マギ 短編
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**
「どうかしたの?」
手のひらを自分に向けて、何度も顔に近づけては遠ざけてをくり返していると、魔導の師匠ヤムライハから声がかかった。
「目が……変なんです。霞んでるみたい」
まばたいて、手の甲でこする。一向に改善しない。
「ああ、触ったらだめよ。痛い?ホコリでも入ったかしら」
「いいえ……そういう感じではないみたいかと。痛みもかゆみもまったくありません」
ちょっと待ってて、とヤムライハは広めの器に水を差して、机に置いた。
「念のため、洗ってみたらどうかしら」
「ありがとうございます」
ここは師匠・ヤムライハ自慢の研究室で、個人個人で魔法の実験をしている最中だった。ノートの通りに魔法を実行したのだが失敗に終わったのだと推測される。ただ単に発動しなかったというのならまだましだが、どうやらこれはなにかが作用してしまったらしい。
注意深く顔ごと注ぐが、変化はみられない。数刻前には部屋の隅まで見渡せていたのに、いまは机越しのヤムライハの顔もなんだか靄がかかったように不明瞭に映る。疲れなどからくるものではない。首を振る。
「目にゴミが入ったのでもなさそうね。なにをしていたの?」
「新しい魔法を試していて……」
もしいまとりかかっている魔法が成功したのなら、本来ならそこに届くまで幾日もかかる場所をこの場にいながら見られるという遠視ができるはずだった。何をどう間違ったのか原因は不明だが、自身の眼に誤った影響を及ぼしている。
机に広がる羊皮紙に描いた魔法式を手渡して、若き天才魔導師の返答を待つ。
「うーん。見たところ、簡単なものではないようね、組み解いてみないと……とにかく、このまま続けるのは難しそうね」
腕を組む姿から、彼女が喜ばしい顔をしているわけではないことが伝わってきて、だが謝罪するほかにどうもできなかった。自分の不始末を己で片付けられれば良いのだが、この状態では無理だ。
こうして失敗したとして、師匠は決して叱ったりしない。実験が毎回成功することなどない、それを知っているから。ふがいない弟子を心配する心遣いから、胸が痛む。ただ尻拭いをしてもらうことが心苦しい。
「はい。すみません……」
「いいのよ。それよりも、ここでずっと待ってるのも嫌でしょう?ジャーファルさまのとこに行きましょうか。念のためシンドバッド王に報告もしたほうがいいと思うわ」
行きましょう、と部屋をあとにする彼女を追った。
**
すべての輪郭が溶けてしまったよう。遠くのものは色でしか認識できない。できの悪い絵のような、こつこつと床を踏む音も骨に伝わる振動も本物なのに、夢の中を歩いているような。この道を通ったことがあるからこそ、そこにあるのは木だとか置物だとかいうことがかろうじて推測できるが、普段みないものについてはさっぱり見当がつかない。すれ違う人たちも同じ官服を着ているのもあって誰がだれだか。
ヤムライハが足を止めたので、この扉が執務室なのだと思われる。ちらりとこちらを見たので、なまえは準備はできている、と頷いてみせた。扉を叩いて入室をうかがう。
なまえが黙って立っている間、ヤムライハが実験室であった出来事を要約して説明してくれた。
「見たところ魔法の影響で、視力が弱ってってるみたいなんです」
「現在進行中で悪化しているってことか?それは大変だな」
シンドバッドはうなって、ヤムライハの隣でずっと黙っている、問題の中心人物へ眼を向けた。
「解けるんですよね、ヤムライハ?」
「お任せを。魔導士の意地にかけて。
私はすぐなまえのかかった魔法の調べに取り掛かります。その間面倒みてくださいません?」
「そ、その……突然言われても」
「恋人でしょ!頼みましたからね」
そうしてヤムライハは颯爽と戻っていってしまった。
「お仕事の邪魔してごめんなさい」
恐縮して頭を下げる。居場所がなさそうに、立ちすくんで。
「ああ、あなたがそばにいることが嫌だという意味ではなく……」
「なまえ、他に異変は?」
ジャーファルの言葉を切ってシンドバッドが尋ねると、そちらに注視しようとした彼女は瞳を揺らした。境界線の曖昧な、青と肌色か白だか、そこが彼なのだと思う。
