マギ 短編
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ほんのり性的表現があるので、
12歳以下の方は閲覧をご遠慮ください。
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魔法が得意でヤムライハを師匠とし、そのつながりで王とも八人将とも懇意にさせていただいている。
好意をよせつつもお互いに明確な思いを告げないまま、なんとなくそういう関係になって。手を繋ぐこともあれば、唇を合わせるし、もちろんそれ以上のことも。
しかしそれが続いている。
割り切ったほうがいいのだろうか、と悩むときもあるけれど、彼の態度に変化があるわけでもなくむしろさらに心を開いてくれているようにみられるので、確証もないまますっかり恋人のような気分でいる。そう、確証はないまま自分ばかりが。
旅に出ることを知らされたのは、出立から数日前のこと。
「……バルバッド?」
告げられた目的地は、シンドリアより北北東にある大陸続きの一国だった。地図からみても大きな距離のある―シンドリアからすればどこにいくにしろ海を渡らなければならないし、なまえからすれば気の遠くなるほどの、なにがあるのかないのかまったく想像のつかない切り離された異世界といっていい。
「えぇ。シンについていきます。あなたもきいたでしょう、現在輸入を取りやめられたので国交が危ぶまれています。その交渉のために」
「長くかかりそう?」
「そうですね。往復だけでも日数をとられますから」
「シンドバッド王みずから向かうのね」
「シンはああいった性格なので、自分の目で確かめないと気がすまないんでしょうね。私が見張っていないとその他が心配ですし。酒癖も悪いし現地妻やらなんやら……」
茶化そうとした冗談に合わせて、心を悟られないように笑ってみせる。
官服を着た男が一礼して、彼のほうへ向き合った。
「ジャーファルさま、シンドバッド王がお呼びです」
「わかりました。……それでは」
「えぇ……教えてくれてありがとう」
呆然とお礼を告げると当然だ、というように笑顔で首を横に振られた。そういう彼は彼女と同様に胸をえぐるような寂しさを感じてくれているのだろうか。
****
出発の前日、彼の元を訪れた。胸騒ぎのする取り残されるような物悲しい気分も、会えばきっと晴れるだろう。あの誰もがつられて心をあたたかくする微笑でかき消してくれるといいのに。いつも通りの態度で、ここ数日の会話だってとくべつ増えることも減ることもなかった。今日落ちた陽が昇ればもういなくなってしまうだなんて実感がわかない。
ドアを叩くと、すぐに開けられた。なまえ、と優しい声で中へ呼び込まれた。
「遅くにごめんなさい。もう寝るところだった?」
「いいえ、まだ大丈夫ですよ」
「ありがとう。すぐ帰るわ」
「いえ、ゆっくりしていってください」
いつにも増して片付けられた部屋を見渡してなんともいえない気持ちで微笑む。もともと仕事以外に関心がなくて部屋にものを置く習慣などないが。ここからでていってしまうかのようだ。
「もうすっかり準備はできているようね」
「出発は明日ですから」
「迷宮の覇王が出向くのだもの、きっと交渉はうまくいくでしょう?」
「そうなるよう力を尽くします」
「観光とかもできるといいね。どんな国だったか教えて」
「えぇ、そういった楽しみもありますね。バルバッドのお土産みてきます」
「うん……。ねぇジャーファル、かがんで」
疑いもなくひざをついた彼の額に顔を近づける。小さく呪文を唱えて、クーフィーヤを留めている玉を避けて、唇を押しつけた。その白い肌に紅を塗ったようにくっきりと唇の形が浮かびあがって、かと思えば皮膚にとけるように消えていった。怪我をしても早く回復するように、生命力を高める魔法をかけた。うまくかかったと思う。どれくらいの期間まで保ってくれるかは不明だができるだけ大きな怪我をしなければ良い、と案ずる不安を抑える。それは自らの生命をけずる魔法でもあり、少し疲労感に目の前が揺れた。しかしこれしきのこと、ジャーファルを思えばなんてことはない。
