでもない。この時間ですし、この豆とサラダで十分です。ごちそうさまです」
お礼をいうと、とても幸せそうに微笑んだ。なんて人間味あふれる表情をする人なのだろう。
「それではお茶のおかわりを淹れますね。私はもうちょっと作業をしてますから、ごゆっくりなさってください」
食べた後の皿を片付け、お茶を注いだ。厨房にはずいぶん長いこといるようで、流れるようにぱたぱたとよく働く娘だ。
「あの……そのままでいいので、お話しても構いませんか?えぇと……」
「はい?なんでしょう?あ、私はなまえです」
「なまえさん。他の給仕の者はいないんですか?」
「そうですねー、先日バタバタと辞めてしまって。仕込みくらいなら簡単ですし私ひとりでもできます。今日のはちょっと時間かかるだけで、こんなの毎日じゃないですから。ちゃんと交代してまわしてますし」
「求人募集は……」
「かけてますよ。それでもやっぱりこの仕事ってなにかと体力もいりますしほとんど年中無休なわけですし、雇っても他に条件の良い仕事見つけてすぐ辞めちゃったりで」
「条件?」
「お休みがなかなかとれないこともありますが、お給料とかで判断しちゃうんでしょうね」
要するに待遇が悪い、ということだろう。給与も低く不定休、人手も足りずの悪循環。
「そうですか……あなたはどうしてここへ?」
ジャーファルの両手の中で、お茶は揺れる。動かす手を止めずなまえは小さく唸った。
「私、最初は別部門に応募してたんですけど、そこ落ちてしまって。そのときに替わりにとすすめられたのがこの仕事でした。そこまでこだわりも強くなかったので、料理も嫌いじゃないしとにかく雇ってもらえるならいっかーと」
あっけらかんと自分で言ったことに自分で笑っている。
「始めたら案外性に合ってるようで、毎日楽しいんです。料理長もいい人で一から丁寧に教えてくれて。複数の料理を一気につくるとき、どういった手順でするのが一番効率いいとか考えるのも、飾り付けるときとかきれいにできたら嬉しいです。
基本的に何か美味しいもの食べるって幸せなことだと思うので、誰かの幸せをこの手で作ってるんだなーと思ったらやる気でますね。
なにより、つまみ食いもできちゃいますから」
「それは魅力的ですね」
「でしょう?!試作品でもおいしいものを誰より先に食べさせてもらえたりするのはちょっと特別だなって思います」
「しかし人が定着しないのは問題ですね。対策を考えます。ひとまず賃金の見直しと福利厚生と」
ぽろりと手に持っていた野菜を手から滑らせ、いまになってやっと、自分がどういった立場の人物と会話をしているのか思い至ったようだ。
「えっわっ……そういうこと、できちゃうんですか?」
「私が直接手を下すわけではありませんが、改善するよう指摘することはできますよ。しなければいけないでしょう、この現状を見過ごせませんから」
「わぁ……なんか話が大きくなっちゃいましたね・・・」
シンドリアの労働力の担い手となってもらっている以上、不適当な扱いをするわけにはいかない。
「仕事とか関係なく、つまみ食いでも何でもしたくなったら来てください!歓迎します!」
「ぜひ。あの豆、ほんとうに美味しかったです。明日の料理が楽しみですね」
「ありがとうございます」
やっぱりだ。おいしい、と出された食事の感想を述べたときに、一番かがやく顔がみれる。純粋に、好感が持てる。
すぐさま監査が入った後、料理長はじめなまえ含む従業員全員の賃金底上げと、勤務体制の見直しが行われた。料理長は喜ばしいにしろこんなこと初めてだ、と首を傾げていたが、よかったですね、と返すくらいしかできなかった。王の右腕であるジャーファルと世間話ついでに内情を包み隠さずもらしてこうなった結果。なまえの愚痴としてとらえられてもしかたなかったところを、従業員の問題として真摯に受け止めて改善してくれた。
新たに雇われた料理人も条件が変わったことで長続きしそうだし、仕事は今よりずっと楽になりそうだ。なにより人が増えるということは楽しい。最初はぎこちなく人間関係も探りあいのようになってしまうところもあるが、一緒に作業をこなしていると息もあってくる。そうなってくると会話も増えるし作業もしやすい。
こういうことにはお礼をしたほうが儀にかなっているのだろうか。なにかしないのも決まりが悪い。
**
両手に籠を抱えたなまえがひょっこり現れた。ドアの開く音には反応しなかったのに、食べ物の香りにつられてみんなが一斉にこちらをみるので、少しひるんだ。その目は殺伐としていた。
「どうも……遅くまでお疲れ様です」
「なまえさん?」
「はい。お昼には遅いですけれど、厨房から差し入れです。みなさんに」
