輪郭のない証拠
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「——だから、何か持ち込む時は、もう少し話を整理してから来てねっていつも言ってるでしょ?」
笑いながらも少し呆れた様に言うと彼女は珈琲を飲み干し、出していた本を鞄にしまう。
「あれ、もう帰るの?」
「もう夕方だし」
「え!?もうそんな時間だった!?話し過ぎたわ、ごめん」
仁人は謝りながら立ち上がると彼女の荷物を持った。
「家まで送るよ」
「慣れてる道だし大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。暗くなって危ないんだから」
「、ありがとね」
彼女は差し出された腕に、いつも通り迷いなく手を添えた。店を出ると夕暮れの遊歩道を並んで歩く。西日に照らされ、長い影が二人を繋ぐ。彼女の歩幅に合わせ、仁人も自然と歩調を落とした。
「、なあ。もう一個、知り合いの話、聞いてもらっていいか?」
言い淀んだ仁人の言葉に、彼女の足が一瞬だけ止まった。
「どうぞ」
「いや、大した話じゃないんだけど……その、俺の知り合いにさ」
歩調を戻しながら、仁人は言葉を選ぶように続けた。
「幼馴染の女の子がいて。それで最近、なんか、意識しちゃうんだって。二人ともいい歳で、今更っていうか、今まで散々一緒にいたのに」
「、へぇ……」
彼女は一瞬だけ顔を強ばらせた。最初から誰の話かなんて分かりきっていて、つまらそうに彼女は相槌を打つ。気付かないフリをしたまま次を待った。
「一緒にいると、変に緊張したり、他の男と話してるだけでモヤモヤしたり……その子と、朝を迎えたりすると、余計に分からなくなって……」
「……」
彼女は何も言わずに、ただ黙って聞いていた。
「その子は、多分、なんとも思ってないと思うんだけどさ……でも、じゃあなんで一緒にいてくれるんだろうって、時々思う……」
「……」
「それで、その知り合いは、これがなんなのか知りたいって思ってる、らしい」
「……」
彼女は、たっぷりと時間をとって口を開く。
「……そういうのは、わたしに聞かれても、分からないよ」
「え?」
「、この視力のせいで、今までまともに恋愛なんて、してきてないから。そっちの話題は、わたしの専門外」
感情の色が見えない声が淡々と地面に落ちた。
仁人は黙って足を止める。
「……じゃあ、知り合いの話じゃなくて、俺の話だって言ったら?」
彼女も、足を止めた。
「それでも、変わらないよ」
「なんでだよ」
「分からないものは、分からないから」
彼女はそう言うと、そっと、仁人の腕から手を離した。
行き場を失った手はゆっくりと鞄に伸び、折り畳まれた白杖を取り出すと、慣れた手付きで組み立てる。仁人は久しぶりに見たそれに眉を寄せた。
「……なあ」
仁人の声が、少し掠れていた。
「それ、どういう意味?」
「、わたしはね、自由でいたいの」
「……自由?」
「この目のせいで、やれる事に制限は出来ちゃったけど、もう、これ以上、この目も自分の事も恨みたくないから……」
その声は、静かだったけれど、どこか無理をしているようにも聞こえた。
「もしわたしが、あなたの気持ちに応えたら、あなたの時間も、行動も、全部、わたしのペースに合わせなきゃいけなくなる……それは——」
「——それは、俺が決めることだろ」
「ううん」
俯いたまま小さく首を振った。
「仁人の自由を、わたしは奪いたくないの」
彼女は顔を上げると、静かに儚く笑った。仁人はその表情に一層顔を顰め反論しようと口を開く。だが、その声と重なる様に彼女のスマホが鳴った。
画面を一瞥した彼女の表情が、微かに強張る。
「……ちょっと、ごめん」
断りを入れて電話に出ると短いやり取りが、数往復続いた。
「——うん。まだ、返事はしてない。でも大丈夫だから……ごめん、また連絡するね」
電話を切った彼女の横顔は憂いを帯びていた。
「……送るよ」
仁人はそっと手を差し出したが、彼女はその手を取れなかった。
「……いい」
「よくない」
「……送ってもらったら、帰れなくなる気がするから」
儚く笑うその表情を見た仁人は、何も言えなくなり唇を噛む。一度何かを言いかける様に口を開いたが、それが音になることはなかった。
