淡雪は海に溶けた
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ほこりが口に入らぬように袖で抑えながら、出口へ向かう。扉を開くとそこにはなまえが立ちすくんでおり、気が抜けた。
「部屋に戻りなさいと言ったでしょう」
「実は……私、こちらの鍵持ったままです。鍵を開けたままではいけませんよね?」
「あぁそうでしたか。それなら私が預かっておきます」
きちんと扉が閉まったことを確認した。手のひらを上に差し出すと、両手で壊れ物を扱うように置いてくる。ジャーファルの顔を見て表情を曇らせた。
<大丈夫ですか?なんだか青ざめてますよ>
「いえ……」
<ジャーファルさまこそお休みになってください!>
「平気です」
<そんな顔色のかたをほうっておけません!鍵は私が返してきますから結構です。少し失礼します>
油断した手からさっと鍵を奪い返して、ジャーファルの腕をとる。失礼をことわったのは彼の体に触れるからか。
「なまえ、鍵を返しなさい」
<嫌です!>
ぐいぐいと前に進むように引っ張るが、ジャーファルは頑として動かない。もう、となまえが息巻いて離れて行ってしまう。直線を描くように走っていってしまい、階段を下りていってしまった。と思ったらおろおろと周囲を見渡しながら、すっかり混乱した様子でジャーファルのもとへかえってきてしまった。
「迷子になりました……」
さきの授業で習ったこの一言が、役に立ったのははじめてのこと。街ならまだしもよもや宮中で使うことになろうとは、予想だにしていなかった。 どうやら勇んでジャーファルから鍵を取り返したはいいが、立ち入ったことのない塔の中で方向を見失ってしまったらしい。確かにここは侵入者を防ぐためにわざとここまでたどり着く道を複雑にして、階段を余計に多く設置し、どの部屋もそっくり同じようにつくり、各部屋に表札も出していない。おおかたいくつか階段を使ったところで細工にひっかかりこの階に戻ってきてしまったのだろう。
来るときは案内つきだったのだろうが、一人で帰ることはできずじまい。
「ここ、おかしいです!階段下りたのに上りました」
ジャーファルは目を点にして、肩を震わせたかと思えば声を出して笑いだした。
<妥協案は、二人で鍵を返しにいって、そのあとそれぞれの部屋で休息をとることです>
「いいでしょう」
笑い含みに了承しながら、ジャーファルはその場を動いた。なまえも寄り添って、隣の先ほどよりかはなんとなくよくなった顔色を確かめる。笑われたのは恥ずかしいが、沈んだ表情がなくなってほっとした。
「ときどき、私はいったいどうしてシンドリアにきたんだろう、って思います」
「それは、海難事故で……」
「確かに事故なんですけど、その前のことはあんまり覚えていないし、何をしていたのかなぁと」
見たことないはずの風景が、頭の中をめぐるときがある。統一感のない景色たちからして、もしかしたら旅人だったのかもしれない。いずれかのキャラバンに属していたこともあり得る。船に乗っていて、嵐にでも巻き込まれて投げ出されたところ、あの海洋生物に引っかかったとか。持っていたかもしれない荷物はおろか、記憶さえも海は奪い去ってしまった。
「私には、なにもない……」
「そんなことは、ないでしょう」
言いながらふと、過去にも同じやりとりをしたような気がして、妙な気分になった。同じことを、誰かに話したのではないか。
「そうですね。アラジンもアリババもモルジアナちゃんもいてくれるし、
いまはジャーファルさまに会ってお話できるのが、楽しみです」
「それは……どうも」
瞬きをする間に、彼女の髪が真っ白に見えた。直後に戻ったけれど、いまのはなんだったのだろう。光の具合だろうか。
「……髪を、染めましたか」
「え?これがもともとの色です。……そう思います」
シンドリアに来る前に染めていたならわからないが、ここにきてから髪が伸びるくらいは滞在している。根本は毛先と変わらない色だ。
私はこの子を知らないはずなのに、前にもこうして並んで話していなかったか。あの言語で。
「確かめたいことがあるんですが、いいですか」
「はい、なんでしょう」
それは決してよこしまな思いからではなかった。
まず指に触れた。下からすくい、手のひらを親指で押さえる。ちゃんと、こちらを押し返す血の通う肉の感触がする。その親指から伝う青い血管をたどり、手首をすぎて腕を掴む。だいじょうぶだ、もう触れたからといって溶けたりしない。肩に手をおくと、骨の固さがある。
髪がジャーファルの手に触れて、揺れた。
「以前のあなたの髪は……真っ白で……身に着けるものもなにもかも純白で」
