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ロビーでエレベーターを待つ仁人は、ぼんやりと階数表示を眺めていた。日付を跨いでの仕事は、何年経ってもこの時間になると眠い。
大きな欠伸をひとつ噛み殺したところで、エントランスの扉が開き、一人の女性が入ってくる。
(あ、……)
彼女の顔を確認した仁人は思わず背筋を伸ばす。彼女は隣人で、この時間の帰宅で何度か見掛けた事がある。
エレベーターが一階に到着し乗り込むと、隣にいるのが仁人だと気付いたらしく、彼女は慌てたように会釈をした。仁人もそれに倣い軽く会釈をし階数ボタンを押す。
無言が流れ、少し気まずく感じた仁人は上部に取り付けられた階数表示を見上げた。顔を上げた時、ふわりと甘い香りが鼻腔を擽る。
「……あの、お隣の方、ですよね?」
「あ、はい」
「仕事で貰ったんですけど食べきれなくて、良かったら貰ってくれますか?」
「え?」
彼女は手に持っていた袋を広げて仁人に見せる。そこには袋いっぱいに、熟した桃が入っていた。
「あ、ごめんなさい…初めてでこんな事言うの失礼ですよね」
「いえ、こちらこそご挨拶に行けてなくて…」
「それは全然……こんなご時世ですし」
「……凄く香りが良い桃ですね」
何度か挨拶は交わした事がある。けれどこうして言葉を交わすのは初めてだった。
「わたし普段料理とかしないので、持って帰っても芳香剤代わりになって腐らせてしまう未来しか見えなくて……」
「わぁ、もったいない!」
「なので良かったら是非」
彼女が笑った時、無機質な音と共にエレベーターは自室の階に到着した。彼女はそのまま袋ごと仁人に桃を渡すと自分の部屋へと帰っていった。
数日後、遅くに帰宅した仁人はロビーでエレベーターを待つ人物の姿を見てイヤフォンを取り近付いた。
「こんばんは。先日はありがとうございました」
「え……あぁ!いえ、こちらこそありがとうございます」
前回よりも疲れた表情をした彼女は今にも寝てしまいそうで、それを見た仁人は思わず口元を緩める。
「明日も朝早いんですか?」
「流石にブラックな会社でも土日休みなんで、お昼まで寝ると思います」
「いつもお疲れな様子ですもんね」
「恥ずかしい限りです……まあ、仕事があるのは有難いんですが、このご時世なのに持ち帰って仕事なのもどうかと思うんですけどね」
その言葉に仁人は思わず「えっ!?」と短く声を発し振り返る。苦笑いを浮かべた彼女と目が合い、瞬きを数回繰り返した。
「まだ仕事するんですか!?」
「仕事いただけてるうちが華なので」
「うわ、大変だ」
「じゃあお疲れ様です」
彼女は小さく会釈をすると自室へと入った。暫くその扉を見ていた仁人は何かを思い立つと自分も部屋に入る。冷蔵庫にはまだ桃は数個残っていた。その内の一つを手に取ると慣れた手つきで皮を剥きブレンダーに入れる。果汁百パーセントのジュースの完成だ。
(、作ったは良いけど、流石に不審者過ぎるか?)