「分かった、ちょっと待って」
仁人は道を走るタクシーを捕まえ、彼女に荷物を返す。
「夜になるから、気を付けろよ」
「ありがとう、仁人」
◆ ◆
喫茶店に戻ると、マスターが少し困ったような顔で、仁人を出迎えた。手には一冊のクリアファイルが握られている。
仁人はそれを受け取ると、零れるほどに目を見開く。
手術の同意書だった。
目を疑い、瞬きを何度も繰り返す。書類の日付、術式、名前、何度も見直しても彼女のものだった。
ただ、サインの欄だけが、空欄のまま残されている。
「、あいつ……」
震える手で中に入っている書類を確認し、少し寄れた同意書に仁人は言葉を失う。一頁ずつゆっくりと目を通す。
その時、ふわりと何かが落ちた。それは幼い頃に友人達と撮った一枚の写真だった。仲間内で笑っていたはずの写真の中で、残されていたのは二人だけだった。
丁寧に切り取られたその跡を見て、仁人は息を止める。
「何が″分からない″だよ、あのバカ……!」
静かな店内に仁人の声が木霊する。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて意を決したように仁人は店を出て走った。
◆ ◆
仁人はマンションのエントランスで、彼女の部屋を呼び出した。
『……はい』
「俺。仁人」
『……なんで来たの』
「喫茶店に忘れ物てたから届けに来た」
『……』
少しの沈黙のあと、ロックの解除音が聞こえた。エレベーターに乗り込んで一度小さく深呼吸をしてから、仁人は手にしたクリアファイルへ視線を落とした。
勝手に見てしまった事実が、胸に重くのしかかる。彼女のプライベートな核に触れてしまい胸の奥が痛む。
勢いでここまで来てしまったけれど、会ったところで何を言えばいい。
問い詰めるのか。
謝るのか。
それとも、何も聞かずに帰るのか。
階数表示が一つずつ上がっていくにつれ、ポストに入れて帰った方がいいのかもしれない。そう思う一方で、あんな顔をした彼女を一人にはしておけなかった。
何も言わずに抱き締めたいが、そんな資格が自分にあるのかは分からない。
やがて、目的の階でエレベーターが止まり扉が開く。
一度だけ深く息を吐いてから、クリアファイルを握り直してインターフォンを押す。すると暫くして、扉がわずかに開いた。
仁人は彼女の手を引き、クリアファイルを持たせる。彼女は受け取ると、はっと息を呑んだ。
「……見たの?」
「見た」
「……」
「これ、いつから持ってたんだよ」
彼女は、答えなかった。ただ視線を、静かに落とした。
「なあ」
仁人は、彼女の手を、そっと取った。
「これ見て、分かった。お前、ずっと前から、俺のこと——」
「——違う!」
彼女は眉を寄せ声を上げる。
「……違わないだろ」
「違う……違うの、そういうことじゃなくて……!」
彼女は涙を堪えるように俯くと、小さく何度も首を振った。
「わたしは、あなたの重荷には、なりたくないの……」
その言葉は震えていたけれど、はっきりとしていた。
「あなたは、わたしが見えていた頃を知ってる。だから、変わらずにいてくれる……でも、それが、これからもずっと続くとは限らない」
「そんなの……」
「あなたはやっと頑張りが実を結んだんだよ?これからもっと忙しくなる。大きなステージに立って、たくさんの人に見られる仕事をしてるの。そんなあなたの隣に、わたしが立って良い訳ない……きっと、あなたにとって荷物になる」
「荷物とか、そんな風に思った事一度もない!」
思わず声が大きくなった。彼女は、その勢いに少し驚いたように肩を揺らした。
「思ったこと、ないかもしれない。でも、この先は?一生なんて、あなたに言える?この先ずっと、見えない世界の事、考えた事ある?わたしとあなたは生きてる世界が違うの……」
彼女の声は、静かだけど、揺るがなかった。
「わたしは、あなたが好きなの!あなたに我慢を強いるような関係には、なりたくな——」
言い終わる前に仁人はその口を塞いだ。彼女の手からファイルが溢れ落ちる。
「——ンッ、!?」
漏れた吐息の隙間を縫う様に舌が入り込む。抗おうとする手はあっさりと搦め取られた。乱れる呼吸が、鼻からわずかに抜ける。力の抜けた腰を、ゆっくりと抱き寄せると、仁人は漸く唇を離した。
彼女の頬が、じわりと赤く染まっているのが分かった。
