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「——まだそこに居たのか」
「まぁ、言われたのは『顔見たくない』だけやし」
「……」
壁にもたれかかって窓の外の雪景色を眺めていた太智は、眉を下げて笑う。小さな掛け声と共にゆっくりと立ち上がり、冷えて固まった体を解す。
仁人はドアに視線を向け、少しだけ眉を寄せると一つ溜息をついた。吐いた息が白く濁る。少し声を張って部屋の主に話しかけた。
「お嬢様、お茶の用意が出来ましたよ」
「……」
「侍女頭がフィナンシェを焼いてくれたそうです。冷めないうちに——」
「——うるさいな!食べたくないって言ってるでしょ!!」
「……!?」
「……!?」
なまえの声と共にドアに何かが当たる音がして仁人と太智は顔を見合わせる。
「、食べたくない、なんて今初めて聞いたけどな」
「そういう問題と違うやん!!」
少し焦る太智とは対照的に、仁人は静かにドアを見詰めていた。
「、行くか」
「え、でも!」
「……今日は何やっても無理だよ」
みょうじがこうなったのは今に始まった事ではなかった。
二人はそれ以上は何も言わず、部屋を後にした。
◆ ◆
「本日は午後からダンスのお稽古がございます」
「行かない」
「……承知しました」
あっさりと引いた仁人に、今までつまらなそうに眉間を寄せていたなまえは顔を上げる。
「、なんで何も言わないの?」
「お嬢様が行きたくないと仰ったので」
仁人は辺りに他の使用人が居ない事を確認すると更に続けた。
「やりたくないなら、今日は行かなくてもいいと思います」
「……」
「無理に行っても、お嬢様が辛いだけでしょう。俺は、お嬢様の気持ちを無視したくはありませんから」
「……」
そう言って部屋を出ようとする仁人の背中になまえは声を掛ける。
「……仁人」
「はい」
仁人は振り返り、なまえを見る。
「……なんでもない」
なまえは視線を外し首を振った。仁人がドアに向かうと、向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
仁人が一歩下がると、まるでそれを待っていたかのようにドアが開き、太智が顔を出した。
「お嬢!見て見て!!」
「……なに?」
太智の手には長く渦を巻くりんごの皮が乗せられていた。
「シェフからコツ教わったから、こんなに長く剥けたんよ!」
「、だからどうしたの?」
「……。鼻血。」
太智は鼻の下からそのままりんごの皮を垂らす。なまえは相変わらず一切表情を緩めない。仁人だけが、笑いを堪える様に天井を仰いだ。
「……。お嬢が冷たくて血涙!」
「食べ物で遊ぶな」
「あひん!」
すかさず仁人が太智の頭を叩く。思わず漏れた太智の情けない声に、更に笑いが込み上げてきた仁人はなまえを見た。
なまえも自分と同じであってほしくて。
それでも彼女は、つまらなそうな冷めた目をしていた。
「……あ!今シェフとアップルパイ焼いてるんだ!だから——」
「いらない」
「え?なまえの好きなアップルパイやん?」
「いらないって言ってるでしょ!?」
なまえは声を荒らげ、そのままそっぽを向いた。部屋はシンと静まり時計の秒針だけが響く。
仁人と太智はお互いに顔を見合わせ、声を出さずに表情だけでお互いを責め合う。
「……タルトが良い」
「え?」
「駅前の苺のタルトが食べたい」
「ですが、シェフがアップルパイを焼いてくれていますし……」
「そうそう!しかもあの店いっつも行列だし、今から行っても残ってるか分からんよ!?」
「ならいらない!」
なまえは「もういい!」と机を叩いて立ち上がると、そのまま二人の背中を押して部屋から追い出す。壊れる程の勢いでドアが閉まり、二人はまた、お互いに顔を見合わせた。
「今日はお前が悪いだろ」
「仁ちゃんが話してた時からじゃないの?」
「ないない、なんならちょっと機嫌直りかけた」
「なら俺が地雷踏んだんか……」
大きな溜息を吐いた太智はドアに背を向け歩き出した。仁人はドアを見詰め、ゆっくりと瞬きをすると太智の横に並ぶ。
「俺は太智が地雷を踏んだとは思ってない」
「そうかなぁ……」