もう終わったかと立ち上がったジャーファルは不思議そうにそれをなぞるが、少し照れたようにもしている。触れた瞬間、夢の中にいるように感覚がぼやけて、波紋のように耳へ手の指へ足の爪までも光が満たすような感覚に包まれた。
「ちょっとしたおまじない。道中気をつけて」
「ありがとうございます」
「うん。用事はそれだけなの。じゃあ、おやすみなさい」
「なまえ」
両手を掬われて、ぎゅっと握られる。そうやって下を向いていると、お返しとばかりにジャーファルが額にキスを落とした。
「おやすみなさい。良い夢を」
「えぇ」
こんな、寝る前の誰とでも交わせるような挨拶の一言でさえ、心を軽くするのを彼は知らないに違いない。誰にでも使えるけれど、何者でもない彼からなまえのためだけに向けられた言葉だから。
帰りをその人のために待っていても良いのだと、含まれた気がして。
どうか無事に帰ってきますように。
ジャーファルが王とマスルールと共にシンドリアを離れてから一日が時計がくるったかのように長く感じるようになった。それでも寝る前にはどうか彼が、彼らがゆっくり休めますようにと祈ってから寝台へ横たわり、何度も寝返りを打っては体を起こし、窓から王一行が進行する方向を眺めたりする。見えもしないのに。
あのペンを握り慣れた指の長さ、爪の形でさえも覚えているのに。どんなふうに唇をあわせるか、頬にあたる鼻先だとか。背中をすべる広い手のひら。朝になるとむきだしの肩にキスをして毛布をかけてくれる。あぁ、もうあんなにも昔のことに感じてしまう。
悪いほうにばかり思考が傾く。旅は長い、もしかしたら気持ちを消滅させてしまうには十分な時間。次に会ったときには、前のように触れ合えないかもしれない。
仕事をして頭を使って体を動かしている間はまだ良い、集中していられるから。けれどなんども発作のようにジャーファルの姿を思い出すことをくり返しては青白くなっていく顔に無理に笑顔をはりつける。
なにかがじわりじわりと体を蝕んでいくのを気の病だと無視していた。
たださみしさからイライラしたり、気がふさいだりしているだけだ。体はいたって健康なのだから、しっかりしなければといいきかせて。
かけた魔法はまだ効いているだろうか。
**
バルバッドの騒動を治めて、ジャーファルは長らくぶりに島へ戻ってきた。息をつく間もなく処務に追われる日々が始まる。シンがまた国を開けるので気を抜いてはいられない。そればかりでなくどことなく気落ちしたアリババやアラジンをなぐさめるべく、美味しい食事をすすめたり気晴らしに散歩に連れ出したりもした。今日のように。
そしてぼんやりと考える。
見慣れた顔にかこまれてあぁ日常に戻ったのだとは思うが、いちばんに見たかった顔がまだ姿を現さない。遠慮しているのだろうか。関係があるとはいえ大っぴらに誰かにたずねるのもはばかられ、執務室にこもっていると数日たってしまった。ここを空けている間に、忘れられてしまったのだろうか。
女々しくも会いに来てくれるのを、なんとはなしに待ってしまっている。もともと政治ばかりで私生活などあってないようなものだったが、確かに仕事で充実しているなのにこんなにも味気ないものだっただろうか。
朝会えばおはようと開ききらない目で挨拶してくれるかわいらしい彼女。共に過ごした夜を越えて、朝日に溶けるつめたい肌が好きだった。抱きしめればこの世に一人しか自分以外の人間がいないみたいに全身の信頼を寄せる。
最後に会った夜にも、旅立つ側の心配ばかりをしてくれた。早く私のために帰ってきて、などプレッシャーになることは決していわなかった。ただただ、無事でいてほしいと。
「うわぁっ」
悲鳴とともに、元の細いからだからは想像もできないほどぷっくりとしてきたアラジンの体がひっくりかえっている。アリババがぎょっとしてこちらに振り返った。
