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「来るなら先に言ってよ!」
「ごめんごめん、スケジュール的に寄れるか分からなくって」
「だとしても、こんなに濡れて……忙しい時期に、わざわざこっちに来なくたって別に良いのに……」
雨の日の突然の訪問者に、なまえはタオルを持って忙しなく動く。久し振りの再会に、小言ばかりでゆっくりと顔を見る余裕などない。
「、少しでも、顔見たくて……」
「……」
「迷惑だったかな?」
「……ううん。会いに来てくれてありがとう」
なまえはそっと手を差し出し濡れたタオルを受け取る。
「寒いでしょ?シャワーでも浴びておいで」
「……なんかごめん」
「気にしないで。服、乾燥機かけちゃうからさ」
そう言うとなまえはリビングへと行ってしまう。
残された仁人は、そのまま風呂場へと向かおうと靴を脱ぐ。靴の中まで雨で濡れ、不快感からやっと解放された。
「……、」
大きめの革靴を一瞥し、眉を寄せる。
「ねぇ!靴ん中も濡れてるんだけど、どうすればいい!?」
「後で新聞紙入れておくから、早くお風呂入っちゃってー!」
部屋の奥からのなまえの返答を聞いて、仁人は自身の靴を綺麗に揃え、革靴から離して置いた。
お気に入りのローファーは、無骨な革靴よりも、華奢なヒールの隣の方が良く似合う。
少し甘めの柔軟剤の香りが漂う脱衣所に、少しの背徳感を覚えながらも服を脱ぐ。アクセサリーを取り、畳まれたタオルの上にそっと預ける。
何度か訪れた家で、初めて踏み入れる浴室。ただシャワーを借りるだけなのに、妙に頬が火照った。脈打つ心臓を抑える様に、小さく深呼吸を入れてからシャワーを捻った。
「——着替えとタオル、ここに置いておくから使って!」
「あ、うん。ありがとう!」
磨りガラスの奥からの声に心臓が跳ねる。乾燥機を操作するシルエットを、どうしても目で追ってしまった。
風呂から出ると、置かれていた見覚えのあるTシャツに思わず苦笑いを浮かべる。サイズだけが合う他の物を出されても不愉快だったが、彼女と同じ香りのするそれに躊躇いなく袖を通す。
「——あのさ、自分でライブT着るの恥ずかしいんだけど」
「しょうがないでしょ?わたしの服でサイズが合うのそれくらいなんだから」
コーヒーを淹れるなまえの横に立つ。燻されたような深い香りが二人を包む。
ドリッパーに、溢れそうなほど熱湯が注がれていく。それを見て仁人は微笑んだ。
「なぁに?」
「ううん。なんでもないよ」
淹れ方などどうでもいい。彼女が自分の為にコーヒーを淹れてくれる。それだけで、酷く満たされた。
「今更だけど、なんであんなにずぶ濡れだったの?」
「今回こっちでの移動がイベンターさん主導だったんだよ」
「……つまり?」
お湯を注ぐ手を止め、なまえは仁人を見上げる。
大きな瞳に自身が映り、無意識に目を逸らした。
「さすがに、この家の前に横付けはマズいだろ?」
「だったら迎えに行ったのに」
「それも同じだって」
「ウチのスクールの近くでも?」
なまえは仁人の背中を軽く押してリビングに促す。
「恋愛禁止じゃないのに厳しいね。スクール時代にお世話になったおねえさんに会いに来るだけなのに」
「変な噂がたったら、なまえさんにだって迷惑かけるじゃん」
「……まぁ、田舎だしね」
不揃いのマグカップにコーヒーが注がれる。
ミルクと砂糖を入れるなまえの左手を、仁人は目で追った。
「狭いコミュニティだと、刺激が少なくて変な遊びをする人もいるし。そういう人の噂を肴にして、暇潰しする人もいるし……」
「……今日、俺がここに来て良かったの?」
彼女は視線を外すと、チェストの上に置かれた写真立てに向ける。
そこには、純白のドレスに身を包み、溢れんばかりの笑顔をしているなまえがいた。
「良いんじゃないの?あの人も出かけてるし」
カップの水面に映るなまえの顔がゆらりと歪む。