「いいえ、見えづらいだけです」
「……目の焦点が合っていないぞ。どのくらい見えていないんだ」
「どのくらい、と言っていいか……あの、シンドバッド様ですよね?」
自信なさげに口にした。入り口からシンドバッドまで距離があるとはいえ、見慣れたはずの姿をわからないとは。声でようやく認識しているようだ。
「そうだが。そこからでは見えんのか。
……はっきり見えるところまで来てくれないか」
おそるおそるといった足取りで王に近づく。彼の2、3歩手前まで進んだところで、目の前の人物こそが王であることを確認できたのか気を緩めたように眉間のしわを消した。つま先同士がくっついてようやっと、いつもの笑顔を見せる。
「シンドバッド様ですね」
「ほんとうにそう見えるか?魔法で化けているかもしれんぞ」
「え?・・・・・・」
再び危ぶむ色でじっと秀麗な石膏のような顔を検分する。それがずんずんと迫っていることに気づくには集中しすぎた。背後から突然飛び出した手がそれを鷲づかむのに驚いて身をひいた。背中がなにもなかったはずの場所にぶつかる。
「なにしようとしてんですか。私の目の前で」
焦っているようにも怒っているようにもきこえた。後ろからなまえを包むように立っている。
「ジャーファルさま……」
「なまえ、王だからといって気を許してはいけませんよ。いえむしろシンだからこそ」
「えっ」
「どれくらい見えているのかみててただけじゃないか」
「近づけるのが顔である必要性をみいだせません」
視覚をみるだけだったのなら手だけでも事足りる。あれはまるで口付けをするかのようだった。
「とりあえず、あなたの部屋にいきましょう」
見えないとはいえ慣れ親しんだ場所にいるほうが気も休まるだろう。彼女も頷いて、大人しくジャーファルの隣につく。
「おい、ジャーファル……」
「なお非常事態につき本日は職務放棄します。ご了承ください」
止めようと手を浮かせた主君を無視して扉をしめた。
歩幅を緩めたジャーファルの隣を歩くことに関しては問題なさそうだ。それはそうだ、手足も動かせるしふつうに話もできる。耳も通常通り。眼の疾患だけらしい。
安心していたら一瞬にして隣にいた姿が消失した。と、足元にうずくまる気配で階段を踏み外したことを知る。
「なまえ、大丈夫ですか」
「はい。ただ……距離感があまりつかめなくて」
「立てますか?」
ジャーファルの手を借りて、その場に立ち上がる。痛めたところはなさそうだった。腕を組むのは遠慮して、繋いだ手をそのままに、ときおり振り返りつつ先導する紳士然とした態度に自然と頬が熱くなった。
ぶわ、と吹いた風とともに白い巨体が裂けたような口を開けた。
「きゃあ!」
悲鳴を上げたと同時にそばにいた体にしがみつく。怯えた体に穏やかに、彼が腕を回す。
「どうしました」
「あれ……なんですか?」
「どれです?」
「上から降ってきた……」
「布なら落ちてきましたが。干していたものが風に飛ばされたんでしょうね。ほら、誰かがとりにきましたよ」
ジャーファルにはひらりひらりと落ちてきた変哲もないただのきれが、なまえには怪物に見えたらしい。風によって折り目をつけて陰影をつくり、あたかも生きているかのように踊らされていた。一人の女官がそれを折りたたんで回収し、戻っていった。
「だってあれ、白くて大きくて……」
声を上げてジャーファルが笑う。
「も、もう!ほんとにびっくりしたんですから」
「すみません。化け物に見えて怖かったんですよね」
笑ってはいるが馬鹿にするものではない。柔らかな手つきで頭をなでられて、素直にうなずく。どうして彼には透けてしまったように考えが伝わってしまうのだろう。
「海洋生物みたいに目鼻があって、口を大きくあけたんだと……そうですよね。異変があったら国中大騒ぎのはずですもの」
そしてなにかあったとしても、ヤムライハのようにとはいかないものの、ある程度ならば自己の魔法のみでなんとか時間かせぎくらいはできると自負していた。それがたかがこんなことで動揺してしまうなどと、視力が奪われたせいで弱気になっているのか。
自身の失態に失望しつつも、とにかくジャーファルのそばにいられることが嬉しかった。普段ならためらうような甘え方も、今なら許されるだろうから。