「ジャーファル」
一陣の疾風のように駆け寄って、首に腕がまわってきた。深呼吸したのがその動きで伝わってくる。目を細めて、受け止める。
「ただいま戻りました、なまえ」
その応えはない。ずるりとぶら下がった腕の脇に手を伸ばして、あわてて体をささえる。そこを支点にしてめくれるように体がくずれるので、片膝をついて背中を支える。走ってきたせいもあるだろうが、顔があかく呼吸はあらく乱れている。頬が記憶よりこけていやしないだろうか。いったい留守にしている間になにがあったというのか。
「なまえ」
「ど、どうしたんすか、その女の人……急に」
「おそらく気を失っているだけだと見受けられます」
「あぁ、すみません」
はりあげられた声のほうを見ると、なまえを追ってきたらしい女官がこちらに向かってきていた。
「お止めしたのですが、どうしても自分から会いにいくといって……体調も芳しくないのに」
「そうでしたか。私が寝かせてきます」
膝のうらにも腕を通して、軽々と持ち上げる。
「すみません、アラジン、アリババくん。失礼しますね」
まだ目を回しているアラジンに、それを助け起こして面倒をみるアリババ。返事をきかずに足を動かした。
なまえをベッドに寝かせるのを、つきそいの彼女は不安そうに見守っていた。
「なまえに何があったか知っていますか?」
「その……医師に診せても詳しい原因がわからないのです。おそらく、どうにも精神的なものかと。きく限りずっと寝てらっしゃらないようで、仕事中に倒れて。そのまま熱を出してずっと安静にしてらしたんです」
「わかりました。あとは私がそばにいますから、下がっていてもらえますか」
「はい。ご入用がありましたらおよびください」
「えぇ」
やっと二人きりになって、ベッドに腰掛けて顔を近づけた。
なまえがベッドの上で苦しそうに息を吐き出して、身じろぎする。額に乗せられていた氷嚢が落ちる。うなされているようだ。
「だいじょうぶですよ」
安心させたくて声をかけて手を伸ばすと横に寝返って、繋いだ手を腕ごと抱きこまれた。自由なほうの手でやわらかな髪を撫でる。
みるみるうちにゆるむ表情を確認して、ほっとした。寝顔はなんども見ているはずなのに、何時間、一日みていても飽きない。これが愛おしいという気持ちなのだろうか。
彼女の顔を見てやっと、いるべき場所に帰ってきたのだと感じることができた。だがすっかり顔の輪郭を細くして、目の下にくっきりとくまが刻まれているのをみてしまっているのが、ジャーファルの心を苦しめた。
「私の心配、してくれてたんでしょうか……ねぇ、なまえ」
出立前夜、気落ちしているのを微笑みで隠しながらあいにきてくれた姿を旅行中ずっと反芻していた。それがこんなことになろうとは。
「私にも魔法が使えれば、あなたにもこんなふうにならないようにまじないをかけられたんでしょうか」
考えるのも無駄なことをこぼした。意識はないはずなのに、その手の下でなまえの頭が動いて言葉を否定しているように見えた。そんなこと気にしないでいいのよ、と。
深夜近くになって、彼女はようやく目を覚ました。顔の赤みが引いているところをみると、熱はだいぶ下がったようだ。視界にジャーファルを認めると、屈託なく笑った。とろんとして、熱のせいでうるんだ瞳。
「ジャーファル、良かった……怪我してない」
「あなたときたら……よくそんな体で私の心配ができますね」
「おかえりなさい。あのね、ジャーファル、好き」
ぐいと顔を近づけて、唇を重ねた。少し乾いていたがやわらかく、まだ残る熱で感触が強く残った。
「なまえ……」
「ジャーファルが出てった後、いままでずっと言葉で気持ちを伝えなかったことをすごく後悔したの。だから」
人差し指でキスした跡を抑えて続けた。
「嫌だったらいいよ。面倒ならここで終わりましょ。ってええと、キスしちゃったけど」
「嫌なわけないだろ」
即答して両腕でか細くなった四肢を抱きしめた。
