淡雪は海に溶けた
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
**
頭の中で光が閃いた。叩かれたかのように背筋を伸ばす。
ジャーファルが、行ってしまう。止めなきゃ。
俯いて地面を見つめる背中が、恋しい。
私は何度もこの背中を見つめた。あの色味のない世界で。
いつもいつもあなたが会いにきてくれた。ひとりだけで山を登って、緑から白の世界へ踏み込んできてくれた。笑顔で私の名を呼んで、歩み寄ってくるたびに胸をときめかせた。だがそれ以上に、短い逢瀬を惜しみながらゆっくりと遠ざかっていく背中を見るのも、大好きだった。また来ると、約束を毎回してくれたから。
でも、この背中は違う。これっきりで最後になると暗示していた。
「行かないでください、ジャーファル」
ぴくりと反応して、少しだけ体を斜めにこちらに向けた。沈んだ顔はそのままに。
いままで彼女がジャーファルを呼び捨てにすることはなかった。立場を理解しているため、どんなときでも話すときには敬称を必ずつけた。
「私、あなたに会うために海に還ったんです。あなたを抱きしめたかったから。人間じゃないと、あなたを傷つけてしまうし、形を保てません。ジャーファルに会うために私は一度存在を失くました」
おかしい。練習した台詞のように迷いがなく、なめらかな発音だった。さきほどとは別人だ。
「一体どういうことですか……私が動揺させたようです。変なことを口走ってしまいました。どうか落ち着いてください」
ジャーファルの言動がなまえをひどく困惑させたのだと思い込んで、気の毒そうにしている彼のほうこそが情けなく可哀想だった。
「混乱も動揺も錯乱もしていません。ジャーファル、私の雪に負けなかった、つよいひと」
なまえの言葉に目を見開く。
この娘に錯乱などという単語を教えたのは誰だ。そんな難しい語句を知る機会があったか。
いやそれよりも、その後に続いたのは……。
まん丸の目を寂し気に見つめ返して、なまえは微笑む。
「俺は、雪のことは一切言ってないだろ……」
ジャーファルの体を寒気が包む。この、常夏のシンドリアでありえない。懐かしくも、その感覚がいまは恐ろしく思えた。
「私は溶けて地面に吸い込まれた後、自然の循環の流れに乗って海にたどり着きました。体が再構成されて、気がついたらシンドリアで引き揚げられてみなさんのお世話になりました」
暗いくらい土の中で、冷たいとはこういうことを言うのだと改めて理解した。地下水からくみ上げられて小川を流れれば周囲はまばゆく輝いて、くるくる踊っているような気持ちになった。
これから大切な人に会いにいく。
そのうち大きな塩気の水と混ざり合い、魚の間をすり抜ける。ばらばらだった体のかけらがだんだんと集まって繋がって、形づくられていく。心臓ができて脈打った。腕が伸びて指先が水をかきわける。
ああ、この腕があればあの人も包み込める。
この指でちゃんと触れたい。
もう握りしめても溶けたりしない。
体にまとう布が海中で浮いている。長い袖を引き寄せた向こう側で細長い体をくねらせて怪物が泳いできた。食われることは避けたが触覚に絡めとられてしまう。激しい波の衝撃に気を失ってそのまま力が抜けた。
「すき、ジャーファル。好きなんです……」
いまだにためらい、手を伸ばしかけたまま触れられずにいる。
「嫌いなら冷たくしてください。私はどこかへ消えます」
その宣言はかつてと同じようでまったく違う。 今度は彼女は自分の意思で歩ける足が残されている。行こうと思えば走ってもう二度と会えない場所へ行ってしまう。だが逃走は無駄な行動だ。ジャーファルに嫌われたのなら、生きている意味を失う。
ごつごつとした手が細い手首を握る。
「どこへ行くんですか」
「どこでもあなたがいない遠いところ。ジャーファルがいないなら、どこも同じです」
「……なまえ、なんですね。あなたがほんとうにあのなまえで間違いないと」
「私はジャーファルを抱きしめたくて人間になったんですよ」
胸が痛くて苦しくて自分の足で立っていられない、と向こう側へ腕を伸ばしてしがみついた。
いままで知ることもなかった深い温もりがなまえを覆った。
「私も、好きですよ、なまえ」
抱きしめて、抱きしめられてやっとお互いを確かめられた。
**
終わり。
読んでくださりありがとうございます。
以降、ちょっとしたおまけです。
**
ジャーファルに押し切られて一日休暇をもらい、部屋でごろごろ過ごした。まだ痣は残るが、体は元気だ。