太智の声は沈み、廊下には靴音が谺する。
「、買ってくるか。苺のタルト」
「アップルパイあるのに!?」
「そっちはお嬢の気分じゃないんやろ?」
「だとしてもあの店、他のケーキも人気で入店まで三十分はかかるぞ!?」
仁人の問いに、太智は窓の外を眺める。その瞳には満開のローズガーデンが映っていた。
「……なまえが笑ってくれるなら、別に三十分なんて余裕でしょ?」
「だとしても、季節のタルトなんて一番人気だから今更行ったって……」
「大丈夫だよ、仁ちゃん!」
太智は歯を見せて笑う。
「じゃあ俺、ちょっと行ってくる!!」
仁人は走り出した太智の背中を見送る。
「……ほんと、よくやるよ」
呆れたように呟きながらも、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
◆ ◆
機嫌の良い侍女頭を見て学校から帰宅した太智は仁人を見付けて声を掛けた。
「なにがあったの?」
「、何もなかった」
「は?」
仁人は手帳を取り出して太智に見せる。リスケが一つもされてないページを見て、太智は目を見開いた。
「おお!今日もスケジュール通りだったんや!」
「まぁな」
「最近吉田さんがずっと一緒におるから、お嬢さまも調子が良いね!」
「だと、良いんだけどな」
「、なにが?」
「なんでもない。お前も早く着替えて仕事しろ」
制服姿の太智の背を数回叩き、仁人は執務室を後にする。そのままダンスレッスンをしている大広間に向かう。
レッスンの邪魔はせぬようにゆっくりと扉を開け、中に入る。蒸し暑い外とは違い、シンと冷たい空気の中優雅な音楽と共に踊るなまえを見て、仁人のめもとが僅かに緩んだ。
ターンの度に揺れるスカートの裾、ふわりと靡く長い髪。
しなやかな四肢と繊細な指先。
妖精の様に踊るなまえの姿に、仁人は思わず息を呑む。
声をかけるタイミングを、見失った。
「——あ、仁人、居たんだね」
音楽が終わり集中力が切れたなまえと目が合った。
「はい、少し前から。それにしても、上手になりましたね」
「ほんと?ダンスの上手い仁人に言われると、すごく嬉しい!」
仁人の元に駆け寄り、ふわりとなまえは笑う。その笑顔を見た仁人は眼鏡を掛け直すと足元のキズを見る。
「あの頃のお転婆なお嬢様から見違えりましたね」
「、わたしだって、もう子供じゃないもん……」
「……」
くるりと踵を返したなまえは窓際まで行くと遠くを眺める。
「ねぇ、仁人」となまえが振り返った時、それと同時に大きな音を立てながら扉が開かれた。
「聞いたよお嬢さま!今日のレッスン絶好調だったらしいやん!!」
「、太ちゃん」
名前を呼ばれ太智は溢れんばかりの笑顔で応える。
そのまま太智はいつもの様に学校であった事をなまえに話す。身振り手振りを交え、時には小ボケも挟む。なまえも笑いながら太智の話を聞いた。
「、お嬢様……なにかございましたか?」
仁人の言葉に、なまえと太智は一瞬固まった。それでもなまえはすぐに笑う。
「何言ってるの、仁人?」
「……いえ、ただ」
「お嬢さまが楽しそうなんだし良いじゃん!吉田さんも肩の力抜いてさ!」
「別に俺は、」
「今日は晴れてるけどそんなに暑くないし、この後ガーデンでパーっとお茶でもしようよ!」
太智はなまえの手を引き部屋の入り口まで連れてくると、仁人と目を合わせ屈託のない笑みを浮かべる。
「俺先に行って準備しとくから、吉田さんお茶の用意お願いね!!」
それだけ言い残すと太智は大広間を後にする。
「、太智は相変わらず騒がしいですね」
「そうだね。でもわたしは、そんな太ちゃんがすきだよ」
一瞬だけ仁人の眉が動くが、瞬きでそれを覆い隠す。
「……仁人」
「、はい」
「仁人は……ずっとそばに居てくれる?」
なまえの瞳は遠ざかっていく太智の背中を追っていた。仁人もその視線を一度辿り、そのままなまえを見る。
仁人は眼鏡を外し、胸ポケットにしまった。
「ずっとそばに居ますよ」
「……嘘だよ。ずっとなんて有り得ない」
小さな溜息と共になまえは吐き捨てる様に言う。
「将来やりたいことだってその内見付かる……あなたは、この家に縛られなくても良いんだよ」
真っ直ぐに仁人を見詰める瞳は小さく揺れていた。
