Royal Milk Xxx
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幼い頃の願いは叶った。
もう失わないと心に誓った。
けれどもそれが、今の自分を一番苦しめていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。雨は大丈夫でしたか?」
「帰り際に急に強くなるから困ったよ」
ジャケットを脱いで仁人に渡すと、タオルを受け取り髪を拭く。パンプスの中までビッショビショに濡れておりなまえは眉を寄せる。
「今日ゆっくりお昼も食べれなかったし、帰りにびしょ濡れになるし、ほんと災難……」
「まぁまぁ、今日は仁ちゃんがシチュー作ってくれたし、それ食べて元気出しなって!」
「お風呂の用意も出来てますが、先に食事にしますか?」
「そうするよ。軽く足だけ洗ってくるね」
2階に上がって風呂場に向かう。浴槽にはお湯が張ってあり、浴室も温かくなっていた。なまえは、このままお風呂に入ろうかと一瞬悩んだが、空腹が限界に達している為足を洗う程度で脱衣所に戻る。用意された部屋着に着替えダイニングへと向かうと温かい食事が用意されていた。
「——はー!美味しい!しあわせ〜!!」
「お口に合ってなによりです」
一瞬だけ嬉しそうに口角を上げた仁人だが、直ぐにいつもの冷静な表情で焼きたてのパンをサーブする。なまえの好きな少し固めなハードパン。そのパンに手を伸ばしたなまえだったが、取る前に手を止める。
「……」
「どうかなさいましたか?」
「、おかしい……」
「なんもおかしくないよ。なまえの好きないつものフランスパンやん」
「そうじゃない!そっちじゃない!!」
珍しく声を荒げたなまえは、強く眉を寄せ、天井を仰ぐ。「やってしまった」と言わんばかりに手で顔を覆うなまえだが、仁人と太智はその行動が理解出来ずに怪訝そうな顔をした。
「仁人、まずはありがとう!」
「え?あぁ、はい」
「太ちゃんも!雨の中迎えに来てくれてありがとう!」
「、そんなの当たり前やん?」
なまえは腑に落ちない二人の手を握ってお礼を言い、次は深々と頭を下げた。その行動に仁人も太智も目を大きく見開きあたふたと狼狽える。
「え!?ちょっ、意味わからんって!頭上げてよ!!」
「そうですよ、何か会社で嫌な事でもありましたか?」
「何も無かったよ、違うの、聞いて」
顔を上げると真っ直ぐ二人の顔を見つめる。
「雨で濡れて帰ってきたらタオルを持ってきてくれたり、お風呂とご飯の準備が出来てたり、着替えが用意されてたり、そういうの、当たり前じゃないんだって知ったのに……」
言葉を詰まらせるなまえ。長いまつ毛が影を落とす。
一人暮らしをしていた数ヶ月前までは、当たり前に自分の事は自分でしていた。だがこの家に戻って誰かが先回りしてやっていてくれる。当初は違和感を覚えていたのに、今ではそれを受け入れ、感謝の気持ちも薄れていた。
「いつもありがとね」
「執事ですので、当然の事をしたまでです」
「そうそう!仁人なんか好きであれこれやっとるだけやし」
「太智の言う通り、俺は仕事としてやってる部分もありますが、好きでやってるだけなのであまり気にしないでください」
「ほんとに?」
「ええ」
「ならいいけど……」
納得がいかない様子のなまえは口を尖らせながら椅子に座り直した。パンを千切りながら、あの日々を思い出す。何でも一人でやっていたが、独りではなかった。
「ねぇ、やっぱりさ、一緒に食べようよ?今日なんてせっかく仁人が作ってくれた夕飯なんだよ?一人で食べるの、さみしいし……」
子供の様に拗ね始めたなまえに、仁人と太智は顔を見合わせる。
「せやな!実は俺もめっちゃ腹減っとったところ!」
「俺はシチューを温め直すから、太智はパンの準備してくれ」
「わたしもなにか手伝うよー」
「お嬢様は大丈夫ですよ、座っててください」
「バカにしないでよ!わたしだって料理してたんだから!」
そう意気込むなまえだが、いざ厨房に向かうと、どこに何があるか分からず立ち往生してしまった。
その間にも二人は、テキパキと自分達の料理を皿に盛り付けていく。
