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**
雲の上を歩いて、緑の地を目指す。途中にかぐわしい香りを漂わす滝を通り過ぎて、木々の合間を縫い、うさぎの跳ねる芝生に出た。
仕事場の環境音といえば金属が軋むものや亡者の叫び声なため、天国にくるといつも心が癒される。明るい緑にふわふわの毛がぴょこぴょこしている風景を眺めるだけて、目元がゆるんでいく。
極楽満月の看板を掲げた建物の引き戸を開けて店主に声をかける。
「こんにちは」
「あ、なまえちゃんだ。いらっしゃい~」
猫なで声に会釈で返した。薬局には以前一度お香と訪れたきりだというのに、なんという記憶力。
「お香おねえさまのお使いで参りました。冷え性のお薬いただけますか?」
「ちょっと待ってね、すぐ用意するから。そうだ、この後予定なかったら薬膳鍋作ってあげるからうちで食べなよ。ついでに呑もうよ」
この妖怪の口説き文句は挨拶と同義なので、あっさりと断る。気を許すことはならないが、根は良い人だ。
「いただいたお薬を届けないといけないので、すみません」
「え〜残念〜」
「まぁ正直、薬膳鍋は興味ありますね」
「じゃあ食べてから薬届ければ良いんじゃない?」
ガラリと入り口が開いた。編みかごを背負った従業員で薬剤師修行中の桃太郎と、後ろに立つ黒い巨漢。
「ただいま戻りました」
「おかえり桃タローくん。お客さん?って…お前かよ…」
「じゃあ鬼灯様、いまお持ちしますので」
「お願いします」
「さっさと帰れよな」
決して女性相手にはしたことのない白澤の険しい表情と舌打ち。
「あ?」
背後から聞こえた、たった一文字の音に、ぞわりと首筋の毛が立った。
「女の子の前でメンチ切んのやめろよ。この子が怯えるだろーが」
「…それは失礼しました」
両手で耳を塞ぎ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「怖くて動けないんだよ。お前のせいで」
「別に貴女のことを睨んだわけじゃありませんが、全てはこの変態妖怪のせいなのでコイツが謝罪します」
深いふかい音が身体に染み渡る。それは心地良く胸の奥をくすぐって、でも同時にざわざわさせる。
「なんだって僕のせいなんだよこの唐変木!」
ゆっくり振り返ると、獄卒の中では有名な鬼灯が立っていた。
TVでたまに見かけたり遠くから見たことはあれども、近くに寄るのは初めてだ。前から好ましい声だと感じていたが、生で聴くとまた違う。スピーカー越しにはない威力がある。
「貴女、どこかで見たことが…どこでしたっけ」
震える空気が耳を通り抜けて、肌を撫でるように滑ってゆく。
「…すみません、いまなんとおっしゃいました?」
「貴女に見覚えがあります。どこでだかは思い出せませんが」
「…?」
言葉を繰り返すと、 不思議そうに見上げた。その表情で思い出したのか、鬼灯は手を打った。
「…ああ。そうだ。以前はお香さんと一緒でしたね。衆合地獄の獄卒でしたか」
はい、ともいいえ、とも答えない。
「………」
「………?」
強い酒に酔うとこんな感じだろうか。目の前の相手の口が動いているのはわかっても、頭にもやがかってわからない。
「あの、すみません。なんだかおっしゃってることが頭に入ってこなくて」
眉間に手の平を当て、なんと言われたのか思い出そうとした。白澤が心配そうに覗き込む。
「なまえちゃん、熱でもあるの?」
「いえ、体調は普通です」
「僕の言ってることはわかるんだよね」
「はい」
「で、コイツの言ってることは?」
指を指すと、額の端に角を生やした鬼が首を傾げる。
「私の声、そんなに聞き取り難いですかねぇ」
「…なんでしょう。質問ですか?」
「耳がおかしいとかじゃないっぽいけど…耳鳴りとかはない?」
「いいえ、ありません」
「寒気は?」
軽く鳥肌が立っているが、これは寒気からだろうが。安定した気候の天国と、寒暖の差が激しい地獄との行き来には慣れており、気分が悪くなったわけでもない。
「…少し?」
「風邪の引き始めかな?お薬出しとこうか」
「いえ、そこまでじゃないと思うので大丈夫です」
「うーん。やっぱりお鍋食べてさ、あったまっていきなよ」
「それはまた今度お願いします」
「鬼灯様、お待たせしました。こちらをどうぞ」
桃太郎が薬瓶を差し出して、鬼灯が礼を告げつつ代金と交換して袖の下にしまう。
「衆合地獄にお帰りでしたら、私もお香さんに用事があるのでご一緒しましょうか」
喉仏が上下する。こちらを見ているのだから、私に話しかけているのだろうけれど。
「はい?なんでしょう」
「あの、なまえさんが衆合地獄に帰るのであれば一緒に行きませんか、とおっしゃってます。お香さんにご用事だそうです」
桃太郎の通訳で頷いた。
「ああ!はい」
道すがらいくつか質問をしてくれたようだが、彼女ははぁ…、とかその…、というばかりでまともな回答はなかった。なまえという名ですら、桃太郎や猥褻男からきいただけの情報。
「参りましたね。会話が成り立ちません」
「ごめんなさい。私の耳、どこかおかしいみたいです」
「耳の遠いふりしてトボけるおばあちゃんですか。不便ですね」
話しかけるのも無駄だと思ったのか、それきり口をつぐんでしまった。
地獄のトップ(補佐)と肩を並べて歩くというのはほとんどハプニングだった。話題を振られても、どうしてか脳が働かないのでほとんど無視することになる。これは失態なのではなかろうか。脂汗が背中を伝う。
どうかお香おねえさまに責が及びませんように…!
