最上と茂夫

流しの横で急須に湯を注いでいると、背後で畳がきしむ音がした。振り向けば、敷居を挟んだ奥の和室に影山くんがいる。座卓の横で、いつも彼がそうするように膝を抱えてテレビを見ていた。急須からこぼれた湯を台拭きで雑に拭き、湯のみを一口追加して座卓へと運ぶ。彼の向かいに腰を下ろし、茶を入れる。沈黙が続いたので、努めていつも通りの声を作って、どうやってここに来たのかを問うた。「いや先にごめんっしょ」影山くんの形をしたそれは破顔したのち、おもむろに中指を突き立て、そのまま霧散した。数秒最上は静止する。加えて座卓に肘をつけ、拳に額をもたれさせた。姿が姿なだけに、地味に応えている自分が嫌でならない。影山茂夫とはひと月前、つまらないことで口論になって以来顔を合わせていない。千里眼で意識を飛ばせば様子を伺うことくらいできそうなものだが、バリアで拒絶された場合の精神的打撃を思うとやるにやれなかった。大きな歯車が一つ狂うと、何もかもがうまくいかなくなるようだ。現在目をつけている男は筋金入りのくそ野郎だ。どれほどシナリオを変えて人生の分岐を増やしても改心のかの字もなし。社会にもたらす利も多い人物なので、では死ねというわけにもいかない。手をこまねいていたところ、精神世界のほころび(ほころび!)を見つけ、そこに逃げ込まれてしまった。怨霊どもの支配も崩れ、中には男に加担するものまで出てくる始末だ。新しい手で攻めたいところだが、乱れた心では思いつくのは悪手ばかり。一度頭を冷やして体制を立て直した方が良いだろうと、仮宿を作って休んでいたところに今しがたのまやかしである。頭が痛い。無論、錯覚だろうが。後頭部に鉛でも入っている気がする。あんな低級霊にだまされるとはなんたるざまだろう。少し考えれば分かることだった。影山くんがここに来れるはずがないのだから。顔を上げれば、二つの湯のみからはまだ白い湯気が立ち上っている。テレビではブレイクしたての漫才コンビが芸を披露し、客席の笑いを誘っていた。薄いカーテンが風に乗ってなびき、黄色い陽の光が古びた畳を輝かせている。朗らかで、それでいてつまらない景色。そのつまらなさの原因はなんなのか。本調子を取り戻すために必要なものは明白だ。どうせ失うものなどない、なら迷うこともないはずだ。そうして最上は重たい腰をあげる。去る者を追わず、関係が途切れればそれまで。味気ない生を送った最上は謝ることに不慣れな大人だが、今後はそうも言ってられなくなるだろう。変わらない人はいないと物申した少年の心はやはり正しい。そして謝りたいと考えているのは何も最上の方だけではない。
23/60ページ