輪郭のない証拠
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歓声が上がった会場でなまえは一人、黄色に灯したペンライトを握りしめて高鳴る心臓を必死に抑え付けながら耳を澄ませる。
「……すごい」
彼の姿は見れなかった。それでもファンの声援、スピーカーの振動、演出の熱気、それら全てを耳と肌で感じ取れる。見えなくても十分過ぎるライブに、なまえは目頭が熱くなった。彼がステージのどこで、どんな顔をして歌っているのかは分からない。けれども、彼が積み上げてきたものの凄さは感じられる。ただ、一つだけ心残りが胸を締めた。
ライブを終えたなまえは、翌日そのまま実家へ向かった。両親には、手術の内容と医師から受けた説明を一つずつ伝えた。質問にも、迷うことなく答えた。少しの不安はあれど、もう迷いはない。それは手術当日も同じだった。数時間にも及ぶ手術を受けたなまえは穏やかな表情で眠っている。
「、お疲れ様……」
暗い病室で仁人はなまえの手を握った。カーテンの隙間から青白い光が差し込む。重なった二人の手を、その光が淡く照らす。仕事の隙間を縫って、面会時間を過ぎてから無理を言って顔を見に来た。
「……包帯が取れる時にまた来るから。おやすみ」
なまえの額にキスを落とし、名残惜しそうに頬を撫でる。瞳の奥が小さく震え、眉を寄せた。
窓際には、もう冷たい夜気が滲んでいる。
◆ ◆
手術から数週間後、漸く遮光の期間が明ける日が来た。その日の仁人は撮影を終えると誰よりも早く帰り支度を済ませる。
「太ちゃんより早いなんて、仁ちゃんってこの後に急ぎの仕事あったっけ?」
ゆっくりと着替えをしている舜太が仁人に問い掛けるが返事はなく、鏡に向かい入念にヘアセットの確認をしていた。
「服もめっちゃ気合い入ってるし、私服で撮影のヤツなんか入ってた?」
「あ、本当だ!ジャケットもブーツも新品じゃん!」
太智と舜太のやり取りに、一瞬だけ動きが止まった仁人は鏡から二人に視線を移すと「うるさい」と一言吐き捨て、鞄を肩に掛けそのまま楽屋を後にした。残された二人は顔を見合わせ同時に首を傾げる。それを黙って見ていた柔太朗はクツクツと喉の奥で笑った。
「二人とも察しが悪なぁ。よっしーが気合いを入れて会いに行く人なんて一人しか居ないっしょ?」
「、そっか、そういう事!」
「吉田さんのそういう所、ヤラシイわー!」
三人の冷やかしの声を耳に入れる事なくそそくさとタクシーに乗り込んだ。
『——日中でも完全な暗闇状態は初めてだから、仁人が来てくれて助かるよ』
『そっか、手術前はぼやっとでも見えてた訳だもんな』
『磨りガラス越しの世界でも今よりは全然動けたし、怖くないんだなって改めて思ったよ』
『、……』
『だから見えないけど、傍に居てくれるだけで安心するの……だから、ありがとね』
日差しにまだ暖かさが残っているのに、頬を撫でる風は冷たかった。仁人は、あの日の事をタクシーの車内で思い出す。冷える指先を温めてあげることしか出来なかった。
そんな事を考えながら病院に着いた。足早になまえの病室に向かう。 地方も回るツアーの最中、時間を見つけては足を運んだ病室だった。その扉の前に立ち、呼吸を整え様とするが鼓膜にまで拍動を感じる。震える手で扉を開けた。その動作さえ妙に重たく感じる。扉を開けた先には自身が来るのを分かっていたなまえが既にこちらを向いていた。
「——いらっしゃい、仁人」
「お、おう……」
だが、その目とは視線が合わなかった。
瞬きを繰り返す仁人は、ゆっくりとベッドに近付き縁に腰掛ける。以前と変わらず確かめる様にペタペタと仁人の体を触り、なまえはそのままギュッと抱き付いた。冷たい外気を纏った仁人の服から、少し癖のあるスパイシーな香りが鼻腔を擽る。
