Royal Milk Xxx
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願いは、叶わなくてもよかったのかもしれない。
気付いた想いが邪魔をする。
あの頃のままなら、もっと素直に笑えていた。
「足だけ浸かって何がいいのか今まで分からなかったけどこりゃ極楽だわ」
湯につけた足をパタつかせながらなまえは言う。隣にいる勇斗は資料を開いたまま一向にページを捲らず、ただ文字に目を滑らせていた。
「騙して連れてきたクセに放置ですかー?」
「……」
「おーい」
「騙してないし、仕事なんだから資料確認したっていいだろ」
「……確かにねー」
なまえは距離を詰め、資料を覗き込む。なまえの髪が紙面を滑り、肩が触れ合う。
勇斗の肩が僅かに強張るが、それでも何事もなかった様に視線を落とした。
湯けむりがゆっくりと立ち昇り、観光客の笑い声が通りを流れていく。
「温泉といえば、温泉まんじゅうだよね~」
「……」
「地ビールならぬ地サイダーもあるみたいだし……」
「……」
「……」
尚も無視を決め込む勇斗に痺れを切らしたなまえはとうとう持っていた資料を取り上げる。「あ、」と短い声を上げた勇斗とやっと目が合うと、その顔に資料を押し付けなまえは足湯を出た。
「もう知らない!」
臍を曲げたなまえに勇斗は慌てて濡れたまま靴を履き追いかける。
「悪かったって!でも遊びじゃなくて出張なんだから少しくらいしょうがないだろ!?」
「その前に、昨日の夜いきなり出張だって言って、バスが数時間に一本で利便性が悪くて電波の悪い所に連れてきた癖に、出張の目的も言わずに放置した人の態度でしょうか?」
腕を組み仁王立ちで責め立てるなまえはひと息で言い切ると勇斗を睨む。それを見てバツの悪そうな顔をする勇斗は視線を外す。
少しの沈黙が流れ、先に口を開いたのは勇斗だった。
「……ごめん」
「温泉まんじゅうとソフトクリームが食べたい」
「はいよろこんで!」
資料を鞄にしまい、なまえの指定する温泉まんじゅうとソフトクリームを買いに行く。その背中を見守るなまえはベンチに座り、改めて辺りを見回した。
平日なのに観光客は少なくはない。行き交う人々を眺めながら勇斗を待つ。
「——で、佐野室長が怖い顔して読み込まなきゃいけない資料と、出張の目的はなんなの?」
「え、俺そんなに怖い顔してた!?」
「してたよ、眉間にギュってシワつくって」
資料を見ていた顔を再現するなまえを見て、勇斗は自身の眉間を押さえながら笑う。
「今回の出張、同行者わたしじゃなくて良かったんじゃないの?」
「いや、逆になまえじゃないとダメっていうか……ほら!おっさん二人が温泉街なんてキモいし、女性社員ならアウトだろ?」
「まぁ、確かに」
「本当は別の奴が来るはずだったんだが、急に別件が入って調整付かなくて……」
温泉まんじゅうを一口齧る。
「だから今に至るってワケ」
勇斗は肩を竦めた。
その横でなまえは暑さで少し溶け始めたソフトクリームを舐めとる。甘さも冷たさも、今日は少しも心に響かない。
溶けた雫が、肘を伝った。
「、その食い合わせ美味いの?」
「うん。美味しいよ。」
「……夕飯は特産品使った懐石だって」
「ふーん」
「思い出した!泊まる旅館の露天風呂、めっちゃ景色が良いって言ってた!」
「へー……」
「……」
「そんな素敵な温泉旅行、わたしは単なる穴埋めなんだ」
こちらを見ずに伏し目がちな横顔に勇斗は言葉を詰まらせ、眉を下げる。そして少しだけ困ったように笑う。
「そう思いたいならそれでも良いけど」
「……、?」
「仕事で誰でもいいなら、一人で来てる。し、プライベートならちゃんと計画して、なまえの行きたい所連れて行くよ」
一度だけなまえへ視線を向ける。大きな瞳が揺らぐのが見え、直ぐに視線を逸らした。