「最近、休みの日も仕事ばかりだし、帰ってくるのも夜遅いの……だから、大丈夫」
なまえは笑った。その目元には微かに隈が滲んでいて、仁人は眉を寄せる。
「小さいけど自分のスクールも持てるようになったし、わたしも、仕事が楽しいんだ」
「そっか。俺は、なまえさんがまだダンス続けててくれて嬉しいよ」
「え?なんで?」
「好きだし。なまえさんのダンス」
「、そんなこと言ったらわたしだって好きだよ……」
その言葉に、コーヒーカップを持つ手が僅かに強張った。
「もう何年になるっけ?急に男の子がスクールに入ったって聞いたからあの時ビックリしたよ」
「十七年、くらい前、かな?」
「そんなに経つんだ……そんなに前なのに、仁人くんのダンスにはあの時の面影があって、根っこの部分は同じなんだって思うよ」
ソファの背もたれに身体を預けたなまえは外を見た。
「みんなミーハーだからさ、どこからか聞きつけて、スクールに入るけど、わたしが貴方のこと何も話さないからすぐ辞めちゃうの」
雨足は強くなり、ガラスに雨粒の当たる音が響く。騒がしいはずなのに、外界とは切り離されたようで妙な静けさが訪れる。
「……この世界、そんなに甘くないのにね」
「、なまえさんが、軽々踊っちゃうからじゃないの?」
「優雅に見えてる?」
「見えてるよ。なまえさんは人を惹きつける魅力があるから」
「……」
「あの時だって、俺はなまえさんのダンスに惚れて先生に直談判したんだよ」
「そんな事もあったね……」
盾や表彰に混ざり、写真や小物がセンス良く並べられている。なまえの視線がゆっくりと、その一つ一つを泳いだ。
彼女が積み重ねてきたものが、そこには全部詰まっているように見えた。
「あのね……」
「ん?」
優しい低音が続きを促す。
「あの人、今日帰ってこないかもしれないんだ」
「……え?」
仁人の喉が、微かに鳴った。
「クローゼットの奥にしまってたボストンバッグがなくなってて——」
スマホを肌身離さず持ってるわりに、わたしからの連絡の返信は遅くて。
彼の趣味でも、わたしの趣味でもない、高い時計なんか買っちゃって。
沖縄出張に行ったかと思ったら、真っ黒になって帰って来たんだ。
「——面白いの、時計を着けていた所以外、ぜーんぶ真っ黒。不思議だよね」
「……」
なまえは少し長めに息を吐くと、足を畳んで膝に顔を埋める。
長い髪が肩から滑り落ち、表情を隠す。
仁人は冷め切ったコーヒーを静かに見つめた。
「……なんで別れないの?」
「、……」
細い肩が小さく揺れた。
「……向こうだってやってるのに、なんで自分だけ我慢するの?」
ゆっくりと顔を上げたなまえと目が合う。
怯えた瞳に、心臓が締め付けられる。
「今、幸せなの?俺には前のなまえさんの方が輝いて見えた」
「勝手なこと言わないでよ」
「初めて会った時になまえさんは本当に綺麗だった。そこから、ずっとずっと変わらずに」
仁人が畳み掛ける。
「その背中を見て、俺も頑張ろうって思えた。なまえさんが幸せそうに笑うから、応援しようって決めたんだよ」
「だからって、わたし達がそういう関係になっていい訳じゃない」
「……」
「あ、……」
短い声が部屋に響く。
思わずなまえは目を逸らした。唇を噛み、長いまつ毛が影を落とす。
仁人はなまえの顎を持ち、こちらを向かせる。ゆっくりと持ち上がるまつ毛。潤んだ瞳に自身が映る。
「"わたし達"ってどういう意味?」
「それは、」
親指がそっと唇の縁を撫でる。
なまえからの答えは返ってこない。
「それは?」
もう一度、問いかけた。
逸らされない瞳に、仁人の方から一度瞬きをして視線を外す。
そして、もう一度なまえを見る。
今度は逸らさなかった。
「……」
何も言わない彼女に、そっと自身の唇を重ねた。
一度離れた唇の向こうで、濡れた瞳が小さく揺れ、こちらを見上げる。
触れるだけのつもりだった。なのに、また彼女を求めてしまう。角度を変えて、もう一度。
雨の音だけが部屋に満ちていた。
触れた唇を追うように、ほんの少しだけ顔を寄せる。
