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リハーサルも終わり、メンバーと談笑しながら楽屋へ戻っている時だった。とあるグループとすれ違うとなまえは足を止め、振り返る。
「あ、吉田仁人!!」
あまりの声に、その場にいた誰もがなまえの方を向く。呼ばれた本人は目を見開き、怪訝そうに眉を寄せる。
「人を指差さない!」
「すみません、ウチのが……」
指を下ろさせ、すかさずメンバーがフォローを入れるが、周囲のメンバーは、相変わらず怪訝な表情を浮かべる。
だがそんな事は気にせず、なまえは小さく鼻を鳴らすと腕を組んで仁人を見据えた。
「やっとお互いここまで来たけど、負けないから!」
「……すみませんが、どこかで共演しましたか?」
「はァ!アンタわたしのこと忘れたの!?」
再び廊下になまえの声が響き渡る。慌てふためくメンバーをよそに、なまえは仁人に詰め寄る。
後退ることを許さない目力。そのままなまえは、下ろした指を再度仁人に突き刺した。
「わたしのこと忘れるなんて、良い度胸してんじゃん」
「……」
瞬きを数回繰り返した仁人は口元に手を添えて少し考え込む。
「ちょっとなまえ!失礼なこと言わない!」
メンバーから叱られるなまえを見て、仁人は手を打った。
「あ、もしかしてあの生意気な、」
「生意気じゃないし!そっちこそ偉そうに鏡の前占領してたじゃん!」
「お前の方が偉そうだっただろ、年上の俺相手に」
「今もだけど」と続けた仁人の顔には、薄らと笑みが浮かんでいた。
相変わらず状況が読めていない両グループのメンバーの為に仁人は口を開く。
「コイツ、地元で通ってたダンススクールが一緒だった奴」
「『奴』って!わたしの方がスクールでも芸歴でも先輩でしょ!?」
「そうだっけ?」
キョトンとした顔で顎に手を添える仁人。
そんな彼の衣装に掴み掛かろうとしたなまえは、メンバーに取り押さえられ、引き離された。フリルたっぷりのスカートから覗く足は、アイドルとは思えない地団駄を踏む。
「本番で最高のパフォーマンスして、次会った時に偉そうな態度取れないようにしてやるから覚悟しとけよ!!」
捨て台詞は一丁前に残し、なまえはメンバーに引き摺られていった。
「、凄い人だったね……」
「ビックリしたわ。あのグループに知り合いいたんだ……」
「え、そっち!?」
淡々と話す仁人に、思わず舜太は大きな声を上げる。そんな舜太の脇からひょっこりと太智は顔を覗かせ、疑問を投げかけた。
「吉田さんが鏡の前に執着するようになったきっかけの子?」
「まぁ、その時に張り合っていた奴ではある」
「じゃあ、当時のライバルとの再会ってわけか」
「ライバルって程じゃないよ、べつに」
「分かってないな、仁人は。世間ではそれをライバルって言うんじゃね?」
「だから違うって」
足を止め、仁人は振り返る。
大人たちが忙しなく行き交う廊下に、小さな笑みをこぼした。
◆ ◆
同じタイミングで新曲がバズった二組は、音楽番組での共演が増えていった。奇抜な楽曲とは裏腹の高いパフォーマンス力で、お茶の間の注目を集めていく。
最初こそ青い顔で本番を迎えていた彼らだが、今ではここがホームだと言わんばかりの表情だ。
「——一曲歌っただけでバテるとか、普段どんなレッスンしてるんだって話だよねー」
「、一曲歌い切る前に落ちサビで半音ズラすのはどんなレッスンなんだろうな」
「違うもん!あれはサビ前の振りが番組特別仕様で激しくて!」
「じゃあお前もこの重い衣装着てあれやってみろよ!」
「……」
「……」
キャンキャンと吠える二人が日常になり始め、両グループのメンバーは温かく見守るが、さほど関心はなくなっていた。
「ウチのポメが失礼な事を……」「いえいえ、ウチの豆柴も気性が荒くて……」と茶化す声に、二人は同時に振り返る。
「——俺は人だ」
「——わたしは人だ!」
綺麗に揃った声。遠巻きでやり取りを見ていたスタッフから「夫婦漫才みたい」と声が上がる。
「ちょっと誰ですか!夫婦漫才って言った人!なんでわたしがコイツなんかと!」
眉間に皺を寄せ、軽く頬を膨らませるなまえ。その子どものようなフェイスラインに、仁人は思わず吹き出してしまう。
「え、なんで笑った!?」
「べつに……どうぞ、続けて」
眉を下げたままの仁人は腕で顔を隠して肩を震わせる。
「なんで笑ったの!?」
「痛い!ばか!ガチで殴るな!」
ポカポカと殴る姿はドッグランでじゃれ合う犬のよう。「まあまあ、二人とも仲良くねー」とマネージャーからの鶴の一声でなまえの動きは止まる。
「……いや、俺たち別に仲悪いってわけじゃないですよ」
仁人が何気なく口を挟む。
「昔からこんな感じでしたし」
「……」
