淡雪は海に溶けた
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その後のことは、部分ぶぶんでしか覚えていない。
医者らしいいでだちの人間に簡単な身体検査をされ、着替えをさせられてから質素な部屋に通された。武器もなにも着の身着のまま、旅の用意すらなく知らぬ間にきてしまったのだ。海難事故に遭ったが幸運にも生きてシンドリアに流れ着いたという触れ込みで好意的な顔をして接してくれる人がほとんどだった。ただこれまで出会ったどんな人とも、言葉は通じなかった。挨拶も、お礼も、謝罪も、もののひとつひとつの名前に至るまでいっさいがっさいのものに符号しない。
体が重いのは、単なる疲労だけではなく精神的なものもあると思う。
ただ、命が助かったことが救いだった。もしあの場で暴れていたら。変に行動を起こしていたら、殺されていたっておかしくなかった。
あの血のしたたる剣が自身をつらぬいていたら。思わず身震いしてしまう。そう考えただけで息が止まりそうだ。
だいじょうぶ、と言い聞かせて窓辺へ歩み寄る。
この島の気候は夜でもそこまで冷えないのか、とても過ごしやすい。全体的に暗いが、ぽつぽつと在宅のしるしに光るやわらかい灯り。それよりも星の光は強烈で、空はこんなにも美しいものだったのかと目を疑う。
この目で見える景色は、まざまざと自分が知るものではない異国だということを証明していた。でも、その違和感はいやではなかった。
じっと耳を澄ませると、風の音がゆったりと気分を落ち着かせてくれる。
**
「なまえ、おそらく成人女性。身体は拷問の痕なし。手に武器を扱う様子なし。考えうる敵対国、友好国のいかなる言語への反応を見せず、洗脳されている可能性もない。
精神にやや不安定な状態がみられるが、今回まきこまれた海難事故にて発症した軽度のものであり、時間経過後安定するであろう、と。
以上、医師からの診断です」
重点的な項目だけを読み上げて、羊皮紙をくるりと丸め戻した。
「そうか。……ただの娘、か」
空になった杯に手酌で酒を注ぐ。ジャーファルはその手を咎めるようにみつめた。
「シン、あの子のことどうなさるおつもりですか。こともあろうに宮殿に引き入れるなんて」
祭りに便乗して酒を浴びるように呑んででろんでろんになる前にきいておきたかった。さいわいいまはまだ正気を保っている。いまシンドリアに『偶然迷い込んできた身寄りもなく言葉もわからないかわいそうな娘』が身包みはがされて調べられているうちに。
「見捨てるのもしのびないだろ。これもなにかの縁だ。見たところ記憶も事故のショックでほとんど無くしているようだし。己の故郷も忘れてしまっていては帰すこともできまいよ」
「そんなふうにして難民を宮殿に保護していたらきりがないんですが。それこそただの娘というのなら、街のほうにでも置いておけば勝手に生きていけるでしょう」
「わかってるさ。だがあの娘のルフ……特別なものを感じる。しばらく良いようにしてやってくれ」
「……あなたがそう言うのでしたら」
あからさまに気が進まない、という態度を隠さないまま口だけは従順に。
「それはそうと、どうしてお前、あの娘の話す言葉がわかったんだ」
あの言語、それはまさしく、ジャーファル自身も不思議に思っていることだった。どこでだか、自分で勉強したのだったか、いやそれよりも遠い昔にだれかから習ったような。いままで記憶から抹消されていたものが、あの子がおびえている姿をみて、口からするりとついて出ていた。
「えぇ……私も……忘れていたのですが、昔、習ったものです。北のほうの言語だったかもしれません」
ふだんはっきり話すジャーファルらしくなく、ぶつりぶつりと切れる言葉をやっとのことでつなげていた。おや、とも思ったがシンドバッドも大したことはないと流した。
「まぁ良い。役に立ったからな」
やるからにはきっちり徹底する男だ。さっそく対応にとりかかるだろう背中ににやりとして軽くなった杯を傾けた。
「お前もどこかであの子に感じるものがあったんだろ、ジャーファル」
敵とみなした相手には容赦なくその狂気のまま牙を向ける王の右腕。分別つけかねているのかもしれないが、あの子なら大丈夫だと本能で知っているはずだ。否定はしなかったが肯定もしない。ただ釘をさしておくことしかできない。
「……気は抜かないでくださいよ」
****
部屋でぼうっと窓から外を眺めていると、来訪を知らせる扉を叩く音がした。こういったとき、なんと返事をしたほうが良いのだろう。わからぬまま無言で扉を開けると、仏頂面であの彼が立っていた。中に通すものの、彼から噴き出す空気が張り詰めていて息が詰まりそうだ。
<私はジャーファルです。この国で文官長を担っています>
改めて名を明かされ、理解したと意思表示のためにこっくりと頷いた。だがさほど関心も示されなかったので、もしかしたら返事は必要とされていなかったのかもしれない。ジャーファル、ジャーファルと心の中で唱えると、どうしてか胸の内で優しく響いた。
<これからあなたはここで過ごす。黒秤塔に通うことになるだろう>