淡い青の髪に蛇の帯締めを見つけて、天の助けと駆け寄る。
「お香おねえさま、鬼灯さまがおいでです」
おかえりなさい、と部下をねぎらいつつ一本角の鬼を見やる。
「アラー鬼灯様、いらっしゃい~」
「どうも」
「それからこちら、白澤様のお薬です」
「ありがとう、助かったわ」
美しく艶やかで自慢の上司の笑顔に、ぽっと頬を赤らめる。形式的に鬼灯へ頭を下げて別れを告げてから、建物の中へ消えた。
「衆合地獄へは視察ですかァ?」
「ええまぁ。なにか変わったことはありませんか」
「いまのところはなにも。いつも通りね」
口元に手を当てながらひそひそと話しかける。
「ところであの女性…なにか持病でもあったりしませんか?」
「なまえちゃんですかァ?いいえ、健康診断でも問題はなかったって話をこの前したばっかりです」
「そうですか…妙ですね」
「なにかありました?」
「私の言うことがわからないらしくて、道中全く会話ができませんでした」
「アラ。でも、勘の悪い子じゃありませんよォ」
「いえ、そうではなく…声がききとりにくいのか、反応がないのです」
「それは不思議ねェ………あ」
何かを思い出したかのように漏らした声に鬼灯が尋ねた。
「なんですか」
「これが原因かはわかりませんけど、なまえちゃんって声フェチなんですよねェ」
「声フェチ」
「えぇ。低い声が好きって言ってて、わりと閻魔様のお声も素敵って言ってたようなァ」
「あのオッサンの声を。それは奇特な」
「秦公王様も良いって」
「はぁ」
「鬼灯様のお声は色っぽくてらっしゃるから、なまえちゃんの好みだったんじゃないかしら?」
「私がですか」
「まァはっきりとは言えませんけどねェ」
「そうですか」
興味なさそうに、懐から懐中時計を取り出して開いた。もし精神的な病気持ちだったら病院を紹介しようと考えていたが憂慮だったらしい。
「もうこんな時間ですか。閻魔庁に戻らないと」
「お疲れさまです」
返事をして職場へ戻った。
**
寮からの出勤、いつもの道をあこがれのお香と並んで歩く。
「ゆくゆくはお香おねえさまのように、美しくカッコイイ官吏になりたいです」
「マァ嬉しい」
「貴女がお香さんのように出世したいのなら、私にも慣れてもらわないとこれから先、仕事になりませんよ」
「ひぃっ」
神出鬼没の鬼人に身を縮こませた。お香はアラと控えめに驚いてみせ、まなじりを下げた。
「まぁそうよねぇ。上に行くほど鬼灯様と関わりが増えるものォ」
裁判官たちとも顔なじみで、各補佐官たちとも連絡を密にとっている。もしなまえが上を目指すというのならこのままでは立ち行かない。
「ちょっと2、3日閻魔庁まで研修に来てもらいましょうか。よろしいですね、お香さん」
「えぇ、わかりました。…なまえちゃん、今日から行けそう?」
「え?どこに行くんですか?」
まったく先ほどの言葉を聞いていない様子をよそに、お香は鬼灯をちらりと見た。
「鬼灯様がなまえちゃんに閻魔庁に来てほしいんですって」
「閻魔庁へ?用事ありましたっけ?」
「私の補佐をしてもらいます」
「鬼灯様のお手伝いですって」
肩書もない一獄卒には、上からの辞令に回避する道はなかった。
**
閻魔大王にとってもなまえの来訪は突飛すぎたらしく戸惑った様子だった。積み上げられた書類の隙間から、何食わぬ顔をした補佐官を見下ろす。
「体験入庁…?」
「なまえと申します。本日よりお世話になります…」
「いや、ワシは構わないんだけど、急に連れてこられて大丈夫だった?衆合も大変じゃない?」
「お香さんからの許可は取ってます」
「鬼灯君がごめんね」
「とんでもございません。閻魔大王様のお側を許されるなど獄卒として光栄の極みでございます。ご指導のほどよろしくお願いいたします」
尊敬を心からの形で表されて、大王ははしゃいだ。
「わっすごい、こんな感じなかなかないよ。ね、鬼灯君。なまえちゃん良い子だねぇ」
「なまえさん、資料室まで今日の罪人分の資料を取ってきてもらえますか。大王、リスト持ってるでしょう。渡してあげてください」
常ならそれは第一補佐官の領分であるが、空のカートを引いてなまえの目の前に停める。
「さらっとワシのこと無視したね鬼灯君」
用事を頼まれた当人は指示を与えた鬼灯を見てはいるが、動こうとしない。
「あ、あの、なまえちゃん大丈夫?きいてた?」
「すみません、鬼灯さまはいまなんとおっしゃいましたか」
「資料室に罪人の資料を取りに行ってくれないかな?これが名前のリストだって」
机の上からとった紙には細かい文字が並ぶ。
「かしこまりました」
「場所わかる?」
「はい。お香さまと行ったことがありますからわかります」
「じゃあ、お願いね」
カラカラ、と車輪の音を鳴らして角を曲がる。
「鬼灯君、なまえちゃんに嫌われてるの?君が無視されて大人しくしてるのも珍しいね」
ちょっとでも態度の悪い獄卒や礼儀のなってない子供をみかけると問答無用でお仕置きをするのが彼だ。
「あれは無視しているのではありませんよ。私の声が聞き取りづらいとのことなので慣れてもらおうと思って今日は補佐を頼んだのです」
「えぇっそういう耳の病気かな?普通より聞こえる音域が狭いとか、そういうのあるよね」
「いえ、病気では…まぁ一種の病気のような気もしますね」
好みの声に陶酔してしまうというのは。
「でも、先に麻殻くん通さなくて良かったの?補佐官教育係通してからのが良くない?」
優秀な人材は目をつけてとりたてる。大王の補佐官経験もその一手。獄卒たちの出した結果には正当なる評価を下して昇格させることで全体の質も上がるからだ。そのために五官中の第二補佐官であり教育係の麻殻の手ほどきを受けてから補佐代理なりに着くのが通常である。
なまえに対しても働きを認めたいところだが、鬼灯の声が障害となっているのでは出世しづらいだろうと、対策を考えたのだ。
とりあえずは鬼灯と会話できることを目標として、彼の声を常にきける場所に置くことにした。
「お香さんの太鼓判つきですし、それもおいおい考えています。麻殻さんは今は予約が詰まっているので…って大王、仕事に集中してください。その束、裁判前に片付けてくださいって言ったでしょう」
鬼灯が束、と呼んだ書類たちはもはや山だった。
「ああそうだったごめんね、すぐ取り掛かるよ」