こうして宮殿の中で手をつないで隣り合って歩くこと、ひいては堂々と二人でいること。いつもと違う状況に、わくわくするようなどきどきするような。
とある扉の前で立ち止まると、ジャーファルが不審そうにむこうを指差した。
「もう一つ隣でしたよね」
この通りの扉はこんなにも似通っていただろうか。ぜんぶがぜんぶ同じように見える。恥ずかしそうにそうだと思う、と答えた。
ジャーファルが指した部屋こそが自分のものだった。中に入りなじんだ空気に息を吐く。
「自分の部屋もわからないなんて……」
「つくりは同じですからね。それで、目の調子はどうです?」
椅子を引いて座らせてくれた。
「違いはないかと……」
むしろ悪くなっている。とは認めたくもなかったので口に出さない。
「なまえ、私の顔が見えますか?」
両膝をついて、下から覗き込まれる。集中して目線を合わせたつもりだったものの、彼のいぶかしげな雰囲気からそれが失敗に終わっていることを知る。気落ちして瞼を閉じた。左右から顔を包む手があたたかくて、少しばかり不安に揺らぐ心が凪ぐ。唇にもぬくもりを感じて、しばらくそれに酔った。
「落ち込まないで。なにも心配することはありませんから」
「自分でかけた魔法なのに解けなくて、ヤムライハさまにもジャーファルさまにもとんだ迷惑を……」
「そういう風に考えるのはおよしなさい。私はあなたとこうしていられるのが嬉しいんですから」
「ごめんなさい。なんか考え方も変になってるみたいです。あとはじっとしていればいいだけですし、ジャーファルさまはお仕事へ戻られては?まだ残ってるんでしょう」
「あなたをこんな状態で置いておけません」
階段を踏み外すわただの布ですら怪物に見えるわ、生活に支障がないとは言わせない。刃物などは置いてなくとも、ここにある全てが彼女をきずつける武器になりうる。
「ありがとうございます。ほんとうのところ、いっしょにいてくださると助かります」
「ほらみなさい。変に遠慮するものではありませんよ。それよりお腹は空きませんか?喉が乾いていたら飲み物も頼んできます」
ゆるゆると首を振る。
眼以外はまったくの健康で消化器官にも問題はなく、いつもなら空腹を感じる時間なのに胃がなくなってしまったかのようにめっきり静かにしている。
「ジャーファルさま、どうぞお食事に行ってらっしゃいませ」
「私は先ほど軽食を取ったばかりなので大丈夫です」
言い換えると大幅にずれこんだために冷えた昼食を手短に済ませただけだが。彼の規則正しくない栄養摂取方法を今までみてきて熟知している彼女はその言葉をあまり信用していない。
「ほんとうに?」
「まったく。あなたこそ、気を使わないでください」
「はい、ありがとうございます。
……なんだか暗くなってきてませんか?」
「あぁ、もうそんな時間ですね。日暮れが始まってます」
海に日が沈むこの景色を、彼女はどんな色で見ているのだろう。心なしか背がいつもより丸くてなにかを切望するかのように遠い空を見上げている。
「きれい……」
そうこぼした唇が閉じないうちにもう、赤と青が溶け合う色がだんだんと黒ずんできた。深みを増すのとは違う。
視界が急激に縮んで、ぷっつりと闇に閉ざされた。
体の向きを変えて室内を見た。―つもりだった。
そこは空間であるかどうかすらもわからない。
ずっと広がる暗い虚。
立ち上がって、壁に手をつく。
「ジャーファルさま?どこ?ジャーファル……」
もうすっかり視界が真っ暗で、まばたいても自分がそうしたのか体感であっても信じることができなかった。混乱して敬語を使うことすらできなかった。目を閉じたときでも、開いたつもりのときもなにも映らないのだ。それに付け加え彼が気配を殺しているのでなくても、自分にはそれを読み取る術はない。不安になって四方に手を伸ばす。数歩の距離にいたはずの相手を探しもとめて。
しっかりした手に手首をつかまれて、ゆっくり引き寄せられる。その体にすがりついた。普段よりも必死な抱擁に、疑問を抱いた。
「どうしました?」
「見えないの……ジャーファルが、もう見えない……」
「ちゃんとここにいますよ」
「……はい。ジャーファルさま」
「さま、はいりませんよ。どうせ二人きりです」
「え?」
「呼んだでしょう、私をジャーファル、と」
「そうでしたか?」