「……よかった」
何度も隣で感じてきた仁人の香りになまえは目を細める。
「なまえ?」
「大丈夫だよ、経過は順調だって」
顔を上げたなまえは仁人を見上げる。少し細めた焦点の合わない瞳。
「神様っていじわるだよね」
「ん?」
「こんなに焦らさなくても、いいのに……」
なまえの手が仁人の頬を滑りフェイスラインを辿っていく。いつものように触れているだけのはずだった。けれど、指先から伝わる体温と、近くにある彼の匂いに、なまえは僅かに息を詰めた。
触れていた指先が頬の輪郭で止まる。
ゆっくりと二人の距離は縮まり、二人の唇が静かに重なった。
「……ねぇ」
呼んだ声が、思っていたより近い。
これ以上はやめておこうと、そう思うのに、伸ばした手を引くことができなかった。
「仁人もそう思わない?」
焦点の合わない瞳が、今は酷く艶めいて見え、仁人は思わず息を呑む。気合いを入れてきたはずなのに、すっかり翻弄されている。苦笑する様に一度目を伏せ、そのままなまえを抱き寄せた。
◆ ◆
「——だから、この間会った時にも言ったけど、通院で良いって事は今まで通りの生活で大丈夫って事なの」
『それは分かってるよ。それとは別に何か困ってる事とか、変わった事とかないかって話』
「んー……手術前よりも言われてみればくっきりしてる?って感じだから、今までと本当に変わりないんだってば」
通話口で食い下がる仁人になまえは眉を寄せ、「それよりも」と切り返す。
「忙しさなら仁人の方じゃないの?年末まで特番とか歌番組とかスケジュール詰め詰めなんじゃない?」
『それは、そうだけどさぁ……十二月は……』
「大阪公演でしょ?それまで無理して体壊さないでね」
『……分かった』
仁人の歯切れの悪さはなまえも気が付いている。それでも、スケジュールを考えて気付かないフリをした。
通話切るとなまえはテーブルに置いてある紙袋を撫でた。
「、付けてるところ、見たかったな……」
瞬きと同時に雫が落ちた。紙袋を濡らして、なまえは慌てて拭き取る。誕生日当日は、きっと会えない。そう分かっていたから、プレゼントだけでも渡せたらと思っていた。なまえは紙袋をそっとテーブルの端へ寄せた。
誕生日の瞬間は、仁人は事務所の一室でメンバーと一緒に配信ライブを行った。なまえは自宅でその配信を聴いている。自分の入り込む隙は今はない。いつの日か仁人から聴いた勇斗の言葉を思い出し、途中で配信を閉じた。
大事な時期に、自分が仁人の足を引っ張ってはいけないと、メッセージだけ送り気持ちを切り替える。直ぐに返事が来なくとももう不安は感じなかった。
そんな時、不意にインターフォンが鳴りなまえは大きく肩を震わせる。慌てて通話ボタンを押すと仁人の声がした。
「待って、なんで!?さっきまで——」
「——会いたかったから」
「ばか、ちょっと待ってて」
紙袋を手に取るとなまえはエントランスへと走る。階数数表示が見えずもどかしく思いながらも、開閉音が聞こえエレベーターを降りると、そのまま扉の前で待っていた仁人の腕の中にすっぽりと収まった。一瞬理解が遅れて固まるなまえだが、少し距離を置き紙袋を渡す。
「誕生日、おめでとう」
「え、」
「当日に渡せて良かった」
「俺も会えて良かった」
「、ごめんね。変な気を使っちゃって」
なまえは笑いながら仁人に抱き付く。付けた姿を見たい、そんな想いはもうなまえの中にはなかった。
◆ ◆
師走の忙しさに追われる中、なまえは小さな違和感を覚え始めていた。それは日に日に確かなものへと変わっていき、ついになまえは忙しい事を承知で仁人を呼び出す。
窓際でも、通りが見える席でもない。店の一番奥、物音が少なく、それでいて店員の動きだけは把握しやすい場所。なまえはいつも通り、珈琲と共にそこに座っていた。
【待たせてごめん!