金棒を片手のひらにぽんぽんと何度も打ち付けるので、大王は焦って書類を検分し始めた。
巻物でいっぱいになったカートを押しながら戻ってきた。
「資料をお持ちしました」
「今日の裁判を執り行う順序です。この通りに並べてください」
一覧を渡されて、頷く。
「なまえちゃん、いまのわかった?」
「このリストの罪人の資料を持ってきた中からご用意すればよろしいのですね」
「うん、そうだけど、よくわかったねぇ」
お香さんからの勘が良い、との評価は正しいようだ。名前の前に番号が振ってあればなんとなくでも察しはつくだろう。急に連れ出して戸惑いもあるだろうに、微塵も感じさせない。余計な心配はしなくて良さそうだ。
まずは罪人の記録にざっと目を通し、肝になりそうな所を付箋をつけて抜粋した。裁判が行われる順番通りであることを再確認して、なまえは引き下がる。
「間違いがありましたらご指摘ください」
裁判が始まると、鬼灯が資料をもとに主な罪状やその元となる行動記録を読み上げ、大王が厳かに判決を下す。
「汝…恩沢 を施していることを考慮し、…よって…」
折々に鬼灯の声が聞こえるたびにぽやんと浮かれそうになる自分の脳を律する。仕事モード仕事モード、と言い聞かせて。
肌の上でシャボン玉が弾けていくような、くすぐったい気持ちになる。
低くて一定に流れるように響くそれは、体の内側に溶け込んでしまいそう。
鉄仮面に惑わされがちだが、感情を抑えているわけではない。とくにマイナスな感情は顕著だが、動物に接しているときなどは穏やかさが増す。
内容はともかく、ほんと良い声だわ。
大王の第一補佐官が取り仕切る裁判ともなれば罪を計るのも難しく内容は残虐非道のものが多い。それを読み上げるのだから、あまり長々と聞くに耐えるものではない。ただなまえには、表面しか聞こえないために夢見心地にさせる。
気を紛らわせるために次の罪人の資料を読み進めた。
大王は時計をちらちら見ながら腹をさすった。そろそろ昼休憩に入る。
「なまえちゃん、ご飯はどうするの?お弁当ないなら食堂で一緒に食べない?」
「喜んでご相伴させていただきます」
「もう、そんなかしこまらなくて良いんだよ」
「そうですよ大王なんてただのメタボジジイですから。ご覧なさいこの怠惰の集大成を」
ぽっこりとした腹に突き刺さるのは三白眼から放たれる目線だけでなく、手に持った金棒でぐりぐりといじられる。
「君から言われるのは違うよ…、自分で言うならまだしもさぁ」
それでもまだ怒らないのだから、なんとお優しい。
垂れ流しているTV番組を眺めながら、食後のお茶をすする。
「はい大王、これ飲んでおいてください」
ジョッキに注がれた鮮やかな赤色をした液体。あからさまに嫌そうな顔をして、鬼灯に尋ねる。
「…これ飲まなきゃダメ?」
「今日はとくに喉を酷使していたようなので。せっかく用意したんですから飲みなさいね。後から辛くなっても知りませんよ」
「うっ…優しいんだか優しくないんだかわからないなぁ」
長年連れ添った熟年夫婦のようなやりとりに笑いを噛み殺しつつ、グラスを指差す。
「閻魔大王様、こちらはなんですか?」
「金魚草ジュースだよ。喉の痛みに効くんだ。鬼灯君特製だから効能は確かなんだけど…どうも味がねぇ」
「金魚草なら、漢方の取り扱いでしたね。どんなお味でしょうか?」
「…なんなら飲んでみる?」
大王がジョッキグラスを突き出した。
「では失礼します」
その大きさゆえ両手で持ち上げて、傾けた。
「ほう」
「ためらわないの…なまえちゃんすごい」
口元を紙ナプキンで抑えつつ、感想を述べる。
「多少のえぐみはありますね。少々お待ちください」
席を立ってしまったので、大王は心配して鬼灯を非難する目を向けた。
「なまえちゃん金魚草ジュースで体調くずしてなきゃ良いけど…吐いたりしてないかな」
「たった一口で何言ってんですか。あんたあれ飲み干して具合悪くなったことあります?」
「ん?ん~いやないけどさ、地味にきついじゃん、あれ」
なまえが食堂の台所から姿を現した。抱えたグラスジョッキには、半分ほどがオレンジ色で満たされている。
「こちらを混ぜてみますね」
二つを混ぜても色にそこまでの変化はない。閻魔大王はグラスを受け取り、恐るおそる口をつけた。目を見開き、きらきらと輝かせながらなまえに笑いかける。
「これ飲みやすい!ぜんぜん違うよ〜ありがとうなまえちゃん!甘みもあるうえさっぱり美味しい」
「恐縮です。にんじんとりんごのスムージーを加えてみました」
「スムージーにするとは思いつきませんでした」
「今度からこれ作ってよ〜!なまえちゃんからレシピ教えてもらってさぁ」
チッと舌打ちをした顔には明らかに面倒くさい、と書いてあった。
午後からも引き続き同じことが繰り返され、
1日も後半になると、大王を通さずとも、鬼灯から直接指示を受けたりと意思疎通がとれるようになった。
大王から手渡しで裁判の終わった罪人の資料を回収する際に、背中を見せたときだった。
体に衝撃を受けた。気づいたらさっきまで判決を待っていた亡者が飛びかかり、後ろからなまえを拘束していた。理解するよりも早く引きずられてたたらを踏む。
「鬼がなんだ!俺は地獄になんか行かねぇぞ!こいつの命が惜しければ天国に行かせろー!」
「…は、」
大王と、この男を押さえつけていたはずの鬼卒二人が慌てている。鬼女を人質にとるなんて軽率な。
鬼たちが無駄だと説得して剥がそうとしてくれるが、必死に抵抗してしがみついてくる。
反抗すればなおさら罪が重くなると教えられているはずなのに。愚かな。
この場にいる女はたった一人、罪人の両側にはたくましい体の男鬼卒が控えていたし、大王は体格からしてまともに勝てるわけがなく、その前に高い机という障害物もある。鬼灯なんて顔からして怖い。残った線の細いなまえを侮って襲いかかってきたのだろう。
ああ、気持ち悪い。
男の腕と自身の体の隙間に手を滑らせて拳を作る。
「あ、鬼灯君…!」
顎を突き上げようとする寸前だった。
大王が叫んだ瞬間、黒点が飛んできて亡者の鼻先をつぶした。飾り房が耳をかすめる。威力を抑えきれずに、亡者ごとのめり込んだ床にヒビが入るのを見て男鬼が真っ青になっていた。
なまえも巻き添えになって計4人が倒れこむ。
「もう、危ないじゃない鬼灯君。ちょっとでもずれてたらなまえちゃんにも当たってたよ」