「……やっぱり一人だと食べきれない」
「、いやなまえなら食えるだろ、これくらい」
「もぉ!そういう事じゃないでしょ!!」
なまえはソフトクリームを押し付け、逃げる様に肩へ額を預ける。
遠くの方で鳴る風鈴が妙に耳に残って離れなかった。
◆ ◆
石畳を進み現れた旅館に思わずなまえは息を呑む。外界とは切り離されたかの様に凛とした空気が張り詰め、生垣の露まで煌めいていた。
「窓からの眺め、めっちゃいい!」
「紅葉だったらもっとキレイだっただろうな」
「そうだねー、その時期にまた来たいなぁ」
「、……」
景色に目を輝かせるなまえを見て、勇斗は小さく笑う。
「お部屋の露天風呂からの景色も素敵なんですよ」
「え、露天風呂?」
「はい、お二人で入られても余裕のある檜のお風呂でして——」
なまえの肩がぴくりと跳ねる。
横にいる勇斗も平然と説明を聞いている。そんな彼の後ろに隠れ、なまえは外を眺める。
説明し終えた仲居が出て行くと暫しの沈黙が訪れ、勇斗の動く気配を感じたなまえは慌てて口を開いた。
「夕飯までまだ時間あるよね?来るまでに汗かいちゃったし、わたし先にお風呂入っちゃおうかな!」
「それも有りだな」
「だよね!露天風呂からの景色良いって言ってたし!……あ、」
思わず止めた言葉になまえの視線だけが彷徨う。
部屋には掛け流しの湯音だけが響いた。
「……い、一緒に入るって意味じゃないからね!?」
なまえの言葉に勇斗は一瞬口をポカンと開けたが、直ぐにいつもの様に片側の口角が上がる。
「俺は大浴場の方に行くよ」
そっちの方も見ておきたいし、そう言うと勇斗は浴衣を手に取り、部屋を出る準備を始める。
なまえは瞬きを数回繰り返し、その後ろ姿をただ見ている事しか出来なかった。
「じゃ、なまえもゆっくり露天風呂で源泉掛け流し味わえ!」
「あ、うん……」
襖の閉まる音が反響し、なまえは眉を寄せると風呂場へ向かった。
乳白色のやわらかな湯が肩を包む。なまえは膝を抱え、小さく息を吐く。
「、今日は、勇斗と居ても楽しくないな……」
夕暮れの爽やかな風が吹き、湯面を撫でた。
風呂から上がったなまえが浴衣に着替え部屋に戻ると、同じく浴衣に着替えた勇斗が資料を読みながら待っていた。
もう見飽きた姿になまえは何の感情も示さず横を通り過ぎ少し離れた窓辺に腰を下ろす。火照った体を冷ます様に外を眺める。
「のどかだな」と外を見るのも飽き始めた頃、漸く勇斗が口を開いた。
「ちょっと外でも散歩するか?」
「……うん!」
少しだけ声のトーンが上がったなまえは立ち上がった。
「ちょっと暗くなると提灯が映えてくるね!」
「だな。もう少し陽が落ちてればここの景色もだいぶ良いな」
石段をゆっくり登る。
提灯にはまだ灯りが入りきらず、石畳だけが淡く夕陽を返していた。
「わたし達が泊まる旅館は、綺麗だね……」
「この温泉街の老舗だからな」
勇斗は一本裏へ目を向ける。
「その分、こっちは少しずつ店も減ってる」
「……そっか」
「あ、なまえ、あそこ」
「ん?」
勇斗の指差す先には、大きな杉玉が軒先に吊るされた地酒屋があった。木の引き戸は開け放たれ、店先には『地酒』『地サイダー』『甘酒』と書かれた手書きの看板が並んでいる。
「地サイダー!」
さっきまで拗ねていた顔が一瞬で明るくなる。その笑顔に勇斗も釣られ小さく笑う。
試飲を楽しむ観光客に混ざり、二人も好みの物を探し始める。
「お!スパークリングの果実酒だって!」
「勇斗は弱いんだから、今日はやめときなよ」
「俺は弱くないですー、少し赤くなりやすいんですー」
「はいはい、そう言う事にしておくよ」
「いや『そう言う事』じゃなくて、事実俺は——」
「——あ!地サイダーあった!」
「え?おい!」
勇斗の浴衣の袖を引き駆け出すなまえ。