翌日、朝のうちに早めに教室へ向かう。
「なまえさん。おとといは大変でしたね。私が掃除を頼んだばっかりに……」
後から教室に入ってきた先生に、詳細は省いたが結果的に少しだけ記憶が戻ったと告げた。
「医者からも些細な事で記憶は戻るだろうと聞いてましたから、いつかは、とは思ってました。
では私は……お役御免、ですか」
突然の解雇通知に先生は魂が抜けたようだった。
「言葉を思いだしたので、話すことだけはなんとか。これも先生のおかげです、ありがとうございます」
「なにはともあれ、良かったですね」
そうとっさに返せるところから、人柄の良さがうかがえる。
「でも、まだ読み書きは不安ですし、シンドリアについてはもっと勉強したいので、お仕事のお手伝いがてら勉強させていただけませんか?邪魔はいたしません。いえ、邪魔してしまうでしょうけれど、なるべくお役に立ちます」
「あぁ……ほんとになめらかに話せるようになりましたね。助手は欲しかったので、願ってもない申し出です」
「改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「しばらくは、いつも通り授業を受けさせてください」
「そうですね。それでは始めましょう」
席につき、羽ペンを手にした。
**
食堂を目指しているといつもの3人組に鉢合わせた。ちょうどお昼時だ。
「アラジン、こんにちは。アリババ、モルジアナも、お昼まだだったら一緒に食べよう?」
「なまえおねいさん」
「おう」
「はい」
広い廊下を横並びになって、食堂へ向かう。
「なんだか元気だね」
「ひとつすっきりしたことがあったの」
「そうなんだね。それに、おねいさんのルフの形……」
幼い魔法使いは明らかな変化を見逃さなかった。透明にきらめく蝶は形を潜めて、白い鳥が周囲を旋回する。なにがきっかけかはわからないけれど、この世界に溶け込むことができたんだと思う。そしてそれはおねいさんにとって喜ばしいことなんだ。
「え?」
「ううん。なんでもない。お腹空いたねぇ」
食事中もとめどなく話は続く。
前なら返事を考え込む間だったり、つっかかったりした単語も、言い直した発音もあったのに今日はそれがない。
とても自然に会話が流れていく。
「おい……なんか急にめちゃくちゃ流暢になってねぇか?」
「そうですね。上手になってます」
「ジャーファル……さまとたくさんお話したからかな」
名前と敬称に生まれた奇妙な間。それを3人は深く考えることはしなかった。
**
授業を終えた夕方、なまえはとある人を探していた。
しばらく顔を見ていない。着替えから食事の仕方までつきっきりで教えてくれた女性。
一通り覚え、一人でも塔内を歩けるようになってからは、会うことがほぼなくなった。宮殿内にいるのだから、すれ違うこともある。そこを捕まえた。
「あ、あの……」
声をかけると、立ち止まって挨拶してくれた。
「こんにちは。お久しぶりですね」
「こんにちは。私、ずっとお礼を言いたくて探しました。シンドリアに来てから生活のことも、なんでも教えてくださって、たくさんお世話をしてくださって、ありがとうございました」
「どういたしまして。いまは困っていることはありませんか?」
「いいえ、ちっとも」
「それなら私も報われます」
「前からお名前きかなきゃって思ってたんです。お友達になってもらえませんか」
ふっと顔をほころばせて、名乗りつつなまえの手のひらに名前の綴りを書いてみせてくれた。
「そうだ―、私もききたいことがあったんです」
「私にですか?」
「はい。文官長殿とは、結ばれましたか」
「ジャーファルですか?」
言って、とっさに口を抑えた。すっかりさま付けが抜け落ちてしまった。
「ああ、もうそんな仲でしたか」
とくに不思議がることもせず、女性は頷いた。
「いまのはきかなかったことに……」
「いいですけど。女の勘……を使わずとも、なまえさんは黒秤塔に文官長殿がいらっしゃる度に、嬉しそうにしてましたから。まぁ、わかりますよね。文官長殿も、まんざらではなかったのでは?」
「みんな知ってます……?」
「どうでしょう。私は他に話してませんが。言いふらされるのは気分が良くないでしょう。でも、見守っていた側としては当事者から事実をききたいほうなので、教えてもらえると個人的にうれしいです。あ、私いま仕事の途中なんでした。改めてお茶でもしましょうね。また声をかけます」
「はい、ぜひ。すみません忙しいのに」
笑って首を振った。