「獄卒の二人の力と拮抗して固定されていたので確実だと思ったときに狙ったまでです。当たるかどうか不安定なときには金棒投げてませんよ」
「まったく恐ろしい子だよ君は…」
自力で立ち上がると、気を失った亡者は担架で運ばれていくところだった。額から剥がれた、真っ白だった紙冠(しかん)が足元で血だまりに染まっている。それもモップを持ってきた鬼卒によってすぐさま片付けられた。
「…とはいえ、貴女に危害を及ぼしてしまったのはこの場を監督していた私の責任です。すみませんでした」
ごく軽くではあるが、こんなに簡単に頭を下げる男だとは思っていなかったので、困惑する。言葉それ自体は常に丁寧で落ち着いているのに、態度は不遜で目上でも敬うことはなく愛想などとは程遠い。その身には重責があり、そうそういとも容易に平獄卒への謝罪に使って良い頭ではないはずなのに。
「私も油断していたので…助けてくださりありがとうございました」
受けた一礼よりも深く頭を下げる。
亡者たちは裁判を終える頃にはすっかり丸くなり、大人しく罰を受けるものがほとんどなのに対して、裁判始まりや審議中の者たちは少なからずイキがって鬼に突っかかってきたり、己の罪を受け入れられず逃亡しようとする者がいることを忘れていた。
「君も肝が座ってるねぇ」
「いえ、刑罰処では亡者の拷問中に武器が飛んでくることもあります。今日は事務作業だと思って気を抜いてしまいました」
説明しつつ、床に転がる金棒を持ち上げようとして、逆にそれに引っ張られて尻餅をついた。
「えっ…?」
自分だって亡者の呵責をするときに武器を手にし、振り回すこともあり非力でないと自覚していたのに、鬼灯の金棒の重さときたらその比ではない。
「この金棒には触らないほうが良いですよ。曰く付きなので、それこそ怪我をしてしまいます」
ぴくりともしなかった金棒をひょいと肩に担ぎ上げ、なまえの腕を取って起こしてくれた。
そんな呪いつきの品を平然と持ち歩くこの鬼はいったいなんなのだろう。
「まだ裁判は続きます。終わるまで私の後ろにいるようにしてください」
背に庇われて、黒地に刺繍された橙色の鬼灯を眺めることになった。
姿勢良いなぁ。
この着流し?道着?はどこぞで注文したのかしら。
ご自分で刺繍なさってたりして…できそうではあるけれど。ちくちくと、ひと針ひと針、あの大きな手で、ねぇ。
器用で聡明で、女性からの人気もあって上司部下からの信頼は厚い。人望とはまた違うかもしれないけれど、頼り甲斐はある。反面他に厳しくすることに関しては地獄一。体罰も辞さない。でも、決して優しくないわけではない。この矛盾をどうやって解消しているやら。飴と鞭のさじ加減が異様に上手いのだ。
どこか世間からズレているものの、礼節を重んじて行儀作法は完璧。弱味を見せない男だ。
判決が出たら次の罪人の資料を渡して、終わったぶんをカートに納める。
この三日間、任されたことはほとんどは雑用だったけれど、上の業務を見学するだけでも学ぶことは多かった。
「お疲れ様でした」
「今回はお世話になりました」
「私の言うこともわかるようになったようでなによりです」
「…、その件はどうもお手数おかけしました…」
含みのある言い方をしても鬼灯はどこ吹く風だ。
「いや本当に助かりました。またお願いしても?」
「…私でお役に立てるのであれば」
社交辞令として受け取ってもらえれば良いのだが。
私はお香おねえさまの下で働いていたい。
「本音が顔に出てますよ」
「隠してませんので」
口元だけで笑ってみせる。
「やはりお香さんのところが良いですか」
「はい」
「それにしても貴女、どちらかというと記録課のほうが性格的に合ってると思いますよ。異動しませんか?」
「私はお香おねえさまに憧れて獄卒になったんです。向き不向きはあると知ってますけど、克服してみせます」
「まぁ無理強いはしませんが。お帰り気をつけて」
「はい、失礼します」
宣言して、退去を申し出た。止められなかった。
**
寮に戻り、女性獄卒の集まる部屋に風呂上がりに寄った。目的はお香おねえさま。今日の出来事を報告がてら愚痴ると、化粧を落としても美人の上司はこあの肩を持った。
「なまえちゃんは衆合でもやっていけるわよ。動物も平気だし、色恋には熱を上げないし。その気になれば本庁でも大丈夫。それにね、補佐官は主任になるころにはみんな経験しているし、なまえちゃんもきっと出世が早いわよ」
お香が近づくと、帯がわりの蛇の一匹がなまえに擦り寄る。すべすべした桃色の体表を撫でてやると、しゅるしゅる、と舌を伸ばした。かわいい。
たまにお香に代わって蛇の世話をしているのはなまえだ。お香のように溺愛するわけではないが、怖じけずに蛇たちに触ることができるのでその点でもお香はなまえのことを気に入っていた。
**
花街も備わっている衆合地獄で、惚れた腫れた振った振られたの醜悪なやりとりはしょっちゅう行われている。どうして人は簡単に恋をするのだろう。恋なんて響きは良いがいずれ裏切りで終わりを告げる。たいていはお金目的身体目的であって、愛憎渦巻く街は華やかだが魅力はないとさえ感じる。
いまとなっては経済が回るのは良いことだ、ぐらいにしか考えていない。入れ込まずにいるくらいがちょうどいいのだ。
地獄太夫も尊敬しているものの、あえて衆合に固執することはない。勤めも長くなり慣れもしたが、衆合が好きかと問われると口をつぐむことになる。
ここにいるのは、ひとえにお香を慕ってのこと。
もしどこか異動になってたとしてもやっていけるだろうけれど、そこにお香がいないことを考えると途端にやる気がしぼむのだ。
閻魔庁もとい鬼灯への突然の奉公も終了して数日、お香の隣でご機嫌にカリカリと書類整理をしていた。
「仕事は真面目にできるんですよね」
耳元で聞こえた声にボールペンを落とし、机に突っ伏す。顔だけ横に向けると、視界の端に無表情の鬼灯がいた。ほんとうに、いつどこで出会うかわからない相手だ。
「不意打ちはおやめください」
「いえね、つい。もう慣れたと思ったんですが」
しみじみと顎をさする素ぶりにため息をついた。
「人の記憶から忘れられるのはまず、声からだと言います。しばらくお会いしてませんでしたので…抗体がなくなったといいますか」
「ほほう」