出来上がったジュースを前に仁人は腕を組んだ。眉間に皺を寄せ、暫く考え込む。
(……あの感じの人なら大丈夫だと思うけど、でももし嫌がられたらこれから隣人としてめっちゃ気まずいよなぁ……)
それでも仁人はジュースをどうにもする事が出来ず、暫くそれを見つめ、一つ大きく深呼吸をするとそれをグラスに注ぎ家を出た。向かうは隣の部屋。インターフォンを押すとその瞬間から心臓が大きく跳ねる。
『はい』
「あ、隣の部屋の吉田なんですけど」
『え?』
「この間のお礼で……」
『お礼だなんて。あ、ちょっと待ってください』
一度インターフォンが切れると少しの間を置きドアが開く。部屋着になった彼女が慌てた様子で立っていた。
「あ、あの、頂いた桃でアレなんですけど……」
「わぁ、丁寧にありがとうございます!」
仁人からグラスを受け取ると、彼女の表情がふっと緩む。
「ジュースにすればいいなんて思いつかなかった」
「これからまたひと仕事あるってさっき仰ってたんで」
「週明け頂いた方にお会いするんでちょうど良かったです」
「なら、良かった」
小さく息をついた仁人の視線は思わず足元へ落ちる。玄関の脇には畳まれたままの段ボールがいくつか立てかけられていた。
(……限界そうなのに、普段ちゃんと小綺麗にしてて偉いよなぁ)
視界の端に映った段ボールに仁人は少しだけ親しみを覚えた。
「この後の仕事、頑張ってください!」
「……ありがとうございます」
一瞬だけ目を見開いた彼女はすぐにふわりと目を細めて笑った。その笑顔に仁人も釣られてしまう。短く挨拶を交わすと、軽い足取りで部屋へと戻った。
◆ ◆
ラジオの放送を終え帰宅した仁人は、翌日のスケジュールを確認しながらマンションのエントランスを抜ける。その時足元の何かに靴先が当たり、慌てて屈んで拾い上げると、見覚えのある、ぬいぐるみのキーホルダーが付いた鍵だった。
(あ、これお隣さんのだ……)
仁人は小さく息を吐き、鍵を握ったままエレベーターへ向かう。
(今頃、部屋の前で「無い無い」って慌ててるんだろうな……)
想像するとつい口元が緩む。エレベーターに乗り込み、階数ボタンを押すと、扉の閉まる音がやけに大きく響いた。自室のフロアに着き、角を曲がったところで仁人の足が止まる。
彼女の部屋の前、廊下に荷物が散らばっている。定期入れ、リップ、丸まったレシート。カバンの中身をひっくり返したような有様の真ん中で、当の本人が膝を抱えるようにしゃがみ込んだまま、動かなくなっていた。
「……え」
仁人の笑顔は消え、駆け寄ってその顔を覗き込んだ。目を閉じたまま、胸だけが規則正しく上下している。
(噓でしょ、限界迎えてんじゃん……)
散らばった荷物をひとつずつ拾い、カバンに戻しながら、もう一度声をかける。
「あの、大丈夫ですか?」
反応はない。その時定期に記された名前が目に入った。
「えっと、みょうじさん、大丈夫ですか?」
肩に軽く触れると、彼女はようやくうっすらと目を開けた。焦点の合わない瞳のまま、寝ぼけた声が漏れる。
「……あれ、鍵……鍵、ない……」
「これ、探してましたよね。下で拾いました」
目の前に鍵を出すと、彼女は数秒それを見つめた後、ゆっくりと状況を飲み込んでいくのが分かった。
「え、あ……ありがとうございます……え、わたし、いつからここに……」
「僕が来たときにはもう寝てました」
言いながら、仁人はまだ膝をついたまま彼女を見上げる。
(、面白い人だな……)
自然と表情を緩めた仁人は続けた。
「体調とか、大丈夫ですか?」
「大丈夫です、大丈夫……ただの寝不足なので」
そう言う割に、立ち上がろうとする足元がふらついている。咄嗟に仁人が支えると、彼女は眉を下げて笑った。
「すみません、こんな情けないとこを見せてしまって……」
「いえ、全然……」
鍵を受け取った彼女は、ドアの前で立ち止まると、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そういえばCM見ました……明日、生放送でしたよね?新曲の」
「え、あ……はい」
