淡雪は海に溶けた
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いつも小説をお読みくださりありがとうございます。
こちらは前置きです。
今回は少し性表現に近いものが文章中にありますので、苦手な方や(目安として)12歳以下の方の閲覧はお控えくださいますようお願いいたします。
そんなに大したこともありませんが、念のため。
問題ない方はどうぞお進みください。
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シンドリアに身を置くことになってはじめのうちは、ひたすら座学ばかり。文字の書き方や発音を延々と繰り返していくおそろしく作業的なものから始まり、身の回りの物の名前、色や数字を覚え、道順を説明できるようになるまでそうそう時間はかからなかった。長い文章を話すときはまだ少し頭で考えてしまうときもあるけれど、日常的な挨拶や返事なら口から自然とでるようになってきた。とくに、「それは何という意味ですか?」は即座に覚えて使い続けている文章であり一番なめらかにでてくる。個人の意見を述べる討論に近い授業も入ってきたが、あまり得意ではない。少ない語彙で表現できる範囲は極端に狭い。
お付きの者なしで歩ける時間も場所もだいぶ増えた。とはいえ黒秤塔にある教室と緑射塔の自室の往復だけが主な経路で、軍事関係の赤蟹塔や鍛錬場である銀蠍塔などはなんとなく立ち入るのは気が引ける。たまにアラジンやアリババ、モルジアナの3人と銀蠍塔の出口で待ちあわせしたりするくらいで中には入らず、あとの塔も恐れ多くて近づいたこともない。
一度だけ紫獅塔には、3人についてきてもらって、あの謝肉祭の日に関わった八人将にお礼を言うために足を踏み入れたが、もう今後入ることはないだろう。なかなかあの勢ぞろいした面子に会うのは緊張した。後であえば、あれほど剣を下げたシャルルカンにおびえていたのに、安定した精神状態のときにお礼を告げれば、怖くもなんともない人だった。堂々とはしていたが、むやみやたらに剣を振り回すわけでもなし。マスルールの表情は読めなかったが、モルジアナがなついている姿を見ると、決して厳しいだけの人ではなさそうだ。モルジアナとピスティも気安くて、それぞれ地位のある人間なのだということを忘れさせてくれた。だが、気後れしてしまうのも事実。どうにもみんな会話のテンポが速すぎて追いつくこともできず、仲良くはなりたいが、もっとこちらの言語を勉強してからでないと難しそうだ。
お昼の休憩から教室に戻ったとき、教師は帰り支度をしていた。
「なまえさん。私はこれから市街に行く用事があるので午後からの授業を自習にしようかと思いましたが、あることを頼まれてくれますか?」
「なんでしょうか」
「書庫の清掃と整理なんですが」
「お掃除ですか」
「書庫というか倉庫に近いです。ほぼ使われません。ただ管理する者がいないので……。ほこりを払って、ほうきをかけるだけでもできませんか?できたら整理も」
「私、掃除はできます。本に触れていることは好きです。装丁を見るのも興味あります」
「あなたにぴったりのようですね。ではよろしくお願いします」
「はい!」
「ではこれから書庫の鍵をとりにいきましょう」
鍵を受け取って、書庫の前で先生は一度手を振って、駆け足ぎみに去ってしまった。後から様子を見にきますから、と慌てていた。
そんなに広くはない書庫に入ってまず、くしゃみがとまらなかった。持っていたハンカチを口布がわりに巻いて、ようやく落ち着いた。本が日焼けしないように日を通さない、閉じられた窓を開けて回る。その最中にはたきとほうきやちり取りなどの掃除用具が隅にぞんざいにたてかけられていたものを発見した。
さてどこから手をつけたものか。一歩踏み出すごとにほこりが舞い、日の光にあてられてきらきらと輝いて、それはそれで幻想的な雰囲気がする。しかしそれを喜んでいる場合ではなかった。
かろうじて本として形づくられているものやら、装丁もなにもあったものではない、メモ紙かと思うようなものまで。