舌が触れ合った瞬間、なまえの肩が跳ねた。小さな手が、仁人の胸をそっと押す。
「……待って」
押す力は、弱かった。
「やっぱり、ダメだよ……」
「、なんで?」
訪れる静寂に、仁人は眉を寄せた。
「……俺じゃ、ダメなの?」
彼女は答えない。微かな雨の音だけが続く。
ゆっくりと小さく首を振るなまえは、そっと左手を撫でた。
満たされない渇きが心を濁す。
そんな時、無機質な音が脱衣所から聞こえた。
なまえは音のした方に目をやり、もう一度仁人を見る。
「……服、乾いたみたい」
隣にあった熱がゆっくりと離れてゆく。
手を伸ばせばまだ届きそうで、それでも彼女の左手を見るとその手は宙を切る。
「はい、ほかほかになったよ」
「そうだな」
ふんわりと香る彼女と同じ匂いと温もり。仁人はそれを、小さく抱きしめた。
「コーヒー、冷めちゃったよね。淹れ直そうか?」
「いや、いいよ……」
「、そう」
ポットを持ってキッチンへと向かったなまえを見送り、仁人は乾かしたての服に袖を通す。借りた服はソファに無造作に置いた。
スマホを確認すると、メッセージが数件は入っている。
「マネージャーさんから?」
「ん?まぁ、ね」
「急がなくて平気?送るよ?ホテル?空港?」
鞄を掴み、玄関へ向かおうとするなまえの手首を、仁人が掴んだ。
「大丈夫だよ」
「あ、そっか……」
気が付けば雨足も弱まってきていた。
「、さすがに靴は乾ききってないや」
「ごめんね」
「なまえさんが謝る事じゃないでしょ」
仁人は笑うと、ドアノブを捻る。
「また、こっち帰ってきたら顔見に来ていい?」
「……うん。元気でね」
「、なまえさんも」
あの頃とは違う大きな背中になまえは手を振った。
彼が去るのを待ち、静かに鍵を締める。
リビングに戻るとソファに身体を沈めた。
「……ひとりになっちゃった」
隣には彼の脱いだ服が、ゆっくりと熱を奪われていく。
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「ごめんごめん、スケジュール的に寄れるか分からなくって」
「だとしても、こんなに濡れて……忙しい時期に、わざわざこっちに来なくたって別に良いのに……」
雨の日の突然の訪問者に、なまえはタオルを持って忙しなく動く。久し振りの再会に、小言ばかりでゆっくりと顔を見る余裕などない。
「、少しでも、顔見たくて……」
「……」
「迷惑だったかな?」
「……ううん。会いに来てくれてありがとう」
なまえはそっと手を差し出し濡れたタオルを受け取る。
「寒いでしょ?シャワーでも浴びておいで」
「……なんかごめん」
「気にしないで。服、乾燥機かけちゃうからさ」
そう言うとなまえはリビングへと行ってしまう。
残された仁人は、そのまま風呂場へと向かおうと靴を脱ぐ。靴の中まで雨で濡れ、不快感からやっと解放された。
「……、」
大きめの革靴を一瞥し、眉を寄せる。
「ねぇ!靴ん中も濡れてるんだけど、どうすればいい!?」
「後で新聞紙入れておくから、早くお風呂入っちゃってー!」
部屋の奥からのなまえの返答を聞いて、仁人は自身の靴を綺麗に揃え、革靴から離して置いた。
お気に入りのローファーは、無骨な革靴よりも、華奢なヒールの隣の方が良く似合う。
少し甘めの柔軟剤の香りが漂う脱衣所に、少しの背徳感を覚えながらも服を脱ぐ。アクセサリーを取り、畳まれたタオルの上にそっと預ける。
何度か訪れた家で、初めて踏み入れる浴室。ただシャワーを借りるだけなのに、妙に頬が火照った。脈打つ心臓を抑える様に、小さく深呼吸を入れてからシャワーを捻った。
「——着替えとタオル、ここに置いておくから使って!」
「あ、うん。ありがとう!」
磨りガラスの奥からの声に心臓が跳ねる。乾燥機を操作するシルエットを、どうしても目で追ってしまった。
風呂から出ると、置かれていた見覚えのあるTシャツに思わず苦笑いを浮かべる。サイズだけが合う他の物を出されても不愉快だったが、彼女と同じ香りのするそれに躊躇いなく袖を通す。