見上げる瞳は顔ごとあさってを向く。ちゅ、と音を立てて頬に口付けた。驚いたようすをみて、あぁほんとうに見えないのだと心にずっしりとその事実がのしかかった。
「座りましょうね。まっすぐ歩くとベッドがありますから」
導かれるまま一歩いっぽと足を進める。ベッドの端に腿がぶつかって、倒れこんだ。衝撃は吸収されたが腹に力がこもった。
はねたベッドの上でシーツを握りこんだのもつかの間、赤子のように、膝に乗せられて抱かれる。全身にジャーファルを感じられて、間違いなく自分は彼のそばにいるのだと少し心が穏やかになる。
「怖いですか?」
否定したかったのに、できなかった。
「寝てしまいなさい、朝には治ってるかもしれません。ヤムライハも調べてくれてます」
「そう……そうですね」
自身の魔力をもとに効果が続いているのなら、魔力を切らしたときに解けることもある。その希望を示したジャーファルに感謝しつつ、体を預けた。
「そばにいますからどうぞ安心してください」
彼の胸板に片手を当てて、心臓の鼓動をきく。お互いの体温が伝わるようにもう片方は握り締められて。
たまに思い出したように頬に鼻に指先に何度も落ちてくる優しい口付けに、そっと微笑んだ。
「あなたがそうしてくれれば疲れもふきとびます」
「え?」
「いいえ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、ジャーファル」
ジャーファルがいてくれればなにがあっても信じて頼れる。こんなにも素直に助けてを言える相手は世界でたった一人だけ。
なまえが笑ってくれるならなんだってできる。知らないでしょうが、あなたという存在に私はいつだって助けられているんですよ。
政ばかりで味気ないとしても明日がくるのが楽しみなのは、あなたが私の日常にいてくれるから。
たとえこのまま明日がきたって、きっとだいじょうぶ。
**
おわり。
後日ヤムさんががんばって魔法を解いてくれました。
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「どうかしたの?」
手のひらを自分に向けて、何度も顔に近づけては遠ざけてをくり返していると、魔導の師匠ヤムライハから声がかかった。
「目が……変なんです。霞んでるみたい」
まばたいて、手の甲でこする。一向に改善しない。
「ああ、触ったらだめよ。痛い?ホコリでも入ったかしら」
「いいえ……そういう感じではないみたいかと。痛みもかゆみもまったくありません」
ちょっと待ってて、とヤムライハは広めの器に水を差して、机に置いた。
「念のため、洗ってみたらどうかしら」
「ありがとうございます」
ここは師匠・ヤムライハ自慢の研究室で、個人個人で魔法の実験をしている最中だった。ノートの通りに魔法を実行したのだが失敗に終わったのだと推測される。ただ単に発動しなかったというのならまだましだが、どうやらこれはなにかが作用してしまったらしい。
注意深く顔ごと注ぐが、変化はみられない。数刻前には部屋の隅まで見渡せていたのに、いまは机越しのヤムライハの顔もなんだか靄がかかったように不明瞭に映る。疲れなどからくるものではない。首を振る。
「目にゴミが入ったのでもなさそうね。なにをしていたの?」
「新しい魔法を試していて……」
もしいまとりかかっている魔法が成功したのなら、本来ならそこに届くまで幾日もかかる場所をこの場にいながら見られるという遠視ができるはずだった。何をどう間違ったのか原因は不明だが、自身の眼に誤った影響を及ぼしている。
机に広がる羊皮紙に描いた魔法式を手渡して、若き天才魔導師の返答を待つ。
「うーん。見たところ、簡単なものではないようね、組み解いてみないと……とにかく、このまま続けるのは難しそうね」
腕を組む姿から、彼女が喜ばしい顔をしているわけではないことが伝わってきて、だが謝罪するほかにどうもできなかった。自分の不始末を己で片付けられれば良いのだが、この状態では無理だ。
こうして失敗したとして、師匠は決して叱ったりしない。実験が毎回成功することなどない、それを知っているから。ふがいない弟子を心配する心遣いから、胸が痛む。ただ尻拭いをしてもらうことが心苦しい。
「はい。すみません……」