乱れた衣装を直しながら言う仁人をなまえは黙って見つめる。
「え、なに?」
「うるさい!ばか!」
「痛ッた!!は?なんでキレてんの!?」
力の限りの拳をぶつけ、そのまま踵を返す。あんぐりと口を開け、殴られた肩を摩る仁人に、メンバーは生温かい目線を送った。
そんな視線を向けられているとは露知らず、なまえはお気に入りのスポットへと足を向ける。スタジオへのアクセスも良く、撮影の空き時間に利用できる小さな行き止まり。
「——ここで、ターン!」
スマホで撮影しつつ振りの最終確認をする。リハでのミスを潰すため。
この小さな積み重ねが、今のステージへと導いた。キュッキュッと音を立てる靴底は、彼女のものだけすり減りが激しい。
「よし!振りはもう完璧だから、歌も絶ッ対にいける!」
「——こういうの声に出して言う奴本当にいるんだな」
「ッ!?!??!」
大きく肩を震わせたなまえの手からスマホが跳ねる。意志を持っているかのように踊るスマホは、そのまま仁人の手に飛び込んだ。
「ナイスキャッチ!」
「自分で言うな!」
仁人の手から慌ててスマホを奪い取る。
「落とさずに済んだんだから、お礼くらい言いなさいよ」
「い、今言おうとしたの!」
「はいはい」
「……ありがと」
「どういたしまして」と言うと、仁人はその場にしゃがみ込む。そして、持っていた缶コーヒーを一つ、なまえの足元に置いた。
「……」
なまえはスカートを畳んで、仁人と同じようにしゃがむと缶コーヒーを手に取った。
「やるとは言ってないけど」
「なッ!?じゃ、じゃあこっちに置かないでよ!紛らわしい!!」
「うそ、お前の。」
「〜〜〜!!」
もう一つの缶コーヒーを開けた仁人は、涼しい顔で一口飲む。上下する喉仏を睨むなまえは缶コーヒーを抱き締め、そっぽを向く。
「漫画であったシーンだけど、本当に自分のだって勘違いするんだな」
「うるさい!」
「分かりやすいな、お前って」
視界の端に映る仁人の笑顔に頭が茹だるなまえは、缶を手に振りかぶるが、声にならない声を上げて腕を下ろす。
そんななまえを気にせずコーヒーを啜る仁人は口を開いた。
「ここ、俺だけの場所だと思ってた。今まで誰とも会わなかったし」
「え?じゃあたまたま来たの?」
「うん。本番まで時間あるって言うから。楽屋だとなんか集中出来なくて」
「……じゃあ今まで被らなかったの奇跡だね」
「確かに」
カシャンとプルタブを押す音が響く。
「いつもコソ練してたの?」
「いいでしょ!?べつに!!」
「悪くないって。普通に尊敬する。あの時から全然変わらないな」
「うるさいなぁ……」
缶を脇に置き、膝に顔を埋める。
肩を滑る髪は、赤くなった耳を隠すには少し心許なかった。
◆ ◆
「げッ!なんで隣なの!?」
「お互い流行りのアイドル枠なんだから仕方ないだろ」
「だとしても、もう少しなんとかならないものかね……」
そわそわと落ち着きのないなまえは何度も椅子に座り直し、スタッフの動きを眺めた。
瞳は小刻みに揺れ、スカートを握る手が強張る。
仁人の手が一度、膝から離れる。白く震える手に重ねようとして、けれども、ゆっくりと元の膝へと戻る。
「……知ってる奴が隣な方が落ち着くけどな」
「メンバーがいなくて、よくそんな事言えるね……」
「心細いんだ」
「相変わらずうるさいなぁ……わたしはバラエティーとか得意じゃないし、メンバーがいないと、上手く喋れないよ……」
大御所の司会者もスタジオ入りし、スタジオの空気が引き締まる。
表情が険しくなったなまえの背中に、仁人はそっと手を添えた。
「背中、丸まってる」
「え、」
「——それでは本番始まります!!」
ADの声がスタジオ内に響く。
「それじゃあ呼吸も浅くなるし、姿勢が悪くて見栄えが悪い」
グッと押され、背筋が伸びる。
離れる体温と、じわじわと熱を帯びる背中。早くなる鼓動は、なにが原因なのだろうか。
熱に浮かされているのか、普段より饒舌で、空回りしながらもボケを飛ばし爪痕を残す。
カットが掛かると紅潮した頬で仁人の方を見る。
「笑い、取れた!」
「うん!めっちゃ笑った!」
「滑るかと思ったけど、ツッコミ入れてくれて助かったよぉ……」
「拾いやすいボケでよかったよ」
「ほんとありがとう!!」
興奮気味のなまえは仁人の手を取る。飛び跳ねる勢いの彼女だが、指先は酷く冷たかった。
その指先に仁人の温もりが混ざり合った頃、勢いよく手を離す。
「、?」
「ナンデモナイ」
「いや何かあるだろ、その言い方」
眉を下げて笑う仁人に、なまえは火照る指で彼の腕を抓った。
「だから痛いって!何なんだよ!」
「うるさいうるさい」
急いでマイクを外し、逃げるように足早でスタジオを出る。