「——あのさ、自分でライブT着るの恥ずかしいんだけど」
「しょうがないでしょ?わたしの服でサイズが合うのそれくらいなんだから」
コーヒーを淹れるなまえの横に立つ。燻されたような深い香りが二人を包む。
ドリッパーに、溢れそうなほど熱湯が注がれていく。それを見て仁人は微笑んだ。
「なぁに?」
「ううん。なんでもないよ」
淹れ方などどうでもいい。彼女が自分の為にコーヒーを淹れてくれる。それだけで、酷く満たされた。
「今更だけど、なんであんなにずぶ濡れだったの?」
「今回こっちでの移動がイベンターさん主導だったんだよ」
「……つまり?」
お湯を注ぐ手を止め、なまえは仁人を見上げる。
大きな瞳に自身が映り、無意識に目を逸らした。
「さすがに、この家の前に横付けはマズいだろ?」
「だったら迎えに行ったのに」
「それも同じだって」
「ウチのスクールの近くでも?」
なまえは仁人の背中を軽く押してリビングに促す。
「恋愛禁止じゃないのに厳しいね。スクール時代にお世話になったおねえさんに会いに来るだけなのに」
「変な噂がたったら、なまえさんにだって迷惑かけるじゃん」
「……まぁ、田舎だしね」
不揃いのマグカップにコーヒーが注がれる。
ミルクと砂糖を入れるなまえの左手を、仁人は目で追った。
「狭いコミュニティだと、刺激が少なくて変な遊びをする人もいるし。そういう人の噂を肴にして、暇潰しする人もいるし……」
「……今日、俺がここに来て良かったの?」
彼女は視線を外すと、チェストの上に置かれた写真立てに向ける。
そこには、純白のドレスに身を包み、溢れんばかりの笑顔をしているなまえがいた。
「良いんじゃないの?あの人も出かけてるし」
カップの水面に映るなまえの顔がゆらりと歪む。
「最近、休みの日も仕事ばかりだし、帰ってくるのも夜遅いの……だから、大丈夫」
なまえは笑った。その目元には微かに隈が滲んでいて、仁人は眉を寄せる。
「小さいけど自分のスクールも持てるようになったし、わたしも、仕事が楽しいんだ」
「そっか。俺は、なまえさんがまだダンス続けててくれて嬉しいよ」
「え?なんで?」
「好きだし。なまえさんのダンス」
「、そんなこと言ったらわたしだって好きだよ……」
その言葉に、コーヒーカップを持つ手が僅かに強張った。
「もう何年になるっけ?急に男の子がスクールに入ったって聞いたからあの時ビックリしたよ」
「十七年、くらい前、かな?」
「そんなに経つんだ……そんなに前なのに、仁人くんのダンスにはあの時の面影があって、根っこの部分は同じなんだって思うよ」
ソファの背もたれに身体を預けたなまえは外を見た。
「みんなミーハーだからさ、どこからか聞きつけて、スクールに入るけど、わたしが貴方のこと何も話さないからすぐ辞めちゃうの」
雨足は強くなり、ガラスに雨粒の当たる音が響く。騒がしいはずなのに、外界とは切り離されたようで妙な静けさが訪れる。
「……この世界、そんなに甘くないのにね」
「、なまえさんが、軽々踊っちゃうからじゃないの?」
「優雅に見えてる?」
「見えてるよ。なまえさんは人を惹きつける魅力があるから」
「……」
「あの時だって、俺はなまえさんのダンスに惚れて先生に直談判したんだよ」
「そんな事もあったね……」
盾や表彰に混ざり、写真や小物がセンス良く並べられている。なまえの視線がゆっくりと、その一つ一つを泳いだ。
彼女が積み重ねてきたものが、そこには全部詰まっているように見えた。
「あのね……」
「ん?」
優しい低音が続きを促す。
「あの人、今日帰ってこないかもしれないんだ」
「……え?」
仁人の喉が、微かに鳴った。
「クローゼットの奥にしまってたボストンバッグがなくなってて——」
スマホを肌身離さず持ってるわりに、わたしからの連絡の返信は遅くて。
彼の趣味でも、わたしの趣味でもない、高い時計なんか買っちゃって。