平積みされている分など、どこからどこまでが一冊としてまとめられているのか不明なほどだ。文字が読めればまだ判別できるのかもしれないが、まだこの国の言葉を学び始めたばかりなのだ。小難しい学術的な文体はかみ砕いて説明してもらわねばひとりでは解釈できないし、手書きだったり、違った書体を使われるとなおさら混乱を招かれた。それに聞くのと話すのはだいぶ慣れてきたが、非日常語などまだまだ未知数だ。誰かと話をするのなら知っている単語を並べれば、だいたい相手が伝えたいことを補足して推測してくれる。紙の上の文字でも口語はまだしも文語となるとなおさら難しくなる。
だが、古びた羊紙の感触も楽しく、中には凝った挿絵もあったりするので、ページ同士がくっついてないか確かめるふりをして、ついまじまじと見てしまう。
片づけているうちに、棚の合間にはしごが設置されているのを見つけた。これで上のほうからほこりを落とせる、とはしごに飛びついた。
<こんなに詰めたの誰……、>
使用頻度が低すぎるためか、最上段の本棚はぎっちり並べられていた。本同士のすきまには指どころかカミソリ一枚入れることすら困難に思えるほど、めいっぱい押し込められていた。
力を入れ過ぎると背表紙がはがれてしまいそうだ。というか3分の1ほどはすでにめくれて垂れ下がっている。それ以上痛めてしまわないように、慎重に指で挟み、少しずつ引き出していく。そのやり方は正しかったようで、わずかながらでも側面の表紙があらわになってきた。
ゆっくりしていたつもりだったが、あるとき突然手ごたえが軽くなり、本から手が離れた。指が周囲の本にひっかかり、床にばらまくように本棚から本が崩れ落ちて行く。
<あっ!>
手を伸ばして拾おうとするが、次々と落ちる本に腕を撫で切りされるばかり。連鎖して落ち続ける数々の本。
これ以上の被害を抑えるために本棚に抱きつくようにしたが、今度ははしごを支えられなくなって、自分が床へダイブすることになった。
<きゃああああああっ>
落ちてくる本が、首といわず足といわず、容赦なく全身をたたきつけてくる。背中を打ち付けて床に着地したときには、口布は外れほこりを吸いこみ、酷くせき込むはめになった。
ガシャン、と激しい音と、振動がした。どうやらはしごは運よく自分とは反対方向に倒れたようだ。
「なまえ、大丈夫ですか」
声とともに抱き起こされて、目をようやっと開く。聞きなれた穏やかな声。緑色のクーフィーヤがぱさりとかかった。おかげで舞っていたほこりが遮断される。その白い政務服をここまできっちり着こなすのは一人ぐらいしか知らない。
「ジャーファルさま」
「どうしてこんなところに」
「私はここの中を片づけすること、先生から頼まれました。すみません、さっきまでちゃんとしてました。でも散らかしました」
ここは重要文書が数多く収められている場所だ。どうして彼女がここに、と驚いた。
早朝の会議でそろそろ書庫の清掃と整理を、と話題に上っていたが誰をその役目に選定するか、王宮内を人づてに探していたところだ。午後になって報告も上がってこずいったいどうなったのか気になって、書庫を確かめにやってきてみればこれだ。
理想としては国事に関わっておらず、中を覗かれる心配がないようにそもそも書物に興味がなく、かつ物を丁重に扱うことのできる信に足る人物。ある程度信の置ける者はそれなりの地位につき、自由にできる時間がない。
そこで白羽の矢が立てられたのはなまえ、世界の成り立ちも知らず、読み書きも不自由な彼女が選定されたのか。
万が一にも何を見られても不都合は起こらないと。
「怪我は?」
きかれて、痛む部分に手を当てていく。指は動くし、足首も捻挫したようすはない。すりむいたであろうひりひりとする二の腕を袖をまくって見てみると、できたばかりの見事な痣がぽつぽつ浮かんでいた。
白く、やわらかそうな肌に異色が張り付き、なんとも痛々しい。
「腕と足も動かせます。軽い痛みがあります……床にたたいたので?」
「床に落ちた」
さっと訂正される。
「はい。床に落ちたので。腕と、肩と、うわぁこんなところも」
続いてふくらはぎと、ひざにも確認された。さらにふとももの半ばまで裾をあげたところで、