「ほ、ほんとに料理してたんだからね!」
「はいはい、分かりましたから」
仁人の後をついて回り言い訳を並べるなまえ。その姿は傍から見ると親と子の様だった。
「ほんとに一人で家事全部やってたもん……!」
「信じてへん訳ちゃうけど、一人でなんでもやるなまえの姿なんて想像できへんなぁ」
太智の言葉に、配膳をしていた仁人の手が一瞬止まった。だが直ぐに、静かに息を吸って呼吸を整え、カトラリーを置いていく。
「最初こそ失敗もしたけど、ちゃんと一通り出来るようになったよ」
「……」
「明かりがついてる家の安心感とか、熱を出した時の心強さもちゃんと分かってるし!」
「そっか。一人暮らしやと熱出した時大変やな」
生まれた時から温室で育ったなまえにとって、家を出て一人で過ごしていた時間は自由と同時に不便で、ふとした瞬間にいつも孤独が傍にいた。
「……その時、この間会った彼は、差し入れ等してくれたんですか?」
「舜太?うん、体調崩したって連絡したら直ぐに様子見に来てくれたよ」
「、そうだったんですね……」
「バイト先の人もご飯作って来てくれたりしたし、不便だったけど、わりと楽しかったよ」
柔らかくなまえは微笑んだ。
何者でもないなまえを、受け入れて支えてくれた人達の顔が脳裏を駆け巡る。
なまえの瞳の奥には哀愁が漂っており、仁人の心臓はギュッと締め付けられた。
「……戻りたいのですか?」
静かに仁人は問う。
「んー、今は別にそんなにかな?やっぱり家事しなくていい生活に戻ると、簡単に手放したくなくなるもん」
「そ、そりゃそうや!そうそう!ずっとここにおったらええやん!おらんようになったら俺も吉田さんも寂しなるし!!」
「大丈夫だよ。わたしだって二人がいない生活なんて、寂しいもん」
尤もらしい理由を並べたが、それがなまえの本音だった。
今までずっと素直になれなかった自分の気持ちだが、声に出して漸く気付く。
「またシチュー作ってね」
「もちろん」
◆ ◆
夕食の後片付けも終盤に差し掛かり、シルバーの拭き上げが終わると仁人の満足そうな表情がスプーンに反射する。最後の一本を仕舞い終えた時、仁人はふとあることが気になった。
食事が終わったなまえはそのまま風呂に向かったが、その後の様子を見ていない。もしなにか作業でもしているのであればお茶の用意でもしようと書斎へと向かったが姿はなく、なまえの自室の電気が付いていた。数回ノックをしたが反応はない。眉を寄せる仁人は扉の向こうに声をかける。
「お嬢様、まだ起きてらっしゃるのですか?」
それでも返事はなく断りを入れてから部屋に入る。煌々と電気を点けたまま、カバンの中身は散乱し、布団も掛けずにベッドで眠るなまえの姿があった。
仁人は一度大きく溜息を吐く。照明を消し、散らばるポーチの類をカバンに入れ、ベッドに近寄る。
「ったく、この人は……」
言葉とは裏腹に、その表情はとても穏やかだった。
無防備ななまえの寝顔を見た時、夕食の席での言葉を思い出す。
「二人がいない生活なんて寂しいもん」六年間待ち続けてきた彼にとって、こんなに嬉しい言葉はなかった。
「髪も乾ききってないし……風邪でも引いたらどうすんだよ……」
掛け布団を肩まで引き上げ整える。その際に前髪が頬に掛かってしまった。
仁人はベッドの縁に右手を付き、眠るなまえを覗き込む様にゆっくりと身を乗り出す。左手で額に落ちる髪を払い除け、指先が頬を滑る。そのまま親指が唇の端にそっと添う。顔を覗き込む様に腰を折ると、ベッドがぎしっと軋む。
「——、」
月明かりに照らされブローチが光る。
その瞬間、仁人の動きは止まった。ドクドクと煩い鼓動、右腕に掛かる圧、止まった指先。
「……くそッ!」
小さく舌を打つと背を伸ばし、少し乱暴にカーテンを閉め部屋を後にした。
感情を抑えて扉を閉めると、そのまま扉に背を預けて座り込む。
あの頃は執事になればずっと傍にいられると思っていた。なまえが辛い時、苦しい時に傍にいられる理由が欲しかった。
それだけで十分だった気持ちは、いつしか自分の想いの妨げになっている。
「……何やってんだ、俺は」
