踊り子とジャーファルさま
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そして夜。
体は清めた。与えられた寝巻きの、帯を外して前を重ねただけにして片手で抑える。自分がしていることには自信がない。店で働く前に知識は少し入れられたが、実践などしたことがないのだから。
ジャーファルの寝室を訪ねて、そっとドアに手の平を貼りつけた。呼びかけて応えがなければ、すぐに引き返すつもりだった。
「旦那様、いらっしゃいますか?」
「……どうしました?」
応えられてしまった。
まだ、起きている。海を越える旅から帰ってきて、疲れて早くに休んでしまっているかと賭けたが、無駄だった。
中に入り込み、後ろ手で扉を閉める。
困惑したジャーファルは、ことさら優しく見えた。服は昼間に見たままだが、頭に被っていたクーフィーヤは外されている。
「お呼びではないのはわかっています。でも……」
両手を体の横に下ろせば、服の合わせは隙間を開けた。その下には下着も何もなく、冷たい空気が胸の谷間から腹を撫でる。腹とは逆に、背中が熱くなっていく。襟に指をかけて、肩から外す。
「ちょっーーなっ、にやってんだ!」
バッ、と勢いよくなまえの前合わせが交差した。肩を滑っても落ち切らなかった襟が二の腕に食い込む。勢いで風に舞った髪が目にかかってきた。
「ちゃんと服を着ろ」
これまでの彼の礼儀正しい態度からはかけ離れた乱暴な語気に呆気にとられる。情欲でどうこうできるとは思っていなかったけれども、むしろこの行動は態度を豹変させるほど不愉快だったか。
横を向いてごほん、と彼のわざとらしい咳で部屋の空気は一変した。
少なくとも、彼はなまえと交わる気はないことがわかった。妙な安堵感と、羞恥から焦りへと目まぐるしく感情が移り変わりーー最後に大きく膨らんだのは不安だ。襟を引き上げて、しっかり体を隠し横髪を耳にかける。
「旦那様、どうして……? やはり私をお気に召しませんか?」
聞くと、逸らされていた目が戻ってきた。
「だから、あなたはそういった役割から抜け出したと昼間にも言ったでしょう」
「でも……私……この部屋に置かれた意味をそれしか考えられなくて」
今度はジャーファルは押し黙ってしまった。沈黙が耳を刺す。己の脈拍だけがじくりじくりといやな音を立てる。彼こそがなまえが新天地へと抜け出してこれた理由であり、主人となりなまえを所有する者。彼に処遇の全ての決定権がある。放り出すにしろ、人生の指針をくれるにしろ。最初に、彼が損をしてでもなまえを救ってくれた人だ。信頼している。するしかない。
だからこの人に拒絶されるのはーー耐えられない。叫んで縋りつきたいのを腕に食い込む指で抑え込む。これ以上の醜態は、もう、抱えきれないほど深刻だ。
いいですか、と真剣な顔をされる。
「ここまでするならもう教えます。あなたの性格は見込みがありますが、あなたのことをまだ完全に信用したわけではありません。私のそばに置くのは、監視の意味合いがあるということです。体目当てではありません」
見張り。怪しい行動をとらないか。裏切らないか。信用にすら値していなかった。それに対してどこから見ても馬鹿らしく見当違いの行動を起こしたということを一気に理解して、頬どころか頭の芯まで熱くなる。
愚かなことをした。
「申し訳ございません……! 気持ち悪い勘違いをしていました」
震える声で謝罪を繰り返す。好きでもない女に迫られて恐怖したのは彼のほう。
「あの店に売られてから、いまのいままで私の価値はそれしかないと思い込んでいました……」
売れるのは、商品価値は女としての体だけ。あの店に居続けるのならそれもまた正しい認識だっただろうが、いまは違う場所にいる。一晩にも満たない時間で、なまえの倫理観と自分への評価は捻じ曲げられてしまった。
「あなた自身の価値を探るのはこれからです。それを心に留めてください。いまは一時的に自暴自棄になっているかもしれませんが、こんなこと他の誰にもしてはいけませんよ」
うなずくのがやっとで、声を出せば泣き出してしまいそうだった。あまりにも優しい諭しに、どこにもぶつけられない羞恥心に。
「明日は私の仕事にまつわる雑務をしてもらいます。疲れているでしょう、寝てください」