「好きです、なまえ。なまえがいない日々は空しかった」
またこの腕の中になまえを取り戻すことができた。いや違う、なまえから居場所を与えられたのだ。
バルバッドでの旅行の長い間失ったとすら思っていた。それは彼女も同じだったようだ。
「私もすごく寂しかった。シンドバッド王がいらっしゃるし心配することはないってわかっていたけれど、バルバッドに内乱があったというでしょう。巻き込まれたのじゃないかと・・・」
しっかり巻き込まれて、一時は王が首謀者のように先導していたときもあったが、いまの彼女に知らせるには重い内容だろう。
「そうですね……シンが酒ばかり飲んで大変でした」
「ほんとに反省しない人ね。その方面では」
「えぇとそれで、謝らなければならないことがあります。約束していたお土産は買えませんでした。エウメラ鯛のバター焼きが有名らしいですが食べ物は帰港するまでに腐ってしまいますし・・・すみません」
「そんなの。ジャーファルがここにいるだけでいいの。帰ってきてくれてありがとう。おかえりなさい」
「ただいま、もどりました。待っていてくれてありがとう」
もう一度、長いキスをした。お互いを確かめ合うようなやわらかい触れ合いだった。
「それはそうと、あれからなにがあったんですか?」
「なにも。体も熱があるだけなの」
「熱だけですって?体重がだいぶ落ちているでしょう」
「そう?わからないわ……」
「ちゃんと食べていないのでしょう」
「……そうかも」
「私がいない間睡眠はとってましたか?」
「いつものジャーファルよりかはね」
ジャーファルはかるく握った拳をおちゃらける彼女の頭に当てた。それでもなまえは嬉しそうに笑う。こうして交わす会話のすべてが、彼の仕草が喜ばしいのだろう。
「見え透いた嘘を」
「……わかる?」
返事の代わりに方眉を上げてみせる。いまのなまえを見てわからないはずがないだろう、と。
「眠れなかったの、どうやっても。眠り方を忘れてしまったみたいに。でもさっきぐっすり休めたから、もう大丈夫」
恋人の強がりに、こちらから弱さを示してみせた。
「顔を見せないので、私のことなど忘れたのだと思いましたよ」
まさか、と唇をとがらせた。
「ジャーファルが帰ってきてたこと、今日はじめて知らされたの。ずっと会いたかったのに」
「どうりで……」
「あの世話してくれた子が遠慮してたのね。体に障るからって」
「そうですよ、体を治さないと。さぁ、まだ夜ですしもう一眠りなさい」
「うん。ジャーファル、しばらくはシンドリアにいるの?」
「あなたのそばにいますよ」
国ではなく、恋人の隣にいるのだと強調して。
「ありがと……」
「こちらこそ」
なまえが再び寝息をたてるころには、ジャーファルも夢の中にいた。
****
あれからすっかり気力を取り戻し、熱も完全に引いたところで、ジャーファルにひとつ合わせてほしい人がいると尋ねた。
二人でやってきたのは、アラジンのもとだった。そこにはいつも通りアリババとモルジアナがいる。
アラジンがすぐに気づいて、大きく手を振ってきた。
「あっ!まえぶつかってきたおねいさん……」
「アラジンさま。あのときは大変失礼いたしました。一言の謝罪もなかったことも。どうぞお許しくださいませ」
「ううん、いいんだよ。それより、元気になったのかい?」
「えぇこの通りすっかり。ありがとうございます。アリババさまも」
両手を胸の前で振って否定した。
「あ、と、それは大丈夫です。その、名前きいていいすか?」
「そうでした、すみません。私は―」
「私の恋人のなまえです」
「こっ――」
アリババが声を失って、なまえを凝視する。頬を染めながらも、ジャーファルの宣言を心から誇らしげに微笑む彼女は凛として美しかった。
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おわり
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魔法が得意でヤムライハを師匠とし、そのつながりで王とも八人将とも懇意にさせていただいている。