楽屋へと戻る道中でマネージャーからのお褒めの言葉をもらうが、右から左へと自身の中に留まることなく流れていく。スタッフとの打ち合わせも、アイドルスマイルを貼り付けただけで心ここに在らずだ。
心がモヤモヤする時、なまえには決まったルーティンがある。サクッとご飯を食べ、お風呂にゆっくり入り、さっさと寝る、だ。
マスクだけの簡単な変装で近くの牛丼チェーン店へと駆け込み、タブレットを操作する。いつものメニューか、期間限定か、どれにしようかと迷っていると隣からの視線に気付く。
「あ、よし——」
「——バッカ!お前!!」
牛丼を掻き込んでいる仁人が隣にいた。
「声デカいんだよ!」
慌ててなまえの口を塞いだ仁人は語気を強める。なまえはその手を払い落とし、眉を寄せた。
「帽子にマスクって不審者じゃん」
「お前が軽装過ぎるんだよ。隣座った瞬間に気付いて、メシ喉に詰まるかと思ったわ」
「折角一人でサクッと食べようと思ったのになんで居るかな、ここに……」
「そっくりそのまま返すわ」
「返すな。それにその席、わたしがいつも座ってる定位置なのに……!」
「……牛丼屋に定位置もないだろ」
あまりにも美味しそうに牛丼を頬張る姿を見て、自然といつものメニューを注文していた。
頬杖をつきながら隣を覗くと、バッチリと目が合う。
「、なに?」
「男だな、って思って」
「……はァ?え、なに?俺があの頃から成長してないと思ってたの?今までそう見えてたの?」
「うるさいな、いいから黙って食べなよ」
「そっちが話しかけてきたんじゃん」
「はいはい」
軽くあしらいながら髪を縛る。高めのポニーテールが完成した時、丁度目の前に牛丼がセットされた。
タバスコを数滴垂らし、スプーンで大胆に掬う。口いっぱいに甘辛いタレとチーズのまろやかさが広がる。
「ん〜!っぱコレよ!」
「……お前、食ってるところ動画でアップしたらCM来るんじゃね?」
「褒めてるの?」
「褒めてる褒めてる」
リスのように頬張るなまえとは対照的に、残り少しの牛丼を、仁人はゆっくりと口に運ぶ。
「この後まだ仕事残ってんの?」
「ううん、アレで今日は終わりだよ」
「じゃあなんでまた牛丼屋なんかで飯食ってんだよ」
「好きなんだから良いじゃん!てかそっちこそ牛丼食べてるじゃん!」
「俺はこの後も撮影残ってんの」
「なら、さっさと食べて仕事戻んなよ」
「言われなくてもそのつもり。」
名残惜しそうに米粒を集める。殺伐とした夜中の牛丼屋は、アイドルという肩書きを捨てさせてくれた。
黙々と食べ進める人、動画を見ながら食べる人、誰も自分たちの存在など気にもしていない。
「そういえば、なんだけど……」
丼を置いたなまえが口を開く。
「今度、ずっと夢だったドームでライブするんだけど、観にくる?」
「え!?凄いじゃん!」
「イベンターさんが頑張ってくれて……まだ公式には発表してないんだけど、時間があれば……」
「いつ頃?マネージャーに相談してみるよ」
「、来てくれる、の?」
「当たり前じゃん。え、ダメなの?」
仁人は、立ち上がりながら小首を傾げる。えくぼが浮かぶ頬を見て、なまえは首を大袈裟に振った。
「全然!ダメじゃない!!」
仁人を追うように店を出る。冷たい空気が肌を突き刺す。
「でも、俺たちもドームが目標だから抜かされちゃったな」
「抜かしてないよ、わたし達は1dayだもん。そっちの夢はドームツアーでしょ?」
「1dayだって十分凄いじゃん」
タクシーを探す視線が、曖昧になる。反対車線だからいいか、タイミングが悪いから次のにしよう。
マスク越しの声が遠く、どちらからともなく距離が近くなる。
「わたし、小さい頃から憧れてる人いて……その人追いかけて芸能界入って、アイドルになったんだ」
「……へぇ。俺の知ってる人?」
「ナイショ。だって、今でもその背中追いかけてるから」
「、いいよなぁ、そういうストーリー」
「そっちはないの?」
「ないよ。俺はステージに立ちたいからこの仕事続けてるだけ」
ガードパイプに座り仁人は言った。
「あの頃からずっと、踊ったり、歌ったり、演技したり。そういう楽しい事ずっとやってたいだけ」
「なんか、追いつけ追い越せで頑張ってきたわたしがバカみたい……」
「な訳ないだろ。目標持ってる人間が一番凄いよ」
「目標なんてそんな大それたものじゃないよ。共演したい、褒められたい……ただそれだけだもん」
「それでいいじゃん。気楽にいこうよ」
帽子の奥から覗く大きな瞳に、鏡のように映り込む。
その瞳から逃れるように鍔を思いっきり下げてやる。急に暗くなった視界に、仁人は思わず体勢を崩す。
「あ、おい!」
「、タクシー来たよ」
「そっちが先に乗りなよ」
「まだ仕事残ってる人間が何言うの!この時間ならまだ全然流れてるから気にしないで」