やっと引きだせた笑顔に、勇斗は苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
◆ ◆
「あ、」
散策と夕食を終えた二人が部屋に戻ると、既に布団の準備がされていた。
綺麗に並んだ二組の布団を見て思わず足を止める。なまえは視線を泳がせ、浴衣の袷を直す。
布団を敷く為に端に追いやられた机で手帳を開く勇斗の背中を見つめると、その隣に座って大きな背に身体を預ける。
「、どうした?」
「……分かんないよ」
「?」
「今日の勇斗、なんか変。」
勇斗は黙る。
「怒ってる?」
「べつに?怒ってないよ」
「じゃあ、なんで今日はそんなに静かなの?」
「……」
「前なら……」
そう言いかけてなまえは止まる。長い爪が畳を掻く。
「別にな、怒ってるとかじゃなくて俺は今日仕事でここに来てるわけだからやっぱり仕事モードになるわけよ」
勇斗は手帳を閉じ、一度だけ息を吐く。
「本当は、射的とかいいな〜輪投げとかいいな〜って思いながら視察をしてた訳でして、」
壁に向かって身振りまで交えながら続ける。
「俺だって本当は何も考えずに遊びたかったけど、やっぱりそれは出来ないじゃん?」
一度だけ肩越しに振り返る。
「……ね、分かる?」
「分かってるよ、それくらい」
なまえはクツクツと小さく笑った。その笑い声を聴き、勇斗はやってしまったと言わんばかりに苦い顔をして頬杖を付く。
眉を上げトントンと指で机を叩いていると、背中へ預けられた重みが少しだけ増した。
「、なまえさん?」
「……」
返事はない。背中から規則正しい寝息が聞こえる。その温もりに、勇斗は大きなため息を吐く。
もう一度小さく息を吐き気合いを入れると、そっと腕を背中に回しゆっくりと抱き寄せた。
「ほんと、人の気も知らないで……」
少しはだけた浴衣を直し、静かに抱き上げる。
「このお嬢様には敵わないわ」
勇斗は苦く笑って、そっと前髪を払う。今日一日隠し続けた鼓動は、眠ったなまえには届かないままだ。
ひぐらしの鳴き声だけが、勇斗の言葉をかき消した。
気付いた想いが邪魔をする。
あの頃のままなら、もっと素直に笑えていた。
09
「足だけ浸かって何がいいのか今まで分からなかったけどこりゃ極楽だわ」
湯につけた足をパタつかせながらなまえは言う。隣にいる勇斗は資料を開いたまま一向にページを捲らず、ただ文字に目を滑らせていた。
「騙して連れてきたクセに放置ですかー?」
「……」
「おーい」
「騙してないし、仕事なんだから資料確認したっていいだろ」
「……確かにねー」
なまえは距離を詰め、資料を覗き込む。なまえの髪が紙面を滑り、肩が触れ合う。
勇斗の肩が僅かに強張るが、それでも何事もなかった様に視線を落とした。
湯けむりがゆっくりと立ち昇り、観光客の笑い声が通りを流れていく。
「温泉といえば、温泉まんじゅうだよね~」
「……」
「地ビールならぬ地サイダーもあるみたいだし……」
「……」
「……」
尚も無視を決め込む勇斗に痺れを切らしたなまえはとうとう持っていた資料を取り上げる。「あ、」と短い声を上げた勇斗とやっと目が合うと、その顔に資料を押し付けなまえは足湯を出た。
「もう知らない!」
臍を曲げたなまえに勇斗は慌てて濡れたまま靴を履き追いかける。
「悪かったって!でも遊びじゃなくて出張なんだから少しくらいしょうがないだろ!?」
「その前に、昨日の夜いきなり出張だって言って、バスが数時間に一本で利便性が悪くて電波の悪い所に連れてきた癖に、出張の目的も言わずに放置した人の態度でしょうか?」
腕を組み仁王立ちで責め立てるなまえはひと息で言い切ると勇斗を睨む。それを見てバツの悪そうな顔をする勇斗は視線を外す。
少しの沈黙が流れ、先に口を開いたのは勇斗だった。
「……ごめん」
「温泉まんじゅうとソフトクリームが食べたい」