不意打ちの一言に、仁人の返事が一拍遅れる。
「頑張ってくださいね」
寝ぼけたままの声で、それでも真っ直ぐにそう言われて、仁人は何度か瞬きを繰り返した。
「……ありがとう、ございます」
「じゃあおやすみなさ〜い……」
欠伸混じりに彼女はふらふらとドアの向こうへ消えていく。閉まった扉を暫く見つめたまま、仁人はその場から動けずにいた。
「……え、気付いてたのかよ!?」
限界まで目を見開いた仁人。一気に汗が吹き出し、頭の中まで騒がしくなる。
まだ温い夜風では、到底冷ませそうにもなかった。
◆ ◆
ゴミ出しを終え、ロビーの掲示物を眺めていた仁人の目の端に人影が見え、彼は慌ててマスクを付け直しす。
いつもの疲れきった様子とは違い、背筋を伸ばした彼女が足早にエレベーターから降りてきた。スマホを耳に当てながら、迷いのない足取りで自動ドアへ向かっていく。
「——はい、その件は午前中に一度お戻しします……いえ、大丈夫です。つきましては——」
淀みない声。抑揚はない。それでも、芯のある口調だった
(……誰だよ、今の)
振り返って後ろ姿を見つめる。
寝ぼけて鍵を探せなくなっていたあの人と、同じ人間だとは思えない。表情は変わらないのに、纏う空気がまるで違う。隙のない声、隙のない歩き方。
(かっけえ……そりゃこのマンションにOLで住めるわ)
仁人は妙に納得しながらエレベーターの方へと歩き出す。頭の中では、先程の彼女の姿がまだちらついていた。
◆ ◆
「——そういえば、この間のジュース、すごく美味しかったです。頂いた方にきちんとしたお礼も言えましたし、ありがとうございます」
「なら良かった。思い付きで夜中渡しに行ったから迷惑だったかなって少し心配で……」
それから何度かエレベーターで顔を合わせるうちに、会話はいつのまにか当たり前になっていた。
「そんな迷惑だなんて……逆にあんなに美味しいのをどうやって作ったか知りたいくらいです」
「普通に皮剥いてブレンダーに入れただけですよ?」
「、ブレンダー……?」
「はい。僕、朝スムージー作るのに使ってるので」
「朝にスムージーなんて、わたしよりOLしないでよぉ……!」
彼女は分かりやすく情けない声を出すとゴン、と壁に頭を預ける。階数表示が数字を刻んでいくのを眺めていた仁人は思わず笑ってしまう。
「ブレンダーなんて越してきて以来使ってなくて埃被ってるよ」
「へー……引っ越してくる前は使ってたんですか?」
「、多少なりとも?」
「その言い方、絶ッ対使ってないわ!」
仁人は思わず声を出して笑う。目の端に涙を浮かべて。
エレベーターが自室の階に着くまで今までは長く感じていたのに、今日はあっという間だった。
「今度また何か作ったら、お裾分けしに行きますよ」
「お忙しそうなのに、悪いですよ!!」
「俺なんてみょうじさん程じゃないですよ」
「……さすがにそれは違うと思う!今は絶対吉田くんの方が忙しいよ」
彼女は少し困ったように笑いながらも、まんざらでもなさそうだった。到着音が鳴り、扉が開く。
「……お言葉に甘えて良いんですかね?」
「はい、期待しといてください」
軽く言葉を交わして、それぞれの部屋へ帰る。仁人は自室の玄関で先程のやり取りを思い出して、また一人で笑ってしまった。
◆ ◆
「わぁ!これがこの前いてたやつ?」
「うん、こういうの食べた事ないでしょ?」
「ない!デザート系かとばかり思ってたけど、桃でパスタなんて作れるんだ!すごーい!」
目を輝かせる彼女に、仁人は得意気に口角を上げる。
「そのまま食べるのが一番美味しいんだけど、意外と合うんだよ」
「仁人くんって意外性の塊だよね」
「、褒めてるの?それって」
「素直にモノを受け取れてたら部下にしたい男一位なのに勿体無い」
「うるさいよ!」
軽口を叩きながらの食事は、思いのほかあっという間に終わった。
食べ終えた皿を重ねて、二人でシンクに立つ。仁人が洗い、彼女が拭く。キッチンで、肩が触れそうな距離になるのも、もう気にならなくなっていた。
「そういえばさ」
彼女がふと切り出す。
