淡雪は海に溶けた
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黒秤塔と呼ばれる建物のとある一部屋に入ると、そこは教室のように整えられていた。数人の男女が教壇のようなところに立っている。
みなが同じ服装をしていたので、彼らの制服なのかもしれない。支給されて自分が着ているものも、似ている。一人だけ通されて、ここまで案内してくれた女性は部屋を出ていってしまった。
心細さを感じながらも、彼らと向かい合うように立った。なにから切り出してよいかわからず、ようやく挨拶を口にした。
<……おはようございます>
<おはようございます。なまえさん、どうぞ、座ってください>
一人の、一番年かさかと思われる男性が返事を返してくれた。
名前を呼ばれたことに感嘆しつつ、彼から目線をはずさず腰かける。
<はい。私の言葉、わかる方がいたんですね>
<これは私の民族、故郷の言葉です。あなたの国の言語と同じか、似ているようですね>
<似ているどころか、まったくもって私の話すものと同じのようですが、私も同じ国から来たのでしょうか>
<残念だが。あなたと同じ国の出かというと違うでしょう。これはいまは一般にはほとんど使われていない、とても古い言語です。この二人も国は別々です。わずかながらあなたの言葉がわかるので呼ばれました。
質問にはできる限りお答えしますので、遠慮なくどうぞ>
<はい、ありがとうございます。よろしくお願いします>
<ではこれから、まずはこのシンドリア国の言葉について勉強しましょう。おいおいこのシンドリア国についても。
手始めに私の名前ですが、―>
スラスラと黒板に独特の文字が羅列された。
ここにはきちんと書き取りができるように机もあり、その上に筆記用具と紙が用意してあった。製紙技術はそこまで発達していないのか、触るとざらざらと少し肌にひっかかるような素材の、漂白されていない紙と、羽がついたペン。これをなまえが使っていいということだろう。教壇の隅で進行を書き留めている様子の男性のみようみまねでペンを握り、あわてて黒板を紙に写した。
お昼に一度、どうやら私の世話役らしい女性が迎えにきてくれた。
「こ……んにちは」
「こんにちは」
たどたどしく、習ったばかりの言葉を述べると、女性は驚きつつもちゃんと返事をしてくれた。
「―――――――――――」
その後に何かを続けられたが、理解できなかった。首をかしげると、先生から助け舟がでた。
<これから昼餉をとりにいきましょう、だそうです。ではなまえさん、また後程>
<あっ、ありがとうございます。はい、またあとで>
先生は侍女を一度引き留めて、すぐなまえのもとに戻してくれた。
「まだ基本の挨拶しかお教えしてませんけど、早く慣れるために話しかけてあげてください」
「わかりました。失礼します」
結局、挨拶以上の会話はほぼないままに、また食堂へ連れて食事をとらせてくれた。それでも一言でも通じたのがとてもうれしくて、自然とにこにこしてしまう。世話役もなまえの緊張のとれた様子を感じ取ったのか、いくぶん安心しているようだ。物を指さして名前を教えてくれたり、積極的に話しかけてくれたが、理解するにはとうていいたらなかった。けれども彼女は気にしていない様子だ。のんびりと食後のフルーツジュースまでいただいてから、教室へ送り届けてくれた。
質問することはまずなかった。言われることにうなずいて、黒板に書かれたことを写して、それだけで時間が経っていた。
<では、今日はここまでにしましょう。質問がありましたら、私はいつもこの塔におりますのでいつでもいらしてください>
<ありがとうございました。あの、紙は部屋に持って帰りたいのですが、ペンはこちらに置いていてもかまいませんか?>
授業内容を写した紙は復習のために手元においておきたいし、部屋にも机とペンは置いてあったからそれで事足りる。
<はい。かまいませんよ>
部屋を出るときに、ジャーファルとすれ違った。とっさに
「こーいち、は? えっと、違う、こ、にいちは?」