「……じゃあ乗るけど。ちゃんとタクシー拾えよ」
「分かってるって」
「……」
「なに?」
素直にタクシーに乗り込まない仁人は帽子を脱ぎ、前髪を掻き上げ整える。大きな瞳がもう一度なまえを捉えると、そのまま帽子をなまえに被せた。
「出歩く時は、もう少しバレない格好にしろよ」
「え、これどうすんの!?」
「次会った時に返して」
「次って、いつ被るか分かんないじゃん!あ!ドア閉めんな!!」
ガラスの向こうで手を振る姿に、握った拳を解いて同じように振り返す。
小さくなるテールランプを見送り、なまえは帽子を深く被り直した。
◆ ◆
季節は巡り、出会いと別れの春が来た。
沸き立つ会場に少し遅れてやって来た仁人は、席に着くと、満員の客席をゆっくりと見回した。ペンライトの明かりが天井まで続いている。
彼女たちにとって初めての大きなステージ。そして、なまえの卒業ライブでもあった。
会場内の音楽が大きくなる。ファンたちが一斉に立ち上がる中、仁人も配られたペンライトに明かりを灯した。
大きな破裂音と共に登場した一等星に、彼の視線は奪われる。
伸びやかな高音に、しなやかでありながらダイナミックなダンス。
鳴り止まないアンコールの後、彼女は笑顔でステージを降りた。
「——凄かったな、ラスト」
「ラストだけ?」
「ごめん、全部良かった」
仁人が楽屋を訪れると、ライブを終えたばかりとは思えない元気ななまえが出迎えた。
共演した時に何度も見た衣装ではなく、それがどこか寂しくて胸が詰まる。
「ほんとに辞めるの?」
「うん!やりたい事ぜーんぶやれた!!」
「そっか……俺は今日のライブ見て、もう一回見たいって思った」
「……」
「共演した時に袖で見てても、お前のパフォーマンスが一番目を引いて、歌だって一番……良いって思う」
「……ありがとう」
笑ったなまえの瞳から、大粒の涙が溢れた。
その場にしゃがみ込み、子どものように泣きじゃくる背中を優しく摩る。
「お前なぁ、いい大人がわんわん泣くなよ」
「うるさいなァ!ひっ、うぅ……えーん!」
「絵に描いたような『えーん』じゃん」
「冷静にツッコミすんなぁ!!」
仁人のシャツをきつく掴み、額を擦り付けてしゃくり上げながらも必死に言葉を紡ぐ。
「あ、鼻水付けんな!この服買ったばっかなんだから!」
「付けてないもん!っていうか泣いてる女の子に言うセリフじゃない!ほんとサイテー!!」
「はいはい、ほら、チーン!」
「バカにすんなぁ!」
ティッシュを鼻に押し当てられたなまえは、思いっきり鼻をかむ。仁人は笑いながら受け止める。
ファンデーションの取れた赤い鼻に、思わず吹き出すと、右ストレートが瞬時に飛んできた。
変わる事のない二人のやり取りに、周囲の人間も自然と笑顔になる。
後日、一般人になったなまえと人気絶頂の売れっ子アイドルである仁人の姿は、随分と庶民的な中華屋にあった。
「あ!だからそこわたしの席だって!」
「知らないよ、そんなの!」
「今知った!はい、変わって!」
「俺が先に座ったし、お前右利きなんだからそっち座れば良いだろ!?」
鏡の前、お気に入りの休憩スポット、そして今度は中華屋のカウンター。
二人の争いに、終わりは来ないらしい。
「、なまえがここに通ってたのは美味いから分かるけど、卒業祝いなんだからもっと高い所でも良かったんだけど」
「……」
「なに?」
メニューを見ていた仁人は顔を上げてなまえを見た。帽子の下から覗く瞳が、キョトンと仁人を見返した。
「呼び捨て……」
「あ?」
「小さい頃は、呼び捨て……じゃなかったから……」
「いや、今更ちゃん付けはないだろ……」
「じゃあ、くん付けも違うの?」
「まぁ……」
「……」
示し合わせたように水を飲む二人に小さな沈黙が訪れる。
「吉田さんはここ来たら——」
「——なんで苗字にさん付けなんだよ!」
「いやだって、一応年下だし……」
「今まで年下ムーブしてこなかっただろ……」
「、なんて呼べばいいの?」
「普通に『仁人』で良いだろ」
再びメニューに視線を落として仁人は言った。
「次は俺のドームツアー、観に来いよ」
「……うん。」
「あ、わたしこれ」と定食メニューを指差す。そのまま仁人の方を向けば、呆れたように眉を一回寄せ、それから小さく笑う。
「俺こっちにするからシェアしようぜ」
「え、嫌。全部わたしが食べる」
「二人で同じ物頼んだってしょうがないだろ」
「いいじゃん同じのだって!美味しいんだから」
「そーだけどさぁ!違うじゃん普通は!」
「あんたの普通にわたしを混ぜんな!」
「だから『仁人』って呼べって言ったろ」
「ッ!うるさいうるさい!」
帽子を目深に被り、耳を塞いでそっぽを向く。
微かに覗く耳は、いつの日かのように真っ赤に染まっていた。
