踊り子とジャーファルさま
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一見のお客様、とはいっても自分だってお店に初めて立った立場。初日だというのに、上司から怒られることがわかっていて、その現場に向かうのは足が進まない。借金が残っているのだから、クビにはならないまでも待遇が悪くなっても愚痴さえ言えなくなるだろう。
店の奥の部屋が事務所となっていて、そこが目的地だった。
「あの、オーナー。お時間よろしいでしょうか?」
ノックをすると間もなく顔だけ出してきた、男。
「この店のオーナーですね。 お話をさせていただいても?」
「これはこれはお客様。うちの娘が何かありましたか?」
「詳しいことは中で」
席へ戻っていてくれとも言われないし、そもそもホールに戻りたくない。いつ部屋に呼び込まれるかもしれないと思ったので扉の前で緊張の時を過ごした。
ホールからの音楽もあり、事務所から会話は聞こえない。店の表は盛り上がっている。
次に扉が開いたとき、お客様は平然と出てきた。特に怒ったりもなく。その向こうでオーナーは疲れた顔をしていた。
「感謝するんだよ。その方が借金を肩代わりしてくださった」
「………………え、」
なんで、どうして。という疑問しか思い浮かばなかった。オーナーとお客を交互に見ても、どちらもドッキリだとか嘘だとか言い出さない。
「早く着替えて、店から出ていきなさい」
閉められた扉を見つめ、さらに考え込む。
「……クビ?」
呆然と悲しい単語しか出てこなかった。立ち尽くしていると、
「違いますよ」
やわらかく否定してくれた。
でも、店で働かなくともよくなったからといって、借金の債権者が変わっただけ。借金は消えていない。次の支払い先は、この人となった。ーーのだと思う。まだ、現状に追いついていない。
「あの、旦那様……と呼べばいいんですか?」
「借金もなくなりましたし、これからあなたは自由です。家族のもとへ帰っては?」
「肩代わり……してくださったんですよね。なら、私は旦那様のために働かなくてはなりません」
「そんなつもりで……いえ、まずはこの店で働かないことになったことをご家族へ報告をしに戻ってください。そのくらいの猶予はさしあげます」
「ほんとうに、いいんですか?」
「はい」
それはもうあっけないほどに、すんなりと肯定される。実感もなにもないけれど、夜のあやしいサービスを提供しなくて済んだのだ。嬉しさが込み上げる。
「ありがとうございます! 家族に会って、すぐ戻ります!」
「いえ、ここに戻られてもその頃にはいませんので」
「では、どこに行けばいいんでしょう?」
「仮の住まいはありますが、お迎えに上がりますよ」
「そうですか? あの、私の家があるのは……」
住所を教えようとして、止められた。
「オーナーに聞きますから結構です。早くお行きなさい」
こんな場所にいたくない、と彼も数秒でも惜しかった。そうだ、彼の目的はシンと呼んでいた人を連れ帰ることなのだから、ほかに割く時間などなかったはずだ。
お礼を言って、頭を深く下げて、もう一度お礼を言ってーーその場を後にする。
ほんとうに、借金は支払われたのだろうか。走りながら考える。ほとんど投げ出されたようなもので、まだ頭は混乱している。嘘だったのなら、店のオーナーが追いかけて連れ戻されるだろう。だから違う。裏がないとすれば、親切なあの人ーージャーなんとか。緊張のあまり名前さえちゃんと覚えていない。しかもこちらも自己紹介していないではないか。
「……とんでもない、失礼を」
お礼を言うだけはできたけれども、名前をきいておくんだった。戻ろうかとも振り返ったけれど、彼らはすでに店を去ってしまっているかもしれない。
いろいろ言い訳を考えつつ、結局はとにかく早く実家に帰りたかった。家族に会いたかった。
大丈夫、私は嫌な思いなんてしていない、と伝えたい。
走って走って、この家付近の景色をもう何年も見ていないような気分になっていた。涙さえ出そう。
そして目的地に到着して。
がくり、と膝をついた。
新しく掘り起こされた土は均されて草もまだ生えていない。
ここに、確かに家があった。狭くて古かったけれど、家族で固まって眠っていた、体に刻まれた記憶とともにあった家が。なかった。
他人の借金を帳消しにするために多額を支払うなんて、夢物語が通用するはずない。だから遅くなれば家まで迎えに来るだろうと思った。住所を直接伝えてはいないが、オーナーに聞いておくと彼が言った以上、てっきり迎えにくるのだと思い込んでいた。もし、違ったら?
ただの金持ちの気まぐれで助けられて、捨て置かれてる?