「そばに居ますよ。俺がお嬢様に嘘をついた事はありますか?」
「……」
「お嬢様が命じてくだされば、俺は絶対にそばにいます」
「……そっか」
そう呟くと、再び窓の外を見た。
その横顔は、先ほどまで太智と笑っていた時よりもずっと静かだった。
◆ ◆
「——お嬢さまと吉田さんは良いよなぁ」
「、なにが?」
本を読んでいたなまえが顔を上げて太智を見る。太智は机に広げられたテキストに顔を突っ伏していた。
「だってずっと夏休みみたいな感じやん。俺だけ宿題が終わんない!」
「……」
「、俺だって執事の試験に向けて勉強してるから、高校卒業したからって別に遊んでばっかじゃないし」
太智の隣で黙々とテキストを解いていた仁人は眉を寄せた。
「そもそも計画的にやらないから今になって焦ってるだけだろ」
「だって二人が楽しそうなのに、俺だけハミゴなの嫌やったんやもん!」
「楽しそうって……」
「今年に入ってからずーっとそうやん!俺だけ学校で二人は——」
「——煩いよ、太智」
冷たいなまえの声がする。太智は慌てて口を閉じた。
「自分が悪いのに、宿題が終わらないのをわたし達のせいにしないで」
「、そうだよね……ごめん、俺が悪かった」
太智が言葉を選びながら言うと、なまえは読んでいた本を閉じた。
「……わたしの方こそ、ごめん」
そのままなまえはバツの悪そうな顔で早足に書斎を出て行ってしまった。
「、やっぱりまだ本調子やないね」
「……しょうがないだろ」
◆ ◆
「お嬢様!どこにいるんですかー!」
使用人が目を離した隙になまえがいなくなる事が最近増えていた。
本邸まで足を伸ばした仁人は、窓からふと外を見下ろした時になまえの姿を捉える。
「——探しましたよ、お嬢様」
「……」
ローズガーデンの真紅の中心になまえはいた。仁人を一瞥する目はどこか遠くを見ている様で焦点が定まらない。
「日が暮れるのも早くなってますし、寒くなりますから屋敷に戻りましょう」
仁人はジャケットを脱ぐとなまえの肩にそっとかけた。
「、ローズガーデン、ちゃんと見ててね」
「え?」
なまえはジャケットを軽く掴むと顔を上げる。
「……私がいなくても、ちゃんとやってね」
「、承知しました」
仁人の言葉を聞くとなまえはやっと仁人を見る。
そして、いつもの様に笑った。
その翌朝、なまえは姿を消した。
◆ ◆
冷たい風の吹く中、一人でガーデンの落ち葉を拾う仁人の背中に太智は問いかける。
「お嬢居なくなったけど、仁人はどうするん?」
「知るかよ」
「……俺はとりあえず高校卒業するまで、ここに居ようと思うよ。ここでの執事見習いの経験って、就職に有利って聞くし」
「、好きにしろ」
折れた枝に鋏を入れながら仁人は答えた。慣れない手付きで棘に手を痛めながら。
見兼ねた太智は倉庫から軍手を持ってくると仁人の隣に座り、手を差し出した。
「貸してや」
「は?」
「鋏、俺がやるから」
奪うように鋏を受け取ると、慣れた手付きで枝を整理していく。
「……慣れてるな」
「まぁね。仁ちゃんが屋敷の中の事やってる間、俺は外の事教えてもらってたから」
「じゃあお前の方が適役じゃん」
「、なにが?」
太智は手を止めて仁人を見る。
「ガーデンの世話だよ」
「……それは吉田さんがお嬢さまに頼まれたことやん」
落ちた枝をかき集めて太智は言う。
「俺やらないよ」
「ケチだな」
「だって、じゃないと吉田さん、」
言いかけて太智は止める。同じ様に枝を集めていた仁人は顔を上げて太智を見た。
「……なんでもない」
「はァ!?気になるから最後まで言えよ!」
仁人が声を荒らげると、それとは対照的に太智は笑った。
「絶ッ対、言わん!」
「だっ、からなんでなんだよ!」
思いもよらなかった太智の表情に、仁人の険しい表情も少しだけ弱まる。
枝を集め終わった太智は立ち上がって仁人を見下ろした。
「ちゃんとやらんと、バラは枯れちゃうからね」
遠くなる太智の背中を、仁人はただ見つめていた。風が鳴らす生垣の音が辺りを包む。
棘で切れた指先を、そっと撫でた。薄く滲んでいた血は暈され消えていく。
チクチクとした痛みだけが、いつまでも消えなかった。