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「あ、吉田仁人!!」
あまりの声に、その場にいた誰もがなまえの方を向く。呼ばれた本人は目を見開き、怪訝そうに眉を寄せる。
「人を指差さない!」
「すみません、ウチのが……」
指を下ろさせ、すかさずメンバーがフォローを入れるが、周囲のメンバーは、相変わらず怪訝な表情を浮かべる。
だがそんな事は気にせず、なまえは小さく鼻を鳴らすと腕を組んで仁人を見据えた。
「やっとお互いここまで来たけど、負けないから!」
「……すみませんが、どこかで共演しましたか?」
「はァ!アンタわたしのこと忘れたの!?」
再び廊下になまえの声が響き渡る。慌てふためくメンバーをよそに、なまえは仁人に詰め寄る。
後退ることを許さない目力。そのままなまえは、下ろした指を再度仁人に突き刺した。
「わたしのこと忘れるなんて、良い度胸してんじゃん」
「……」
瞬きを数回繰り返した仁人は口元に手を添えて少し考え込む。
「ちょっとなまえ!失礼なこと言わない!」
メンバーから叱られるなまえを見て、仁人は手を打った。
「あ、もしかしてあの生意気な、」
「生意気じゃないし!そっちこそ偉そうに鏡の前占領してたじゃん!」
「お前の方が偉そうだっただろ、年上の俺相手に」
「今もだけど」と続けた仁人の顔には、薄らと笑みが浮かんでいた。
相変わらず状況が読めていない両グループのメンバーの為に仁人は口を開く。
「コイツ、地元で通ってたダンススクールが一緒だった奴」
「『奴』って!わたしの方がスクールでも芸歴でも先輩でしょ!?」
「そうだっけ?」
キョトンとした顔で顎に手を添える仁人。
そんな彼の衣装に掴み掛かろうとしたなまえは、メンバーに取り押さえられ、引き離された。フリルたっぷりのスカートから覗く足は、アイドルとは思えない地団駄を踏む。
「本番で最高のパフォーマンスして、次会った時に偉そうな態度取れないようにしてやるから覚悟しとけよ!!」
捨て台詞は一丁前に残し、なまえはメンバーに引き摺られていった。
「、凄い人だったね……」
「ビックリしたわ。あのグループに知り合いいたんだ……」
「え、そっち!?」
淡々と話す仁人に、思わず舜太は大きな声を上げる。そんな舜太の脇からひょっこりと太智は顔を覗かせ、疑問を投げかけた。
「吉田さんが鏡の前に執着するようになったきっかけの子?」
「まぁ、その時に張り合っていた奴ではある」
「じゃあ、当時のライバルとの再会ってわけか」
「ライバルって程じゃないよ、べつに」
「分かってないな、仁人は。世間ではそれをライバルって言うんじゃね?」
「だから違うって」
足を止め、仁人は振り返る。
大人たちが忙しなく行き交う廊下に、小さな笑みをこぼした。
◆ ◆
同じタイミングで新曲がバズった二組は、音楽番組での共演が増えていった。奇抜な楽曲とは裏腹の高いパフォーマンス力で、お茶の間の注目を集めていく。
最初こそ青い顔で本番を迎えていた彼らだが、今ではここがホームだと言わんばかりの表情だ。
「——一曲歌っただけでバテるとか、普段どんなレッスンしてるんだって話だよねー」
「、一曲歌い切る前に落ちサビで半音ズラすのはどんなレッスンなんだろうな」
「違うもん!あれはサビ前の振りが番組特別仕様で激しくて!」
「じゃあお前もこの重い衣装着てあれやってみろよ!」
「……」
「……」
キャンキャンと吠える二人が日常になり始め、両グループのメンバーは温かく見守るが、さほど関心はなくなっていた。
「ウチのポメが失礼な事を……」「いえいえ、ウチの豆柴も気性が荒くて……」と茶化す声に、二人は同時に振り返る。
「——俺は人だ」
「——わたしは人だ!」
綺麗に揃った声。遠巻きでやり取りを見ていたスタッフから「夫婦漫才みたい」と声が上がる。
「ちょっと誰ですか!夫婦漫才って言った人!なんでわたしがコイツなんかと!」
眉間に皺を寄せ、軽く頬を膨らませるなまえ。その子どものようなフェイスラインに、仁人は思わず吹き出してしまう。
「え、なんで笑った!?」
「べつに……どうぞ、続けて」
眉を下げたままの仁人は腕で顔を隠して肩を震わせる。
「なんで笑ったの!?」
「痛い!ばか!ガチで殴るな!」
ポカポカと殴る姿はドッグランでじゃれ合う犬のよう。「まあまあ、二人とも仲良くねー」とマネージャーからの鶴の一声でなまえの動きは止まる。
「……いや、俺たち別に仲悪いってわけじゃないですよ」
仁人が何気なく口を挟む。
「昔からこんな感じでしたし」
「……」
乱れた衣装を直しながら言う仁人をなまえは黙って見つめる。
「え、なに?」
「うるさい!ばか!」
「痛ッた!!は?なんでキレてんの!?」