「とにかく仕事に集中したいのですが、よろしいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ続けてください」
そう言いつつも真顔で見つめられると、手も進まない。遠回しに出ていってほしいと含ませたつもりなのに。
蛇に睨まれた蛙の図を見かけてしまったお香。
「あら鬼灯様、いくらかわいいからってあまりなまえちゃんをいじめないでくださいなァ」
垂れがちな目で微笑ましいとでもいうように割り入った。
「いじめるだなんてとんでもない。どういった業務をしているのか見させてもらっているだけですよ」
各部署の業務内容を把握するのも上の務めですから、と飄々と言ってのける。
あごと共に喉仏がよく動く。
これが蕩けそうな音声を作り出しているのかと思うと感慨深い。
まったく、声だけは良いのに。性格に一癖も二癖も難がある鬼人だ。
**
読んでくださりありがとうございます。
雲の上を歩いて、緑の地を目指す。途中にかぐわしい香りを漂わす滝を通り過ぎて、木々の合間を縫い、うさぎの跳ねる芝生に出た。
仕事場の環境音といえば金属が軋むものや亡者の叫び声なため、天国にくるといつも心が癒される。明るい緑にふわふわの毛がぴょこぴょこしている風景を眺めるだけて、目元がゆるんでいく。
極楽満月の看板を掲げた建物の引き戸を開けて店主に声をかける。
「こんにちは」
「あ、なまえちゃんだ。いらっしゃい~」
猫なで声に会釈で返した。薬局には以前一度お香と訪れたきりだというのに、なんという記憶力。
「お香おねえさまのお使いで参りました。冷え性のお薬いただけますか?」
「ちょっと待ってね、すぐ用意するから。そうだ、この後予定なかったら薬膳鍋作ってあげるからうちで食べなよ。ついでに呑もうよ」
この妖怪の口説き文句は挨拶と同義なので、あっさりと断る。気を許すことはならないが、根は良い人だ。
「いただいたお薬を届けないといけないので、すみません」
「え〜残念〜」
「まぁ正直、薬膳鍋は興味ありますね」
「じゃあ食べてから薬届ければ良いんじゃない?」
ガラリと入り口が開いた。編みかごを背負った従業員で薬剤師修行中の桃太郎と、後ろに立つ黒い巨漢。
「ただいま戻りました」
「おかえり桃タローくん。お客さん?って…お前かよ…」
「じゃあ鬼灯様、いまお持ちしますので」
「お願いします」
「さっさと帰れよな」
決して女性相手にはしたことのない白澤の険しい表情と舌打ち。
「あ?」
背後から聞こえた、たった一文字の音に、ぞわりと首筋の毛が立った。
「女の子の前でメンチ切んのやめろよ。この子が怯えるだろーが」
「…それは失礼しました」
両手で耳を塞ぎ、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「怖くて動けないんだよ。お前のせいで」
「別に貴女のことを睨んだわけじゃありませんが、全てはこの変態妖怪のせいなのでコイツが謝罪します」
深いふかい音が身体に染み渡る。それは心地良く胸の奥をくすぐって、でも同時にざわざわさせる。
「なんだって僕のせいなんだよこの唐変木!」
ゆっくり振り返ると、獄卒の中では有名な鬼灯が立っていた。
TVでたまに見かけたり遠くから見たことはあれども、近くに寄るのは初めてだ。前から好ましい声だと感じていたが、生で聴くとまた違う。スピーカー越しにはない威力がある。
「貴女、どこかで見たことが…どこでしたっけ」
震える空気が耳を通り抜けて、肌を撫でるように滑ってゆく。
「…すみません、いまなんとおっしゃいました?」
「貴女に見覚えがあります。どこでだかは思い出せませんが」
「…?」
言葉を繰り返すと、 不思議そうに見上げた。その表情で思い出したのか、鬼灯は手を打った。
「…ああ。そうだ。以前はお香さんと一緒でしたね。衆合地獄の獄卒でしたか」
はい、ともいいえ、とも答えない。
「………」
「………?」
強い酒に酔うとこんな感じだろうか。目の前の相手の口が動いているのはわかっても、頭にもやがかってわからない。
「あの、すみません。なんだかおっしゃってることが頭に入ってこなくて」
眉間に手の平を当て、なんと言われたのか思い出そうとした。白澤が心配そうに覗き込む。
「なまえちゃん、熱でもあるの?」
「いえ、体調は普通です」
「僕の言ってることはわかるんだよね」
「はい」
「で、コイツの言ってることは?」
指を指すと、額の端に角を生やした鬼が首を傾げる。
「私の声、そんなに聞き取り難いですかねぇ」
「…なんでしょう。質問ですか?」
「耳がおかしいとかじゃないっぽいけど…耳鳴りとかはない?」
「いいえ、ありません」
「寒気は?」
軽く鳥肌が立っているが、これは寒気からだろうが。安定した気候の天国と、寒暖の差が激しい地獄との行き来には慣れており、気分が悪くなったわけでもない。
「…少し?」
「風邪の引き始めかな?お薬出しとこうか」
「いえ、そこまでじゃないと思うので大丈夫です」
「うーん。やっぱりお鍋食べてさ、あったまっていきなよ」
「それはまた今度お願いします」
「鬼灯様、お待たせしました。こちらをどうぞ」
桃太郎が薬瓶を差し出して、鬼灯が礼を告げつつ代金と交換して袖の下にしまう。
「衆合地獄にお帰りでしたら、私もお香さんに用事があるのでご一緒しましょうか」
喉仏が上下する。こちらを見ているのだから、私に話しかけているのだろうけれど。
「はい?なんでしょう」
「あの、なまえさんが衆合地獄に帰るのであれば一緒に行きませんか、とおっしゃってます。お香さんにご用事だそうです」
桃太郎の通訳で頷いた。
「ああ!はい」
道すがらいくつか質問をしてくれたようだが、彼女ははぁ…、とかその…、というばかりでまともな回答はなかった。なまえという名ですら、桃太郎や猥褻男からきいただけの情報。
「参りましたね。会話が成り立ちません」
「ごめんなさい。私の耳、どこかおかしいみたいです」
「耳の遠いふりしてトボけるおばあちゃんですか。不便ですね」
話しかけるのも無駄だと思ったのか、それきり口をつぐんでしまった。
地獄のトップ(補佐)と肩を並べて歩くというのはほとんどハプニングだった。話題を振られても、どうしてか脳が働かないのでほとんど無視することになる。これは失態なのではなかろうか。脂汗が背中を伝う。
どうかお香おねえさまに責が及びませんように…!