「おやめなさい」
手を握られて自分のふとももの上に抑えつけられる。
驚いて彼をみると、さっと目を逸らされた。
「尋ねたのは私からですが、医者ではないのですからそういった部分まで見せることはないのですよ」
やんわりと遠回しに注意したつもりだったが、うまく呑みこめていないようだ。
「この状況を考えて、危機感を覚えなさい」
「キキカン?」
「あなたの普段の言動から鑑みて、やたらと男性と二人きりのときに自分から肌をさらすものではないということです。
勘違いさせたいのなら別ですが」
<え……>
彼女の両腕を床に留めつけて、目を細めて顔を近づけた。
暗いのに、どこか光を秘めた瞳。獣のような、強い視線。こちらに抗う術はない。ああ、捕らえられた。そう本能で悟った。
それでも避けようとしたが、のけぞろうとして背後の本棚にぶつかっただけでおわった。
顔をそむけたおかげでのどもとがあらわになる。本が落ちてきたときにかすったのか、紙で切ったようにうっすらと線が走り、血がにじんでいる。
そっと唇を寄せる。
触れるか触れないかというときにびくりと震えて、両腕どころか全身に緊張が走っているのが面白いほど手にとってわかった。繊細な首はしっとりとして、やわらかい。弾力があってあたたかかった。どくどくと脈打つ鼓動が心地よくて。あぁ、このまま、続けてしまおうか。
ただの警告のつもりだったけれど。
<ふ……っ、>
言葉にならない吐息で我を取り戻す。彼女から頭を離した。
「血が、でてましたよ」
手を解放して、手首をにぎりなおし、彼女の指先で首元の傷を確かめさせる。
戸惑う瞳はうるんでいて、ジャーファルを見上げる。下唇をかみしめて、わけもわからず耐えているようだった。
あえて彼女の母国語で、ゆっくりと尋ねた。
<すみませんでした。気分を悪くしたでしょう?>
<や、あの、びっくり、は、しました>
腕がぞわぞわして、毛が逆立っていた。触れた瞬間に、電気のようなものが脊髄を伝って、腰がしびれるような。初めての感覚で、これがなんなのか把握できない。
動くにも動けず、されるがままになっていたことはたしかだ。
いまのは、なんですか?
聞きたくてもきけなかった。きいたらいけない気がする。
<気持ち悪いと思っていいんですよ。嫌がることをしたんです>
先ほどの行為を打ち消すように優しい微笑みで頭を撫でられ、気を抜いた。
<わざとですか……>
<ええ。わざと、です>
<……えぇと、なんかもうよくわからなくて。でも嫌じゃなかったんですよ?ジャーファルさんの目を見たら、逃げられないなぁって思いました>
「それは、誘ってるんですか」
呆れたような声音に、なまえは首を傾げた。
<え、「誘ってる」?それはどういう意味ですか?>
一向に理解していない様子に、ジャーファルは頭を抱えた。
「とりあえず、今日はここまでになさい。部屋に戻って、一日様子をみるべきです。体をどこそこ打ったのでしょう。私から伝えておきますから」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
扉に向かって本を避けながら歩く姿を、充満したほこりが白くぼやかす。差し込む光がたまに強く跳ね返して、目を刺すようだ。それが何かと重なる。
心がざわりと訴えかける。お前はわかるだろう、と。塵が浮きふわりふわりと右から左へ流れる。幻想のように周囲は輪郭が曖昧になり、その中で揺れる細い体。
―つよいひと。私の――負けなかった、つよいひと。
声が頭の中でひびく。かぼそい、白くぬりつぶしたような景色に消えてしまいそうな女性の声だった。
―ジャーファルが来るのを待っている人、です
私を待っている?私はいったい誰と約束したんだ?抑揚のない薄っぺらい声なのに、どうしてこんなに甘く後を引くのだろう。胸が、苦しい。
ざざっ、と本の一山がすべりくずれ落ちた。ばさばさと乾いた音で我に返ったときには、なまえはとうに部屋を立ち去った後だった。
あの後姿を、どうして自分は抱きしめなかったのだ。
一瞬そう脳裏に浮かんで、まさか、そんなことはしない、と否定した。