指先に残る感触を振り払うように、ブローチを強く握る。
これは彼女の隣に立つために選んだ証だ。それなのに今、自分自身を一番苦しめていた。
もう失わないと心に誓った。
けれどもそれが、今の自分を一番苦しめていた。
08
「おかえりなさいませ、お嬢様。雨は大丈夫でしたか?」
「帰り際に急に強くなるから困ったよ」
ジャケットを脱いで仁人に渡すと、タオルを受け取り髪を拭く。パンプスの中までビッショビショに濡れておりなまえは眉を寄せる。
「今日ゆっくりお昼も食べれなかったし、帰りにびしょ濡れになるし、ほんと災難……」
「まぁまぁ、今日は仁ちゃんがシチュー作ってくれたし、それ食べて元気出しなって!」
「お風呂の用意も出来てますが、先に食事にしますか?」
「そうするよ。軽く足だけ洗ってくるね」
2階に上がって風呂場に向かう。浴槽にはお湯が張ってあり、浴室も温かくなっていた。なまえは、このままお風呂に入ろうかと一瞬悩んだが、空腹が限界に達している為足を洗う程度で脱衣所に戻る。用意された部屋着に着替えダイニングへと向かうと温かい食事が用意されていた。
「——はー!美味しい!しあわせ〜!!」
「お口に合ってなによりです」
一瞬だけ嬉しそうに口角を上げた仁人だが、直ぐにいつもの冷静な表情で焼きたてのパンをサーブする。なまえの好きな少し固めなハードパン。そのパンに手を伸ばしたなまえだったが、取る前に手を止める。
「……」
「どうかなさいましたか?」
「、おかしい……」
「なんもおかしくないよ。なまえの好きないつものフランスパンやん」
「そうじゃない!そっちじゃない!!」
珍しく声を荒げたなまえは、強く眉を寄せ、天井を仰ぐ。「やってしまった」と言わんばかりに手で顔を覆うなまえだが、仁人と太智はその行動が理解出来ずに怪訝そうな顔をした。
「仁人、まずはありがとう!」
「え?あぁ、はい」
「太ちゃんも!雨の中迎えに来てくれてありがとう!」
「、そんなの当たり前やん?」
なまえは腑に落ちない二人の手を握ってお礼を言い、次は深々と頭を下げた。その行動に仁人も太智も目を大きく見開きあたふたと狼狽える。
「え!?ちょっ、意味わからんって!頭上げてよ!!」
「そうですよ、何か会社で嫌な事でもありましたか?」
「何も無かったよ、違うの、聞いて」
顔を上げると真っ直ぐ二人の顔を見つめる。
「雨で濡れて帰ってきたらタオルを持ってきてくれたり、お風呂とご飯の準備が出来てたり、着替えが用意されてたり、そういうの、当たり前じゃないんだって知ったのに……」
言葉を詰まらせるなまえ。長いまつ毛が影を落とす。
一人暮らしをしていた数ヶ月前までは、当たり前に自分の事は自分でしていた。だがこの家に戻って誰かが先回りしてやっていてくれる。当初は違和感を覚えていたのに、今ではそれを受け入れ、感謝の気持ちも薄れていた。
「いつもありがとね」
「執事ですので、当然の事をしたまでです」
「そうそう!仁人なんか好きであれこれやっとるだけやし」
「太智の言う通り、俺は仕事としてやってる部分もありますが、好きでやってるだけなのであまり気にしないでください」
「ほんとに?」
「ええ」
「ならいいけど……」
納得がいかない様子のなまえは口を尖らせながら椅子に座り直した。パンを千切りながら、あの日々を思い出す。何でも一人でやっていたが、独りではなかった。
「ねぇ、やっぱりさ、一緒に食べようよ?今日なんてせっかく仁人が作ってくれた夕飯なんだよ?一人で食べるの、さみしいし……」
子供の様に拗ね始めたなまえに、仁人と太智は顔を見合わせる。
「せやな!実は俺もめっちゃ腹減っとったところ!」
「俺はシチューを温め直すから、太智はパンの準備してくれ」
「わたしもなにか手伝うよー」
「お嬢様は大丈夫ですよ、座っててください」
「バカにしないでよ!わたしだって料理してたんだから!」
そう意気込むなまえだが、いざ厨房に向かうと、どこに何があるか分からず立ち往生してしまった。
その間にも二人は、テキパキと自分達の料理を皿に盛り付けていく。
「ほ、ほんとに料理してたんだからね!」
「はいはい、分かりましたから」