「うちの職場のお局が、最近入った中途の子の名前を出して彼氏にどうなの?って煩いんだ。令和なのに凄いよね、こういいう価値観」
「まぁね……それでなまえさんはなんて返したの?」
「もちろん否定したよ。相手にだって選ぶ権利はあるし……それに彼、まだ若いからわたしとじゃ釣り合わないよ」
「……ちなみに、相手はいくつなの?」
「確か、26か27って言ってたかな?」
「……あ、じゃあ俺と同い年だ」
洗い物をする手を止めないまま、仁人はさらりとそう言ったが、彼女の手は一瞬止まる。
「待って、そっか。仁人くんってその子と同い年なんだ!?若っ……」
「……俺と話しててつまらなかった?」
「そういうわけじゃないよ!なんて言うか……こっちが一方的にコンプレックス刺激されるっていうか。微妙なお年頃って」
「……めんどくさい感情。」
「、仕方ないじゃん」
水音だけが響き沈黙が少し続いた後、彼女がぽつりと付け足す。
「まあ、二、三歳ならいいけど、それ以上はさすがになんか違うじゃん?」
「……じゃあ、俺らは三年待てば有りって事?」
「待つとかそういう問題じゃないよ」
「そういう問題じゃん。そしたら同じ三十代だし」
言ってから、仁人は鼻で笑う。
「……まあ、この理論、全然意味分かんないんだけど」
最後の皿を拭き終えて、彼女がタオルを置く。仁人もちょうど蛇口を止めたところだった。
「仁人くんも歳取れば——」
言いかけた彼女の手首を、仁人はふいに掴んだ。濡れた手のまま、軽く引く。彼女の体が一歩分、こちらへ傾いだ。
「——え、」
視線が、まっすぐ落ちてくる。さっきまでの軽口の距離じゃない。
「そういう言い方、好きじゃないかも」
「ちょっと、待っ……」
皿を持ったまま固まって、声も出せずにいる彼女を見て、仁人はふ、と表情を緩めた。
「……なんて。冗談」
あっさり手を離して、一歩下がる。
「そんな本気にされると思わなかった」
からかうように笑う声はいつも通りなのに、彼女はまだ心臓が鳴りやまない様子だった。
「……年上をからかわないでよ」
やっと絞り出した彼女の抗議に、仁人は肩を竦めただけだった。なんとも言えない空気が流れるが、仁人は気にする様子もなく普段と変わらない。
玄関で靴を履きながら、仁人はふと振り返らずに言う。
「今日はこれで満足しとくよ」
「……何が?」
「べつに。」
軽く笑って、ドアに手をかける。開ける直前、思い出したように付け足した。
「また誘って。桃じゃなくてもなまえさんの食べたい物、作るから」
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いく。
玄関のドアを閉め、隣の部屋との壁一枚を隔てたところで、仁人はさっき掴んだ手首の感触がまだ手のひらに残っている気がして、思わず自分の手を見下ろした。
(……本気にされ過ぎて、こっちの方がびっくりしたんだけど)
軽い気持ちで仕掛けたつもりだった。なのに、あの一瞬の彼女の表情。固まって声も出せずにいたあの表情が、まだ頭から離れない。
(、あんな顔されたら、こっちが冗談で片付けたくなくなるだろ……)
靴も脱がないまま、仁人はしばらく玄関で立ち尽くしてまう。壁の向こうで、彼女も同じように立ち尽くしていてほしい、何故だかそう思ってしまった。
◆ ◆
数日後エレベーターホールに向かうと、先に到着していた彼女がちょうど扉の前に立っていた。仁人に気づいたのか、肩がびくりと跳ねる。
到着した箱に乗り込んだ彼女は、こちらに背を向けたまま忙しなく閉ボタンを連打していた。
(、あからさま過ぎるだろ)
扉が閉まりきる寸前、仁人は隙間に手を差し込んだ。
「おはよ」
何事もなかったかのように乗り込むと、彼女は気まずそうに視線落とす。
「……おはよう」
「そんな露骨に避けなくても」
「避けてない」
「、ちなみにだけどこの機種なら連打よりも長押しの方が早く閉まるよ」
「……」
図星だったのか、彼女は言葉に詰まって黙り込む。その反応が面白くて、仁人はつい笑ってしまった。
「この間の事、まだ根に持ってるの?」
「持ってません。」
「持ってるじゃん」