好意をよせつつもお互いに明確な思いを告げないまま、なんとなくそういう関係になって。手を繋ぐこともあれば、唇を合わせるし、もちろんそれ以上のことも。
しかしそれが続いている。
割り切ったほうがいいのだろうか、と悩むときもあるけれど、彼の態度に変化があるわけでもなくむしろさらに心を開いてくれているようにみられるので、確証もないまますっかり恋人のような気分でいる。そう、確証はないまま自分ばかりが。
旅に出ることを知らされたのは、出立から数日前のこと。
「……バルバッド?」
告げられた目的地は、シンドリアより北北東にある大陸続きの一国だった。地図からみても大きな距離のある―シンドリアからすればどこにいくにしろ海を渡らなければならないし、なまえからすれば気の遠くなるほどの、なにがあるのかないのかまったく想像のつかない切り離された異世界といっていい。
「えぇ。シンについていきます。あなたもきいたでしょう、現在輸入を取りやめられたので国交が危ぶまれています。その交渉のために」
「長くかかりそう?」
「そうですね。往復だけでも日数をとられますから」
「シンドバッド王みずから向かうのね」
「シンはああいった性格なので、自分の目で確かめないと気がすまないんでしょうね。私が見張っていないとその他が心配ですし。酒癖も悪いし現地妻やらなんやら……」
茶化そうとした冗談に合わせて、心を悟られないように笑ってみせる。
官服を着た男が一礼して、彼のほうへ向き合った。
「ジャーファルさま、シンドバッド王がお呼びです」
「わかりました。……それでは」
「えぇ……教えてくれてありがとう」
呆然とお礼を告げると当然だ、というように笑顔で首を横に振られた。そういう彼は彼女と同様に胸をえぐるような寂しさを感じてくれているのだろうか。
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出発の前日、彼の元を訪れた。胸騒ぎのする取り残されるような物悲しい気分も、会えばきっと晴れるだろう。あの誰もがつられて心をあたたかくする微笑でかき消してくれるといいのに。いつも通りの態度で、ここ数日の会話だってとくべつ増えることも減ることもなかった。今日落ちた陽が昇ればもういなくなってしまうだなんて実感がわかない。
ドアを叩くと、すぐに開けられた。なまえ、と優しい声で中へ呼び込まれた。
「遅くにごめんなさい。もう寝るところだった?」
「いいえ、まだ大丈夫ですよ」
「ありがとう。すぐ帰るわ」
「いえ、ゆっくりしていってください」
いつにも増して片付けられた部屋を見渡してなんともいえない気持ちで微笑む。もともと仕事以外に関心がなくて部屋にものを置く習慣などないが。ここからでていってしまうかのようだ。
「もうすっかり準備はできているようね」
「出発は明日ですから」
「迷宮の覇王が出向くのだもの、きっと交渉はうまくいくでしょう?」
「そうなるよう力を尽くします」
「観光とかもできるといいね。どんな国だったか教えて」
「えぇ、そういった楽しみもありますね。バルバッドのお土産みてきます」
「うん……。ねぇジャーファル、かがんで」
疑いもなくひざをついた彼の額に顔を近づける。小さく呪文を唱えて、クーフィーヤを留めている玉を避けて、唇を押しつけた。その白い肌に紅を塗ったようにくっきりと唇の形が浮かびあがって、かと思えば皮膚にとけるように消えていった。怪我をしても早く回復するように、生命力を高める魔法をかけた。うまくかかったと思う。どれくらいの期間まで保ってくれるかは不明だができるだけ大きな怪我をしなければ良い、と案ずる不安を抑える。それは自らの生命をけずる魔法でもあり、少し疲労感に目の前が揺れた。しかしこれしきのこと、ジャーファルを思えばなんてことはない。