沖縄出張に行ったかと思ったら、真っ黒になって帰って来たんだ。
「——面白いの、時計を着けていた所以外、ぜーんぶ真っ黒。不思議だよね」
「……」
なまえは少し長めに息を吐くと、足を畳んで膝に顔を埋める。
長い髪が肩から滑り落ち、表情を隠す。
仁人は冷め切ったコーヒーを静かに見つめた。
「……なんで別れないの?」
「、……」
細い肩が小さく揺れた。
「……向こうだってやってるのに、なんで自分だけ我慢するの?」
ゆっくりと顔を上げたなまえと目が合う。
怯えた瞳に、心臓が締め付けられる。
「今、幸せなの?俺には前のなまえさんの方が輝いて見えた」
「勝手なこと言わないでよ」
「初めて会った時になまえさんは本当に綺麗だった。そこから、ずっとずっと変わらずに」
仁人が畳み掛ける。
「その背中を見て、俺も頑張ろうって思えた。なまえさんが幸せそうに笑うから、応援しようって決めたんだよ」
「だからって、わたし達がそういう関係になっていい訳じゃない」
「……」
「あ、……」
短い声が部屋に響く。
思わずなまえは目を逸らした。唇を噛み、長いまつ毛が影を落とす。
仁人はなまえの顎を持ち、こちらを向かせる。ゆっくりと持ち上がるまつ毛。潤んだ瞳に自身が映る。
「"わたし達"ってどういう意味?」
「それは、」
親指がそっと唇の縁を撫でる。
なまえからの答えは返ってこない。
「それは?」
もう一度、問いかけた。
逸らされない瞳に、仁人の方から一度瞬きをして視線を外す。
そして、もう一度なまえを見る。
今度は逸らさなかった。
「……」
何も言わない彼女に、そっと自身の唇を重ねた。
一度離れた唇の向こうで、濡れた瞳が小さく揺れ、こちらを見上げる。
触れるだけのつもりだった。なのに、また彼女を求めてしまう。角度を変えて、もう一度。
雨の音だけが部屋に満ちていた。
触れた唇を追うように、ほんの少しだけ顔を寄せる。
舌が触れ合った瞬間、なまえの肩が跳ねた。小さな手が、仁人の胸をそっと押す。
「……待って」
押す力は、弱かった。
「やっぱり、ダメだよ……」
「、なんで?」
訪れる静寂に、仁人は眉を寄せた。
「……俺じゃ、ダメなの?」
彼女は答えない。微かな雨の音だけが続く。
ゆっくりと小さく首を振るなまえは、そっと左手を撫でた。
満たされない渇きが心を濁す。
そんな時、無機質な音が脱衣所から聞こえた。
なまえは音のした方に目をやり、もう一度仁人を見る。
「……服、乾いたみたい」
隣にあった熱がゆっくりと離れてゆく。
手を伸ばせばまだ届きそうで、それでも彼女の左手を見るとその手は宙を切る。
「はい、ほかほかになったよ」
「そうだな」
ふんわりと香る彼女と同じ匂いと温もり。仁人はそれを、小さく抱きしめた。
「コーヒー、冷めちゃったよね。淹れ直そうか?」
「いや、いいよ……」
「、そう」
ポットを持ってキッチンへと向かったなまえを見送り、仁人は乾かしたての服に袖を通す。借りた服はソファに無造作に置いた。
スマホを確認すると、メッセージが数件は入っている。
「マネージャーさんから?」
「ん?まぁ、ね」
「急がなくて平気?送るよ?ホテル?空港?」
鞄を掴み、玄関へ向かおうとするなまえの手首を、仁人が掴んだ。
「大丈夫だよ」
「あ、そっか……」
気が付けば雨足も弱まってきていた。
「、さすがに靴は乾ききってないや」
「ごめんね」
「なまえさんが謝る事じゃないでしょ」
仁人は笑うと、ドアノブを捻る。
「また、こっち帰ってきたら顔見に来ていい?」
「……うん。元気でね」
「、なまえさんも」
あの頃とは違う大きな背中になまえは手を振った。
彼が去るのを待ち、静かに鍵を締める。
リビングに戻るとソファに身体を沈めた。
「……ひとりになっちゃった」
隣には彼の脱いだ服が、ゆっくりと熱を奪われていく。
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