踊り子とジャーファルさま
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その日の仕事を終えて、なまえは微笑みながらジャーファルを「おかえりなさいませ」と迎え入れた。
「ただいま戻りました。ところでなまえについて、少し話をきいたのですが」
「はい? 私についてですか……?」
「男性から嫌がらせを受けているというのは本当ですか?」
目を見開いたかと思うと、ゆるゆると肩が下がっていった。
「……ほんとうです。どうやらそういう方面の利用でシンドリアへ連れて来られたと思われているようです。実際、一度は商売女でしたし」
そして上目遣いに続ける。
「あの、私、彼らのお相手をしたほうがいいですか? 旦那様がやれとおっしゃるのなら、その……」
「は?」
渾身の、腹から出た声だった。じわじわと呆れに近い怒りが込み上がっていく。
どうしてそんな発想が出てくる。
「たぶん……、彼らにとってストレス発散なんでしょう。旦那様のためになるのなら、応えるべきなのかと……」
「私のため? どこが?」
「旦那様は、お国を大事にされています。その人たちもかけがえのない国民の一人でしょう」
「だからってーーそいつらにストレスが溜まっていたとして、あなたにぶつける権利なんてない。しかも下劣なやり方で」
理解はしつつも、なまえは戸惑うような素振りを見せる。
「とにかく決して要求に応えてはいけません。少しでも期待を持たせればもっと危険なことになる」
これには小さな「はい」と返事があった。
常日頃から
『旦那様がおっしゃるのなら』
『旦那様のために』
という発言からして基本的になまえが行動するのは、ジャーファルのため、らしかった。ということは、ジャーファルが主人面をして手綱を握っていなければならないということ。
いや、自由に生きてほしいだけなのだが。
そしてまた彼女は無謀なことを口にした。
「あの、戦い方を教えてください」
「あなたに?」
思わず顔をしかめた。
「抵抗するために……せめて身を守る方法を学びたいのです」
敵わない相手に対抗するため力をつけたい、とはまっとうな思考回路ではある。
「武術を習うのがまったくの無駄、と言うつもりはありませんが、習っていてもいざという時に動けるかは別ですよ」
「それでも……」
食い下がるので、どうしたものかと悩んだ。
何も言わずに袖から手を出し、なまえの腕を掴んだ。大きな反応はない。完全にこちらに心を許している。
幼子みたいに無垢な表情がいっそ愛らしさを増す。両手首をまとめ上げる。縄鏢を使うまでもない、あまりにも頼りない腕なので片手で事足りた。
ドサッ、とあっけなく背中から倒れてなお、状況を把握できていないらしい。ベッドの上なので痛みはないはずだが。
「ほら、逃げてください」
発破をかけて彼女はようやくこれが「いざというとき」の予行演習なのだと気づいた。手を引き抜こうと力を入れるあまり拳を握ってしまっている。背中を反らしたり、肩から左右に揺らしたりしても、拘束が破れることはない。さして強く掴んでいるわけでもないのに、なまえの抵抗は一切通用しなかった。
「もっと全力を出さないとダメですよ」
「やって……ま、すっ!」
こんなに額に汗を浮かべて呼吸が荒くなる頃には、きっと犯行は終わっている。心も体も傷ついてしまう。
「こんなのじゃ興奮が足りませんか? お店でもっとすごい技術を仕込まれたのでは? 本気で抵抗しないと、人を襲うような変態ならあなたが喜んでいると捉えますよ」
カッと火種が燃え上がるようになまえの顔が染まった。これでいい、火事場の馬鹿力が出るのなら。怒りを引き出したつもりだったが、これは傷心……、だろうか。判別のつけづらい表情をしている。
にじんできたのは、涙か汗か。
体力が尽きたのか、動きが止まった。それで拘束を解いた。なまえの体全体を使った深呼吸が聞こえる。
降参、と捉えてよさそうだ。手を離しても横たわったまま。放心に近い。
なんと切り出したものか。
「ええとーーやる気があったところすみませんが、あなたは戦闘に向いてませんよ」
筋力や技術は修行をすればそれなりにカバーできる。
しかし、なまえの精神が根っから争うことに適性がない。
シンドバッド達と鍛えたジャーファルは一般人より腕力に秀でている自覚があるが、それにしてもなまえは弱い。弱すぎる。野うさぎの蹴りの方が強力なんじゃないか。
「筋肉をつけたとしても、気概がなければ護身術でも使えませんよ」
「気概……とは、覚悟のことですか?」
「いえ、覇気と言えばわかるでしょうか」
「では、どうすれば覇気は身につくのですか。倒してやる、って念じることですか?」
真の地獄を知らない彼女は甘い。
「そこは殺してやる、くらいでないと」
言葉にしただけなのになまえはびくりと体を震わせて、首を振りかけて止める。顔から血色が引いていく。
彼女はこれでいい。甘い反応に、イラつくでもなくほっとしていた。
暗殺から始まった人生を持つジャーファルからすれば習うまでもないことだけれど、その一線は通常越えられないもの。超えてはいけないとさえされる。
そして、なまえは踏み込まないままでいられればいい。そんな不幸な壁は普通の生活を送っていれば踏み越えないほうがよっぽど幸せなのだから。
なまえが体を鍛えたからといって、限界はとてもとても低い位置にある。人を害すること、これは物事を貫徹する意志があるとかないとかとはまったく別次元の問題だ。
ジャーファルの勝手だけれど、望めるのならなまえのやわらかな手が汚れぬままでいてほしい。
「侮辱されて平手打ちひとつもできないのであれば、難しいでしょう」
「……、……はい」
良くも悪くも、素直だ。ここで反骨精神を見せればまた違う道も開けたかもしれないが。なまえは、これでいい。