<黒秤塔……>
<学び舎がある。あなたはこの国の言語を学ぶべきだ。そこにはあなたの国に詳しい者もいるだろう。それから学ぶのだ。明日案内を遣わす。何かあれば聞いておきましょう>
<あ、いえ……お世話に、なります>
おどおどしながら、ぺこりと頭を下げる。
<怖がることはない。あなたが事を起こさない限り、悪いようにはならない>
その人は表情を崩さずに言いきって、去っていこうとした。あわてて背中に叫ぶ。
<あの、本当にありがとうございます!>
ゆっくり振り返り、首を左右に振った。意味が通じなかったのかと思って、何度もくりかえした。
<感謝の言葉です。ありがとう。私を助けてくださって、ありがとうございます>
「楽観はしないでください。場合によっては、あなたは見捨てられてしまうかもしれないのですよ」
通じていないだろう言語で、通じてほしくないことを告げる。なにしろシンドリアは国として成り立ったばかりでまだ未完成であり、こんな自体に応対している余裕があるとは言いがたい。いかに政がうまくいっているかのように見えたとて、まだ問題は山積みだ。それなのに得体の知れない足手まといといってもいい小娘を宮中に召し上げて、いったいどうなるというのか。
思惑どおり、相手が首をかしげ、困ったような表情で戸惑っている。大人げない、これではいじめているようなものではないか。
<どう、いたしまして>
通訳する代わりにそれだけを告げると彼女はにっこり笑った。出会ってから、はじめての心からの笑み。
<それでは>
その目線を振り切るようにして彼女の部屋を出た。背中越しに、ジャーファルからすれば事務的な、なまえからすればこの世界の救い主とのその逢瀬の名残を惜しむようにして静かに扉が閉まった。
あの、まるでジャーファルのことを信頼しきっていて、疑いなどこれっぽっちもしていないかのような態度。世間知らずで無垢。普通に出会っていれば、なんの変哲もない女性だ。むしろ穏和で騙されやすそうな、すすんで庇護すべき対象のように見える。そのことに心を痛めつつ、まだ不確かな存在に警戒心を捨てきれないのも事実だった。
ジャーファルが信じているのは、シンと、国王と志を同じくする者たちのみ。
彼女のことは、わからない。
身に染みた出会いの手法に辟易する。が、長年の経験からしてこれが最善であるのも確かだった。
どうか彼女がシンの味方でありますように。
そっと息を吐いた。
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その後のことは、部分ぶぶんでしか覚えていない。
医者らしいいでだちの人間に簡単な身体検査をされ、着替えをさせられてから質素な部屋に通された。武器もなにも着の身着のまま、旅の用意すらなく知らぬ間にきてしまったのだ。海難事故に遭ったが幸運にも生きてシンドリアに流れ着いたという触れ込みで好意的な顔をして接してくれる人がほとんどだった。ただこれまで出会ったどんな人とも、言葉は通じなかった。挨拶も、お礼も、謝罪も、もののひとつひとつの名前に至るまでいっさいがっさいのものに符号しない。
体が重いのは、単なる疲労だけではなく精神的なものもあると思う。
ただ、命が助かったことが救いだった。もしあの場で暴れていたら。変に行動を起こしていたら、殺されていたっておかしくなかった。
あの血のしたたる剣が自身をつらぬいていたら。思わず身震いしてしまう。そう考えただけで息が止まりそうだ。
だいじょうぶ、と言い聞かせて窓辺へ歩み寄る。
この島の気候は夜でもそこまで冷えないのか、とても過ごしやすい。全体的に暗いが、ぽつぽつと在宅のしるしに光るやわらかい灯り。それよりも星の光は強烈で、空はこんなにも美しいものだったのかと目を疑う。
この目で見える景色は、まざまざと自分が知るものではない異国だということを証明していた。でも、その違和感はいやではなかった。
じっと耳を澄ませると、風の音がゆったりと気分を落ち着かせてくれる。
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「なまえ、おそらく成人女性。身体は拷問の痕なし。手に武器を扱う様子なし。考えうる敵対国、友好国のいかなる言語への反応を見せず、洗脳されている可能性もない。
精神にやや不安定な状態がみられるが、今回まきこまれた海難事故にて発症した軽度のものであり、時間経過後安定するであろう、と。
以上、医師からの診断です」
重点的な項目だけを読み上げて、羊皮紙をくるりと丸め戻した。
「そうか。……ただの娘、か」
空になった杯に手酌で酒を注ぐ。ジャーファルはその手を咎めるようにみつめた。
「シン、あの子のことどうなさるおつもりですか。こともあろうに宮殿に引き入れるなんて」
祭りに便乗して酒を浴びるように呑んででろんでろんになる前にきいておきたかった。さいわいいまはまだ正気を保っている。いまシンドリアに『偶然迷い込んできた身寄りもなく言葉もわからないかわいそうな娘』が身包みはがされて調べられているうちに。