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いつも小説をお読みくださりありがとうございます。
こちらは前置きです。
今回は少し性表現に近いものが文章中にありますので、苦手な方や(目安として)12歳以下の方の閲覧はお控えくださいますようお願いいたします。
そんなに大したこともありませんが、念のため。
問題ない方はどうぞお進みください。
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シンドリアに身を置くことになってはじめのうちは、ひたすら座学ばかり。文字の書き方や発音を延々と繰り返していくおそろしく作業的なものから始まり、身の回りの物の名前、色や数字を覚え、道順を説明できるようになるまでそうそう時間はかからなかった。長い文章を話すときはまだ少し頭で考えてしまうときもあるけれど、日常的な挨拶や返事なら口から自然とでるようになってきた。とくに、「それは何という意味ですか?」は即座に覚えて使い続けている文章であり一番なめらかにでてくる。個人の意見を述べる討論に近い授業も入ってきたが、あまり得意ではない。少ない語彙で表現できる範囲は極端に狭い。
お付きの者なしで歩ける時間も場所もだいぶ増えた。とはいえ黒秤塔にある教室と緑射塔の自室の往復だけが主な経路で、軍事関係の赤蟹塔や鍛錬場である銀蠍塔などはなんとなく立ち入るのは気が引ける。たまにアラジンやアリババ、モルジアナの3人と銀蠍塔の出口で待ちあわせしたりするくらいで中には入らず、あとの塔も恐れ多くて近づいたこともない。
一度だけ紫獅塔には、3人についてきてもらって、あの謝肉祭の日に関わった八人将にお礼を言うために足を踏み入れたが、もう今後入ることはないだろう。なかなかあの勢ぞろいした面子に会うのは緊張した。後であえば、あれほど剣を下げたシャルルカンにおびえていたのに、安定した精神状態のときにお礼を告げれば、怖くもなんともない人だった。堂々とはしていたが、むやみやたらに剣を振り回すわけでもなし。マスルールの表情は読めなかったが、モルジアナがなついている姿を見ると、決して厳しいだけの人ではなさそうだ。モルジアナとピスティも気安くて、それぞれ地位のある人間なのだということを忘れさせてくれた。だが、気後れしてしまうのも事実。どうにもみんな会話のテンポが速すぎて追いつくこともできず、仲良くはなりたいが、もっとこちらの言語を勉強してからでないと難しそうだ。
お昼の休憩から教室に戻ったとき、教師は帰り支度をしていた。
「なまえさん。私はこれから市街に行く用事があるので午後からの授業を自習にしようかと思いましたが、あることを頼まれてくれますか?」
「なんでしょうか」
「書庫の清掃と整理なんですが」
「お掃除ですか」
「書庫というか倉庫に近いです。ほぼ使われません。ただ管理する者がいないので……。ほこりを払って、ほうきをかけるだけでもできませんか?できたら整理も」
「私、掃除はできます。本に触れていることは好きです。装丁を見るのも興味あります」
「あなたにぴったりのようですね。ではよろしくお願いします」
「はい!」
「ではこれから書庫の鍵をとりにいきましょう」
鍵を受け取って、書庫の前で先生は一度手を振って、駆け足ぎみに去ってしまった。後から様子を見にきますから、と慌てていた。
そんなに広くはない書庫に入ってまず、くしゃみがとまらなかった。持っていたハンカチを口布がわりに巻いて、ようやく落ち着いた。本が日焼けしないように日を通さない、閉じられた窓を開けて回る。その最中にはたきとほうきやちり取りなどの掃除用具が隅にぞんざいにたてかけられていたものを発見した。
さてどこから手をつけたものか。一歩踏み出すごとにほこりが舞い、日の光にあてられてきらきらと輝いて、それはそれで幻想的な雰囲気がする。しかしそれを喜んでいる場合ではなかった。
かろうじて本として形づくられているものやら、装丁もなにもあったものではない、メモ紙かと思うようなものまで。