もう終わったかと立ち上がったジャーファルは不思議そうにそれをなぞるが、少し照れたようにもしている。触れた瞬間、夢の中にいるように感覚がぼやけて、波紋のように耳へ手の指へ足の爪までも光が満たすような感覚に包まれた。
「ちょっとしたおまじない。道中気をつけて」
「ありがとうございます」
「うん。用事はそれだけなの。じゃあ、おやすみなさい」
「なまえ」
両手を掬われて、ぎゅっと握られる。そうやって下を向いていると、お返しとばかりにジャーファルが額にキスを落とした。
「おやすみなさい。良い夢を」
「えぇ」
こんな、寝る前の誰とでも交わせるような挨拶の一言でさえ、心を軽くするのを彼は知らないに違いない。誰にでも使えるけれど、何者でもない彼からなまえのためだけに向けられた言葉だから。
帰りをその人のために待っていても良いのだと、含まれた気がして。
どうか無事に帰ってきますように。
ジャーファルが王とマスルールと共にシンドリアを離れてから一日が時計がくるったかのように長く感じるようになった。それでも寝る前にはどうか彼が、彼らがゆっくり休めますようにと祈ってから寝台へ横たわり、何度も寝返りを打っては体を起こし、窓から王一行が進行する方向を眺めたりする。見えもしないのに。
あのペンを握り慣れた指の長さ、爪の形でさえも覚えているのに。どんなふうに唇をあわせるか、頬にあたる鼻先だとか。背中をすべる広い手のひら。朝になるとむきだしの肩にキスをして毛布をかけてくれる。あぁ、もうあんなにも昔のことに感じてしまう。
悪いほうにばかり思考が傾く。旅は長い、もしかしたら気持ちを消滅させてしまうには十分な時間。次に会ったときには、前のように触れ合えないかもしれない。
仕事をして頭を使って体を動かしている間はまだ良い、集中していられるから。けれどなんども発作のようにジャーファルの姿を思い出すことをくり返しては青白くなっていく顔に無理に笑顔をはりつける。
なにかがじわりじわりと体を蝕んでいくのを気の病だと無視していた。
たださみしさからイライラしたり、気がふさいだりしているだけだ。体はいたって健康なのだから、しっかりしなければといいきかせて。
かけた魔法はまだ効いているだろうか。
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バルバッドの騒動を治めて、ジャーファルは長らくぶりに島へ戻ってきた。息をつく間もなく処務に追われる日々が始まる。シンがまた国を開けるので気を抜いてはいられない。そればかりでなくどことなく気落ちしたアリババやアラジンをなぐさめるべく、美味しい食事をすすめたり気晴らしに散歩に連れ出したりもした。今日のように。
そしてぼんやりと考える。
見慣れた顔にかこまれてあぁ日常に戻ったのだとは思うが、いちばんに見たかった顔がまだ姿を現さない。遠慮しているのだろうか。関係があるとはいえ大っぴらに誰かにたずねるのもはばかられ、執務室にこもっていると数日たってしまった。ここを空けている間に、忘れられてしまったのだろうか。
女々しくも会いに来てくれるのを、なんとはなしに待ってしまっている。もともと政治ばかりで私生活などあってないようなものだったが、確かに仕事で充実しているなのにこんなにも味気ないものだっただろうか。
朝会えばおはようと開ききらない目で挨拶してくれるかわいらしい彼女。共に過ごした夜を越えて、朝日に溶けるつめたい肌が好きだった。抱きしめればこの世に一人しか自分以外の人間がいないみたいに全身の信頼を寄せる。
最後に会った夜にも、旅立つ側の心配ばかりをしてくれた。早く私のために帰ってきて、などプレッシャーになることは決していわなかった。ただただ、無事でいてほしいと。
「うわぁっ」
悲鳴とともに、元の細いからだからは想像もできないほどぷっくりとしてきたアラジンの体がひっくりかえっている。アリババがぎょっとしてこちらに振り返った。
「ジャーファル」