一気に胸の中に引き入れた。
「全てが雪に覆われる中にいたあなたは冷たかった」
この体は、あたたかい。匂いもある。その事実が、ジャーファルの心を強くゆさぶる。
ただひたすら、その存在が確かであることを身に刻むように包み込んでいた。
どうしてだろう、なまえの視界が歪む。目尻が熱くなって、ぽろりとなにかがこぼれおちた。瞬きをしても、景色はまたにじんでゆく。
「でももう違うんだ」
「違う……?どう違うんですか?」
「なまえ、あなたは生きている」
「はい……」
「私たちは、約束をした。また会うと」
「約束って……?」
「なまえ。わかりませんか」
「なにを言ってるの……どうして」
「なまえは、なまえだったんだ」
「それは……私は、私ですよ」
二人はずっと前に出会っていた。また出会うことを約束して。姿かたちはそっくり、ただ色だけがあのときと違い、現実味を帯びた色になりかわっている。真面目な顔をしていると、ほんとうに初めて会ったときと同じだ。あの読み取れない顔。すれ違う会話がもどかしい。
ひとりだけ泣きそうに崩した顔に、なまえはそっと手を添える。
「どうしたんですか」
いつも毅然とした態度を崩さない彼が、こんなにも取り乱した姿を見せるなんて。
「あなたは……人間になったんだ」
大きな手が両肩をつかみ、言い聞かせるように目をまっすぐ見抜いた。
「なったというか……私は人間ですよ」
緊張感のない表情に、苛立ちさえ覚える。上手く伝わらない。
どうしてだ。思い出したのは俺だけかよ。
髪の色が違おうとも、着ている服が変わろうとも、絶対に見間違ったりなんかしない。この目の前にいる人物こそが焦がれたなまえだというのに。
「違う。俺が知ってるのは……」
「ごめんなさい、わかりません」
ジャーファルの怒りを察してか、弱々しく謝る。すっと頭が冷えた。
「いいえ。急にすみませんでした。泣かせてしまって……もうこんなことはしませんから」
否定するために首を振る。子供でもあるまいし、決して怒ったジャーファルが怖くて泣いたわけではない。
あっさりと腕を離してしまう。急速に温もりが失われる。不憫の目を向けて、ジャーファルが身をひるがえした。哀れんでいるのはきっとなまえではない、彼自身。
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ほこりが口に入らぬように袖で抑えながら、出口へ向かう。扉を開くとそこにはなまえが立ちすくんでおり、気が抜けた。
「部屋に戻りなさいと言ったでしょう」
「実は……私、こちらの鍵持ったままです。鍵を開けたままではいけませんよね?」
「あぁそうでしたか。それなら私が預かっておきます」
きちんと扉が閉まったことを確認した。手のひらを上に差し出すと、両手で壊れ物を扱うように置いてくる。ジャーファルの顔を見て表情を曇らせた。
<大丈夫ですか?なんだか青ざめてますよ>
「いえ……」
<ジャーファルさまこそお休みになってください!>
「平気です」
<そんな顔色のかたをほうっておけません!鍵は私が返してきますから結構です。少し失礼します>
油断した手からさっと鍵を奪い返して、ジャーファルの腕をとる。失礼をことわったのは彼の体に触れるからか。
「なまえ、鍵を返しなさい」
<嫌です!>
ぐいぐいと前に進むように引っ張るが、ジャーファルは頑として動かない。もう、となまえが息巻いて離れて行ってしまう。直線を描くように走っていってしまい、階段を下りていってしまった。と思ったらおろおろと周囲を見渡しながら、すっかり混乱した様子でジャーファルのもとへかえってきてしまった。
「迷子になりました……」
さきの授業で習ったこの一言が、役に立ったのははじめてのこと。街ならまだしもよもや宮中で使うことになろうとは、予想だにしていなかった。 どうやら勇んでジャーファルから鍵を取り返したはいいが、立ち入ったことのない塔の中で方向を見失ってしまったらしい。確かにここは侵入者を防ぐためにわざとここまでたどり着く道を複雑にして、階段を余計に多く設置し、どの部屋もそっくり同じようにつくり、各部屋に表札も出していない。おおかたいくつか階段を使ったところで細工にひっかかりこの階に戻ってきてしまったのだろう。
来るときは案内つきだったのだろうが、一人で帰ることはできずじまい。
「ここ、おかしいです!階段下りたのに上りました」
ジャーファルは目を点にして、肩を震わせたかと思えば声を出して笑いだした。
<妥協案は、二人で鍵を返しにいって、そのあとそれぞれの部屋で休息をとることです>
「いいでしょう」