以前、仕事の電話をしていた時と同じようなトーンに、仁人は視線だけで彼女を見た。
「あのさ」
さっきまで笑っていた仁人の声が少しだけ低くなる。
「年齢がネックなだけなんだよね?」
「……"だけ"って言うけど、それが一番の問題なの。話も合わないし、周りにどう思われるかとか……」
分かりやすく困った顔をする彼女を見て、仁人はそれ以上の反論を封じるように続けた。
「俺も他人の目とかに気する質だけど、でもそういうの関係なくない?」
「、若い君には分かんないと思うけど——」
「——そういう言い方、好きじゃないって前も言った」
階数表示が、もうすぐ一階に着く事を告げている。
「……ごめん」
戸惑ったような彼女の声に、仁人は答えず一歩、距離を詰めた。
扉が開く直前、真っ直ぐに彼女の目を見て言う。
「絶対沼らせるから」
「なッ……!!」
呆気に取られたような彼女の顔が、仁人にはひどく心地よかった。
「年齢がどうのとか言ってられなくするから、覚悟しといて」
それだけ言い残すと、仁人はサングラスを掛けいつも通りの軽い足取りでエントランスへ歩いて行く。振り返らずとも、彼女がまだその場に立ち尽くしているのが分かる気がした。
(あーあ。これじゃあ俺の方がまんまと花言葉通りになってんじゃん……)
桃を貰ったあの日から、もう始まっていたのかもしれない。
260905
大きな欠伸をひとつ噛み殺したところで、エントランスの扉が開き、一人の女性が入ってくる。
(あ、……)
彼女の顔を確認した仁人は思わず背筋を伸ばす。彼女は隣人で、この時間の帰宅で何度か見掛けた事がある。
エレベーターが一階に到着し乗り込むと、隣にいるのが仁人だと気付いたらしく、彼女は慌てたように会釈をした。仁人もそれに倣い軽く会釈をし階数ボタンを押す。
無言が流れ、少し気まずく感じた仁人は上部に取り付けられた階数表示を見上げた。顔を上げた時、ふわりと甘い香りが鼻腔を擽る。
「……あの、お隣の方、ですよね?」
「あ、はい」
「仕事で貰ったんですけど食べきれなくて、良かったら貰ってくれますか?」
「え?」
彼女は手に持っていた袋を広げて仁人に見せる。そこには袋いっぱいに、熟した桃が入っていた。
「あ、ごめんなさい…初めてでこんな事言うの失礼ですよね」
「いえ、こちらこそご挨拶に行けてなくて…」
「それは全然……こんなご時世ですし」
「……凄く香りが良い桃ですね」
何度か挨拶は交わした事がある。けれどこうして言葉を交わすのは初めてだった。
「わたし普段料理とかしないので、持って帰っても芳香剤代わりになって腐らせてしまう未来しか見えなくて……」
「わぁ、もったいない!」
「なので良かったら是非」
彼女が笑った時、無機質な音と共にエレベーターは自室の階に到着した。彼女はそのまま袋ごと仁人に桃を渡すと自分の部屋へと帰っていった。
数日後、遅くに帰宅した仁人はロビーでエレベーターを待つ人物の姿を見てイヤフォンを取り近付いた。
「こんばんは。先日はありがとうございました」
「え……あぁ!いえ、こちらこそありがとうございます」
前回よりも疲れた表情をした彼女は今にも寝てしまいそうで、それを見た仁人は思わず口元を緩める。
「明日も朝早いんですか?」
「流石にブラックな会社でも土日休みなんで、お昼まで寝ると思います」
「いつもお疲れな様子ですもんね」
「恥ずかしい限りです……まあ、仕事があるのは有難いんですが、このご時世なのに持ち帰って仕事なのもどうかと思うんですけどね」
その言葉に仁人は思わず「えっ!?」と短く声を発し振り返る。苦笑いを浮かべた彼女と目が合い、瞬きを数回繰り返した。
「まだ仕事するんですか!?」
「仕事いただけてるうちが華なので」
「うわ、大変だ」
「じゃあお疲れ様です」
彼女は小さく会釈をすると自室へと入った。暫くその扉を見ていた仁人は何かを思い立つと自分も部屋に入る。冷蔵庫にはまだ桃は数個残っていた。その内の一つを手に取ると慣れた手つきで皮を剥きブレンダーに入れる。果汁百パーセントのジュースの完成だ。
(、作ったは良いけど、流石に不審者過ぎるか?)