「いいのよ。それよりも、ここでずっと待ってるのも嫌でしょう?ジャーファルさまのとこに行きましょうか。念のためシンドバッド王に報告もしたほうがいいと思うわ」
行きましょう、と部屋をあとにする彼女を追った。
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すべての輪郭が溶けてしまったよう。遠くのものは色でしか認識できない。できの悪い絵のような、こつこつと床を踏む音も骨に伝わる振動も本物なのに、夢の中を歩いているような。この道を通ったことがあるからこそ、そこにあるのは木だとか置物だとかいうことがかろうじて推測できるが、普段みないものについてはさっぱり見当がつかない。すれ違う人たちも同じ官服を着ているのもあって誰がだれだか。
ヤムライハが足を止めたので、この扉が執務室なのだと思われる。ちらりとこちらを見たので、なまえは準備はできている、と頷いてみせた。扉を叩いて入室をうかがう。
なまえが黙って立っている間、ヤムライハが実験室であった出来事を要約して説明してくれた。
「見たところ魔法の影響で、視力が弱ってってるみたいなんです」
「現在進行中で悪化しているってことか?それは大変だな」
シンドバッドはうなって、ヤムライハの隣でずっと黙っている、問題の中心人物へ眼を向けた。
「解けるんですよね、ヤムライハ?」
「お任せを。魔導士の意地にかけて。
私はすぐなまえのかかった魔法の調べに取り掛かります。その間面倒みてくださいません?」
「そ、その……突然言われても」
「恋人でしょ!頼みましたからね」
そうしてヤムライハは颯爽と戻っていってしまった。
「お仕事の邪魔してごめんなさい」
恐縮して頭を下げる。居場所がなさそうに、立ちすくんで。
「ああ、あなたがそばにいることが嫌だという意味ではなく……」
「なまえ、他に異変は?」
ジャーファルの言葉を切ってシンドバッドが尋ねると、そちらに注視しようとした彼女は瞳を揺らした。境界線の曖昧な、青と肌色か白だか、そこが彼なのだと思う。
「いいえ、見えづらいだけです」
「……目の焦点が合っていないぞ。どのくらい見えていないんだ」
「どのくらい、と言っていいか……あの、シンドバッド様ですよね?」
自信なさげに口にした。入り口からシンドバッドまで距離があるとはいえ、見慣れたはずの姿をわからないとは。声でようやく認識しているようだ。
「そうだが。そこからでは見えんのか。
……はっきり見えるところまで来てくれないか」
おそるおそるといった足取りで王に近づく。彼の2、3歩手前まで進んだところで、目の前の人物こそが王であることを確認できたのか気を緩めたように眉間のしわを消した。つま先同士がくっついてようやっと、いつもの笑顔を見せる。
「シンドバッド様ですね」
「ほんとうにそう見えるか?魔法で化けているかもしれんぞ」
「え?・・・・・・」
再び危ぶむ色でじっと秀麗な石膏のような顔を検分する。それがずんずんと迫っていることに気づくには集中しすぎた。背後から突然飛び出した手がそれを鷲づかむのに驚いて身をひいた。背中がなにもなかったはずの場所にぶつかる。
「なにしようとしてんですか。私の目の前で」
焦っているようにも怒っているようにもきこえた。後ろからなまえを包むように立っている。
「ジャーファルさま……」
「なまえ、王だからといって気を許してはいけませんよ。いえむしろシンだからこそ」
「えっ」
「どれくらい見えているのかみててただけじゃないか」
「近づけるのが顔である必要性をみいだせません」
視覚をみるだけだったのなら手だけでも事足りる。あれはまるで口付けをするかのようだった。
「とりあえず、あなたの部屋にいきましょう」
見えないとはいえ慣れ親しんだ場所にいるほうが気も休まるだろう。彼女も頷いて、大人しくジャーファルの隣につく。
「おい、ジャーファル……」
「なお非常事態につき本日は職務放棄します。ご了承ください」
止めようと手を浮かせた主君を無視して扉をしめた。
歩幅を緩めたジャーファルの隣を歩くことに関しては問題なさそうだ。それはそうだ、手足も動かせるしふつうに話もできる。耳も通常通り。眼の疾患だけらしい。
安心していたら一瞬にして隣にいた姿が消失した。と、足元にうずくまる気配で階段を踏み外したことを知る。