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「まぁ、言われたのは『顔見たくない』だけやし」
「……」
壁にもたれかかって窓の外の雪景色を眺めていた太智は、眉を下げて笑う。小さな掛け声と共にゆっくりと立ち上がり、冷えて固まった体を解す。
仁人はドアに視線を向け、少しだけ眉を寄せると一つ溜息をついた。吐いた息が白く濁る。少し声を張って部屋の主に話しかけた。
「お嬢様、お茶の用意が出来ましたよ」
「……」
「侍女頭がフィナンシェを焼いてくれたそうです。冷めないうちに——」
「——うるさいな!食べたくないって言ってるでしょ!!」
「……!?」
「……!?」
なまえの声と共にドアに何かが当たる音がして仁人と太智は顔を見合わせる。
「、食べたくない、なんて今初めて聞いたけどな」
「そういう問題と違うやん!!」
少し焦る太智とは対照的に、仁人は静かにドアを見詰めていた。
「、行くか」
「え、でも!」
「……今日は何やっても無理だよ」
みょうじがこうなったのは今に始まった事ではなかった。
二人はそれ以上は何も言わず、部屋を後にした。
◆ ◆
「本日は午後からダンスのお稽古がございます」
「行かない」
「……承知しました」
あっさりと引いた仁人に、今までつまらなそうに眉間を寄せていたなまえは顔を上げる。
「、なんで何も言わないの?」
「お嬢様が行きたくないと仰ったので」
仁人は辺りに他の使用人が居ない事を確認すると更に続けた。
「やりたくないなら、今日は行かなくてもいいと思います」
「……」
「無理に行っても、お嬢様が辛いだけでしょう。俺は、お嬢様の気持ちを無視したくはありませんから」
「……」
そう言って部屋を出ようとする仁人の背中になまえは声を掛ける。
「……仁人」
「はい」
仁人は振り返り、なまえを見る。
「……なんでもない」
なまえは視線を外し首を振った。仁人がドアに向かうと、向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
仁人が一歩下がると、まるでそれを待っていたかのようにドアが開き、太智が顔を出した。
「お嬢!見て見て!!」
「……なに?」
太智の手には長く渦を巻くりんごの皮が乗せられていた。
「シェフからコツ教わったから、こんなに長く剥けたんよ!」
「、だからどうしたの?」
「……。鼻血。」
太智は鼻の下からそのままりんごの皮を垂らす。なまえは相変わらず一切表情を緩めない。仁人だけが、笑いを堪える様に天井を仰いだ。
「……。お嬢が冷たくて血涙!」
「食べ物で遊ぶな」
「あひん!」
すかさず仁人が太智の頭を叩く。思わず漏れた太智の情けない声に、更に笑いが込み上げてきた仁人はなまえを見た。
なまえも自分と同じであってほしくて。
それでも彼女は、つまらなそうな冷めた目をしていた。
「……あ!今シェフとアップルパイ焼いてるんだ!だから——」
「いらない」
「え?なまえの好きなアップルパイやん?」
「いらないって言ってるでしょ!?」
なまえは声を荒らげ、そのままそっぽを向いた。部屋はシンと静まり時計の秒針だけが響く。
仁人と太智はお互いに顔を見合わせ、声を出さずに表情だけでお互いを責め合う。
「……タルトが良い」
「え?」
「駅前の苺のタルトが食べたい」
「ですが、シェフがアップルパイを焼いてくれていますし……」
「そうそう!しかもあの店いっつも行列だし、今から行っても残ってるか分からんよ!?」
「ならいらない!」
なまえは「もういい!」と机を叩いて立ち上がると、そのまま二人の背中を押して部屋から追い出す。壊れる程の勢いでドアが閉まり、二人はまた、お互いに顔を見合わせた。
「今日はお前が悪いだろ」
「仁ちゃんが話してた時からじゃないの?」
「ないない、なんならちょっと機嫌直りかけた」
「なら俺が地雷踏んだんか……」
大きな溜息を吐いた太智はドアに背を向け歩き出した。仁人はドアを見詰め、ゆっくりと瞬きをすると太智の横に並ぶ。
「俺は太智が地雷を踏んだとは思ってない」
「そうかなぁ……」
太智の声は沈み、廊下には靴音が谺する。
「、買ってくるか。苺のタルト」
