最上と茂夫

優しい人間など存在しない。よくない時期が続き、考えることに疲れた私はそう結論づけた。不幸が起こった。家を失った。社会的なつながりが失せた。大して親しくもない知人の家を渡り歩くだけの度胸もなく、残った身ひとつを使い金を産もうという根性もなかった。社会は広い。しかるべきところに赴けば公的な助けは得られるのだろう。そのためにはまずそれがどこにあるのかを調べ、立ち上がり、ふさわしい交通手段を用いて移動し、通行人の脇を通り抜けながら辿り着いたそこで、自分が困っていることを説明する必要がある。大変なことは何もないのかもしれないが、今の私には果てしない道のりに思う。
見晴らしのいい場所に行きたかった。埃のういた部屋で壁を見ているのに飽きたからだ。失った人間は、まだ失っていなかった時代の記憶にすがる。私は幼い頃の記憶をなぞり、海へ向かった。海鳥の被害の関係で、灯台は閉鎖されていた。
灯台の足元には消破ブロックが据え置かれており、それらは灯台の位置する岬と、海岸沿いとをぐるりと取り囲んでいる。明朝の海岸はランナーや釣り人、犬と散歩する人で賑わうが、丑三つ時にかかる今では当然無人だ。
岬の中間付近の堤防によじ登り、ブロックの隙間に滑り込む。硬いそこは墨で塗りつぶしたように暗い。昔ここで秘密基地をつくった。マジックやら、ほつれた布地やらを持ち込んで、出来の悪い空間をこさえた。お気に入りの本まで持ち込んだ気がする。何か残っているものがないかと四方に手を伸ばすも、返ってくるのは冷たい苔と石の感触だけだ。10年以上ここには来なかった。歳月をかけて私が持ち込んだものは朽ち、流されてしまったのだろう。

体を丸め、フジツボの付着したそれに寝転ぶ。横になると少し狭い。岩は複雑に入り組み、隙間から外界が覗く程度だ。下の層の岩に、波が打ちかけているのがかろうじて見える。
見晴らしのいい場所で、と思ったが。もうここでいいだろう。
静かな波の音に包まれながら、石造りの棺桶で目を閉じる。海虫の息づく気配がした。夢の中で、私は暗い海底に沈んでいく。


まどろみを阻害したのは物音だった。
無視できない、不快な音だった。寒さでしびれた身を起こせば、右奥で何かが動いているのが分かった。ブロックの隙間から目を凝らす。虫にしては大きい。

老人がモノを食っている。

直視してはいけないと感じた。
隙間からゆっくりと顔を離す。
浅く息を吐けば白い。秋の海辺。こんななかで熟睡はできない。30分も経っていないと思う。老人と私の距離は2メートル足らず。この距離で人間がブロックを降りれば音ですぐに分かる。私が来るより前にいたのか?こんな時間になぜ。老人がここに?
視界の端で注視していると不意にそれが振り向いた。黒ぐろとした瞳がこちらを見ている。多分、男。
耳鳴りがする。
波や虫の気配が遠のく。
それの発する音が鮮明に闇に響く。
「連れて行くくらいなら、私が」

続く言葉を待たずに鉛のような体は能動的に動いた。どうやってあそこから這い出たのかは分からない。気がつけば浜辺を走っていた。息を切らしているとジョギングをする青年が足を止め、大丈夫ですかと尋ねてくる。大丈夫ですと返す。息を整えながら、よろよろと歩く。
「待って。靴ひもがほどけていますよ」
腰をひいて足元を見れば、たしかにほどけていた。見事に両足とも。
「……えっと、ぼくが抱いときましょうか。汗くさくて悪いけど」
赤ちゃんいるのに転んだら大変だ。青年はそう言い、両手を差し出す。
差し伸べられた私は自分の腕を見やる。私が抱きしめている生き物は、初めて見る海を前に目を見開いていた。朝日が顔を出そうとしていた。時間切れだった。
私は抵抗するすべを持たなかった。生まれて間もない彼女もそうだろう。彼女は不幸だ。彼女を産んだ人間には力がない。それを言い訳に彼女を満足に愛さず、託さず、殺しもせずに、ただ放り出そうとしている。
いっこうに動かない私に、青年は首を傾げている。どうすることもできずに、私は不恰好に微笑む。いつもそうしてきたように。
日が昇ればじきに人が集まるだろう。
また頼りない足で立ち、平気な顔をつくって歩いていかねばならない。終わらせることができないまま。優しい人がいないかのように思える世界を。彼女は、私は、私たちは。
寄せてはかえす波に晒され、つま先が濡れていた。水平線がしらじらと染まるさまをただ眺めていた。
4/60ページ