「なまえ、大丈夫ですか」
「はい。ただ……距離感があまりつかめなくて」
「立てますか?」
ジャーファルの手を借りて、その場に立ち上がる。痛めたところはなさそうだった。腕を組むのは遠慮して、繋いだ手をそのままに、ときおり振り返りつつ先導する紳士然とした態度に自然と頬が熱くなった。
ぶわ、と吹いた風とともに白い巨体が裂けたような口を開けた。
「きゃあ!」
悲鳴を上げたと同時にそばにいた体にしがみつく。怯えた体に穏やかに、彼が腕を回す。
「どうしました」
「あれ……なんですか?」
「どれです?」
「上から降ってきた……」
「布なら落ちてきましたが。干していたものが風に飛ばされたんでしょうね。ほら、誰かがとりにきましたよ」
ジャーファルにはひらりひらりと落ちてきた変哲もないただのきれが、なまえには怪物に見えたらしい。風によって折り目をつけて陰影をつくり、あたかも生きているかのように踊らされていた。一人の女官がそれを折りたたんで回収し、戻っていった。
「だってあれ、白くて大きくて……」
声を上げてジャーファルが笑う。
「も、もう!ほんとにびっくりしたんですから」
「すみません。化け物に見えて怖かったんですよね」
笑ってはいるが馬鹿にするものではない。柔らかな手つきで頭をなでられて、素直にうなずく。どうして彼には透けてしまったように考えが伝わってしまうのだろう。
「海洋生物みたいに目鼻があって、口を大きくあけたんだと……そうですよね。異変があったら国中大騒ぎのはずですもの」
そしてなにかあったとしても、ヤムライハのようにとはいかないものの、ある程度ならば自己の魔法のみでなんとか時間かせぎくらいはできると自負していた。それがたかがこんなことで動揺してしまうなどと、視力が奪われたせいで弱気になっているのか。
自身の失態に失望しつつも、とにかくジャーファルのそばにいられることが嬉しかった。普段ならためらうような甘え方も、今なら許されるだろうから。
こうして宮殿の中で手をつないで隣り合って歩くこと、ひいては堂々と二人でいること。いつもと違う状況に、わくわくするようなどきどきするような。
とある扉の前で立ち止まると、ジャーファルが不審そうにむこうを指差した。
「もう一つ隣でしたよね」
この通りの扉はこんなにも似通っていただろうか。ぜんぶがぜんぶ同じように見える。恥ずかしそうにそうだと思う、と答えた。
ジャーファルが指した部屋こそが自分のものだった。中に入りなじんだ空気に息を吐く。
「自分の部屋もわからないなんて……」
「つくりは同じですからね。それで、目の調子はどうです?」
椅子を引いて座らせてくれた。
「違いはないかと……」
むしろ悪くなっている。とは認めたくもなかったので口に出さない。
「なまえ、私の顔が見えますか?」
両膝をついて、下から覗き込まれる。集中して目線を合わせたつもりだったものの、彼のいぶかしげな雰囲気からそれが失敗に終わっていることを知る。気落ちして瞼を閉じた。左右から顔を包む手があたたかくて、少しばかり不安に揺らぐ心が凪ぐ。唇にもぬくもりを感じて、しばらくそれに酔った。
「落ち込まないで。なにも心配することはありませんから」
「自分でかけた魔法なのに解けなくて、ヤムライハさまにもジャーファルさまにもとんだ迷惑を……」
「そういう風に考えるのはおよしなさい。私はあなたとこうしていられるのが嬉しいんですから」
「ごめんなさい。なんか考え方も変になってるみたいです。あとはじっとしていればいいだけですし、ジャーファルさまはお仕事へ戻られては?まだ残ってるんでしょう」
「あなたをこんな状態で置いておけません」
階段を踏み外すわただの布ですら怪物に見えるわ、生活に支障がないとは言わせない。刃物などは置いてなくとも、ここにある全てが彼女をきずつける武器になりうる。
「ありがとうございます。ほんとうのところ、いっしょにいてくださると助かります」
「ほらみなさい。変に遠慮するものではありませんよ。それよりお腹は空きませんか?喉が乾いていたら飲み物も頼んできます」
ゆるゆると首を振る。
眼以外はまったくの健康で消化器官にも問題はなく、いつもなら空腹を感じる時間なのに胃がなくなってしまったかのようにめっきり静かにしている。