腕を引いて上半身を起こしてやると、勢いが良すぎたのかなまえが胸に飛び込んできた。
「ただいま戻りました。ところでなまえについて、少し話をきいたのですが」
「はい? 私についてですか……?」
「男性から嫌がらせを受けているというのは本当ですか?」
目を見開いたかと思うと、ゆるゆると肩が下がっていった。
「……ほんとうです。どうやらそういう方面の利用でシンドリアへ連れて来られたと思われているようです。実際、一度は商売女でしたし」
そして上目遣いに続ける。
「あの、私、彼らのお相手をしたほうがいいですか? 旦那様がやれとおっしゃるのなら、その……」
「は?」
渾身の、腹から出た声だった。じわじわと呆れに近い怒りが込み上がっていく。
どうしてそんな発想が出てくる。
「たぶん……、彼らにとってストレス発散なんでしょう。旦那様のためになるのなら、応えるべきなのかと……」
「私のため? どこが?」
「旦那様は、お国を大事にされています。その人たちもかけがえのない国民の一人でしょう」
「だからってーーそいつらにストレスが溜まっていたとして、あなたにぶつける権利なんてない。しかも下劣なやり方で」
理解はしつつも、なまえは戸惑うような素振りを見せる。
「とにかく決して要求に応えてはいけません。少しでも期待を持たせればもっと危険なことになる」
これには小さな「はい」と返事があった。
常日頃から
『旦那様がおっしゃるのなら』
『旦那様のために』
という発言からして基本的になまえが行動するのは、ジャーファルのため、らしかった。ということは、ジャーファルが主人面をして手綱を握っていなければならないということ。
いや、自由に生きてほしいだけなのだが。
そしてまた彼女は無謀なことを口にした。
「あの、戦い方を教えてください」
「あなたに?」
思わず顔をしかめた。
「抵抗するために……せめて身を守る方法を学びたいのです」
敵わない相手に対抗するため力をつけたい、とはまっとうな思考回路ではある。
「武術を習うのがまったくの無駄、と言うつもりはありませんが、習っていてもいざという時に動けるかは別ですよ」
「それでも……」
食い下がるので、どうしたものかと悩んだ。
何も言わずに袖から手を出し、なまえの腕を掴んだ。大きな反応はない。完全にこちらに心を許している。
幼子みたいに無垢な表情がいっそ愛らしさを増す。両手首をまとめ上げる。縄鏢を使うまでもない、あまりにも頼りない腕なので片手で事足りた。
ドサッ、とあっけなく背中から倒れてなお、状況を把握できていないらしい。ベッドの上なので痛みはないはずだが。
「ほら、逃げてください」
発破をかけて彼女はようやくこれが「いざというとき」の予行演習なのだと気づいた。手を引き抜こうと力を入れるあまり拳を握ってしまっている。背中を反らしたり、肩から左右に揺らしたりしても、拘束が破れることはない。さして強く掴んでいるわけでもないのに、なまえの抵抗は一切通用しなかった。
「もっと全力を出さないとダメですよ」
「やって……ま、すっ!」
こんなに額に汗を浮かべて呼吸が荒くなる頃には、きっと犯行は終わっている。心も体も傷ついてしまう。
「こんなのじゃ興奮が足りませんか? お店でもっとすごい技術を仕込まれたのでは? 本気で抵抗しないと、人を襲うような変態ならあなたが喜んでいると捉えますよ」
カッと火種が燃え上がるようになまえの顔が染まった。これでいい、火事場の馬鹿力が出るのなら。怒りを引き出したつもりだったが、これは傷心……、だろうか。判別のつけづらい表情をしている。
にじんできたのは、涙か汗か。
体力が尽きたのか、動きが止まった。それで拘束を解いた。なまえの体全体を使った深呼吸が聞こえる。
降参、と捉えてよさそうだ。手を離しても横たわったまま。放心に近い。
なんと切り出したものか。
「ええとーーやる気があったところすみませんが、あなたは戦闘に向いてませんよ」
筋力や技術は修行をすればそれなりにカバーできる。
しかし、なまえの精神が根っから争うことに適性がない。
シンドバッド達と鍛えたジャーファルは一般人より腕力に秀でている自覚があるが、それにしてもなまえは弱い。弱すぎる。野うさぎの蹴りの方が強力なんじゃないか。
「筋肉をつけたとしても、気概がなければ護身術でも使えませんよ」
「気概……とは、覚悟のことですか?」
「いえ、覇気と言えばわかるでしょうか」
「では、どうすれば覇気は身につくのですか。倒してやる、って念じることですか?」
真の地獄を知らない彼女は甘い。
「そこは殺してやる、くらいでないと」
言葉にしただけなのになまえはびくりと体を震わせて、首を振りかけて止める。顔から血色が引いていく。
彼女はこれでいい。甘い反応に、イラつくでもなくほっとしていた。
暗殺から始まった人生を持つジャーファルからすれば習うまでもないことだけれど、その一線は通常越えられないもの。超えてはいけないとさえされる。
そして、なまえは踏み込まないままでいられればいい。そんな不幸な壁は普通の生活を送っていれば踏み越えないほうがよっぽど幸せなのだから。
なまえが体を鍛えたからといって、限界はとてもとても低い位置にある。人を害すること、これは物事を貫徹する意志があるとかないとかとはまったく別次元の問題だ。
ジャーファルの勝手だけれど、望めるのならなまえのやわらかな手が汚れぬままでいてほしい。
「侮辱されて平手打ちひとつもできないのであれば、難しいでしょう」
「……、……はい」
良くも悪くも、素直だ。ここで反骨精神を見せればまた違う道も開けたかもしれないが。なまえは、これでいい。
腕を引いて上半身を起こしてやると、勢いが良すぎたのかなまえが胸に飛び込んできた。