打ち合わせが終わったから、今からそっちに向かう】
通知に気付いてメッセージを見ると鼓動が早まるのを感じる。震える指でカップを掴むとカタカタとソーサーに当たり溜息を漏らす。いつになく落ち着かない様子のなまえはテーブルに突っ伏しやり過ごした。マスターが珈琲を淹れる音、時計の秒針、誰かが歩く度に軋む床。そして、ドアベルと何度も聴いたあの足音。
心臓が一気に跳ねた。
「——なまえ、体調でも」
その声と同時に立ち上がると距離を詰める。緊張で震える指先は、急いで来た仁人の頬を冷やす。いつもと変わらないなまえの行動。けれども仁人を見つめる瞳は揺らがなかった。
「、なまえ?」
仁人の問いには答えず、眉を寄せたなまえの目に涙を浮かぶ。怪訝な表情を浮かべ首を傾げた仁人をなまえの瞳が追う。それを見た仁人は、溢れそうな程大きく目を見開く。
「、この距離じゃないと……分かんないけど……」
絞り出す様になまえが呟く。仁人は声にならない歓声を噛み殺すように、拳を握りしめた。
「大人になった仁人は、そうやって笑うんだね」
なまえも釣られて笑う。
久し振りに見た笑顔。プレゼントで渡したマフラー。
「ふわふわの髪型、似合ってる」
「流石にもう、あの頃ののりもちじゃないって!」
「のりもち?」
「あー、変な事は覚えなくていい!でもこんな事ならもっとちゃんとしてくれば良かった」
その場に蹲る仁人に合わせてなまえもしゃがみ込む。驚いて、笑って、焦って、落ち込む、その姿一つひとつが愛おしくなまえの口元はそっと弧を描く。
暫くなまえはその表情を見つめていた。
「ねぇ、仁人」
「ん?」
「もう一回、笑って?」
「……なんで?」
「見たいから」
一瞬だけ目を丸くした仁人は、直ぐに顔を逸らし椅子に座った。メニュー表を開いて顔を隠す。
「もう見なくていいよ……」
「アイドルなんだからちょっとくらい営業スマイルくらいしてくれても良いでしょ?」
「無理ムリ。俺そっちも落第生だから」
「……そういうの、いらないから」
なまえは仁人からメニュー表を取り上げると、そのまま仁人の膝に腰を下ろして距離を縮める。耳まで真っ赤になった仁人はマフラーに顔埋めた。
「苺のパフェ奢るから勘弁して」
「パンケーキが良い」
「じゃあそっちで」
いつもの定位置に座り直したなまえは、今度はしっかりとカップを持ち珈琲を飲んだ。
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「……すごい」
彼の姿は見れなかった。それでもファンの声援、スピーカーの振動、演出の熱気、それら全てを耳と肌で感じ取れる。見えなくても十分過ぎるライブに、なまえは目頭が熱くなった。彼がステージのどこで、どんな顔をして歌っているのかは分からない。けれども、彼が積み上げてきたものの凄さは感じられる。ただ、一つだけ心残りが胸を締めた。
ライブを終えたなまえは、翌日そのまま実家へ向かった。両親には、手術の内容と医師から受けた説明を一つずつ伝えた。質問にも、迷うことなく答えた。少しの不安はあれど、もう迷いはない。それは手術当日も同じだった。数時間にも及ぶ手術を受けたなまえは穏やかな表情で眠っている。
「、お疲れ様……」
暗い病室で仁人はなまえの手を握った。カーテンの隙間から青白い光が差し込む。重なった二人の手を、その光が淡く照らす。仕事の隙間を縫って、面会時間を過ぎてから無理を言って顔を見に来た。
「……包帯が取れる時にまた来るから。おやすみ」
なまえの額にキスを落とし、名残惜しそうに頬を撫でる。瞳の奥が小さく震え、眉を寄せた。
窓際には、もう冷たい夜気が滲んでいる。
◆ ◆
手術から数週間後、漸く遮光の期間が明ける日が来た。その日の仁人は撮影を終えると誰よりも早く帰り支度を済ませる。
「太ちゃんより早いなんて、仁ちゃんってこの後に急ぎの仕事あったっけ?」
ゆっくりと着替えをしている舜太が仁人に問い掛けるが返事はなく、鏡に向かい入念にヘアセットの確認をしていた。
「服もめっちゃ気合い入ってるし、私服で撮影のヤツなんか入ってた?」