「ジャーファルさま、どうぞお食事に行ってらっしゃいませ」
「私は先ほど軽食を取ったばかりなので大丈夫です」
言い換えると大幅にずれこんだために冷えた昼食を手短に済ませただけだが。彼の規則正しくない栄養摂取方法を今までみてきて熟知している彼女はその言葉をあまり信用していない。
「ほんとうに?」
「まったく。あなたこそ、気を使わないでください」
「はい、ありがとうございます。
……なんだか暗くなってきてませんか?」
「あぁ、もうそんな時間ですね。日暮れが始まってます」
海に日が沈むこの景色を、彼女はどんな色で見ているのだろう。心なしか背がいつもより丸くてなにかを切望するかのように遠い空を見上げている。
「きれい……」
そうこぼした唇が閉じないうちにもう、赤と青が溶け合う色がだんだんと黒ずんできた。深みを増すのとは違う。
視界が急激に縮んで、ぷっつりと闇に閉ざされた。
体の向きを変えて室内を見た。―つもりだった。
そこは空間であるかどうかすらもわからない。
ずっと広がる暗い虚。
立ち上がって、壁に手をつく。
「ジャーファルさま?どこ?ジャーファル……」
もうすっかり視界が真っ暗で、まばたいても自分がそうしたのか体感であっても信じることができなかった。混乱して敬語を使うことすらできなかった。目を閉じたときでも、開いたつもりのときもなにも映らないのだ。それに付け加え彼が気配を殺しているのでなくても、自分にはそれを読み取る術はない。不安になって四方に手を伸ばす。数歩の距離にいたはずの相手を探しもとめて。
しっかりした手に手首をつかまれて、ゆっくり引き寄せられる。その体にすがりついた。普段よりも必死な抱擁に、疑問を抱いた。
「どうしました?」
「見えないの……ジャーファルが、もう見えない……」
「ちゃんとここにいますよ」
「……はい。ジャーファルさま」
「さま、はいりませんよ。どうせ二人きりです」
「え?」
「呼んだでしょう、私をジャーファル、と」
「そうでしたか?」
見上げる瞳は顔ごとあさってを向く。ちゅ、と音を立てて頬に口付けた。驚いたようすをみて、あぁほんとうに見えないのだと心にずっしりとその事実がのしかかった。
「座りましょうね。まっすぐ歩くとベッドがありますから」
導かれるまま一歩いっぽと足を進める。ベッドの端に腿がぶつかって、倒れこんだ。衝撃は吸収されたが腹に力がこもった。
はねたベッドの上でシーツを握りこんだのもつかの間、赤子のように、膝に乗せられて抱かれる。全身にジャーファルを感じられて、間違いなく自分は彼のそばにいるのだと少し心が穏やかになる。
「怖いですか?」
否定したかったのに、できなかった。
「寝てしまいなさい、朝には治ってるかもしれません。ヤムライハも調べてくれてます」
「そう……そうですね」
自身の魔力をもとに効果が続いているのなら、魔力を切らしたときに解けることもある。その希望を示したジャーファルに感謝しつつ、体を預けた。
「そばにいますからどうぞ安心してください」
彼の胸板に片手を当てて、心臓の鼓動をきく。お互いの体温が伝わるようにもう片方は握り締められて。
たまに思い出したように頬に鼻に指先に何度も落ちてくる優しい口付けに、そっと微笑んだ。
「あなたがそうしてくれれば疲れもふきとびます」
「え?」
「いいえ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、ジャーファル」
ジャーファルがいてくれればなにがあっても信じて頼れる。こんなにも素直に助けてを言える相手は世界でたった一人だけ。
なまえが笑ってくれるならなんだってできる。知らないでしょうが、あなたという存在に私はいつだって助けられているんですよ。
政ばかりで味気ないとしても明日がくるのが楽しみなのは、あなたが私の日常にいてくれるから。
たとえこのまま明日がきたって、きっとだいじょうぶ。
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おわり。
後日ヤムさんががんばって魔法を解いてくれました。
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