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川姫

今宵も月の光が見えない、桜の島での夜のこと。
ぼんやりと心もとない星空の明かりのみでは、木々の生い茂った薄暗い大地を照らしきる事は難しく。
足元に置いた提灯明かりの仄かな光だけが、川の畔(ほとり)で佇む男女を包んでいる。

「静かね……」

いつから側に立っていたのか。
気がつかぬ間にそこにいた見知らぬ女に腕を絡められ、だが優男は驚きも振り払うこともせず相手の様子を伺う。
簪(かんざし)でまとめた黒く艶めく美しい髪、不健康そうに見える青白い肌、多少着古した様子が伺えるも上質な着物、こちらをねっとりと見つめ薄気味悪さを覚える笑みを浮かべる女性。
その全身には、うっすらと黒いもやの様なものがまとわりついている様に見える。
明かりに照らされるその姿は大きく咲き開く芍薬というよりも、美しさの中に仄かな冷気を感じさせる……竜胆の様だと、彼は思った。

「何でも最近、恐ろしい幽霊が川の辺りをさ迷い歩いてるらしくて、誰もがここを避けているようですよ。
その幽霊は近くを通る人間を誑かし、水の中に引きずり込むらしいとか」
「まぁ、それは怖い……
兄さん、何か出てきたらあたしを守ってくれませんか?」
「構いませんけど……そういう事は、私より彼氏さんに頼んだ方が良いと思いますよ」
「えぇ……だからこうして、兄さんに頼んでいるのよ」

うっとりと恍惚の、だが獲物を逃さないと言わんばかりの鋭い眼差しでい抜かれて。
彼女の袖の隙間からちらりと、少々茶ばみがかった骨が男の視界に入る。
明らかに、彼女は人ならざる者である。
身の毛もよだつ出で立ちに、気の弱い者ならば恐怖に支配され、何も言い返せず震えるだけであろう。
だが男は怯むことなく、彼女から目をそらさずハッキリと告げる。

「娘さん、本当はわかっているでしょう?
私は土間といいます。ただの流れの商人です。
あんさんの想い人と違いますよ」
「……いいえ、兄さんはあたしの想い人。
やっと帰ってきてくれた、大事な大事な想い人。
そんな意地悪を言って……酷い人ね」

誤魔化しているのか、もはや記憶も朧気(おぼろげ)なのか。
くすくすと笑い取り合わぬ相手に人間名である『土間』と名乗った土瓶蒸しは、どう説得したものかと案を練る。

「兄さん、あたしね……もう疲れちゃったわ。
父さんや店の者にバレないように夜を待って、やっと二人きりになってもすぐに別れなくちゃいけないなんて。
一時の会瀬ばかり重ねて、苦しい想いばかりが募ってこの身も心も焼き焦がして。
兄さんは、あたしと一緒にいられなくて辛くないの?」
「私が彼氏さんならそないな事は……と返すでしょうね」
「あぁ……兄さんも同じ気持ちなのね」

嬉しいわ、と女は土間の腕を掴む手に更に力を込める。

「いつバレるかひやひやするのも、見つかればどんな折檻を受けるのかと怯えるのも今日でおしまい。
ここで二人一つになれば、全てが解決する。
兄さんも店を追い出されて路頭に迷う心配はないし、私も遠くに嫁に行かなくて済む。
離ればなれにならずに済むんだよ」

今生で結ばれる事が叶わない、だから未来に期待を抱き三途の川を共に渡ろうというのだろう。

(こないな終わり方を選んだ者が罪とみなされず許しを得られるというのなら、それもあり得るかもしれまへんが……)

きっとあの世は二人を許さないだろうな、と土瓶蒸しは他人事ながら気の毒に思った。

「さぁ、来世へ参りましょう……」

女性は考えにふける土瓶蒸しの腕を引き、入水の道連れにしようとする。
その力は、儚気な様子からは想像も出来ない程に強い。
抵抗しようと振り払う事も出来ず、哀れな犠牲者は水中に引きずり込まれてしまうだろう。
……普通なら。
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