かけられたそれが午後の挨拶の言葉であると理解するのに少し時間がかかった。
「……こんにちは」
「あっ、こんにちは!こんにちは、です」
覚えた直後ならなめらかに口からでるが、また別な知識を頭につめこんでしばらくすれば、記憶はあやむやになる。そうとうな反復作業が必要そうだ。
正しい発音にそっと頷いて通り過ぎる。ここにきた目的はなまえではない。なにか言いたげにはしていたがそれを無視して彼女が出てきた扉を開けた。
振り向いた男性が、正式な礼をとる。
「ジャーファル殿。わざわざご足労を」
「いえ。少し寄っただけです。早速ですが彼女の様子はどうですか?」
「はじめこそ緊張しているようでしたが、おとなしいのはもともとの性格でしょう。真剣に授業を聞いてくれますし、礼儀もきちんとしています。
特段、妙なところはみえませんねぇ」
問いかければ真摯に向き合ううえ、教師陣を敬うしぐさもみられる。戸惑う様子は多々あるものの、境遇をかんがみれば許容の範囲内だ。
生徒としてあるべく真面目な態度に不満はない。
「そうですか。引き続き頼みましたよ。なにかあったら報告を」
「かしこまりました。さては以前のことは、彼女のようなこともあると予期してのことだったのですか?」
「以前?なんのことです」
「熱心に私の国の言葉を勉強なさっていたでしょう」
お忘れですか、と目を瞠った教師に、後付けの言い訳のように並べる。
「いえ、あれは仕事柄役に立つので、……」
「あぁそうでしたか。いやはいや、今回は私もお役目をいただけて嬉しい限りです」
「それは……、良かった」
ずきり、と額が痛んだ。うずく胸を押さえる。なんだろう、この感覚は。なにかを忘れているような。
はじまりはなんだったか、そういえば。言葉を習うきっかけは。
―つよいひと……
耳元でかすかな声がささやいた。しかし振り返っても誰もいない。てっきり敵襲かと袖の中でかまえた縄鏢を力なく下げた。激務で疲れすぎているのだろうか、とこめかみを抑えた。
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黒秤塔と呼ばれる建物のとある一部屋に入ると、そこは教室のように整えられていた。数人の男女が教壇のようなところに立っている。
みなが同じ服装をしていたので、彼らの制服なのかもしれない。支給されて自分が着ているものも、似ている。一人だけ通されて、ここまで案内してくれた女性は部屋を出ていってしまった。
心細さを感じながらも、彼らと向かい合うように立った。なにから切り出してよいかわからず、ようやく挨拶を口にした。
<……おはようございます>
<おはようございます。なまえさん、どうぞ、座ってください>
一人の、一番年かさかと思われる男性が返事を返してくれた。
名前を呼ばれたことに感嘆しつつ、彼から目線をはずさず腰かける。
<はい。私の言葉、わかる方がいたんですね>
<これは私の民族、故郷の言葉です。あなたの国の言語と同じか、似ているようですね>
<似ているどころか、まったくもって私の話すものと同じのようですが、私も同じ国から来たのでしょうか>
<残念だが。あなたと同じ国の出かというと違うでしょう。これはいまは一般にはほとんど使われていない、とても古い言語です。この二人も国は別々です。わずかながらあなたの言葉がわかるので呼ばれました。
質問にはできる限りお答えしますので、遠慮なくどうぞ>
<はい、ありがとうございます。よろしくお願いします>
<ではこれから、まずはこのシンドリア国の言葉について勉強しましょう。おいおいこのシンドリア国についても。
手始めに私の名前ですが、―>
スラスラと黒板に独特の文字が羅列された。
ここにはきちんと書き取りができるように机もあり、その上に筆記用具と紙が用意してあった。製紙技術はそこまで発達していないのか、触るとざらざらと少し肌にひっかかるような素材の、漂白されていない紙と、羽がついたペン。これをなまえが使っていいということだろう。教壇の隅で進行を書き留めている様子の男性のみようみまねでペンを握り、あわてて黒板を紙に写した。