出来上がったジュースを前に仁人は腕を組んだ。眉間に皺を寄せ、暫く考え込む。
(……あの感じの人なら大丈夫だと思うけど、でももし嫌がられたらこれから隣人としてめっちゃ気まずいよなぁ……)
それでも仁人はジュースをどうにもする事が出来ず、暫くそれを見つめ、一つ大きく深呼吸をするとそれをグラスに注ぎ家を出た。向かうは隣の部屋。インターフォンを押すとその瞬間から心臓が大きく跳ねる。
『はい』
「あ、隣の部屋の吉田なんですけど」
『え?』
「この間のお礼で……」
『お礼だなんて。あ、ちょっと待ってください』
一度インターフォンが切れると少しの間を置きドアが開く。部屋着になった彼女が慌てた様子で立っていた。
「あ、あの、頂いた桃でアレなんですけど……」
「わぁ、丁寧にありがとうございます!」
仁人からグラスを受け取ると、彼女の表情がふっと緩む。
「ジュースにすればいいなんて思いつかなかった」
「これからまたひと仕事あるってさっき仰ってたんで」
「週明け頂いた方にお会いするんでちょうど良かったです」
「なら、良かった」
小さく息をついた仁人の視線は思わず足元へ落ちる。玄関の脇には畳まれたままの段ボールがいくつか立てかけられていた。
(……限界そうなのに、普段ちゃんと小綺麗にしてて偉いよなぁ)
視界の端に映った段ボールに仁人は少しだけ親しみを覚えた。
「この後の仕事、頑張ってください!」
「……ありがとうございます」
一瞬だけ目を見開いた彼女はすぐにふわりと目を細めて笑った。その笑顔に仁人も釣られてしまう。短く挨拶を交わすと、軽い足取りで部屋へと戻った。
◆ ◆
ラジオの放送を終え帰宅した仁人は、翌日のスケジュールを確認しながらマンションのエントランスを抜ける。その時足元の何かに靴先が当たり、慌てて屈んで拾い上げると、見覚えのある、ぬいぐるみのキーホルダーが付いた鍵だった。
(あ、これお隣さんのだ……)
仁人は小さく息を吐き、鍵を握ったままエレベーターへ向かう。
(今頃、部屋の前で「無い無い」って慌ててるんだろうな……)
想像するとつい口元が緩む。エレベーターに乗り込み、階数ボタンを押すと、扉の閉まる音がやけに大きく響いた。自室のフロアに着き、角を曲がったところで仁人の足が止まる。
彼女の部屋の前、廊下に荷物が散らばっている。定期入れ、リップ、丸まったレシート。カバンの中身をひっくり返したような有様の真ん中で、当の本人が膝を抱えるようにしゃがみ込んだまま、動かなくなっていた。
「……え」
仁人の笑顔は消え、駆け寄ってその顔を覗き込んだ。目を閉じたまま、胸だけが規則正しく上下している。
(噓でしょ、限界迎えてんじゃん……)
散らばった荷物をひとつずつ拾い、カバンに戻しながら、もう一度声をかける。
「あの、大丈夫ですか?」
反応はない。その時定期に記された名前が目に入った。
「えっと、みょうじさん、大丈夫ですか?」
肩に軽く触れると、彼女はようやくうっすらと目を開けた。焦点の合わない瞳のまま、寝ぼけた声が漏れる。
「……あれ、鍵……鍵、ない……」
「これ、探してましたよね。下で拾いました」
目の前に鍵を出すと、彼女は数秒それを見つめた後、ゆっくりと状況を飲み込んでいくのが分かった。
「え、あ……ありがとうございます……え、わたし、いつからここに……」
「僕が来たときにはもう寝てました」
言いながら、仁人はまだ膝をついたまま彼女を見上げる。
(、面白い人だな……)
自然と表情を緩めた仁人は続けた。
「体調とか、大丈夫ですか?」
「大丈夫です、大丈夫……ただの寝不足なので」
そう言う割に、立ち上がろうとする足元がふらついている。咄嗟に仁人が支えると、彼女は眉を下げて笑った。
「すみません、こんな情けないとこを見せてしまって……」
「いえ、全然……」
鍵を受け取った彼女は、ドアの前で立ち止まると、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そういえばCM見ました……明日、生放送でしたよね?新曲の」
「え、あ……はい」
不意打ちの一言に、仁人の返事が一拍遅れる。
「頑張ってくださいね」
寝ぼけたままの声で、それでも真っ直ぐにそう言われて、仁人は何度か瞬きを繰り返した。
「……ありがとう、ございます」
「じゃあおやすみなさ〜い……」
欠伸混じりに彼女はふらふらとドアの向こうへ消えていく。閉まった扉を暫く見つめたまま、仁人はその場から動けずにいた。
「……え、気付いてたのかよ!?」
限界まで目を見開いた仁人。一気に汗が吹き出し、頭の中まで騒がしくなる。