歓喜の声が上がった。
「それでは少しだけ休憩しましょう」
その声で一度に緊張が切れ、凝った肩を回すものやペンを握ったままに突っ伏すもの、背伸びするものさまざま。
「今日はもう終わったんですか?なまえさん」
「いえ、でも厨房はもう手が空いてきたので。一通りあります。あたたかいものはこれから持ってくるので、サラダとサンドイッチを先に召し上がってください」
緑黄色サラダと小さなサンドイッチから始まり野菜炒めに肉料理、スープと、ここにいる人数ほどはまかなえる量だ。一度手でつまめるような前菜の料理を並べて、厨房に戻り別な料理を籠につめて運んできた。個々で取り分けられるようにと、小皿とフォークのセットを置く。これはしめたと文官たちが嬉々としてとびついている。
「気を使っていただいてありがとうございます」
「朝から食堂にお姿がみえなかったので、もしかしたらお忙しいのじゃないかと思ってたんですが、当たってました?」
「えぇ、まぁ。今日は籠りきりです。みんなにも無理をさせました」
「大変ですね。こちら、ジャーファルさまだけの裏メニューです。私が仕込み当番だったので」
こっそりと、ジャーファルのテーブルにだけその椀を置いた。周囲は食べ物に夢中でジャーファルとなまえの会話など気にも留めていない。盛られた豆とチーズを見て、ジャーファルはにっこりとした。
「これがずっと食べたかったんです。ありがとうございます」
「どういたしまして。持ってきてよかったです」
せっせと豆を口に運んで頬を膨らませる姿は、なんといっても……かわいい。その形容詞がこの人にはぴったりだった。自分の手で作ったものを、目の前で、しかもおいしそうに食べてもらえるのは、なまえにとってこの上なく幸福なことだ。
「もしジャーファル様が忙しい日に人づてでも言付けいただけたら、お昼でも夕時でもお届けしますから、言ってください」
「はい。そうしますね」
「食事は抜いたらいけませんよ。いくらお体が丈夫であろうと、あとあと体調にでてくるんですから。頭がぼーっとしたり、体がだるかったりしませんか?」
「えぇ……大丈夫です」
「たまには仮眠もとってください。目の下にクマができてますよ?」
案外説教くさいところがあるものだ。だがこれではまるで
「奥さんみたい」
「うわ!やだ、厚かましくてすみません。そういうつもりじゃ……って、えぇ?」
気づけば皿を片手にフォークを口にくわえたみんなが囲んでいた。食事しか目に入らなかった彼らの食欲が満たされてみんなぴりぴりとした気が穏やかになり、ジャーファルと二人で話している女性が目に入ったらしい。その中の一人が突っ込むと、他がくすくすとこぼした。大勢の前で失態をさらして顔を赤くするなまえを、世話焼き奥さん、とからかう。
ジャーファルが空気を散らすように手をひらひらとさせる。
「はい、みなさん胃が満足したのなら机に戻ってくださいね」
群がった文官たちがしぶしぶとうなだれて離れていった。
「す、すみません……」
「いえ、そうやって心配してくださる人も珍しくなってきたので、新鮮ですね」
それは、シンドリアを根幹から支える中心人物として働いているからには他に疲れた表情など見せられないだろうし、私生活にかかわることへなまえ個人が口を出すべきものではないとわかるものの、こうして食べ物を食べている様子をみれば、この人も人間なのだから無理をしているとみえるとつい気にかかってしまう。
「うるさいかもしれませんが、暇がなくても、食事の時間には手を止めたほうが良いですよ。…ごはんって単純に口に詰め込む栄養補給なんかでなくて、お腹だけでなく心も満たすものじゃないですか……そうあってほしいです」
「だから、あなたの作る料理はおいしいんですね」
褒めると、しょぼんと丸めた背中をぴんと伸ばした。
何度でも言ってしまいたい。このたった一言で彼女がそんなふうに喜んでくれるのなら。
みんなでぺろりと平らげて、少しの休憩のつもりがしっかり休んでしまった。
「ごちそうさまでした」
「うまかったです」
口々に告げられる礼の言葉に頭を下げる。ジャーファルのそばを離れて、汚れた食器を回収し、籠に重ねてつめていく。
「あ、いえ、どうも」
「私も、ごちそうさまでした」
手際よく片付けする手は止めず、目を合わせて微笑む。
「後で、コーヒーお持ちしますね」
「助かります」
「はい。では後ほど」
この数時間後、約束通りコーヒーと、ついでに切り分けて盛り付けた果物と軽いお菓子を持ってきたなまえの文官たちからの評価が跳ね上がることになる。
**
おわり
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