「アップルパイあるのに!?」
「そっちはお嬢の気分じゃないんやろ?」
「だとしてもあの店、他のケーキも人気で入店まで三十分はかかるぞ!?」
仁人の問いに、太智は窓の外を眺める。その瞳には満開のローズガーデンが映っていた。
「……なまえが笑ってくれるなら、別に三十分なんて余裕でしょ?」
「だとしても、季節のタルトなんて一番人気だから今更行ったって……」
「大丈夫だよ、仁ちゃん!」
太智は歯を見せて笑う。
「じゃあ俺、ちょっと行ってくる!!」
仁人は走り出した太智の背中を見送る。
「……ほんと、よくやるよ」
呆れたように呟きながらも、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
◆ ◆
機嫌の良い侍女頭を見て学校から帰宅した太智は仁人を見付けて声を掛けた。
「なにがあったの?」
「、何もなかった」
「は?」
仁人は手帳を取り出して太智に見せる。リスケが一つもされてないページを見て、太智は目を見開いた。
「おお!今日もスケジュール通りだったんや!」
「まぁな」
「最近吉田さんがずっと一緒におるから、お嬢さまも調子が良いね!」
「だと、良いんだけどな」
「、なにが?」
「なんでもない。お前も早く着替えて仕事しろ」
制服姿の太智の背を数回叩き、仁人は執務室を後にする。そのままダンスレッスンをしている大広間に向かう。
レッスンの邪魔はせぬようにゆっくりと扉を開け、中に入る。蒸し暑い外とは違い、シンと冷たい空気の中優雅な音楽と共に踊るなまえを見て、仁人のめもとが僅かに緩んだ。
ターンの度に揺れるスカートの裾、ふわりと靡く長い髪。
しなやかな四肢と繊細な指先。
妖精の様に踊るなまえの姿に、仁人は思わず息を呑む。
声をかけるタイミングを、見失った。
「——あ、仁人、居たんだね」
音楽が終わり集中力が切れたなまえと目が合った。
「はい、少し前から。それにしても、上手になりましたね」
「ほんと?ダンスの上手い仁人に言われると、すごく嬉しい!」
仁人の元に駆け寄り、ふわりとなまえは笑う。その笑顔を見た仁人は眼鏡を掛け直すと足元のキズを見る。
「あの頃のお転婆なお嬢様から見違えりましたね」
「、わたしだって、もう子供じゃないもん……」
「……」
くるりと踵を返したなまえは窓際まで行くと遠くを眺める。
「ねぇ、仁人」となまえが振り返った時、それと同時に大きな音を立てながら扉が開かれた。
「聞いたよお嬢さま!今日のレッスン絶好調だったらしいやん!!」
「、太ちゃん」
名前を呼ばれ太智は溢れんばかりの笑顔で応える。
そのまま太智はいつもの様に学校であった事をなまえに話す。身振り手振りを交え、時には小ボケも挟む。なまえも笑いながら太智の話を聞いた。
「、お嬢様……なにかございましたか?」
仁人の言葉に、なまえと太智は一瞬固まった。それでもなまえはすぐに笑う。
「何言ってるの、仁人?」
「……いえ、ただ」
「お嬢さまが楽しそうなんだし良いじゃん!吉田さんも肩の力抜いてさ!」
「別に俺は、」
「今日は晴れてるけどそんなに暑くないし、この後ガーデンでパーっとお茶でもしようよ!」
太智はなまえの手を引き部屋の入り口まで連れてくると、仁人と目を合わせ屈託のない笑みを浮かべる。
「俺先に行って準備しとくから、吉田さんお茶の用意お願いね!!」
それだけ言い残すと太智は大広間を後にする。
「、太智は相変わらず騒がしいですね」
「そうだね。でもわたしは、そんな太ちゃんがすきだよ」
一瞬だけ仁人の眉が動くが、瞬きでそれを覆い隠す。
「……仁人」
「、はい」
「仁人は……ずっとそばに居てくれる?」
なまえの瞳は遠ざかっていく太智の背中を追っていた。仁人もその視線を一度辿り、そのままなまえを見る。
仁人は眼鏡を外し、胸ポケットにしまった。
「ずっとそばに居ますよ」
「……嘘だよ。ずっとなんて有り得ない」
小さな溜息と共になまえは吐き捨てる様に言う。
「将来やりたいことだってその内見付かる……あなたは、この家に縛られなくても良いんだよ」
真っ直ぐに仁人を見詰める瞳は小さく揺れていた。
「そばに居ますよ。俺がお嬢様に嘘をついた事はありますか?」