淡い青の髪に蛇の帯締めを見つけて、天の助けと駆け寄る。
「お香おねえさま、鬼灯さまがおいでです」
おかえりなさい、と部下をねぎらいつつ一本角の鬼を見やる。
「アラー鬼灯様、いらっしゃい~」
「どうも」
「それからこちら、白澤様のお薬です」
「ありがとう、助かったわ」
美しく艶やかで自慢の上司の笑顔に、ぽっと頬を赤らめる。形式的に鬼灯へ頭を下げて別れを告げてから、建物の中へ消えた。
「衆合地獄へは視察ですかァ?」
「ええまぁ。なにか変わったことはありませんか」
「いまのところはなにも。いつも通りね」
口元に手を当てながらひそひそと話しかける。
「ところであの女性…なにか持病でもあったりしませんか?」
「なまえちゃんですかァ?いいえ、健康診断でも問題はなかったって話をこの前したばっかりです」
「そうですか…妙ですね」
「なにかありました?」
「私の言うことがわからないらしくて、道中全く会話ができませんでした」
「アラ。でも、勘の悪い子じゃありませんよォ」
「いえ、そうではなく…声がききとりにくいのか、反応がないのです」
「それは不思議ねェ………あ」
何かを思い出したかのように漏らした声に鬼灯が尋ねた。
「なんですか」
「これが原因かはわかりませんけど、なまえちゃんって声フェチなんですよねェ」
「声フェチ」
「えぇ。低い声が好きって言ってて、わりと閻魔様のお声も素敵って言ってたようなァ」
「あのオッサンの声を。それは奇特な」
「秦公王様も良いって」
「はぁ」
「鬼灯様のお声は色っぽくてらっしゃるから、なまえちゃんの好みだったんじゃないかしら?」
「私がですか」
「まァはっきりとは言えませんけどねェ」
「そうですか」
興味なさそうに、懐から懐中時計を取り出して開いた。もし精神的な病気持ちだったら病院を紹介しようと考えていたが憂慮だったらしい。
「もうこんな時間ですか。閻魔庁に戻らないと」
「お疲れさまです」
返事をして職場へ戻った。
**
寮からの出勤、いつもの道をあこがれのお香と並んで歩く。
「ゆくゆくはお香おねえさまのように、美しくカッコイイ官吏になりたいです」
「マァ嬉しい」
「貴女がお香さんのように出世したいのなら、私にも慣れてもらわないとこれから先、仕事になりませんよ」
「ひぃっ」
神出鬼没の鬼人に身を縮こませた。お香はアラと控えめに驚いてみせ、まなじりを下げた。
「まぁそうよねぇ。上に行くほど鬼灯様と関わりが増えるものォ」
裁判官たちとも顔なじみで、各補佐官たちとも連絡を密にとっている。もしなまえが上を目指すというのならこのままでは立ち行かない。
「ちょっと2、3日閻魔庁まで研修に来てもらいましょうか。よろしいですね、お香さん」
「えぇ、わかりました。…なまえちゃん、今日から行けそう?」
「え?どこに行くんですか?」
まったく先ほどの言葉を聞いていない様子をよそに、お香は鬼灯をちらりと見た。
「鬼灯様がなまえちゃんに閻魔庁に来てほしいんですって」
「閻魔庁へ?用事ありましたっけ?」
「私の補佐をしてもらいます」
「鬼灯様のお手伝いですって」
肩書もない一獄卒には、上からの辞令に回避する道はなかった。
**
閻魔大王にとってもなまえの来訪は突飛すぎたらしく戸惑った様子だった。積み上げられた書類の隙間から、何食わぬ顔をした補佐官を見下ろす。
「体験入庁…?」
「なまえと申します。本日よりお世話になります…」
「いや、ワシは構わないんだけど、急に連れてこられて大丈夫だった?衆合も大変じゃない?」
「お香さんからの許可は取ってます」
「鬼灯君がごめんね」
「とんでもございません。閻魔大王様のお側を許されるなど獄卒として光栄の極みでございます。ご指導のほどよろしくお願いいたします」
尊敬を心からの形で表されて、大王ははしゃいだ。
「わっすごい、こんな感じなかなかないよ。ね、鬼灯君。なまえちゃん良い子だねぇ」
「なまえさん、資料室まで今日の罪人分の資料を取ってきてもらえますか。大王、リスト持ってるでしょう。渡してあげてください」
常ならそれは第一補佐官の領分であるが、空のカートを引いてなまえの目の前に停める。
「さらっとワシのこと無視したね鬼灯君」
用事を頼まれた当人は指示を与えた鬼灯を見てはいるが、動こうとしない。
「あ、あの、なまえちゃん大丈夫?きいてた?」
「すみません、鬼灯さまはいまなんとおっしゃいましたか」
「資料室に罪人の資料を取りに行ってくれないかな?これが名前のリストだって」
机の上からとった紙には細かい文字が並ぶ。
「かしこまりました」
「場所わかる?」
「はい。お香さまと行ったことがありますからわかります」
「じゃあ、お願いね」
カラカラ、と車輪の音を鳴らして角を曲がる。
「鬼灯君、なまえちゃんに嫌われてるの?君が無視されて大人しくしてるのも珍しいね」
ちょっとでも態度の悪い獄卒や礼儀のなってない子供をみかけると問答無用でお仕置きをするのが彼だ。
「あれは無視しているのではありませんよ。私の声が聞き取りづらいとのことなので慣れてもらおうと思って今日は補佐を頼んだのです」
「えぇっそういう耳の病気かな?普通より聞こえる音域が狭いとか、そういうのあるよね」
「いえ、病気では…まぁ一種の病気のような気もしますね」
好みの声に陶酔してしまうというのは。
「でも、先に麻殻くん通さなくて良かったの?補佐官教育係通してからのが良くない?」
優秀な人材は目をつけてとりたてる。大王の補佐官経験もその一手。獄卒たちの出した結果には正当なる評価を下して昇格させることで全体の質も上がるからだ。そのために五官中の第二補佐官であり教育係の麻殻の手ほどきを受けてから補佐代理なりに着くのが通常である。
なまえに対しても働きを認めたいところだが、鬼灯の声が障害となっているのでは出世しづらいだろうと、対策を考えたのだ。
とりあえずは鬼灯と会話できることを目標として、彼の声を常にきける場所に置くことにした。
「お香さんの太鼓判つきですし、それもおいおい考えています。麻殻さんは今は予約が詰まっているので…って大王、仕事に集中してください。その束、裁判前に片付けてくださいって言ったでしょう」
鬼灯が束、と呼んだ書類たちはもはや山だった。
「ああそうだったごめんね、すぐ取り掛かるよ」
金棒を片手のひらにぽんぽんと何度も打ち付けるので、大王は焦って書類を検分し始めた。
巻物でいっぱいになったカートを押しながら戻ってきた。
「資料をお持ちしました」
「今日の裁判を執り行う順序です。この通りに並べてください」
一覧を渡されて、頷く。
「なまえちゃん、いまのわかった?」