「あ、本当だ!ジャケットもブーツも新品じゃん!」
太智と舜太のやり取りに、一瞬だけ動きが止まった仁人は鏡から二人に視線を移すと「うるさい」と一言吐き捨て、鞄を肩に掛けそのまま楽屋を後にした。残された二人は顔を見合わせ同時に首を傾げる。それを黙って見ていた柔太朗はクツクツと喉の奥で笑った。
「二人とも察しが悪なぁ。よっしーが気合いを入れて会いに行く人なんて一人しか居ないっしょ?」
「、そっか、そういう事!」
「吉田さんのそういう所、ヤラシイわー!」
三人の冷やかしの声を耳に入れる事なくそそくさとタクシーに乗り込んだ。
『——日中でも完全な暗闇状態は初めてだから、仁人が来てくれて助かるよ』
『そっか、手術前はぼやっとでも見えてた訳だもんな』
『磨りガラス越しの世界でも今よりは全然動けたし、怖くないんだなって改めて思ったよ』
『、……』
『だから見えないけど、傍に居てくれるだけで安心するの……だから、ありがとね』
日差しにまだ暖かさが残っているのに、頬を撫でる風は冷たかった。仁人は、あの日の事をタクシーの車内で思い出す。冷える指先を温めてあげることしか出来なかった。
そんな事を考えながら病院に着いた。足早になまえの病室に向かう。 地方も回るツアーの最中、時間を見つけては足を運んだ病室だった。その扉の前に立ち、呼吸を整え様とするが鼓膜にまで拍動を感じる。震える手で扉を開けた。その動作さえ妙に重たく感じる。扉を開けた先には自身が来るのを分かっていたなまえが既にこちらを向いていた。
「——いらっしゃい、仁人」
「お、おう……」
だが、その目とは視線が合わなかった。
瞬きを繰り返す仁人は、ゆっくりとベッドに近付き縁に腰掛ける。以前と変わらず確かめる様にペタペタと仁人の体を触り、なまえはそのままギュッと抱き付いた。冷たい外気を纏った仁人の服から、少し癖のあるスパイシーな香りが鼻腔を擽る。
「……よかった」
何度も隣で感じてきた仁人の香りになまえは目を細める。
「なまえ?」
「大丈夫だよ、経過は順調だって」
顔を上げたなまえは仁人を見上げる。少し細めた焦点の合わない瞳。
「神様っていじわるだよね」
「ん?」
「こんなに焦らさなくても、いいのに……」
なまえの手が仁人の頬を滑りフェイスラインを辿っていく。いつものように触れているだけのはずだった。けれど、指先から伝わる体温と、近くにある彼の匂いに、なまえは僅かに息を詰めた。
触れていた指先が頬の輪郭で止まる。
ゆっくりと二人の距離は縮まり、二人の唇が静かに重なった。
「……ねぇ」
呼んだ声が、思っていたより近い。
これ以上はやめておこうと、そう思うのに、伸ばした手を引くことができなかった。
「仁人もそう思わない?」
焦点の合わない瞳が、今は酷く艶めいて見え、仁人は思わず息を呑む。気合いを入れてきたはずなのに、すっかり翻弄されている。苦笑する様に一度目を伏せ、そのままなまえを抱き寄せた。
◆ ◆
「——だから、この間会った時にも言ったけど、通院で良いって事は今まで通りの生活で大丈夫って事なの」
『それは分かってるよ。それとは別に何か困ってる事とか、変わった事とかないかって話』
「んー……手術前よりも言われてみればくっきりしてる?って感じだから、今までと本当に変わりないんだってば」
通話口で食い下がる仁人になまえは眉を寄せ、「それよりも」と切り返す。
「忙しさなら仁人の方じゃないの?年末まで特番とか歌番組とかスケジュール詰め詰めなんじゃない?」
『それは、そうだけどさぁ……十二月は……』
「大阪公演でしょ?それまで無理して体壊さないでね」
『……分かった』
仁人の歯切れの悪さはなまえも気が付いている。それでも、スケジュールを考えて気付かないフリをした。
通話切るとなまえはテーブルに置いてある紙袋を撫でた。
「、付けてるところ、見たかったな……」
瞬きと同時に雫が落ちた。紙袋を濡らして、なまえは慌てて拭き取る。誕生日当日は、きっと会えない。そう分かっていたから、プレゼントだけでも渡せたらと思っていた。なまえは紙袋をそっとテーブルの端へ寄せた。