「見捨てるのもしのびないだろ。これもなにかの縁だ。見たところ記憶も事故のショックでほとんど無くしているようだし。己の故郷も忘れてしまっていては帰すこともできまいよ」
「そんなふうにして難民を宮殿に保護していたらきりがないんですが。それこそただの娘というのなら、街のほうにでも置いておけば勝手に生きていけるでしょう」
「わかってるさ。だがあの娘のルフ……特別なものを感じる。しばらく良いようにしてやってくれ」
「……あなたがそう言うのでしたら」
あからさまに気が進まない、という態度を隠さないまま口だけは従順に。
「それはそうと、どうしてお前、あの娘の話す言葉がわかったんだ」
あの言語、それはまさしく、ジャーファル自身も不思議に思っていることだった。どこでだか、自分で勉強したのだったか、いやそれよりも遠い昔にだれかから習ったような。いままで記憶から抹消されていたものが、あの子がおびえている姿をみて、口からするりとついて出ていた。
「えぇ……私も……忘れていたのですが、昔、習ったものです。北のほうの言語だったかもしれません」
ふだんはっきり話すジャーファルらしくなく、ぶつりぶつりと切れる言葉をやっとのことでつなげていた。おや、とも思ったがシンドバッドも大したことはないと流した。
「まぁ良い。役に立ったからな」
やるからにはきっちり徹底する男だ。さっそく対応にとりかかるだろう背中ににやりとして軽くなった杯を傾けた。
「お前もどこかであの子に感じるものがあったんだろ、ジャーファル」
敵とみなした相手には容赦なくその狂気のまま牙を向ける王の右腕。分別つけかねているのかもしれないが、あの子なら大丈夫だと本能で知っているはずだ。否定はしなかったが肯定もしない。ただ釘をさしておくことしかできない。
「……気は抜かないでくださいよ」
****
部屋でぼうっと窓から外を眺めていると、来訪を知らせる扉を叩く音がした。こういったとき、なんと返事をしたほうが良いのだろう。わからぬまま無言で扉を開けると、仏頂面であの彼が立っていた。中に通すものの、彼から噴き出す空気が張り詰めていて息が詰まりそうだ。
<私はジャーファルです。この国で文官長を担っています>
改めて名を明かされ、理解したと意思表示のためにこっくりと頷いた。だがさほど関心も示されなかったので、もしかしたら返事は必要とされていなかったのかもしれない。ジャーファル、ジャーファルと心の中で唱えると、どうしてか胸の内で優しく響いた。
<これからあなたはここで過ごす。黒秤塔に通うことになるだろう>
<黒秤塔……>
<学び舎がある。あなたはこの国の言語を学ぶべきだ。そこにはあなたの国に詳しい者もいるだろう。それから学ぶのだ。明日案内を遣わす。何かあれば聞いておきましょう>
<あ、いえ……お世話に、なります>
おどおどしながら、ぺこりと頭を下げる。
<怖がることはない。あなたが事を起こさない限り、悪いようにはならない>
その人は表情を崩さずに言いきって、去っていこうとした。あわてて背中に叫ぶ。
<あの、本当にありがとうございます!>
ゆっくり振り返り、首を左右に振った。意味が通じなかったのかと思って、何度もくりかえした。
<感謝の言葉です。ありがとう。私を助けてくださって、ありがとうございます>
「楽観はしないでください。場合によっては、あなたは見捨てられてしまうかもしれないのですよ」
通じていないだろう言語で、通じてほしくないことを告げる。なにしろシンドリアは国として成り立ったばかりでまだ未完成であり、こんな自体に応対している余裕があるとは言いがたい。いかに政がうまくいっているかのように見えたとて、まだ問題は山積みだ。それなのに得体の知れない足手まといといってもいい小娘を宮中に召し上げて、いったいどうなるというのか。
思惑どおり、相手が首をかしげ、困ったような表情で戸惑っている。大人げない、これではいじめているようなものではないか。
<どう、いたしまして>
通訳する代わりにそれだけを告げると彼女はにっこり笑った。出会ってから、はじめての心からの笑み。
<それでは>
その目線を振り切るようにして彼女の部屋を出た。背中越しに、ジャーファルからすれば事務的な、なまえからすればこの世界の救い主とのその逢瀬の名残を惜しむようにして静かに扉が閉まった。
あの、まるでジャーファルのことを信頼しきっていて、疑いなどこれっぽっちもしていないかのような態度。世間知らずで無垢。普通に出会っていれば、なんの変哲もない女性だ。むしろ穏和で騙されやすそうな、すすんで庇護すべき対象のように見える。そのことに心を痛めつつ、まだ不確かな存在に警戒心を捨てきれないのも事実だった。
ジャーファルが信じているのは、シンと、国王と志を同じくする者たちのみ。
彼女のことは、わからない。
身に染みた出会いの手法に辟易する。が、長年の経験からしてこれが最善であるのも確かだった。
どうか彼女がシンの味方でありますように。
そっと息を吐いた。
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