一陣の疾風のように駆け寄って、首に腕がまわってきた。深呼吸したのがその動きで伝わってくる。目を細めて、受け止める。
「ただいま戻りました、なまえ」
その応えはない。ずるりとぶら下がった腕の脇に手を伸ばして、あわてて体をささえる。そこを支点にしてめくれるように体がくずれるので、片膝をついて背中を支える。走ってきたせいもあるだろうが、顔があかく呼吸はあらく乱れている。頬が記憶よりこけていやしないだろうか。いったい留守にしている間になにがあったというのか。
「なまえ」
「ど、どうしたんすか、その女の人……急に」
「おそらく気を失っているだけだと見受けられます」
「あぁ、すみません」
はりあげられた声のほうを見ると、なまえを追ってきたらしい女官がこちらに向かってきていた。
「お止めしたのですが、どうしても自分から会いにいくといって……体調も芳しくないのに」
「そうでしたか。私が寝かせてきます」
膝のうらにも腕を通して、軽々と持ち上げる。
「すみません、アラジン、アリババくん。失礼しますね」
まだ目を回しているアラジンに、それを助け起こして面倒をみるアリババ。返事をきかずに足を動かした。
なまえをベッドに寝かせるのを、つきそいの彼女は不安そうに見守っていた。
「なまえに何があったか知っていますか?」
「その……医師に診せても詳しい原因がわからないのです。おそらく、どうにも精神的なものかと。きく限りずっと寝てらっしゃらないようで、仕事中に倒れて。そのまま熱を出してずっと安静にしてらしたんです」
「わかりました。あとは私がそばにいますから、下がっていてもらえますか」
「はい。ご入用がありましたらおよびください」
「えぇ」
やっと二人きりになって、ベッドに腰掛けて顔を近づけた。
なまえがベッドの上で苦しそうに息を吐き出して、身じろぎする。額に乗せられていた氷嚢が落ちる。うなされているようだ。
「だいじょうぶですよ」
安心させたくて声をかけて手を伸ばすと横に寝返って、繋いだ手を腕ごと抱きこまれた。自由なほうの手でやわらかな髪を撫でる。
みるみるうちにゆるむ表情を確認して、ほっとした。寝顔はなんども見ているはずなのに、何時間、一日みていても飽きない。これが愛おしいという気持ちなのだろうか。
彼女の顔を見てやっと、いるべき場所に帰ってきたのだと感じることができた。だがすっかり顔の輪郭を細くして、目の下にくっきりとくまが刻まれているのをみてしまっているのが、ジャーファルの心を苦しめた。
「私の心配、してくれてたんでしょうか……ねぇ、なまえ」
出立前夜、気落ちしているのを微笑みで隠しながらあいにきてくれた姿を旅行中ずっと反芻していた。それがこんなことになろうとは。
「私にも魔法が使えれば、あなたにもこんなふうにならないようにまじないをかけられたんでしょうか」
考えるのも無駄なことをこぼした。意識はないはずなのに、その手の下でなまえの頭が動いて言葉を否定しているように見えた。そんなこと気にしないでいいのよ、と。
深夜近くになって、彼女はようやく目を覚ました。顔の赤みが引いているところをみると、熱はだいぶ下がったようだ。視界にジャーファルを認めると、屈託なく笑った。とろんとして、熱のせいでうるんだ瞳。
「ジャーファル、良かった……怪我してない」
「あなたときたら……よくそんな体で私の心配ができますね」
「おかえりなさい。あのね、ジャーファル、好き」
ぐいと顔を近づけて、唇を重ねた。少し乾いていたがやわらかく、まだ残る熱で感触が強く残った。
「なまえ……」
「ジャーファルが出てった後、いままでずっと言葉で気持ちを伝えなかったことをすごく後悔したの。だから」
人差し指でキスした跡を抑えて続けた。
「嫌だったらいいよ。面倒ならここで終わりましょ。ってええと、キスしちゃったけど」
「嫌なわけないだろ」
即答して両腕でか細くなった四肢を抱きしめた。
「好きです、なまえ。なまえがいない日々は空しかった」
またこの腕の中になまえを取り戻すことができた。いや違う、なまえから居場所を与えられたのだ。