まだ温い夜風では、到底冷ませそうにもなかった。
◆ ◆
ゴミ出しを終え、ロビーの掲示物を眺めていた仁人の目の端に人影が見え、彼は慌ててマスクを付け直しす。
いつもの疲れきった様子とは違い、背筋を伸ばした彼女が足早にエレベーターから降りてきた。スマホを耳に当てながら、迷いのない足取りで自動ドアへ向かっていく。
「——はい、その件は午前中に一度お戻しします……いえ、大丈夫です。つきましては——」
淀みない声。抑揚はない。それでも、芯のある口調だった
(……誰だよ、今の)
振り返って後ろ姿を見つめる。
寝ぼけて鍵を探せなくなっていたあの人と、同じ人間だとは思えない。表情は変わらないのに、纏う空気がまるで違う。隙のない声、隙のない歩き方。
(かっけえ……そりゃこのマンションにOLで住めるわ)
仁人は妙に納得しながらエレベーターの方へと歩き出す。頭の中では、先程の彼女の姿がまだちらついていた。
◆ ◆
「——そういえば、この間のジュース、すごく美味しかったです。頂いた方にきちんとしたお礼も言えましたし、ありがとうございます」
「なら良かった。思い付きで夜中渡しに行ったから迷惑だったかなって少し心配で……」
それから何度かエレベーターで顔を合わせるうちに、会話はいつのまにか当たり前になっていた。
「そんな迷惑だなんて……逆にあんなに美味しいのをどうやって作ったか知りたいくらいです」
「普通に皮剥いてブレンダーに入れただけですよ?」
「、ブレンダー……?」
「はい。僕、朝スムージー作るのに使ってるので」
「朝にスムージーなんて、わたしよりOLしないでよぉ……!」
彼女は分かりやすく情けない声を出すとゴン、と壁に頭を預ける。階数表示が数字を刻んでいくのを眺めていた仁人は思わず笑ってしまう。
「ブレンダーなんて越してきて以来使ってなくて埃被ってるよ」
「へー……引っ越してくる前は使ってたんですか?」
「、多少なりとも?」
「その言い方、絶ッ対使ってないわ!」
仁人は思わず声を出して笑う。目の端に涙を浮かべて。
エレベーターが自室の階に着くまで今までは長く感じていたのに、今日はあっという間だった。
「今度また何か作ったら、お裾分けしに行きますよ」
「お忙しそうなのに、悪いですよ!!」
「俺なんてみょうじさん程じゃないですよ」
「……さすがにそれは違うと思う!今は絶対吉田くんの方が忙しいよ」
彼女は少し困ったように笑いながらも、まんざらでもなさそうだった。到着音が鳴り、扉が開く。
「……お言葉に甘えて良いんですかね?」
「はい、期待しといてください」
軽く言葉を交わして、それぞれの部屋へ帰る。仁人は自室の玄関で先程のやり取りを思い出して、また一人で笑ってしまった。
◆ ◆
「わぁ!これがこの前いてたやつ?」
「うん、こういうの食べた事ないでしょ?」
「ない!デザート系かとばかり思ってたけど、桃でパスタなんて作れるんだ!すごーい!」
目を輝かせる彼女に、仁人は得意気に口角を上げる。
「そのまま食べるのが一番美味しいんだけど、意外と合うんだよ」
「仁人くんって意外性の塊だよね」
「、褒めてるの?それって」
「素直にモノを受け取れてたら部下にしたい男一位なのに勿体無い」
「うるさいよ!」
軽口を叩きながらの食事は、思いのほかあっという間に終わった。
食べ終えた皿を重ねて、二人でシンクに立つ。仁人が洗い、彼女が拭く。キッチンで、肩が触れそうな距離になるのも、もう気にならなくなっていた。
「そういえばさ」
彼女がふと切り出す。
「うちの職場のお局が、最近入った中途の子の名前を出して彼氏にどうなの?って煩いんだ。令和なのに凄いよね、こういいう価値観」
「まぁね……それでなまえさんはなんて返したの?」
「もちろん否定したよ。相手にだって選ぶ権利はあるし……それに彼、まだ若いからわたしとじゃ釣り合わないよ」
「……ちなみに、相手はいくつなの?」
「確か、26か27って言ってたかな?」
「……あ、じゃあ俺と同い年だ」
洗い物をする手を止めないまま、仁人はさらりとそう言ったが、彼女の手は一瞬止まる。
「待って、そっか。仁人くんってその子と同い年なんだ!?若っ……」
「……俺と話しててつまらなかった?」
「そういうわけじゃないよ!なんて言うか……こっちが一方的にコンプレックス刺激されるっていうか。微妙なお年頃って」
「……めんどくさい感情。」
「、仕方ないじゃん」
水音だけが響き沈黙が少し続いた後、彼女がぽつりと付け足す。
「まあ、二、三歳ならいいけど、それ以上はさすがになんか違うじゃん?」