「、なんで、こんな」
「……俺のこと、好きなんだろ?」
「ッ!?」
「言葉より、こっちの方が俺の気持ちが伝わると思って」
瞳を上げた彼女と、仁人は久しぶりに目が合った。
「俺は、今のなまえが好きだよ」
ゆっくりと瞼を閉じると、溢れた涙がなまえの頬を伝った。なまえは縋り付くように仁人の服を掴み、その胸板に額を預ける。
「怖いの。今の生活には慣れてる。今のままでも、不自由なく生きていける……でもね、」
「……」
「もし、少しでも見える可能性があるなら。もう一度、仁人くんの笑った顔が見たいって、思っちゃったの……」
その言葉に、仁人は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
「わたし、あなたがステージの上でどんな顔をしてるのか知らないの。笑う時、怒る時、悔しい時……声でしか、知らない」
「……」
「一目でいいから、見てみたい……でも、こわいの……」
仁人は、震えるなまえを抱きしめた。子供のように泣きじゃくるなまえの頭を優しく撫でる。それから、静かに口を開いた。
「——受けろよ、その手術」
「……」
「何があっても俺が、ちゃんと支える」
「……でも、失敗するかもしれないんだよ?今より悪くなる可能性だって——」
「——それでも、」
仁人はなまえの肩にそっと手を添え、目に溜まった涙を優しく拭ってあげる。
「見えても、見えなくても、俺の気持ちは絶対に変わらないよ」
努めてゆっくりと、優しい声色で仁人は言った。なまえの瞳には大粒の涙が、次から次へと溢れて頬を濡らす。
仁人はただ黙ってなまえの背中を優しく撫で続けた。何かを急かすことも、宥めることもせず、ただ、彼女の涙が止まるまで一緒にいた。
やがて、嗚咽が小さくなり、静かな呼吸だけが部屋に満ちていく。
「……ごめん」
掠れた声で、なまえが呟いた。それに対して仁人は小さく笑って、首を振る。
「そっちじゃないだろ?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
仁人はなまえの額に、そっと唇を落とした。
「この先もずっと、辛い時はそばにいるから」
優しく肩を抱き寄せる。なまえはそっと仁人の服の裾を掴んだ。
笑いながらも少し呆れた様に言うと彼女は珈琲を飲み干し、出していた本を鞄にしまう。
「あれ、もう帰るの?」
「もう夕方だし」
「え!?もうそんな時間だった!?話し過ぎたわ、ごめん」
仁人は謝りながら立ち上がると彼女の荷物を持った。
「家まで送るよ」
「慣れてる道だし大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。暗くなって危ないんだから」
「、ありがとね」
彼女は差し出された腕に、いつも通り迷いなく手を添えた。店を出ると夕暮れの遊歩道を並んで歩く。西日に照らされ、長い影が二人を繋ぐ。彼女の歩幅に合わせ、仁人も自然と歩調を落とした。
「、なあ。もう一個、知り合いの話、聞いてもらっていいか?」
言い淀んだ仁人の言葉に、彼女の足が一瞬だけ止まった。
「どうぞ」
「いや、大した話じゃないんだけど……その、俺の知り合いにさ」
歩調を戻しながら、仁人は言葉を選ぶように続けた。
「幼馴染の女の子がいて。それで最近、なんか、意識しちゃうんだって。二人ともいい歳で、今更っていうか、今まで散々一緒にいたのに」
「、へぇ……」
彼女は一瞬だけ顔を強ばらせた。最初から誰の話かなんて分かりきっていて、つまらそうに彼女は相槌を打つ。気付かないフリをしたまま次を待った。
「一緒にいると、変に緊張したり、他の男と話してるだけでモヤモヤしたり……その子と、朝を迎えたりすると、余計に分からなくなって……」
「……」
彼女は何も言わずに、ただ黙って聞いていた。
「その子は、多分、なんとも思ってないと思うんだけどさ……でも、じゃあなんで一緒にいてくれるんだろうって、時々思う……」
「……」
「それで、その知り合いは、これがなんなのか知りたいって思ってる、らしい」
「……」
彼女は、たっぷりと時間をとって口を開く。
「……そういうのは、わたしに聞かれても、分からないよ」
「え?」
「、この視力のせいで、今までまともに恋愛なんて、してきてないから。そっちの話題は、わたしの専門外」