バルバッドでの旅行の長い間失ったとすら思っていた。それは彼女も同じだったようだ。
「私もすごく寂しかった。シンドバッド王がいらっしゃるし心配することはないってわかっていたけれど、バルバッドに内乱があったというでしょう。巻き込まれたのじゃないかと・・・」
しっかり巻き込まれて、一時は王が首謀者のように先導していたときもあったが、いまの彼女に知らせるには重い内容だろう。
「そうですね……シンが酒ばかり飲んで大変でした」
「ほんとに反省しない人ね。その方面では」
「えぇとそれで、謝らなければならないことがあります。約束していたお土産は買えませんでした。エウメラ鯛のバター焼きが有名らしいですが食べ物は帰港するまでに腐ってしまいますし・・・すみません」
「そんなの。ジャーファルがここにいるだけでいいの。帰ってきてくれてありがとう。おかえりなさい」
「ただいま、もどりました。待っていてくれてありがとう」
もう一度、長いキスをした。お互いを確かめ合うようなやわらかい触れ合いだった。
「それはそうと、あれからなにがあったんですか?」
「なにも。体も熱があるだけなの」
「熱だけですって?体重がだいぶ落ちているでしょう」
「そう?わからないわ……」
「ちゃんと食べていないのでしょう」
「……そうかも」
「私がいない間睡眠はとってましたか?」
「いつものジャーファルよりかはね」
ジャーファルはかるく握った拳をおちゃらける彼女の頭に当てた。それでもなまえは嬉しそうに笑う。こうして交わす会話のすべてが、彼の仕草が喜ばしいのだろう。
「見え透いた嘘を」
「……わかる?」
返事の代わりに方眉を上げてみせる。いまのなまえを見てわからないはずがないだろう、と。
「眠れなかったの、どうやっても。眠り方を忘れてしまったみたいに。でもさっきぐっすり休めたから、もう大丈夫」
恋人の強がりに、こちらから弱さを示してみせた。
「顔を見せないので、私のことなど忘れたのだと思いましたよ」
まさか、と唇をとがらせた。
「ジャーファルが帰ってきてたこと、今日はじめて知らされたの。ずっと会いたかったのに」
「どうりで……」
「あの世話してくれた子が遠慮してたのね。体に障るからって」
「そうですよ、体を治さないと。さぁ、まだ夜ですしもう一眠りなさい」
「うん。ジャーファル、しばらくはシンドリアにいるの?」
「あなたのそばにいますよ」
国ではなく、恋人の隣にいるのだと強調して。
「ありがと……」
「こちらこそ」
なまえが再び寝息をたてるころには、ジャーファルも夢の中にいた。
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あれからすっかり気力を取り戻し、熱も完全に引いたところで、ジャーファルにひとつ合わせてほしい人がいると尋ねた。
二人でやってきたのは、アラジンのもとだった。そこにはいつも通りアリババとモルジアナがいる。
アラジンがすぐに気づいて、大きく手を振ってきた。
「あっ!まえぶつかってきたおねいさん……」
「アラジンさま。あのときは大変失礼いたしました。一言の謝罪もなかったことも。どうぞお許しくださいませ」
「ううん、いいんだよ。それより、元気になったのかい?」
「えぇこの通りすっかり。ありがとうございます。アリババさまも」
両手を胸の前で振って否定した。
「あ、と、それは大丈夫です。その、名前きいていいすか?」
「そうでした、すみません。私は―」
「私の恋人のなまえです」
「こっ――」
アリババが声を失って、なまえを凝視する。頬を染めながらも、ジャーファルの宣言を心から誇らしげに微笑む彼女は凛として美しかった。
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おわり
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