「……じゃあ、俺らは三年待てば有りって事?」
「待つとかそういう問題じゃないよ」
「そういう問題じゃん。そしたら同じ三十代だし」
言ってから、仁人は鼻で笑う。
「……まあ、この理論、全然意味分かんないんだけど」
最後の皿を拭き終えて、彼女がタオルを置く。仁人もちょうど蛇口を止めたところだった。
「仁人くんも歳取れば——」
言いかけた彼女の手首を、仁人はふいに掴んだ。濡れた手のまま、軽く引く。彼女の体が一歩分、こちらへ傾いだ。
「——え、」
視線が、まっすぐ落ちてくる。さっきまでの軽口の距離じゃない。
「そういう言い方、好きじゃないかも」
「ちょっと、待っ……」
皿を持ったまま固まって、声も出せずにいる彼女を見て、仁人はふ、と表情を緩めた。
「……なんて。冗談」
あっさり手を離して、一歩下がる。
「そんな本気にされると思わなかった」
からかうように笑う声はいつも通りなのに、彼女はまだ心臓が鳴りやまない様子だった。
「……年上をからかわないでよ」
やっと絞り出した彼女の抗議に、仁人は肩を竦めただけだった。なんとも言えない空気が流れるが、仁人は気にする様子もなく普段と変わらない。
玄関で靴を履きながら、仁人はふと振り返らずに言う。
「今日はこれで満足しとくよ」
「……何が?」
「べつに。」
軽く笑って、ドアに手をかける。開ける直前、思い出したように付け足した。
「また誘って。桃じゃなくてもなまえさんの食べたい物、作るから」
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いく。
玄関のドアを閉め、隣の部屋との壁一枚を隔てたところで、仁人はさっき掴んだ手首の感触がまだ手のひらに残っている気がして、思わず自分の手を見下ろした。
(……本気にされ過ぎて、こっちの方がびっくりしたんだけど)
軽い気持ちで仕掛けたつもりだった。なのに、あの一瞬の彼女の表情。固まって声も出せずにいたあの表情が、まだ頭から離れない。
(、あんな顔されたら、こっちが冗談で片付けたくなくなるだろ……)
靴も脱がないまま、仁人はしばらく玄関で立ち尽くしてまう。壁の向こうで、彼女も同じように立ち尽くしていてほしい、何故だかそう思ってしまった。
◆ ◆
数日後エレベーターホールに向かうと、先に到着していた彼女がちょうど扉の前に立っていた。仁人に気づいたのか、肩がびくりと跳ねる。
到着した箱に乗り込んだ彼女は、こちらに背を向けたまま忙しなく閉ボタンを連打していた。
(、あからさま過ぎるだろ)
扉が閉まりきる寸前、仁人は隙間に手を差し込んだ。
「おはよ」
何事もなかったかのように乗り込むと、彼女は気まずそうに視線落とす。
「……おはよう」
「そんな露骨に避けなくても」
「避けてない」
「、ちなみにだけどこの機種なら連打よりも長押しの方が早く閉まるよ」
「……」
図星だったのか、彼女は言葉に詰まって黙り込む。その反応が面白くて、仁人はつい笑ってしまった。
「この間の事、まだ根に持ってるの?」
「持ってません。」
「持ってるじゃん」
以前、仕事の電話をしていた時と同じようなトーンに、仁人は視線だけで彼女を見た。
「あのさ」
さっきまで笑っていた仁人の声が少しだけ低くなる。
「年齢がネックなだけなんだよね?」
「……"だけ"って言うけど、それが一番の問題なの。話も合わないし、周りにどう思われるかとか……」
分かりやすく困った顔をする彼女を見て、仁人はそれ以上の反論を封じるように続けた。
「俺も他人の目とかに気する質だけど、でもそういうの関係なくない?」
「、若い君には分かんないと思うけど——」
「——そういう言い方、好きじゃないって前も言った」
階数表示が、もうすぐ一階に着く事を告げている。
「……ごめん」
戸惑ったような彼女の声に、仁人は答えず一歩、距離を詰めた。
扉が開く直前、真っ直ぐに彼女の目を見て言う。
「絶対沼らせるから」
「なッ……!!」
呆気に取られたような彼女の顔が、仁人にはひどく心地よかった。
「年齢がどうのとか言ってられなくするから、覚悟しといて」
それだけ言い残すと、仁人はサングラスを掛けいつも通りの軽い足取りでエントランスへ歩いて行く。振り返らずとも、彼女がまだその場に立ち尽くしているのが分かる気がした。
(あーあ。これじゃあ俺の方がまんまと花言葉通りになってんじゃん……)
桃を貰ったあの日から、もう始まっていたのかもしれない。
260905
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