力の限りの拳をぶつけ、そのまま踵を返す。あんぐりと口を開け、殴られた肩を摩る仁人に、メンバーは生温かい目線を送った。
そんな視線を向けられているとは露知らず、なまえはお気に入りのスポットへと足を向ける。スタジオへのアクセスも良く、撮影の空き時間に利用できる小さな行き止まり。
「——ここで、ターン!」
スマホで撮影しつつ振りの最終確認をする。リハでのミスを潰すため。
この小さな積み重ねが、今のステージへと導いた。キュッキュッと音を立てる靴底は、彼女のものだけすり減りが激しい。
「よし!振りはもう完璧だから、歌も絶ッ対にいける!」
「——こういうの声に出して言う奴本当にいるんだな」
「ッ!?!??!」
大きく肩を震わせたなまえの手からスマホが跳ねる。意志を持っているかのように踊るスマホは、そのまま仁人の手に飛び込んだ。
「ナイスキャッチ!」
「自分で言うな!」
仁人の手から慌ててスマホを奪い取る。
「落とさずに済んだんだから、お礼くらい言いなさいよ」
「い、今言おうとしたの!」
「はいはい」
「……ありがと」
「どういたしまして」と言うと、仁人はその場にしゃがみ込む。そして、持っていた缶コーヒーを一つ、なまえの足元に置いた。
「……」
なまえはスカートを畳んで、仁人と同じようにしゃがむと缶コーヒーを手に取った。
「やるとは言ってないけど」
「なッ!?じゃ、じゃあこっちに置かないでよ!紛らわしい!!」
「うそ、お前の。」
「〜〜〜!!」
もう一つの缶コーヒーを開けた仁人は、涼しい顔で一口飲む。上下する喉仏を睨むなまえは缶コーヒーを抱き締め、そっぽを向く。
「漫画であったシーンだけど、本当に自分のだって勘違いするんだな」
「うるさい!」
「分かりやすいな、お前って」
視界の端に映る仁人の笑顔に頭が茹だるなまえは、缶を手に振りかぶるが、声にならない声を上げて腕を下ろす。
そんななまえを気にせずコーヒーを啜る仁人は口を開いた。
「ここ、俺だけの場所だと思ってた。今まで誰とも会わなかったし」
「え?じゃあたまたま来たの?」
「うん。本番まで時間あるって言うから。楽屋だとなんか集中出来なくて」
「……じゃあ今まで被らなかったの奇跡だね」
「確かに」
カシャンとプルタブを押す音が響く。
「いつもコソ練してたの?」
「いいでしょ!?べつに!!」
「悪くないって。普通に尊敬する。あの時から全然変わらないな」
「うるさいなぁ……」
缶を脇に置き、膝に顔を埋める。
肩を滑る髪は、赤くなった耳を隠すには少し心許なかった。
◆ ◆
「げッ!なんで隣なの!?」
「お互い流行りのアイドル枠なんだから仕方ないだろ」
「だとしても、もう少しなんとかならないものかね……」
そわそわと落ち着きのないなまえは何度も椅子に座り直し、スタッフの動きを眺めた。
瞳は小刻みに揺れ、スカートを握る手が強張る。
仁人の手が一度、膝から離れる。白く震える手に重ねようとして、けれども、ゆっくりと元の膝へと戻る。
「……知ってる奴が隣な方が落ち着くけどな」
「メンバーがいなくて、よくそんな事言えるね……」
「心細いんだ」
「相変わらずうるさいなぁ……わたしはバラエティーとか得意じゃないし、メンバーがいないと、上手く喋れないよ……」
大御所の司会者もスタジオ入りし、スタジオの空気が引き締まる。
表情が険しくなったなまえの背中に、仁人はそっと手を添えた。
「背中、丸まってる」
「え、」
「——それでは本番始まります!!」
ADの声がスタジオ内に響く。
「それじゃあ呼吸も浅くなるし、姿勢が悪くて見栄えが悪い」
グッと押され、背筋が伸びる。
離れる体温と、じわじわと熱を帯びる背中。早くなる鼓動は、なにが原因なのだろうか。
熱に浮かされているのか、普段より饒舌で、空回りしながらもボケを飛ばし爪痕を残す。
カットが掛かると紅潮した頬で仁人の方を見る。
「笑い、取れた!」
「うん!めっちゃ笑った!」
「滑るかと思ったけど、ツッコミ入れてくれて助かったよぉ……」
「拾いやすいボケでよかったよ」
「ほんとありがとう!!」
興奮気味のなまえは仁人の手を取る。飛び跳ねる勢いの彼女だが、指先は酷く冷たかった。
その指先に仁人の温もりが混ざり合った頃、勢いよく手を離す。
「、?」
「ナンデモナイ」
「いや何かあるだろ、その言い方」
眉を下げて笑う仁人に、なまえは火照る指で彼の腕を抓った。
「だから痛いって!何なんだよ!」
「うるさいうるさい」
急いでマイクを外し、逃げるように足早でスタジオを出る。
楽屋へと戻る道中でマネージャーからのお褒めの言葉をもらうが、右から左へと自身の中に留まることなく流れていく。スタッフとの打ち合わせも、アイドルスマイルを貼り付けただけで心ここに在らずだ。