最後にもう一度謝罪をして、彼の寝室を出た。
体は清めた。与えられた寝巻きの、帯を外して前を重ねただけにして片手で抑える。自分がしていることには自信がない。店で働く前に知識は少し入れられたが、実践などしたことがないのだから。
ジャーファルの寝室を訪ねて、そっとドアに手の平を貼りつけた。呼びかけて応えがなければ、すぐに引き返すつもりだった。
「旦那様、いらっしゃいますか?」
「……どうしました?」
応えられてしまった。
まだ、起きている。海を越える旅から帰ってきて、疲れて早くに休んでしまっているかと賭けたが、無駄だった。
中に入り込み、後ろ手で扉を閉める。
困惑したジャーファルは、ことさら優しく見えた。服は昼間に見たままだが、頭に被っていたクーフィーヤは外されている。
「お呼びではないのはわかっています。でも……」
両手を体の横に下ろせば、服の合わせは隙間を開けた。その下には下着も何もなく、冷たい空気が胸の谷間から腹を撫でる。腹とは逆に、背中が熱くなっていく。襟に指をかけて、肩から外す。
「ちょっーーなっ、にやってんだ!」
バッ、と勢いよくなまえの前合わせが交差した。肩を滑っても落ち切らなかった襟が二の腕に食い込む。勢いで風に舞った髪が目にかかってきた。
「ちゃんと服を着ろ」
これまでの彼の礼儀正しい態度からはかけ離れた乱暴な語気に呆気にとられる。情欲でどうこうできるとは思っていなかったけれども、むしろこの行動は態度を豹変させるほど不愉快だったか。
横を向いてごほん、と彼のわざとらしい咳で部屋の空気は一変した。
少なくとも、彼はなまえと交わる気はないことがわかった。妙な安堵感と、羞恥から焦りへと目まぐるしく感情が移り変わりーー最後に大きく膨らんだのは不安だ。襟を引き上げて、しっかり体を隠し横髪を耳にかける。
「旦那様、どうして……? やはり私をお気に召しませんか?」
聞くと、逸らされていた目が戻ってきた。
「だから、あなたはそういった役割から抜け出したと昼間にも言ったでしょう」
「でも……私……この部屋に置かれた意味をそれしか考えられなくて」
今度はジャーファルは押し黙ってしまった。沈黙が耳を刺す。己の脈拍だけがじくりじくりといやな音を立てる。彼こそがなまえが新天地へと抜け出してこれた理由であり、主人となりなまえを所有する者。彼に処遇の全ての決定権がある。放り出すにしろ、人生の指針をくれるにしろ。最初に、彼が損をしてでもなまえを救ってくれた人だ。信頼している。するしかない。
だからこの人に拒絶されるのはーー耐えられない。叫んで縋りつきたいのを腕に食い込む指で抑え込む。これ以上の醜態は、もう、抱えきれないほど深刻だ。
いいですか、と真剣な顔をされる。
「ここまでするならもう教えます。あなたの性格は見込みがありますが、あなたのことをまだ完全に信用したわけではありません。私のそばに置くのは、監視の意味合いがあるということです。体目当てではありません」
見張り。怪しい行動をとらないか。裏切らないか。信用にすら値していなかった。それに対してどこから見ても馬鹿らしく見当違いの行動を起こしたということを一気に理解して、頬どころか頭の芯まで熱くなる。
愚かなことをした。
「申し訳ございません……! 気持ち悪い勘違いをしていました」
震える声で謝罪を繰り返す。好きでもない女に迫られて恐怖したのは彼のほう。
「あの店に売られてから、いまのいままで私の価値はそれしかないと思い込んでいました……」
売れるのは、商品価値は女としての体だけ。あの店に居続けるのならそれもまた正しい認識だっただろうが、いまは違う場所にいる。一晩にも満たない時間で、なまえの倫理観と自分への評価は捻じ曲げられてしまった。
「あなた自身の価値を探るのはこれからです。それを心に留めてください。いまは一時的に自暴自棄になっているかもしれませんが、こんなこと他の誰にもしてはいけませんよ」
うなずくのがやっとで、声を出せば泣き出してしまいそうだった。あまりにも優しい諭しに、どこにもぶつけられない羞恥心に。
「明日は私の仕事にまつわる雑務をしてもらいます。疲れているでしょう、寝てください」
最後にもう一度謝罪をして、彼の寝室を出た。