「このリストの罪人の資料を持ってきた中からご用意すればよろしいのですね」
「うん、そうだけど、よくわかったねぇ」
お香さんからの勘が良い、との評価は正しいようだ。名前の前に番号が振ってあればなんとなくでも察しはつくだろう。急に連れ出して戸惑いもあるだろうに、微塵も感じさせない。余計な心配はしなくて良さそうだ。
まずは罪人の記録にざっと目を通し、肝になりそうな所を付箋をつけて抜粋した。裁判が行われる順番通りであることを再確認して、なまえは引き下がる。
「間違いがありましたらご指摘ください」
裁判が始まると、鬼灯が資料をもとに主な罪状やその元となる行動記録を読み上げ、大王が厳かに判決を下す。
「汝…
折々に鬼灯の声が聞こえるたびにぽやんと浮かれそうになる自分の脳を律する。仕事モード仕事モード、と言い聞かせて。
肌の上でシャボン玉が弾けていくような、くすぐったい気持ちになる。
低くて一定に流れるように響くそれは、体の内側に溶け込んでしまいそう。
鉄仮面に惑わされがちだが、感情を抑えているわけではない。とくにマイナスな感情は顕著だが、動物に接しているときなどは穏やかさが増す。
内容はともかく、ほんと良い声だわ。
大王の第一補佐官が取り仕切る裁判ともなれば罪を計るのも難しく内容は残虐非道のものが多い。それを読み上げるのだから、あまり長々と聞くに耐えるものではない。ただなまえには、表面しか聞こえないために夢見心地にさせる。
気を紛らわせるために次の罪人の資料を読み進めた。
大王は時計をちらちら見ながら腹をさすった。そろそろ昼休憩に入る。
「なまえちゃん、ご飯はどうするの?お弁当ないなら食堂で一緒に食べない?」
「喜んでご相伴させていただきます」
「もう、そんなかしこまらなくて良いんだよ」
「そうですよ大王なんてただのメタボジジイですから。ご覧なさいこの怠惰の集大成を」
ぽっこりとした腹に突き刺さるのは三白眼から放たれる目線だけでなく、手に持った金棒でぐりぐりといじられる。
「君から言われるのは違うよ…、自分で言うならまだしもさぁ」
それでもまだ怒らないのだから、なんとお優しい。
垂れ流しているTV番組を眺めながら、食後のお茶をすする。
「はい大王、これ飲んでおいてください」
ジョッキに注がれた鮮やかな赤色をした液体。あからさまに嫌そうな顔をして、鬼灯に尋ねる。
「…これ飲まなきゃダメ?」
「今日はとくに喉を酷使していたようなので。せっかく用意したんですから飲みなさいね。後から辛くなっても知りませんよ」
「うっ…優しいんだか優しくないんだかわからないなぁ」
長年連れ添った熟年夫婦のようなやりとりに笑いを噛み殺しつつ、グラスを指差す。
「閻魔大王様、こちらはなんですか?」
「金魚草ジュースだよ。喉の痛みに効くんだ。鬼灯君特製だから効能は確かなんだけど…どうも味がねぇ」
「金魚草なら、漢方の取り扱いでしたね。どんなお味でしょうか?」
「…なんなら飲んでみる?」
大王がジョッキグラスを突き出した。
「では失礼します」
その大きさゆえ両手で持ち上げて、傾けた。
「ほう」
「ためらわないの…なまえちゃんすごい」
口元を紙ナプキンで抑えつつ、感想を述べる。
「多少のえぐみはありますね。少々お待ちください」
席を立ってしまったので、大王は心配して鬼灯を非難する目を向けた。
「なまえちゃん金魚草ジュースで体調くずしてなきゃ良いけど…吐いたりしてないかな」
「たった一口で何言ってんですか。あんたあれ飲み干して具合悪くなったことあります?」
「ん?ん~いやないけどさ、地味にきついじゃん、あれ」
なまえが食堂の台所から姿を現した。抱えたグラスジョッキには、半分ほどがオレンジ色で満たされている。
「こちらを混ぜてみますね」
二つを混ぜても色にそこまでの変化はない。閻魔大王はグラスを受け取り、恐るおそる口をつけた。目を見開き、きらきらと輝かせながらなまえに笑いかける。
「これ飲みやすい!ぜんぜん違うよ〜ありがとうなまえちゃん!甘みもあるうえさっぱり美味しい」
「恐縮です。にんじんとりんごのスムージーを加えてみました」
「スムージーにするとは思いつきませんでした」
「今度からこれ作ってよ〜!なまえちゃんからレシピ教えてもらってさぁ」
チッと舌打ちをした顔には明らかに面倒くさい、と書いてあった。
午後からも引き続き同じことが繰り返され、
1日も後半になると、大王を通さずとも、鬼灯から直接指示を受けたりと意思疎通がとれるようになった。
大王から手渡しで裁判の終わった罪人の資料を回収する際に、背中を見せたときだった。
体に衝撃を受けた。気づいたらさっきまで判決を待っていた亡者が飛びかかり、後ろからなまえを拘束していた。理解するよりも早く引きずられてたたらを踏む。
「鬼がなんだ!俺は地獄になんか行かねぇぞ!こいつの命が惜しければ天国に行かせろー!」
「…は、」
大王と、この男を押さえつけていたはずの鬼卒二人が慌てている。鬼女を人質にとるなんて軽率な。
鬼たちが無駄だと説得して剥がそうとしてくれるが、必死に抵抗してしがみついてくる。
反抗すればなおさら罪が重くなると教えられているはずなのに。愚かな。
この場にいる女はたった一人、罪人の両側にはたくましい体の男鬼卒が控えていたし、大王は体格からしてまともに勝てるわけがなく、その前に高い机という障害物もある。鬼灯なんて顔からして怖い。残った線の細いなまえを侮って襲いかかってきたのだろう。
ああ、気持ち悪い。
男の腕と自身の体の隙間に手を滑らせて拳を作る。
「あ、鬼灯君…!」
顎を突き上げようとする寸前だった。
大王が叫んだ瞬間、黒点が飛んできて亡者の鼻先をつぶした。飾り房が耳をかすめる。威力を抑えきれずに、亡者ごとのめり込んだ床にヒビが入るのを見て男鬼が真っ青になっていた。
なまえも巻き添えになって計4人が倒れこむ。
「もう、危ないじゃない鬼灯君。ちょっとでもずれてたらなまえちゃんにも当たってたよ」
「獄卒の二人の力と拮抗して固定されていたので確実だと思ったときに狙ったまでです。当たるかどうか不安定なときには金棒投げてませんよ」
「まったく恐ろしい子だよ君は…」
自力で立ち上がると、気を失った亡者は担架で運ばれていくところだった。額から剥がれた、真っ白だった紙冠(しかん)が足元で血だまりに染まっている。それもモップを持ってきた鬼卒によってすぐさま片付けられた。
「…とはいえ、貴女に危害を及ぼしてしまったのはこの場を監督していた私の責任です。すみませんでした」