感情の色が見えない声が淡々と地面に落ちた。
仁人は黙って足を止める。
「……じゃあ、知り合いの話じゃなくて、俺の話だって言ったら?」
彼女も、足を止めた。
「それでも、変わらないよ」
「なんでだよ」
「分からないものは、分からないから」
彼女はそう言うと、そっと、仁人の腕から手を離した。
行き場を失った手はゆっくりと鞄に伸び、折り畳まれた白杖を取り出すと、慣れた手付きで組み立てる。仁人は久しぶりに見たそれに眉を寄せた。
「……なあ」
仁人の声が、少し掠れていた。
「それ、どういう意味?」
「、わたしはね、自由でいたいの」
「……自由?」
「この目のせいで、やれる事に制限は出来ちゃったけど、もう、これ以上、この目も自分の事も恨みたくないから……」
その声は、静かだったけれど、どこか無理をしているようにも聞こえた。
「もしわたしが、あなたの気持ちに応えたら、あなたの時間も、行動も、全部、わたしのペースに合わせなきゃいけなくなる……それは——」
「——それは、俺が決めることだろ」
「ううん」
俯いたまま小さく首を振った。
「仁人の自由を、わたしは奪いたくないの」
彼女は顔を上げると、静かに儚く笑った。仁人はその表情に一層顔を顰め反論しようと口を開く。だが、その声と重なる様に彼女のスマホが鳴った。
画面を一瞥した彼女の表情が、微かに強張る。
「……ちょっと、ごめん」
断りを入れて電話に出ると短いやり取りが、数往復続いた。
「——うん。まだ、返事はしてない。でも大丈夫だから……ごめん、また連絡するね」
電話を切った彼女の横顔は憂いを帯びていた。
「……送るよ」
仁人はそっと手を差し出したが、彼女はその手を取れなかった。
「……いい」
「よくない」
「……送ってもらったら、帰れなくなる気がするから」
儚く笑うその表情を見た仁人は、何も言えなくなり唇を噛む。一度何かを言いかける様に口を開いたが、それが音になることはなかった。
「分かった、ちょっと待って」
仁人は道を走るタクシーを捕まえ、彼女に荷物を返す。
「夜になるから、気を付けろよ」
「ありがとう、仁人」
◆ ◆
喫茶店に戻ると、マスターが少し困ったような顔で、仁人を出迎えた。手には一冊のクリアファイルが握られている。
仁人はそれを受け取ると、零れるほどに目を見開く。
手術の同意書だった。
目を疑い、瞬きを何度も繰り返す。書類の日付、術式、名前、何度も見直しても彼女のものだった。
ただ、サインの欄だけが、空欄のまま残されている。
「、あいつ……」
震える手で中に入っている書類を確認し、少し寄れた同意書に仁人は言葉を失う。一頁ずつゆっくりと目を通す。
その時、ふわりと何かが落ちた。それは幼い頃に友人達と撮った一枚の写真だった。仲間内で笑っていたはずの写真の中で、残されていたのは二人だけだった。
丁寧に切り取られたその跡を見て、仁人は息を止める。
「何が″分からない″だよ、あのバカ……!」
静かな店内に仁人の声が木霊する。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて意を決したように仁人は店を出て走った。
◆ ◆
仁人はマンションのエントランスで、彼女の部屋を呼び出した。
『……はい』
「俺。仁人」
『……なんで来たの』
「喫茶店に忘れ物てたから届けに来た」
『……』
少しの沈黙のあと、ロックの解除音が聞こえた。エレベーターに乗り込んで一度小さく深呼吸をしてから、仁人は手にしたクリアファイルへ視線を落とした。
勝手に見てしまった事実が、胸に重くのしかかる。彼女のプライベートな核に触れてしまい胸の奥が痛む。
勢いでここまで来てしまったけれど、会ったところで何を言えばいい。
問い詰めるのか。
謝るのか。
それとも、何も聞かずに帰るのか。
階数表示が一つずつ上がっていくにつれ、ポストに入れて帰った方がいいのかもしれない。そう思う一方で、あんな顔をした彼女を一人にはしておけなかった。
何も言わずに抱き締めたいが、そんな資格が自分にあるのかは分からない。
やがて、目的の階でエレベーターが止まり扉が開く。
一度だけ深く息を吐いてから、クリアファイルを握り直してインターフォンを押す。すると暫くして、扉がわずかに開いた。