笑い含みに了承しながら、ジャーファルはその場を動いた。なまえも寄り添って、隣の先ほどよりかはなんとなくよくなった顔色を確かめる。笑われたのは恥ずかしいが、沈んだ表情がなくなってほっとした。
「ときどき、私はいったいどうしてシンドリアにきたんだろう、って思います」
「それは、海難事故で……」
「確かに事故なんですけど、その前のことはあんまり覚えていないし、何をしていたのかなぁと」
見たことないはずの風景が、頭の中をめぐるときがある。統一感のない景色たちからして、もしかしたら旅人だったのかもしれない。いずれかのキャラバンに属していたこともあり得る。船に乗っていて、嵐にでも巻き込まれて投げ出されたところ、あの海洋生物に引っかかったとか。持っていたかもしれない荷物はおろか、記憶さえも海は奪い去ってしまった。
「私には、なにもない……」
「そんなことは、ないでしょう」
言いながらふと、過去にも同じやりとりをしたような気がして、妙な気分になった。同じことを、誰かに話したのではないか。
「そうですね。アラジンもアリババもモルジアナちゃんもいてくれるし、
いまはジャーファルさまに会ってお話できるのが、楽しみです」
「それは……どうも」
瞬きをする間に、彼女の髪が真っ白に見えた。直後に戻ったけれど、いまのはなんだったのだろう。光の具合だろうか。
「……髪を、染めましたか」
「え?これがもともとの色です。……そう思います」
シンドリアに来る前に染めていたならわからないが、ここにきてから髪が伸びるくらいは滞在している。根本は毛先と変わらない色だ。
私はこの子を知らないはずなのに、前にもこうして並んで話していなかったか。あの言語で。
「確かめたいことがあるんですが、いいですか」
「はい、なんでしょう」
それは決してよこしまな思いからではなかった。
まず指に触れた。下からすくい、手のひらを親指で押さえる。ちゃんと、こちらを押し返す血の通う肉の感触がする。その親指から伝う青い血管をたどり、手首をすぎて腕を掴む。だいじょうぶだ、もう触れたからといって溶けたりしない。肩に手をおくと、骨の固さがある。
髪がジャーファルの手に触れて、揺れた。
「以前のあなたの髪は……真っ白で……身に着けるものもなにもかも純白で」
一気に胸の中に引き入れた。
「全てが雪に覆われる中にいたあなたは冷たかった」
この体は、あたたかい。匂いもある。その事実が、ジャーファルの心を強くゆさぶる。
ただひたすら、その存在が確かであることを身に刻むように包み込んでいた。
どうしてだろう、なまえの視界が歪む。目尻が熱くなって、ぽろりとなにかがこぼれおちた。瞬きをしても、景色はまたにじんでゆく。
「でももう違うんだ」
「違う……?どう違うんですか?」
「なまえ、あなたは生きている」
「はい……」
「私たちは、約束をした。また会うと」
「約束って……?」
「なまえ。わかりませんか」
「なにを言ってるの……どうして」
「なまえは、なまえだったんだ」
「それは……私は、私ですよ」
二人はずっと前に出会っていた。また出会うことを約束して。姿かたちはそっくり、ただ色だけがあのときと違い、現実味を帯びた色になりかわっている。真面目な顔をしていると、ほんとうに初めて会ったときと同じだ。あの読み取れない顔。すれ違う会話がもどかしい。
ひとりだけ泣きそうに崩した顔に、なまえはそっと手を添える。
「どうしたんですか」
いつも毅然とした態度を崩さない彼が、こんなにも取り乱した姿を見せるなんて。
「あなたは……人間になったんだ」
大きな手が両肩をつかみ、言い聞かせるように目をまっすぐ見抜いた。
「なったというか……私は人間ですよ」
緊張感のない表情に、苛立ちさえ覚える。上手く伝わらない。
どうしてだ。思い出したのは俺だけかよ。
髪の色が違おうとも、着ている服が変わろうとも、絶対に見間違ったりなんかしない。この目の前にいる人物こそが焦がれたなまえだというのに。
「違う。俺が知ってるのは……」
「ごめんなさい、わかりません」
ジャーファルの怒りを察してか、弱々しく謝る。すっと頭が冷えた。
「いいえ。急にすみませんでした。泣かせてしまって……もうこんなことはしませんから」
否定するために首を振る。子供でもあるまいし、決して怒ったジャーファルが怖くて泣いたわけではない。
あっさりと腕を離してしまう。急速に温もりが失われる。不憫の目を向けて、ジャーファルが身をひるがえした。哀れんでいるのはきっとなまえではない、彼自身。
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