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川姫

「大通りの呉服屋」

土瓶蒸しが口にした店の名前に、女の動きが一瞬止まる。

「私のお得意さんの一つなんですが、ちょっとした騒ぎがあったみたいでしてな。
何でも、大事な一人娘が手代の一人と駆け落ちをしたとの事で。
血眼になって探し回っているみたいですが、二人共上手い事逃げおおせたのか、未だに行方不明なんだとか。
ただ……見覚えのある草履が二つ、川上で見つかったらしくて」
「………………」
「呉服屋の旦那は頑なに認めようとしまへんが、店の者や周囲の人達のほとんどはこう言うてます。
二人は、もう……」

ちらりと視線を向ければ女はうつ向いており、その表情はわからない。

「……こないな所で一人、大切な彼女が夜な夜なさ迷い歩いているなんて知ったら、彼氏さんはどない思いはるやろな」
「……あたしは……」

『彼氏』という言葉に一瞬女が動揺する様を、土瓶蒸しは見逃さない。

「胸に手を当てて、もう一度よく考えなはれ。
あんさんが命を捨ててまで添い遂げたかった彼氏さんは、ほんまに私ですか?」

強い問いかけの言葉に、女はしばらく黙り込み……

「……じゃあ、どうして……
どうしてあの人は……今、あたしの側にいてくれなイのさ……」

低い、まるで地の底から響くかの様な恐ろしく低い声をその唇から吐き出しながら、女は土瓶蒸しへと顔を向ける。
その一瞬の動作の間で、女の姿は恐ろしく変貌を遂げていた。
青白かった頬は皮膚がこ削げ、所々でむき出しになり露(あらわ)になる乾いた骨。
辛うじて残っている肌はより一層生気を感じさせず、簪が外れ散らばった長い黒髪は、川から上がったばかりであるかの様に濡れ始め素肌や衣服に張りついている。
黒いもやははっきりと見えるまでに濃くなり、その全身を包み込む。
そして空洞と化した目の中に広がる、底知れぬ闇。
そこにまだ眼球が存在していれば、どんよりとした眼差しを向けてきたのだろうか。

「一緒にいると言った……
例え冥土の奥地へ堕ちても、必ず再会しようと誓った……
来世は二人で、幸せになろうと約束した……それならどうして?
どうして今、ここにいてくれないんだい?隣にいてくれないんだい?
あたしだけくたばっちまってさ、あの人は行方知れずで、何処かで生きてあたしをおいていっちまった。
怖くなったんだ、逃げちまったんだよ。
酷いじゃないかい、あんまりじゃないかい。
こんな風に一人寂しくさせるなら、いっそ飛び込む前に捨ててくれれば良かったんだ。
未練を残すななんて無理だよ。
こんなの……あんまりじゃないかい」

突如女の黒いざんばら髪が伸び、土瓶蒸しの腕や首に鬱蒼と絡まる。

「許さない許さない許サなイ許さない許サナイ許さない許サナイ許さない許さナイ」

人間の口から出ているとは思えない恐ろしい憎悪にまみれた声で何度も何度も呪詛を吐き出す怪異を前にして、土瓶蒸しは動揺も抵抗もせずただただ『彼女』を見つめている。

「答エテヨ!!」

錯乱する怪異が振り上げた腕が、土瓶蒸しに当たる寸前。

「やめるんだ、そよ!!」

何者かの声が鳴り響き、ピタリと怪異の動きが止まる。
土瓶蒸しが声の聞こえた方へ視線を向けると、そこには一人の男が立っていた。

「そよ、俺が誰かわかるか?」
「……平七さん……?」

こちらへ近づいて来る男ーー平七を見て怪異は明らかに動揺を隠せずにいる。
その隙を逃さず土瓶蒸しは緩んだ拘束から逃れ、少し後ろに下がり二人の様子を見守りながら告げる。

「彼とはつい先日、知り合いましてな。
ここから下流にある深い池に飛び込もうとしているところを、私が引き留めたんです。
理由を聞いたら、大事な人と共に逝く事が叶わなかったとか。
彼女を待たせるわけにはいかない、一刻も早くその人の元へいかなければ……と」

土瓶蒸しの言葉に、怪異と化していたーーそよと呼ばれた女は平七を見つめる。
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