**
ほんとに終わります。
お付き合いありがとうございました。
頭の中で光が閃いた。叩かれたかのように背筋を伸ばす。
ジャーファルが、行ってしまう。止めなきゃ。
俯いて地面を見つめる背中が、恋しい。
私は何度もこの背中を見つめた。あの色味のない世界で。
いつもいつもあなたが会いにきてくれた。ひとりだけで山を登って、緑から白の世界へ踏み込んできてくれた。笑顔で私の名を呼んで、歩み寄ってくるたびに胸をときめかせた。だがそれ以上に、短い逢瀬を惜しみながらゆっくりと遠ざかっていく背中を見るのも、大好きだった。また来ると、約束を毎回してくれたから。
でも、この背中は違う。これっきりで最後になると暗示していた。
「行かないでください、ジャーファル」
ぴくりと反応して、少しだけ体を斜めにこちらに向けた。沈んだ顔はそのままに。
いままで彼女がジャーファルを呼び捨てにすることはなかった。立場を理解しているため、どんなときでも話すときには敬称を必ずつけた。
「私、あなたに会うために海に還ったんです。あなたを抱きしめたかったから。人間じゃないと、あなたを傷つけてしまうし、形を保てません。ジャーファルに会うために私は一度存在を失くました」
おかしい。練習した台詞のように迷いがなく、なめらかな発音だった。さきほどとは別人だ。
「一体どういうことですか……私が動揺させたようです。変なことを口走ってしまいました。どうか落ち着いてください」
ジャーファルの言動がなまえをひどく困惑させたのだと思い込んで、気の毒そうにしている彼のほうこそが情けなく可哀想だった。
「混乱も動揺も錯乱もしていません。ジャーファル、私の雪に負けなかった、つよいひと」
なまえの言葉に目を見開く。
この娘に錯乱などという単語を教えたのは誰だ。そんな難しい語句を知る機会があったか。
いやそれよりも、その後に続いたのは……。
まん丸の目を寂し気に見つめ返して、なまえは微笑む。
「俺は、雪のことは一切言ってないだろ……」
ジャーファルの体を寒気が包む。この、常夏のシンドリアでありえない。懐かしくも、その感覚がいまは恐ろしく思えた。
「私は溶けて地面に吸い込まれた後、自然の循環の流れに乗って海にたどり着きました。体が再構成されて、気がついたらシンドリアで引き揚げられてみなさんのお世話になりました」
暗いくらい土の中で、冷たいとはこういうことを言うのだと改めて理解した。地下水からくみ上げられて小川を流れれば周囲はまばゆく輝いて、くるくる踊っているような気持ちになった。
これから大切な人に会いにいく。
そのうち大きな塩気の水と混ざり合い、魚の間をすり抜ける。ばらばらだった体のかけらがだんだんと集まって繋がって、形づくられていく。心臓ができて脈打った。腕が伸びて指先が水をかきわける。
ああ、この腕があればあの人も包み込める。
この指でちゃんと触れたい。
もう握りしめても溶けたりしない。
体にまとう布が海中で浮いている。長い袖を引き寄せた向こう側で細長い体をくねらせて怪物が泳いできた。食われることは避けたが触覚に絡めとられてしまう。激しい波の衝撃に気を失ってそのまま力が抜けた。
「すき、ジャーファル。好きなんです……」
いまだにためらい、手を伸ばしかけたまま触れられずにいる。
「嫌いなら冷たくしてください。私はどこかへ消えます」
その宣言はかつてと同じようでまったく違う。 今度は彼女は自分の意思で歩ける足が残されている。行こうと思えば走ってもう二度と会えない場所へ行ってしまう。だが逃走は無駄な行動だ。ジャーファルに嫌われたのなら、生きている意味を失う。
ごつごつとした手が細い手首を握る。
「どこへ行くんですか」
「どこでもあなたがいない遠いところ。ジャーファルがいないなら、どこも同じです」
「……なまえ、なんですね。あなたがほんとうにあのなまえで間違いないと」
「私はジャーファルを抱きしめたくて人間になったんですよ」
胸が痛くて苦しくて自分の足で立っていられない、と向こう側へ腕を伸ばしてしがみついた。
いままで知ることもなかった深い温もりがなまえを覆った。
「私も、好きですよ、なまえ」
抱きしめて、抱きしめられてやっとお互いを確かめられた。
**
終わり。
読んでくださりありがとうございます。
以降、ちょっとしたおまけです。
**
ジャーファルに押し切られて一日休暇をもらい、部屋でごろごろ過ごした。まだ痣は残るが、体は元気だ。
翌日、朝のうちに早めに教室へ向かう。