誕生日の瞬間は、仁人は事務所の一室でメンバーと一緒に配信ライブを行った。なまえは自宅でその配信を聴いている。自分の入り込む隙は今はない。いつの日か仁人から聴いた勇斗の言葉を思い出し、途中で配信を閉じた。
大事な時期に、自分が仁人の足を引っ張ってはいけないと、メッセージだけ送り気持ちを切り替える。直ぐに返事が来なくとももう不安は感じなかった。
そんな時、不意にインターフォンが鳴りなまえは大きく肩を震わせる。慌てて通話ボタンを押すと仁人の声がした。
「待って、なんで!?さっきまで——」
「——会いたかったから」
「ばか、ちょっと待ってて」
紙袋を手に取るとなまえはエントランスへと走る。階数数表示が見えずもどかしく思いながらも、開閉音が聞こえエレベーターを降りると、そのまま扉の前で待っていた仁人の腕の中にすっぽりと収まった。一瞬理解が遅れて固まるなまえだが、少し距離を置き紙袋を渡す。
「誕生日、おめでとう」
「え、」
「当日に渡せて良かった」
「俺も会えて良かった」
「、ごめんね。変な気を使っちゃって」
なまえは笑いながら仁人に抱き付く。付けた姿を見たい、そんな想いはもうなまえの中にはなかった。
◆ ◆
師走の忙しさに追われる中、なまえは小さな違和感を覚え始めていた。それは日に日に確かなものへと変わっていき、ついになまえは忙しい事を承知で仁人を呼び出す。
窓際でも、通りが見える席でもない。店の一番奥、物音が少なく、それでいて店員の動きだけは把握しやすい場所。なまえはいつも通り、珈琲と共にそこに座っていた。
【待たせてごめん!
打ち合わせが終わったから、今からそっちに向かう】
通知に気付いてメッセージを見ると鼓動が早まるのを感じる。震える指でカップを掴むとカタカタとソーサーに当たり溜息を漏らす。いつになく落ち着かない様子のなまえはテーブルに突っ伏しやり過ごした。マスターが珈琲を淹れる音、時計の秒針、誰かが歩く度に軋む床。そして、ドアベルと何度も聴いたあの足音。
心臓が一気に跳ねた。
「——なまえ、体調でも」
その声と同時に立ち上がると距離を詰める。緊張で震える指先は、急いで来た仁人の頬を冷やす。いつもと変わらないなまえの行動。けれども仁人を見つめる瞳は揺らがなかった。
「、なまえ?」
仁人の問いには答えず、眉を寄せたなまえの目に涙を浮かぶ。怪訝な表情を浮かべ首を傾げた仁人をなまえの瞳が追う。それを見た仁人は、溢れそうな程大きく目を見開く。
「、この距離じゃないと……分かんないけど……」
絞り出す様になまえが呟く。仁人は声にならない歓声を噛み殺すように、拳を握りしめた。
「大人になった仁人は、そうやって笑うんだね」
なまえも釣られて笑う。
久し振りに見た笑顔。プレゼントで渡したマフラー。
「ふわふわの髪型、似合ってる」
「流石にもう、あの頃ののりもちじゃないって!」
「のりもち?」
「あー、変な事は覚えなくていい!でもこんな事ならもっとちゃんとしてくれば良かった」
その場に蹲る仁人に合わせてなまえもしゃがみ込む。驚いて、笑って、焦って、落ち込む、その姿一つひとつが愛おしくなまえの口元はそっと弧を描く。
暫くなまえはその表情を見つめていた。
「ねぇ、仁人」
「ん?」
「もう一回、笑って?」
「……なんで?」
「見たいから」
一瞬だけ目を丸くした仁人は、直ぐに顔を逸らし椅子に座った。メニュー表を開いて顔を隠す。
「もう見なくていいよ……」
「アイドルなんだからちょっとくらい営業スマイルくらいしてくれても良いでしょ?」
「無理ムリ。俺そっちも落第生だから」
「……そういうの、いらないから」
なまえは仁人からメニュー表を取り上げると、そのまま仁人の膝に腰を下ろして距離を縮める。耳まで真っ赤になった仁人はマフラーに顔埋めた。
「苺のパフェ奢るから勘弁して」
「パンケーキが良い」
「じゃあそっちで」
いつもの定位置に座り直したなまえは、今度はしっかりとカップを持ち珈琲を飲んだ。
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