ごく軽くではあるが、こんなに簡単に頭を下げる男だとは思っていなかったので、困惑する。言葉それ自体は常に丁寧で落ち着いているのに、態度は不遜で目上でも敬うことはなく愛想などとは程遠い。その身には重責があり、そうそういとも容易に平獄卒への謝罪に使って良い頭ではないはずなのに。
「私も油断していたので…助けてくださりありがとうございました」
受けた一礼よりも深く頭を下げる。
亡者たちは裁判を終える頃にはすっかり丸くなり、大人しく罰を受けるものがほとんどなのに対して、裁判始まりや審議中の者たちは少なからずイキがって鬼に突っかかってきたり、己の罪を受け入れられず逃亡しようとする者がいることを忘れていた。
「君も肝が座ってるねぇ」
「いえ、刑罰処では亡者の拷問中に武器が飛んでくることもあります。今日は事務作業だと思って気を抜いてしまいました」
説明しつつ、床に転がる金棒を持ち上げようとして、逆にそれに引っ張られて尻餅をついた。
「えっ…?」
自分だって亡者の呵責をするときに武器を手にし、振り回すこともあり非力でないと自覚していたのに、鬼灯の金棒の重さときたらその比ではない。
「この金棒には触らないほうが良いですよ。曰く付きなので、それこそ怪我をしてしまいます」
ぴくりともしなかった金棒をひょいと肩に担ぎ上げ、なまえの腕を取って起こしてくれた。
そんな呪いつきの品を平然と持ち歩くこの鬼はいったいなんなのだろう。
「まだ裁判は続きます。終わるまで私の後ろにいるようにしてください」
背に庇われて、黒地に刺繍された橙色の鬼灯を眺めることになった。
姿勢良いなぁ。
この着流し?道着?はどこぞで注文したのかしら。
ご自分で刺繍なさってたりして…できそうではあるけれど。ちくちくと、ひと針ひと針、あの大きな手で、ねぇ。
器用で聡明で、女性からの人気もあって上司部下からの信頼は厚い。人望とはまた違うかもしれないけれど、頼り甲斐はある。反面他に厳しくすることに関しては地獄一。体罰も辞さない。でも、決して優しくないわけではない。この矛盾をどうやって解消しているやら。飴と鞭のさじ加減が異様に上手いのだ。
どこか世間からズレているものの、礼節を重んじて行儀作法は完璧。弱味を見せない男だ。
判決が出たら次の罪人の資料を渡して、終わったぶんをカートに納める。
この三日間、任されたことはほとんどは雑用だったけれど、上の業務を見学するだけでも学ぶことは多かった。
「お疲れ様でした」
「今回はお世話になりました」
「私の言うこともわかるようになったようでなによりです」
「…、その件はどうもお手数おかけしました…」
含みのある言い方をしても鬼灯はどこ吹く風だ。
「いや本当に助かりました。またお願いしても?」
「…私でお役に立てるのであれば」
社交辞令として受け取ってもらえれば良いのだが。
私はお香おねえさまの下で働いていたい。
「本音が顔に出てますよ」
「隠してませんので」
口元だけで笑ってみせる。
「やはりお香さんのところが良いですか」
「はい」
「それにしても貴女、どちらかというと記録課のほうが性格的に合ってると思いますよ。異動しませんか?」
「私はお香おねえさまに憧れて獄卒になったんです。向き不向きはあると知ってますけど、克服してみせます」
「まぁ無理強いはしませんが。お帰り気をつけて」
「はい、失礼します」
宣言して、退去を申し出た。止められなかった。
**
寮に戻り、女性獄卒の集まる部屋に風呂上がりに寄った。目的はお香おねえさま。今日の出来事を報告がてら愚痴ると、化粧を落としても美人の上司はこあの肩を持った。
「なまえちゃんは衆合でもやっていけるわよ。動物も平気だし、色恋には熱を上げないし。その気になれば本庁でも大丈夫。それにね、補佐官は主任になるころにはみんな経験しているし、なまえちゃんもきっと出世が早いわよ」
お香が近づくと、帯がわりの蛇の一匹がなまえに擦り寄る。すべすべした桃色の体表を撫でてやると、しゅるしゅる、と舌を伸ばした。かわいい。
たまにお香に代わって蛇の世話をしているのはなまえだ。お香のように溺愛するわけではないが、怖じけずに蛇たちに触ることができるのでその点でもお香はなまえのことを気に入っていた。
**
花街も備わっている衆合地獄で、惚れた腫れた振った振られたの醜悪なやりとりはしょっちゅう行われている。どうして人は簡単に恋をするのだろう。恋なんて響きは良いがいずれ裏切りで終わりを告げる。たいていはお金目的身体目的であって、愛憎渦巻く街は華やかだが魅力はないとさえ感じる。
いまとなっては経済が回るのは良いことだ、ぐらいにしか考えていない。入れ込まずにいるくらいがちょうどいいのだ。
地獄太夫も尊敬しているものの、あえて衆合に固執することはない。勤めも長くなり慣れもしたが、衆合が好きかと問われると口をつぐむことになる。
ここにいるのは、ひとえにお香を慕ってのこと。
もしどこか異動になってたとしてもやっていけるだろうけれど、そこにお香がいないことを考えると途端にやる気がしぼむのだ。
閻魔庁もとい鬼灯への突然の奉公も終了して数日、お香の隣でご機嫌にカリカリと書類整理をしていた。
「仕事は真面目にできるんですよね」
耳元で聞こえた声にボールペンを落とし、机に突っ伏す。顔だけ横に向けると、視界の端に無表情の鬼灯がいた。ほんとうに、いつどこで出会うかわからない相手だ。
「不意打ちはおやめください」
「いえね、つい。もう慣れたと思ったんですが」
しみじみと顎をさする素ぶりにため息をついた。
「人の記憶から忘れられるのはまず、声からだと言います。しばらくお会いしてませんでしたので…抗体がなくなったといいますか」
「ほほう」
「とにかく仕事に集中したいのですが、よろしいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ続けてください」
そう言いつつも真顔で見つめられると、手も進まない。遠回しに出ていってほしいと含ませたつもりなのに。
蛇に睨まれた蛙の図を見かけてしまったお香。
「あら鬼灯様、いくらかわいいからってあまりなまえちゃんをいじめないでくださいなァ」
垂れがちな目で微笑ましいとでもいうように割り入った。
「いじめるだなんてとんでもない。どういった業務をしているのか見させてもらっているだけですよ」
各部署の業務内容を把握するのも上の務めですから、と飄々と言ってのける。
あごと共に喉仏がよく動く。
これが蕩けそうな音声を作り出しているのかと思うと感慨深い。
まったく、声だけは良いのに。性格に一癖も二癖も難がある鬼人だ。
**
読んでくださりありがとうございます。