心がモヤモヤする時、なまえには決まったルーティンがある。サクッとご飯を食べ、お風呂にゆっくり入り、さっさと寝る、だ。
マスクだけの簡単な変装で近くの牛丼チェーン店へと駆け込み、タブレットを操作する。いつものメニューか、期間限定か、どれにしようかと迷っていると隣からの視線に気付く。
「あ、よし——」
「——バッカ!お前!!」
牛丼を掻き込んでいる仁人が隣にいた。
「声デカいんだよ!」
慌ててなまえの口を塞いだ仁人は語気を強める。なまえはその手を払い落とし、眉を寄せた。
「帽子にマスクって不審者じゃん」
「お前が軽装過ぎるんだよ。隣座った瞬間に気付いて、メシ喉に詰まるかと思ったわ」
「折角一人でサクッと食べようと思ったのになんで居るかな、ここに……」
「そっくりそのまま返すわ」
「返すな。それにその席、わたしがいつも座ってる定位置なのに……!」
「……牛丼屋に定位置もないだろ」
あまりにも美味しそうに牛丼を頬張る姿を見て、自然といつものメニューを注文していた。
頬杖をつきながら隣を覗くと、バッチリと目が合う。
「、なに?」
「男だな、って思って」
「……はァ?え、なに?俺があの頃から成長してないと思ってたの?今までそう見えてたの?」
「うるさいな、いいから黙って食べなよ」
「そっちが話しかけてきたんじゃん」
「はいはい」
軽くあしらいながら髪を縛る。高めのポニーテールが完成した時、丁度目の前に牛丼がセットされた。
タバスコを数滴垂らし、スプーンで大胆に掬う。口いっぱいに甘辛いタレとチーズのまろやかさが広がる。
「ん〜!っぱコレよ!」
「……お前、食ってるところ動画でアップしたらCM来るんじゃね?」
「褒めてるの?」
「褒めてる褒めてる」
リスのように頬張るなまえとは対照的に、残り少しの牛丼を、仁人はゆっくりと口に運ぶ。
「この後まだ仕事残ってんの?」
「ううん、アレで今日は終わりだよ」
「じゃあなんでまた牛丼屋なんかで飯食ってんだよ」
「好きなんだから良いじゃん!てかそっちこそ牛丼食べてるじゃん!」
「俺はこの後も撮影残ってんの」
「なら、さっさと食べて仕事戻んなよ」
「言われなくてもそのつもり。」
名残惜しそうに米粒を集める。殺伐とした夜中の牛丼屋は、アイドルという肩書きを捨てさせてくれた。
黙々と食べ進める人、動画を見ながら食べる人、誰も自分たちの存在など気にもしていない。
「そういえば、なんだけど……」
丼を置いたなまえが口を開く。
「今度、ずっと夢だったドームでライブするんだけど、観にくる?」
「え!?凄いじゃん!」
「イベンターさんが頑張ってくれて……まだ公式には発表してないんだけど、時間があれば……」
「いつ頃?マネージャーに相談してみるよ」
「、来てくれる、の?」
「当たり前じゃん。え、ダメなの?」
仁人は、立ち上がりながら小首を傾げる。えくぼが浮かぶ頬を見て、なまえは首を大袈裟に振った。
「全然!ダメじゃない!!」
仁人を追うように店を出る。冷たい空気が肌を突き刺す。
「でも、俺たちもドームが目標だから抜かされちゃったな」
「抜かしてないよ、わたし達は1dayだもん。そっちの夢はドームツアーでしょ?」
「1dayだって十分凄いじゃん」
タクシーを探す視線が、曖昧になる。反対車線だからいいか、タイミングが悪いから次のにしよう。
マスク越しの声が遠く、どちらからともなく距離が近くなる。
「わたし、小さい頃から憧れてる人いて……その人追いかけて芸能界入って、アイドルになったんだ」
「……へぇ。俺の知ってる人?」
「ナイショ。だって、今でもその背中追いかけてるから」
「、いいよなぁ、そういうストーリー」
「そっちはないの?」
「ないよ。俺はステージに立ちたいからこの仕事続けてるだけ」
ガードパイプに座り仁人は言った。
「あの頃からずっと、踊ったり、歌ったり、演技したり。そういう楽しい事ずっとやってたいだけ」
「なんか、追いつけ追い越せで頑張ってきたわたしがバカみたい……」
「な訳ないだろ。目標持ってる人間が一番凄いよ」
「目標なんてそんな大それたものじゃないよ。共演したい、褒められたい……ただそれだけだもん」
「それでいいじゃん。気楽にいこうよ」
帽子の奥から覗く大きな瞳に、鏡のように映り込む。
その瞳から逃れるように鍔を思いっきり下げてやる。急に暗くなった視界に、仁人は思わず体勢を崩す。
「あ、おい!」
「、タクシー来たよ」
「そっちが先に乗りなよ」
「まだ仕事残ってる人間が何言うの!この時間ならまだ全然流れてるから気にしないで」
「……じゃあ乗るけど。ちゃんとタクシー拾えよ」
「分かってるって」
「……」
「なに?」