平積みされている分など、どこからどこまでが一冊としてまとめられているのか不明なほどだ。文字が読めればまだ判別できるのかもしれないが、まだこの国の言葉を学び始めたばかりなのだ。小難しい学術的な文体はかみ砕いて説明してもらわねばひとりでは解釈できないし、手書きだったり、違った書体を使われるとなおさら混乱を招かれた。それに聞くのと話すのはだいぶ慣れてきたが、非日常語などまだまだ未知数だ。誰かと話をするのなら知っている単語を並べれば、だいたい相手が伝えたいことを補足して推測してくれる。紙の上の文字でも口語はまだしも文語となるとなおさら難しくなる。
だが、古びた羊紙の感触も楽しく、中には凝った挿絵もあったりするので、ページ同士がくっついてないか確かめるふりをして、ついまじまじと見てしまう。
片づけているうちに、棚の合間にはしごが設置されているのを見つけた。これで上のほうからほこりを落とせる、とはしごに飛びついた。
<こんなに詰めたの誰……、>
使用頻度が低すぎるためか、最上段の本棚はぎっちり並べられていた。本同士のすきまには指どころかカミソリ一枚入れることすら困難に思えるほど、めいっぱい押し込められていた。
力を入れ過ぎると背表紙がはがれてしまいそうだ。というか3分の1ほどはすでにめくれて垂れ下がっている。それ以上痛めてしまわないように、慎重に指で挟み、少しずつ引き出していく。そのやり方は正しかったようで、わずかながらでも側面の表紙があらわになってきた。
ゆっくりしていたつもりだったが、あるとき突然手ごたえが軽くなり、本から手が離れた。指が周囲の本にひっかかり、床にばらまくように本棚から本が崩れ落ちて行く。
<あっ!>
手を伸ばして拾おうとするが、次々と落ちる本に腕を撫で切りされるばかり。連鎖して落ち続ける数々の本。
これ以上の被害を抑えるために本棚に抱きつくようにしたが、今度ははしごを支えられなくなって、自分が床へダイブすることになった。
<きゃああああああっ>
落ちてくる本が、首といわず足といわず、容赦なく全身をたたきつけてくる。背中を打ち付けて床に着地したときには、口布は外れほこりを吸いこみ、酷くせき込むはめになった。
ガシャン、と激しい音と、振動がした。どうやらはしごは運よく自分とは反対方向に倒れたようだ。
「なまえ、大丈夫ですか」
声とともに抱き起こされて、目をようやっと開く。聞きなれた穏やかな声。緑色のクーフィーヤがぱさりとかかった。おかげで舞っていたほこりが遮断される。その白い政務服をここまできっちり着こなすのは一人ぐらいしか知らない。
「ジャーファルさま」
「どうしてこんなところに」
「私はここの中を片づけすること、先生から頼まれました。すみません、さっきまでちゃんとしてました。でも散らかしました」
ここは重要文書が数多く収められている場所だ。どうして彼女がここに、と驚いた。
早朝の会議でそろそろ書庫の清掃と整理を、と話題に上っていたが誰をその役目に選定するか、王宮内を人づてに探していたところだ。午後になって報告も上がってこずいったいどうなったのか気になって、書庫を確かめにやってきてみればこれだ。
理想としては国事に関わっておらず、中を覗かれる心配がないようにそもそも書物に興味がなく、かつ物を丁重に扱うことのできる信に足る人物。ある程度信の置ける者はそれなりの地位につき、自由にできる時間がない。
そこで白羽の矢が立てられたのはなまえ、世界の成り立ちも知らず、読み書きも不自由な彼女が選定されたのか。
万が一にも何を見られても不都合は起こらないと。
「怪我は?」
きかれて、痛む部分に手を当てていく。指は動くし、足首も捻挫したようすはない。すりむいたであろうひりひりとする二の腕を袖をまくって見てみると、できたばかりの見事な痣がぽつぽつ浮かんでいた。
白く、やわらかそうな肌に異色が張り付き、なんとも痛々しい。
「腕と足も動かせます。軽い痛みがあります……床にたたいたので?」
「床に落ちた」
さっと訂正される。
「はい。床に落ちたので。腕と、肩と、うわぁこんなところも」
続いてふくらはぎと、ひざにも確認された。さらにふとももの半ばまで裾をあげたところで、
「おやめなさい」
手を握られて自分のふとももの上に抑えつけられる。