仁人は彼女の手を引き、クリアファイルを持たせる。彼女は受け取ると、はっと息を呑んだ。
「……見たの?」
「見た」
「……」
「これ、いつから持ってたんだよ」
彼女は、答えなかった。ただ視線を、静かに落とした。
「なあ」
仁人は、彼女の手を、そっと取った。
「これ見て、分かった。お前、ずっと前から、俺のこと——」
「——違う!」
彼女は眉を寄せ声を上げる。
「……違わないだろ」
「違う……違うの、そういうことじゃなくて……!」
彼女は涙を堪えるように俯くと、小さく何度も首を振った。
「わたしは、あなたの重荷には、なりたくないの……」
その言葉は震えていたけれど、はっきりとしていた。
「あなたは、わたしが見えていた頃を知ってる。だから、変わらずにいてくれる……でも、それが、これからもずっと続くとは限らない」
「そんなの……」
「あなたはやっと頑張りが実を結んだんだよ?これからもっと忙しくなる。大きなステージに立って、たくさんの人に見られる仕事をしてるの。そんなあなたの隣に、わたしが立って良い訳ない……きっと、あなたにとって荷物になる」
「荷物とか、そんな風に思った事一度もない!」
思わず声が大きくなった。彼女は、その勢いに少し驚いたように肩を揺らした。
「思ったこと、ないかもしれない。でも、この先は?一生なんて、あなたに言える?この先ずっと、見えない世界の事、考えた事ある?わたしとあなたは生きてる世界が違うの……」
彼女の声は、静かだけど、揺るがなかった。
「わたしは、あなたが好きなの!あなたに我慢を強いるような関係には、なりたくな——」
言い終わる前に仁人はその口を塞いだ。彼女の手からファイルが溢れ落ちる。
「——ンッ、!?」
漏れた吐息の隙間を縫う様に舌が入り込む。抗おうとする手はあっさりと搦め取られた。乱れる呼吸が、鼻からわずかに抜ける。力の抜けた腰を、ゆっくりと抱き寄せると、仁人は漸く唇を離した。
彼女の頬が、じわりと赤く染まっているのが分かった。
「、なんで、こんな」
「……俺のこと、好きなんだろ?」
「ッ!?」
「言葉より、こっちの方が俺の気持ちが伝わると思って」
瞳を上げた彼女と、仁人は久しぶりに目が合った。
「俺は、今のなまえが好きだよ」
ゆっくりと瞼を閉じると、溢れた涙がなまえの頬を伝った。なまえは縋り付くように仁人の服を掴み、その胸板に額を預ける。
「怖いの。今の生活には慣れてる。今のままでも、不自由なく生きていける……でもね、」
「……」
「もし、少しでも見える可能性があるなら。もう一度、仁人くんの笑った顔が見たいって、思っちゃったの……」
その言葉に、仁人は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
「わたし、あなたがステージの上でどんな顔をしてるのか知らないの。笑う時、怒る時、悔しい時……声でしか、知らない」
「……」
「一目でいいから、見てみたい……でも、こわいの……」
仁人は、震えるなまえを抱きしめた。子供のように泣きじゃくるなまえの頭を優しく撫でる。それから、静かに口を開いた。
「——受けろよ、その手術」
「……」
「何があっても俺が、ちゃんと支える」
「……でも、失敗するかもしれないんだよ?今より悪くなる可能性だって——」
「——それでも、」
仁人はなまえの肩にそっと手を添え、目に溜まった涙を優しく拭ってあげる。
「見えても、見えなくても、俺の気持ちは絶対に変わらないよ」
努めてゆっくりと、優しい声色で仁人は言った。なまえの瞳には大粒の涙が、次から次へと溢れて頬を濡らす。
仁人はただ黙ってなまえの背中を優しく撫で続けた。何かを急かすことも、宥めることもせず、ただ、彼女の涙が止まるまで一緒にいた。
やがて、嗚咽が小さくなり、静かな呼吸だけが部屋に満ちていく。
「……ごめん」
掠れた声で、なまえが呟いた。それに対して仁人は小さく笑って、首を振る。
「そっちじゃないだろ?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
仁人はなまえの額に、そっと唇を落とした。
「この先もずっと、辛い時はそばにいるから」
優しく肩を抱き寄せる。なまえはそっと仁人の服の裾を掴んだ。