借金はなくなったが、手元には一食を買うお金もない。となれば盗むでなければやはり借金をすることになる。ツテもなく、今度は本番で体を売ることになるだろう。
結局、落ちる先は一緒か。
もうこうなったら働く期間を決めて。目標額を決めて。
貯まったら、港に行こう。
ここに留まってはいけないから。旅立とう。違う国へ、やり直しに。
そう思い立って、気力を振り絞って立ち上がる。膝の砂を払い、最後にかつて家があった場所を見つめる。
そこは空っぽで、生活のあともなにもなかった。家族は逃げ出していた。彼らが新しい人生を踏み出したのだと思えば喜ばしいはずだが、やはり寂しいとも感じている。なまえに一言も、伝言もなかった。
店の奥の部屋が事務所となっていて、そこが目的地だった。
「あの、オーナー。お時間よろしいでしょうか?」
ノックをすると間もなく顔だけ出してきた、男。
「この店のオーナーですね。 お話をさせていただいても?」
「これはこれはお客様。うちの娘が何かありましたか?」
「詳しいことは中で」
席へ戻っていてくれとも言われないし、そもそもホールに戻りたくない。いつ部屋に呼び込まれるかもしれないと思ったので扉の前で緊張の時を過ごした。
ホールからの音楽もあり、事務所から会話は聞こえない。店の表は盛り上がっている。
次に扉が開いたとき、お客様は平然と出てきた。特に怒ったりもなく。その向こうでオーナーは疲れた顔をしていた。
「感謝するんだよ。その方が借金を肩代わりしてくださった」
「………………え、」
なんで、どうして。という疑問しか思い浮かばなかった。オーナーとお客を交互に見ても、どちらもドッキリだとか嘘だとか言い出さない。
「早く着替えて、店から出ていきなさい」
閉められた扉を見つめ、さらに考え込む。
「……クビ?」
呆然と悲しい単語しか出てこなかった。立ち尽くしていると、
「違いますよ」
やわらかく否定してくれた。
でも、店で働かなくともよくなったからといって、借金の債権者が変わっただけ。借金は消えていない。次の支払い先は、この人となった。ーーのだと思う。まだ、現状に追いついていない。
「あの、旦那様……と呼べばいいんですか?」
「借金もなくなりましたし、これからあなたは自由です。家族のもとへ帰っては?」
「肩代わり……してくださったんですよね。なら、私は旦那様のために働かなくてはなりません」
「そんなつもりで……いえ、まずはこの店で働かないことになったことをご家族へ報告をしに戻ってください。そのくらいの猶予はさしあげます」
「ほんとうに、いいんですか?」
「はい」
それはもうあっけないほどに、すんなりと肯定される。実感もなにもないけれど、夜のあやしいサービスを提供しなくて済んだのだ。嬉しさが込み上げる。
「ありがとうございます! 家族に会って、すぐ戻ります!」
「いえ、ここに戻られてもその頃にはいませんので」
「では、どこに行けばいいんでしょう?」
「仮の住まいはありますが、お迎えに上がりますよ」
「そうですか? あの、私の家があるのは……」
住所を教えようとして、止められた。
「オーナーに聞きますから結構です。早くお行きなさい」
こんな場所にいたくない、と彼も数秒でも惜しかった。そうだ、彼の目的はシンと呼んでいた人を連れ帰ることなのだから、ほかに割く時間などなかったはずだ。
お礼を言って、頭を深く下げて、もう一度お礼を言ってーーその場を後にする。
ほんとうに、借金は支払われたのだろうか。走りながら考える。ほとんど投げ出されたようなもので、まだ頭は混乱している。嘘だったのなら、店のオーナーが追いかけて連れ戻されるだろう。だから違う。裏がないとすれば、親切なあの人ーージャーなんとか。緊張のあまり名前さえちゃんと覚えていない。しかもこちらも自己紹介していないではないか。
「……とんでもない、失礼を」
お礼を言うだけはできたけれども、名前をきいておくんだった。戻ろうかとも振り返ったけれど、彼らはすでに店を去ってしまっているかもしれない。
いろいろ言い訳を考えつつ、結局はとにかく早く実家に帰りたかった。家族に会いたかった。
大丈夫、私は嫌な思いなんてしていない、と伝えたい。
走って走って、この家付近の景色をもう何年も見ていないような気分になっていた。涙さえ出そう。
そして目的地に到着して。
がくり、と膝をついた。
新しく掘り起こされた土は均されて草もまだ生えていない。
ここに、確かに家があった。狭くて古かったけれど、家族で固まって眠っていた、体に刻まれた記憶とともにあった家が。なかった。
他人の借金を帳消しにするために多額を支払うなんて、夢物語が通用するはずない。だから遅くなれば家まで迎えに来るだろうと思った。住所を直接伝えてはいないが、オーナーに聞いておくと彼が言った以上、てっきり迎えにくるのだと思い込んでいた。もし、違ったら?
ただの金持ちの気まぐれで助けられて、捨て置かれてる?
借金はなくなったが、手元には一食を買うお金もない。となれば盗むでなければやはり借金をすることになる。ツテもなく、今度は本番で体を売ることになるだろう。
結局、落ちる先は一緒か。
もうこうなったら働く期間を決めて。目標額を決めて。
貯まったら、港に行こう。
ここに留まってはいけないから。旅立とう。違う国へ、やり直しに。
そう思い立って、気力を振り絞って立ち上がる。膝の砂を払い、最後にかつて家があった場所を見つめる。
そこは空っぽで、生活のあともなにもなかった。家族は逃げ出していた。彼らが新しい人生を踏み出したのだと思えば喜ばしいはずだが、やはり寂しいとも感じている。なまえに一言も、伝言もなかった。