お昼に一度、どうやら私の世話役らしい女性が迎えにきてくれた。
「こ……んにちは」
「こんにちは」
たどたどしく、習ったばかりの言葉を述べると、女性は驚きつつもちゃんと返事をしてくれた。
「―――――――――――」
その後に何かを続けられたが、理解できなかった。首をかしげると、先生から助け舟がでた。
<これから昼餉をとりにいきましょう、だそうです。ではなまえさん、また後程>
<あっ、ありがとうございます。はい、またあとで>
先生は侍女を一度引き留めて、すぐなまえのもとに戻してくれた。
「まだ基本の挨拶しかお教えしてませんけど、早く慣れるために話しかけてあげてください」
「わかりました。失礼します」
結局、挨拶以上の会話はほぼないままに、また食堂へ連れて食事をとらせてくれた。それでも一言でも通じたのがとてもうれしくて、自然とにこにこしてしまう。世話役もなまえの緊張のとれた様子を感じ取ったのか、いくぶん安心しているようだ。物を指さして名前を教えてくれたり、積極的に話しかけてくれたが、理解するにはとうていいたらなかった。けれども彼女は気にしていない様子だ。のんびりと食後のフルーツジュースまでいただいてから、教室へ送り届けてくれた。
質問することはまずなかった。言われることにうなずいて、黒板に書かれたことを写して、それだけで時間が経っていた。
<では、今日はここまでにしましょう。質問がありましたら、私はいつもこの塔におりますのでいつでもいらしてください>
<ありがとうございました。あの、紙は部屋に持って帰りたいのですが、ペンはこちらに置いていてもかまいませんか?>
授業内容を写した紙は復習のために手元においておきたいし、部屋にも机とペンは置いてあったからそれで事足りる。
<はい。かまいませんよ>
部屋を出るときに、ジャーファルとすれ違った。とっさに
「こーいち、は? えっと、違う、こ、にいちは?」
かけられたそれが午後の挨拶の言葉であると理解するのに少し時間がかかった。
「……こんにちは」
「あっ、こんにちは!こんにちは、です」
覚えた直後ならなめらかに口からでるが、また別な知識を頭につめこんでしばらくすれば、記憶はあやむやになる。そうとうな反復作業が必要そうだ。
正しい発音にそっと頷いて通り過ぎる。ここにきた目的はなまえではない。なにか言いたげにはしていたがそれを無視して彼女が出てきた扉を開けた。
振り向いた男性が、正式な礼をとる。
「ジャーファル殿。わざわざご足労を」
「いえ。少し寄っただけです。早速ですが彼女の様子はどうですか?」
「はじめこそ緊張しているようでしたが、おとなしいのはもともとの性格でしょう。真剣に授業を聞いてくれますし、礼儀もきちんとしています。
特段、妙なところはみえませんねぇ」
問いかければ真摯に向き合ううえ、教師陣を敬うしぐさもみられる。戸惑う様子は多々あるものの、境遇をかんがみれば許容の範囲内だ。
生徒としてあるべく真面目な態度に不満はない。
「そうですか。引き続き頼みましたよ。なにかあったら報告を」
「かしこまりました。さては以前のことは、彼女のようなこともあると予期してのことだったのですか?」
「以前?なんのことです」
「熱心に私の国の言葉を勉強なさっていたでしょう」
お忘れですか、と目を瞠った教師に、後付けの言い訳のように並べる。
「いえ、あれは仕事柄役に立つので、……」
「あぁそうでしたか。いやはいや、今回は私もお役目をいただけて嬉しい限りです」
「それは……、良かった」
ずきり、と額が痛んだ。うずく胸を押さえる。なんだろう、この感覚は。なにかを忘れているような。
はじまりはなんだったか、そういえば。言葉を習うきっかけは。
―つよいひと……
耳元でかすかな声がささやいた。しかし振り返っても誰もいない。てっきり敵襲かと袖の中でかまえた縄鏢を力なく下げた。激務で疲れすぎているのだろうか、とこめかみを抑えた。
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