「……」
「お嬢様が命じてくだされば、俺は絶対にそばにいます」
「……そっか」
そう呟くと、再び窓の外を見た。
その横顔は、先ほどまで太智と笑っていた時よりもずっと静かだった。
◆ ◆
「——お嬢さまと吉田さんは良いよなぁ」
「、なにが?」
本を読んでいたなまえが顔を上げて太智を見る。太智は机に広げられたテキストに顔を突っ伏していた。
「だってずっと夏休みみたいな感じやん。俺だけ宿題が終わんない!」
「……」
「、俺だって執事の試験に向けて勉強してるから、高校卒業したからって別に遊んでばっかじゃないし」
太智の隣で黙々とテキストを解いていた仁人は眉を寄せた。
「そもそも計画的にやらないから今になって焦ってるだけだろ」
「だって二人が楽しそうなのに、俺だけハミゴなの嫌やったんやもん!」
「楽しそうって……」
「今年に入ってからずーっとそうやん!俺だけ学校で二人は——」
「——煩いよ、太智」
冷たいなまえの声がする。太智は慌てて口を閉じた。
「自分が悪いのに、宿題が終わらないのをわたし達のせいにしないで」
「、そうだよね……ごめん、俺が悪かった」
太智が言葉を選びながら言うと、なまえは読んでいた本を閉じた。
「……わたしの方こそ、ごめん」
そのままなまえはバツの悪そうな顔で早足に書斎を出て行ってしまった。
「、やっぱりまだ本調子やないね」
「……しょうがないだろ」
◆ ◆
「お嬢様!どこにいるんですかー!」
使用人が目を離した隙になまえがいなくなる事が最近増えていた。
本邸まで足を伸ばした仁人は、窓からふと外を見下ろした時になまえの姿を捉える。
「——探しましたよ、お嬢様」
「……」
ローズガーデンの真紅の中心になまえはいた。仁人を一瞥する目はどこか遠くを見ている様で焦点が定まらない。
「日が暮れるのも早くなってますし、寒くなりますから屋敷に戻りましょう」
仁人はジャケットを脱ぐとなまえの肩にそっとかけた。
「、ローズガーデン、ちゃんと見ててね」
「え?」
なまえはジャケットを軽く掴むと顔を上げる。
「……私がいなくても、ちゃんとやってね」
「、承知しました」
仁人の言葉を聞くとなまえはやっと仁人を見る。
そして、いつもの様に笑った。
その翌朝、なまえは姿を消した。
◆ ◆
冷たい風の吹く中、一人でガーデンの落ち葉を拾う仁人の背中に太智は問いかける。
「お嬢居なくなったけど、仁人はどうするん?」
「知るかよ」
「……俺はとりあえず高校卒業するまで、ここに居ようと思うよ。ここでの執事見習いの経験って、就職に有利って聞くし」
「、好きにしろ」
折れた枝に鋏を入れながら仁人は答えた。慣れない手付きで棘に手を痛めながら。
見兼ねた太智は倉庫から軍手を持ってくると仁人の隣に座り、手を差し出した。
「貸してや」
「は?」
「鋏、俺がやるから」
奪うように鋏を受け取ると、慣れた手付きで枝を整理していく。
「……慣れてるな」
「まぁね。仁ちゃんが屋敷の中の事やってる間、俺は外の事教えてもらってたから」
「じゃあお前の方が適役じゃん」
「、なにが?」
太智は手を止めて仁人を見る。
「ガーデンの世話だよ」
「……それは吉田さんがお嬢さまに頼まれたことやん」
落ちた枝をかき集めて太智は言う。
「俺やらないよ」
「ケチだな」
「だって、じゃないと吉田さん、」
言いかけて太智は止める。同じ様に枝を集めていた仁人は顔を上げて太智を見た。
「……なんでもない」
「はァ!?気になるから最後まで言えよ!」
仁人が声を荒らげると、それとは対照的に太智は笑った。
「絶ッ対、言わん!」
「だっ、からなんでなんだよ!」
思いもよらなかった太智の表情に、仁人の険しい表情も少しだけ弱まる。
枝を集め終わった太智は立ち上がって仁人を見下ろした。
「ちゃんとやらんと、バラは枯れちゃうからね」
遠くなる太智の背中を、仁人はただ見つめていた。風が鳴らす生垣の音が辺りを包む。
棘で切れた指先を、そっと撫でた。薄く滲んでいた血は暈され消えていく。
チクチクとした痛みだけが、いつまでも消えなかった。
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