驚いて彼をみると、さっと目を逸らされた。
「尋ねたのは私からですが、医者ではないのですからそういった部分まで見せることはないのですよ」
やんわりと遠回しに注意したつもりだったが、うまく呑みこめていないようだ。
「この状況を考えて、危機感を覚えなさい」
「キキカン?」
「あなたの普段の言動から鑑みて、やたらと男性と二人きりのときに自分から肌をさらすものではないということです。
勘違いさせたいのなら別ですが」
<え……>
彼女の両腕を床に留めつけて、目を細めて顔を近づけた。
暗いのに、どこか光を秘めた瞳。獣のような、強い視線。こちらに抗う術はない。ああ、捕らえられた。そう本能で悟った。
それでも避けようとしたが、のけぞろうとして背後の本棚にぶつかっただけでおわった。
顔をそむけたおかげでのどもとがあらわになる。本が落ちてきたときにかすったのか、紙で切ったようにうっすらと線が走り、血がにじんでいる。
そっと唇を寄せる。
触れるか触れないかというときにびくりと震えて、両腕どころか全身に緊張が走っているのが面白いほど手にとってわかった。繊細な首はしっとりとして、やわらかい。弾力があってあたたかかった。どくどくと脈打つ鼓動が心地よくて。あぁ、このまま、続けてしまおうか。
ただの警告のつもりだったけれど。
<ふ……っ、>
言葉にならない吐息で我を取り戻す。彼女から頭を離した。
「血が、でてましたよ」
手を解放して、手首をにぎりなおし、彼女の指先で首元の傷を確かめさせる。
戸惑う瞳はうるんでいて、ジャーファルを見上げる。下唇をかみしめて、わけもわからず耐えているようだった。
あえて彼女の母国語で、ゆっくりと尋ねた。
<すみませんでした。気分を悪くしたでしょう?>
<や、あの、びっくり、は、しました>
腕がぞわぞわして、毛が逆立っていた。触れた瞬間に、電気のようなものが脊髄を伝って、腰がしびれるような。初めての感覚で、これがなんなのか把握できない。
動くにも動けず、されるがままになっていたことはたしかだ。
いまのは、なんですか?
聞きたくてもきけなかった。きいたらいけない気がする。
<気持ち悪いと思っていいんですよ。嫌がることをしたんです>
先ほどの行為を打ち消すように優しい微笑みで頭を撫でられ、気を抜いた。
<わざとですか……>
<ええ。わざと、です>
<……えぇと、なんかもうよくわからなくて。でも嫌じゃなかったんですよ?ジャーファルさんの目を見たら、逃げられないなぁって思いました>
「それは、誘ってるんですか」
呆れたような声音に、なまえは首を傾げた。
<え、「誘ってる」?それはどういう意味ですか?>
一向に理解していない様子に、ジャーファルは頭を抱えた。
「とりあえず、今日はここまでになさい。部屋に戻って、一日様子をみるべきです。体をどこそこ打ったのでしょう。私から伝えておきますから」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
扉に向かって本を避けながら歩く姿を、充満したほこりが白くぼやかす。差し込む光がたまに強く跳ね返して、目を刺すようだ。それが何かと重なる。
心がざわりと訴えかける。お前はわかるだろう、と。塵が浮きふわりふわりと右から左へ流れる。幻想のように周囲は輪郭が曖昧になり、その中で揺れる細い体。
―つよいひと。私の――負けなかった、つよいひと。
声が頭の中でひびく。かぼそい、白くぬりつぶしたような景色に消えてしまいそうな女性の声だった。
―ジャーファルが来るのを待っている人、です
私を待っている?私はいったい誰と約束したんだ?抑揚のない薄っぺらい声なのに、どうしてこんなに甘く後を引くのだろう。胸が、苦しい。
ざざっ、と本の一山がすべりくずれ落ちた。ばさばさと乾いた音で我に返ったときには、なまえはとうに部屋を立ち去った後だった。
あの後姿を、どうして自分は抱きしめなかったのだ。
一瞬そう脳裏に浮かんで、まさか、そんなことはしない、と否定した。
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