素直にタクシーに乗り込まない仁人は帽子を脱ぎ、前髪を掻き上げ整える。大きな瞳がもう一度なまえを捉えると、そのまま帽子をなまえに被せた。
「出歩く時は、もう少しバレない格好にしろよ」
「え、これどうすんの!?」
「次会った時に返して」
「次って、いつ被るか分かんないじゃん!あ!ドア閉めんな!!」
ガラスの向こうで手を振る姿に、握った拳を解いて同じように振り返す。
小さくなるテールランプを見送り、なまえは帽子を深く被り直した。
◆ ◆
季節は巡り、出会いと別れの春が来た。
沸き立つ会場に少し遅れてやって来た仁人は、席に着くと、満員の客席をゆっくりと見回した。ペンライトの明かりが天井まで続いている。
彼女たちにとって初めての大きなステージ。そして、なまえの卒業ライブでもあった。
会場内の音楽が大きくなる。ファンたちが一斉に立ち上がる中、仁人も配られたペンライトに明かりを灯した。
大きな破裂音と共に登場した一等星に、彼の視線は奪われる。
伸びやかな高音に、しなやかでありながらダイナミックなダンス。
鳴り止まないアンコールの後、彼女は笑顔でステージを降りた。
「——凄かったな、ラスト」
「ラストだけ?」
「ごめん、全部良かった」
仁人が楽屋を訪れると、ライブを終えたばかりとは思えない元気ななまえが出迎えた。
共演した時に何度も見た衣装ではなく、それがどこか寂しくて胸が詰まる。
「ほんとに辞めるの?」
「うん!やりたい事ぜーんぶやれた!!」
「そっか……俺は今日のライブ見て、もう一回見たいって思った」
「……」
「共演した時に袖で見てても、お前のパフォーマンスが一番目を引いて、歌だって一番……良いって思う」
「……ありがとう」
笑ったなまえの瞳から、大粒の涙が溢れた。
その場にしゃがみ込み、子どものように泣きじゃくる背中を優しく摩る。
「お前なぁ、いい大人がわんわん泣くなよ」
「うるさいなァ!ひっ、うぅ……えーん!」
「絵に描いたような『えーん』じゃん」
「冷静にツッコミすんなぁ!!」
仁人のシャツをきつく掴み、額を擦り付けてしゃくり上げながらも必死に言葉を紡ぐ。
「あ、鼻水付けんな!この服買ったばっかなんだから!」
「付けてないもん!っていうか泣いてる女の子に言うセリフじゃない!ほんとサイテー!!」
「はいはい、ほら、チーン!」
「バカにすんなぁ!」
ティッシュを鼻に押し当てられたなまえは、思いっきり鼻をかむ。仁人は笑いながら受け止める。
ファンデーションの取れた赤い鼻に、思わず吹き出すと、右ストレートが瞬時に飛んできた。
変わる事のない二人のやり取りに、周囲の人間も自然と笑顔になる。
後日、一般人になったなまえと人気絶頂の売れっ子アイドルである仁人の姿は、随分と庶民的な中華屋にあった。
「あ!だからそこわたしの席だって!」
「知らないよ、そんなの!」
「今知った!はい、変わって!」
「俺が先に座ったし、お前右利きなんだからそっち座れば良いだろ!?」
鏡の前、お気に入りの休憩スポット、そして今度は中華屋のカウンター。
二人の争いに、終わりは来ないらしい。
「、なまえがここに通ってたのは美味いから分かるけど、卒業祝いなんだからもっと高い所でも良かったんだけど」
「……」
「なに?」
メニューを見ていた仁人は顔を上げてなまえを見た。帽子の下から覗く瞳が、キョトンと仁人を見返した。
「呼び捨て……」
「あ?」
「小さい頃は、呼び捨て……じゃなかったから……」
「いや、今更ちゃん付けはないだろ……」
「じゃあ、くん付けも違うの?」
「まぁ……」
「……」
示し合わせたように水を飲む二人に小さな沈黙が訪れる。
「吉田さんはここ来たら——」
「——なんで苗字にさん付けなんだよ!」
「いやだって、一応年下だし……」
「今まで年下ムーブしてこなかっただろ……」
「、なんて呼べばいいの?」
「普通に『仁人』で良いだろ」
再びメニューに視線を落として仁人は言った。
「次は俺のドームツアー、観に来いよ」
「……うん。」
「あ、わたしこれ」と定食メニューを指差す。そのまま仁人の方を向けば、呆れたように眉を一回寄せ、それから小さく笑う。
「俺こっちにするからシェアしようぜ」
「え、嫌。全部わたしが食べる」
「二人で同じ物頼んだってしょうがないだろ」
「いいじゃん同じのだって!美味しいんだから」
「そーだけどさぁ!違うじゃん普通は!」
「あんたの普通にわたしを混ぜんな!」
「だから『仁人』って呼べって言ったろ」
「ッ!うるさいうるさい!」
帽子を目深に被り、耳を塞いでそっぽを向く。
微かに覗く耳は、いつの日かのように真っ赤に染まっていた。
261009
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