「はいよろこんで!」
資料を鞄にしまい、なまえの指定する温泉まんじゅうとソフトクリームを買いに行く。その背中を見守るなまえはベンチに座り、改めて辺りを見回した。
平日なのに観光客は少なくはない。行き交う人々を眺めながら勇斗を待つ。
「——で、佐野室長が怖い顔して読み込まなきゃいけない資料と、出張の目的はなんなの?」
「え、俺そんなに怖い顔してた!?」
「してたよ、眉間にギュってシワつくって」
資料を見ていた顔を再現するなまえを見て、勇斗は自身の眉間を押さえながら笑う。
「今回の出張、同行者わたしじゃなくて良かったんじゃないの?」
「いや、逆になまえじゃないとダメっていうか……ほら!おっさん二人が温泉街なんてキモいし、女性社員ならアウトだろ?」
「まぁ、確かに」
「本当は別の奴が来るはずだったんだが、急に別件が入って調整付かなくて……」
温泉まんじゅうを一口齧る。
「だから今に至るってワケ」
勇斗は肩を竦めた。
その横でなまえは暑さで少し溶け始めたソフトクリームを舐めとる。甘さも冷たさも、今日は少しも心に響かない。
溶けた雫が、肘を伝った。
「、その食い合わせ美味いの?」
「うん。美味しいよ。」
「……夕飯は特産品使った懐石だって」
「ふーん」
「思い出した!泊まる旅館の露天風呂、めっちゃ景色が良いって言ってた!」
「へー……」
「……」
「そんな素敵な温泉旅行、わたしは単なる穴埋めなんだ」
こちらを見ずに伏し目がちな横顔に勇斗は言葉を詰まらせ、眉を下げる。そして少しだけ困ったように笑う。
「そう思いたいならそれでも良いけど」
「……、?」
「仕事で誰でもいいなら、一人で来てる。し、プライベートならちゃんと計画して、なまえの行きたい所連れて行くよ」
一度だけなまえへ視線を向ける。大きな瞳が揺らぐのが見え、直ぐに視線を逸らした。
「……やっぱり一人だと食べきれない」
「、いやなまえなら食えるだろ、これくらい」
「もぉ!そういう事じゃないでしょ!!」
なまえはソフトクリームを押し付け、逃げる様に肩へ額を預ける。
遠くの方で鳴る風鈴が妙に耳に残って離れなかった。
◆ ◆
石畳を進み現れた旅館に思わずなまえは息を呑む。外界とは切り離されたかの様に凛とした空気が張り詰め、生垣の露まで煌めいていた。
「窓からの眺め、めっちゃいい!」
「紅葉だったらもっとキレイだっただろうな」
「そうだねー、その時期にまた来たいなぁ」
「、……」
景色に目を輝かせるなまえを見て、勇斗は小さく笑う。
「お部屋の露天風呂からの景色も素敵なんですよ」
「え、露天風呂?」
「はい、お二人で入られても余裕のある檜のお風呂でして——」
なまえの肩がぴくりと跳ねる。
横にいる勇斗も平然と説明を聞いている。そんな彼の後ろに隠れ、なまえは外を眺める。
説明し終えた仲居が出て行くと暫しの沈黙が訪れ、勇斗の動く気配を感じたなまえは慌てて口を開いた。
「夕飯までまだ時間あるよね?来るまでに汗かいちゃったし、わたし先にお風呂入っちゃおうかな!」
「それも有りだな」
「だよね!露天風呂からの景色良いって言ってたし!……あ、」
思わず止めた言葉になまえの視線だけが彷徨う。
部屋には掛け流しの湯音だけが響いた。
「……い、一緒に入るって意味じゃないからね!?」
なまえの言葉に勇斗は一瞬口をポカンと開けたが、直ぐにいつもの様に片側の口角が上がる。
「俺は大浴場の方に行くよ」
そっちの方も見ておきたいし、そう言うと勇斗は浴衣を手に取り、部屋を出る準備を始める。
なまえは瞬きを数回繰り返し、その後ろ姿をただ見ている事しか出来なかった。
「じゃ、なまえもゆっくり露天風呂で源泉掛け流し味わえ!」
「あ、うん……」
襖の閉まる音が反響し、なまえは眉を寄せると風呂場へ向かった。