「なまえさん。おとといは大変でしたね。私が掃除を頼んだばっかりに……」
後から教室に入ってきた先生に、詳細は省いたが結果的に少しだけ記憶が戻ったと告げた。
「医者からも些細な事で記憶は戻るだろうと聞いてましたから、いつかは、とは思ってました。
では私は……お役御免、ですか」
突然の解雇通知に先生は魂が抜けたようだった。
「言葉を思いだしたので、話すことだけはなんとか。これも先生のおかげです、ありがとうございます」
「なにはともあれ、良かったですね」
そうとっさに返せるところから、人柄の良さがうかがえる。
「でも、まだ読み書きは不安ですし、シンドリアについてはもっと勉強したいので、お仕事のお手伝いがてら勉強させていただけませんか?邪魔はいたしません。いえ、邪魔してしまうでしょうけれど、なるべくお役に立ちます」
「あぁ……ほんとになめらかに話せるようになりましたね。助手は欲しかったので、願ってもない申し出です」
「改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
「しばらくは、いつも通り授業を受けさせてください」
「そうですね。それでは始めましょう」
席につき、羽ペンを手にした。
**
食堂を目指しているといつもの3人組に鉢合わせた。ちょうどお昼時だ。
「アラジン、こんにちは。アリババ、モルジアナも、お昼まだだったら一緒に食べよう?」
「なまえおねいさん」
「おう」
「はい」
広い廊下を横並びになって、食堂へ向かう。
「なんだか元気だね」
「ひとつすっきりしたことがあったの」
「そうなんだね。それに、おねいさんのルフの形……」
幼い魔法使いは明らかな変化を見逃さなかった。透明にきらめく蝶は形を潜めて、白い鳥が周囲を旋回する。なにがきっかけかはわからないけれど、この世界に溶け込むことができたんだと思う。そしてそれはおねいさんにとって喜ばしいことなんだ。
「え?」
「ううん。なんでもない。お腹空いたねぇ」
食事中もとめどなく話は続く。
前なら返事を考え込む間だったり、つっかかったりした単語も、言い直した発音もあったのに今日はそれがない。
とても自然に会話が流れていく。
「おい……なんか急にめちゃくちゃ流暢になってねぇか?」
「そうですね。上手になってます」
「ジャーファル……さまとたくさんお話したからかな」
名前と敬称に生まれた奇妙な間。それを3人は深く考えることはしなかった。
**
授業を終えた夕方、なまえはとある人を探していた。
しばらく顔を見ていない。着替えから食事の仕方までつきっきりで教えてくれた女性。
一通り覚え、一人でも塔内を歩けるようになってからは、会うことがほぼなくなった。宮殿内にいるのだから、すれ違うこともある。そこを捕まえた。
「あ、あの……」
声をかけると、立ち止まって挨拶してくれた。
「こんにちは。お久しぶりですね」
「こんにちは。私、ずっとお礼を言いたくて探しました。シンドリアに来てから生活のことも、なんでも教えてくださって、たくさんお世話をしてくださって、ありがとうございました」
「どういたしまして。いまは困っていることはありませんか?」
「いいえ、ちっとも」
「それなら私も報われます」
「前からお名前きかなきゃって思ってたんです。お友達になってもらえませんか」
ふっと顔をほころばせて、名乗りつつなまえの手のひらに名前の綴りを書いてみせてくれた。
「そうだ―、私もききたいことがあったんです」
「私にですか?」
「はい。文官長殿とは、結ばれましたか」
「ジャーファルですか?」
言って、とっさに口を抑えた。すっかりさま付けが抜け落ちてしまった。
「ああ、もうそんな仲でしたか」
とくに不思議がることもせず、女性は頷いた。
「いまのはきかなかったことに……」
「いいですけど。女の勘……を使わずとも、なまえさんは黒秤塔に文官長殿がいらっしゃる度に、嬉しそうにしてましたから。まぁ、わかりますよね。文官長殿も、まんざらではなかったのでは?」
「みんな知ってます……?」
「どうでしょう。私は他に話してませんが。言いふらされるのは気分が良くないでしょう。でも、見守っていた側としては当事者から事実をききたいほうなので、教えてもらえると個人的にうれしいです。あ、私いま仕事の途中なんでした。改めてお茶でもしましょうね。また声をかけます」
「はい、ぜひ。すみません忙しいのに」
笑って首を振った。
**
ほんとに終わります。
お付き合いありがとうございました。
11/11ページ