仁人の後をついて回り言い訳を並べるなまえ。その姿は傍から見ると親と子の様だった。
「ほんとに一人で家事全部やってたもん……!」
「信じてへん訳ちゃうけど、一人でなんでもやるなまえの姿なんて想像できへんなぁ」
太智の言葉に、配膳をしていた仁人の手が一瞬止まった。だが直ぐに、静かに息を吸って呼吸を整え、カトラリーを置いていく。
「最初こそ失敗もしたけど、ちゃんと一通り出来るようになったよ」
「……」
「明かりがついてる家の安心感とか、熱を出した時の心強さもちゃんと分かってるし!」
「そっか。一人暮らしやと熱出した時大変やな」
生まれた時から温室で育ったなまえにとって、家を出て一人で過ごしていた時間は自由と同時に不便で、ふとした瞬間にいつも孤独が傍にいた。
「……その時、この間会った彼は、差し入れ等してくれたんですか?」
「舜太?うん、体調崩したって連絡したら直ぐに様子見に来てくれたよ」
「、そうだったんですね……」
「バイト先の人もご飯作って来てくれたりしたし、不便だったけど、わりと楽しかったよ」
柔らかくなまえは微笑んだ。
何者でもないなまえを、受け入れて支えてくれた人達の顔が脳裏を駆け巡る。
なまえの瞳の奥には哀愁が漂っており、仁人の心臓はギュッと締め付けられた。
「……戻りたいのですか?」
静かに仁人は問う。
「んー、今は別にそんなにかな?やっぱり家事しなくていい生活に戻ると、簡単に手放したくなくなるもん」
「そ、そりゃそうや!そうそう!ずっとここにおったらええやん!おらんようになったら俺も吉田さんも寂しなるし!!」
「大丈夫だよ。わたしだって二人がいない生活なんて、寂しいもん」
尤もらしい理由を並べたが、それがなまえの本音だった。
今までずっと素直になれなかった自分の気持ちだが、声に出して漸く気付く。
「またシチュー作ってね」
「もちろん」
◆ ◆
夕食の後片付けも終盤に差し掛かり、シルバーの拭き上げが終わると仁人の満足そうな表情がスプーンに反射する。最後の一本を仕舞い終えた時、仁人はふとあることが気になった。
食事が終わったなまえはそのまま風呂に向かったが、その後の様子を見ていない。もしなにか作業でもしているのであればお茶の用意でもしようと書斎へと向かったが姿はなく、なまえの自室の電気が付いていた。数回ノックをしたが反応はない。眉を寄せる仁人は扉の向こうに声をかける。
「お嬢様、まだ起きてらっしゃるのですか?」
それでも返事はなく断りを入れてから部屋に入る。煌々と電気を点けたまま、カバンの中身は散乱し、布団も掛けずにベッドで眠るなまえの姿があった。
仁人は一度大きく溜息を吐く。照明を消し、散らばるポーチの類をカバンに入れ、ベッドに近寄る。
「ったく、この人は……」
言葉とは裏腹に、その表情はとても穏やかだった。
無防備ななまえの寝顔を見た時、夕食の席での言葉を思い出す。
「二人がいない生活なんて寂しいもん」六年間待ち続けてきた彼にとって、こんなに嬉しい言葉はなかった。
「髪も乾ききってないし……風邪でも引いたらどうすんだよ……」
掛け布団を肩まで引き上げ整える。その際に前髪が頬に掛かってしまった。
仁人はベッドの縁に右手を付き、眠るなまえを覗き込む様にゆっくりと身を乗り出す。左手で額に落ちる髪を払い除け、指先が頬を滑る。そのまま親指が唇の端にそっと添う。顔を覗き込む様に腰を折ると、ベッドがぎしっと軋む。
「——、」
月明かりに照らされブローチが光る。
その瞬間、仁人の動きは止まった。ドクドクと煩い鼓動、右腕に掛かる圧、止まった指先。
「……くそッ!」
小さく舌を打つと背を伸ばし、少し乱暴にカーテンを閉め部屋を後にした。
感情を抑えて扉を閉めると、そのまま扉に背を預けて座り込む。
あの頃は執事になればずっと傍にいられると思っていた。なまえが辛い時、苦しい時に傍にいられる理由が欲しかった。
それだけで十分だった気持ちは、いつしか自分の想いの妨げになっている。
「……何やってんだ、俺は」
指先に残る感触を振り払うように、ブローチを強く握る。
これは彼女の隣に立つために選んだ証だ。それなのに今、自分自身を一番苦しめていた。