乳白色のやわらかな湯が肩を包む。なまえは膝を抱え、小さく息を吐く。
「、今日は、勇斗と居ても楽しくないな……」
夕暮れの爽やかな風が吹き、湯面を撫でた。
風呂から上がったなまえが浴衣に着替え部屋に戻ると、同じく浴衣に着替えた勇斗が資料を読みながら待っていた。
もう見飽きた姿になまえは何の感情も示さず横を通り過ぎ少し離れた窓辺に腰を下ろす。火照った体を冷ます様に外を眺める。
「のどかだな」と外を見るのも飽き始めた頃、漸く勇斗が口を開いた。
「ちょっと外でも散歩するか?」
「……うん!」
少しだけ声のトーンが上がったなまえは立ち上がった。
「ちょっと暗くなると提灯が映えてくるね!」
「だな。もう少し陽が落ちてればここの景色もだいぶ良いな」
石段をゆっくり登る。
提灯にはまだ灯りが入りきらず、石畳だけが淡く夕陽を返していた。
「わたし達が泊まる旅館は、綺麗だね……」
「この温泉街の老舗だからな」
勇斗は一本裏へ目を向ける。
「その分、こっちは少しずつ店も減ってる」
「……そっか」
「あ、なまえ、あそこ」
「ん?」
勇斗の指差す先には、大きな杉玉が軒先に吊るされた地酒屋があった。木の引き戸は開け放たれ、店先には『地酒』『地サイダー』『甘酒』と書かれた手書きの看板が並んでいる。
「地サイダー!」
さっきまで拗ねていた顔が一瞬で明るくなる。その笑顔に勇斗も釣られ小さく笑う。
試飲を楽しむ観光客に混ざり、二人も好みの物を探し始める。
「お!スパークリングの果実酒だって!」
「勇斗は弱いんだから、今日はやめときなよ」
「俺は弱くないですー、少し赤くなりやすいんですー」
「はいはい、そう言う事にしておくよ」
「いや『そう言う事』じゃなくて、事実俺は——」
「——あ!地サイダーあった!」
「え?おい!」
勇斗の浴衣の袖を引き駆け出すなまえ。
やっと引きだせた笑顔に、勇斗は苦笑いを浮かべるしか出来なかった。
◆ ◆
「あ、」
散策と夕食を終えた二人が部屋に戻ると、既に布団の準備がされていた。
綺麗に並んだ二組の布団を見て思わず足を止める。なまえは視線を泳がせ、浴衣の袷を直す。
布団を敷く為に端に追いやられた机で手帳を開く勇斗の背中を見つめると、その隣に座って大きな背に身体を預ける。
「、どうした?」
「……分かんないよ」
「?」
「今日の勇斗、なんか変。」
勇斗は黙る。
「怒ってる?」
「べつに?怒ってないよ」
「じゃあ、なんで今日はそんなに静かなの?」
「……」
「前なら……」
そう言いかけてなまえは止まる。長い爪が畳を掻く。
「別にな、怒ってるとかじゃなくて俺は今日仕事でここに来てるわけだからやっぱり仕事モードになるわけよ」
勇斗は手帳を閉じ、一度だけ息を吐く。
「本当は、射的とかいいな〜輪投げとかいいな〜って思いながら視察をしてた訳でして、」
壁に向かって身振りまで交えながら続ける。
「俺だって本当は何も考えずに遊びたかったけど、やっぱりそれは出来ないじゃん?」
一度だけ肩越しに振り返る。
「……ね、分かる?」
「分かってるよ、それくらい」
なまえはクツクツと小さく笑った。その笑い声を聴き、勇斗はやってしまったと言わんばかりに苦い顔をして頬杖を付く。
眉を上げトントンと指で机を叩いていると、背中へ預けられた重みが少しだけ増した。
「、なまえさん?」
「……」
返事はない。背中から規則正しい寝息が聞こえる。その温もりに、勇斗は大きなため息を吐く。
もう一度小さく息を吐き気合いを入れると、そっと腕を背中に回しゆっくりと抱き寄せた。
「ほんと、人の気も知らないで……」
少しはだけた浴衣を直し、静かに抱き上げる。
「このお嬢様には敵わないわ」
勇斗は苦く笑って、そっと前髪を払う。今日一日隠し続けた鼓動は、眠ったなまえには届かないままだ。
ひぐらしの鳴き声だけが、勇斗の言葉をかき消した。