合同合宿編
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*日吉side
あのとき、自分でも信じられないくらい腹が立った。
1日手伝いをして疲れたこいつを何度も厨房と往復させて、挙げ句の果てにはそれを“これくらい”と言い放った佐伯さんに。
そして、それに怒るでもなく不服そうにするでもなく、ただ一生懸命に応えようとする名無しにも。
どうしようもなく、腹が立った。
ーー“行くぞ”
そう言っても何も答えない名無しの手を、俺は無意識につかんでいた。
驚く名無しを意に介さず、自分の欲のままにその場から連れ出した。
佐伯さんと…あんな男と二人きりになんかしておけるか。
頭の中はそんな思いで占められて、無我夢中でその手を引いて廊下を歩いた。
どこに向かうつもりなのか、自分でも分からなかった。
今から何をするつもりなのかも、分からなかった。
痛がる名無しの声が聞こえてくるまで、無理をさせていることにさえ気がつかなかった。
赤くなった手首を見るまで、頭に血がのぼっていたことにさえも気がつかなかった。
名無しがその手首を隠そうとした仕草を見るまで、俺に腹を立てる資格がないことを、本当の意味で分かっていなかった。
悔しいが、佐伯さんが俺に言ったことは何ひとつ間違っていない。
図星を言い当てられて、冷静さを欠いて、俺はまた名無しを傷つけた。
それでもまだ、こいつは俺のために優しさをみせる。
――“君がそれを言うの?
一体どの口が言ってるんだろうね”
…本当に、そのとおりだった。
誰よりも名無しを傷つけた俺に、何か言う資格なんてなかった。
謝ろう。
そう思った。
だが次の瞬間、名無しの口から出てきたのは耳を疑う言葉だった。
――“私、佐伯さんに謝ってくる。”
なんで…。
あんな奴に…お前が謝るんだ。
そんなにあの人との関わりが大切なのかよ。
もしかして…お前はあの人のことが、好きなのか…?
好きに…なったのか…?
自分の心臓がバクバクと大きく打ち始めるのが分かった。
…あんな男のところになんて、行かせたくない。
行かせられない。
名無しの気持ちを想像しただけで、胸の中が重苦しくなっていった。
だが名無しは俺の問いに、何度も違うと言った。
違うけど佐伯さんには分かってもらいたいと言った。
…そして、俺には私の気持ちは関係ないとも言った。
その言葉と、その苦しげな表情とで、ようやく俺はわずかに落ち着きを取り戻した。
そして名無しが悲しげに絞り出すように伝えてきた言葉は、予期していないものだった。
『日吉くんの…邪魔をしちゃったから』
「俺の…邪魔……?」
名無しが佐伯さんに謝ろうとかたくなだったのは、自分が佐伯さんを怒らせてしまったと思いこんでいるから…、つまり佐伯さんと名無し自身の為だと俺は思っていた。
だが今の言い方だと、まるで俺の為だと言っているように聞こえる。
……そんな馬鹿げたこと、あるはずがない。
俺は何度もこいつを苦しめてきたのに、この期に及んでまだ俺の為に動くなんてこと…。
そんなこと…ありえない。
いくら名無しでも、嫌いな奴のためにそこまでするはずがない。
目の前の名無しを見つめる。
名無しも俺をまっすぐに見つめていた。
こいつが何を考えているのか、知りたい。
どういうつもりで、何を思ってこんなことを言っているのか、知りたい。
そんな思いにかられて、ただ名無しを見ていた。
すると、名無しのほうが先に口を開いた。
『…日吉くんにとって佐伯さんは尊敬できる人でしょ?
そんな大切な繋がりを壊したくないから…、だから佐伯さんに謝りたいんだ。
私…、日吉くんの邪魔はもうしたくない』
「邪魔って…なんだよ。
だいたい、俺はあの人のことを尊敬してなんかいない。勝手に決めるな」
『ううん、どれくらいかはわからないけど…佐伯さんのどこかに尊敬してる部分はあるはずだよ。
だって、日吉くんはいつだってテニスに真剣だもん。この合宿での大切な時間を二人での話し合いに使うくらいなのに、何もそういう所が無いなんて思えないよ』
…………………。
確かに…そうだ。
俺は選手としての佐伯さんに、少なからず尊敬する気持ちを持っていた。
あの人のテニスの中には、一目置かざるをえない優れた部分がいくつもあった。
だからこそ、テニスのことで話をしないかと持ちかけられたとき、参加するつもりだった氷帝での全体練習より話し合いを選んだ。
だから、か…。
尊敬している人との繋がりを失うことは俺にとって損失だから…。
その原因を作ってしまったと思い込んでいるこいつは、自分が謝りに行くと言ってるのか…。
「そんなこと…考える必要ない。やめろ。
謝りにも行かなくていい」
名無しが考えていることは分かった。
だがそれと引き換えに、どんどん気持ちが沈んでいく。
こいつは罪悪感と責任感から言っているんだろうが、俺はそんな気持ちで動いてほしくなんかない。
嫌いなのに無理してまで動いてほしくない。
そんなの…虚しいだけだ。
『どうして?ダメだよ、このままじゃ。
それに私のせいなんだから、私が謝るのは当たり前だよ』
「…いい。
第一、あれはお前が悪いとかそういう問題じゃない」
…もういい。
これ以上俺に関わるな。
そのほうがお前にとってはいいんだ。
『……いや』
「…は?」
『このままなんて、いや。
私、日吉くんの邪魔ばっかりしてる。こんなの、いや』
名無しは引く気配がない。
くそ…。
何なんだよ、いったい…。
「…いいって言ってるだろ。しつこいぞ」
『だって――』
食い下がる名無しに、瞬間的に頭に血がのぼる。
「――いいかげんにしろ!」
『…っ……!』
「いいって何度も言ってるだろ!
もう俺のことは放っておけよ!俺に構うな!!!」
遠くまで届きそうなほどに自分の怒鳴り声が響いて、そのことがわずかに冷静な思考を取り戻させた。
名無しはビクッと肩を震わせたかと思うと、驚きに身を固くしていた。
また……。
…俺はいつも、こいつにこんな顔をさせてばかりだ…。
いつもいつも…。
「もう…分かっただろ」
名無しといると、自分の未熟な部分がどんどんむき出しになっていくようで、情けなくて…苦しい。
「俺のために何かする意味なんかない」
俺の近くにいても、お前はどうせ傷つくだけなんだから。
「無理してまで俺に関わるな。
………迷惑、なんだよ」
『…!!』
そのとき、廊下から差し込む光に照らされて、名無しの目が潤んでいるように見えた。
ふと去年のクリスマスのことを思い出す。
あのときも、今と同じようなこいつの目を見た。
あのときはこぼれ落ちそうな涙が、イルミネーションや店の灯りに照らされて光っていた。
『私…。
私は…無理なんかしてない。
日吉くんに無理して関わろうとしたことなんて、一回もないよ…』
かすかに震える声。
今までに感じたことがないような痛みが、胸に走った。
それでも、もう止められなかった。
もう終わらせたほうがいい。
ここまで来てしまったら、後には戻れない。
「嘘言うなよ。
…お前が俺を嫌ってることくらい、知ってるんだぜ」
その瞬間、名無しの目が大きく見開かれた。
その目にはっきりとうつる、悲しみ。
…もう本当に、何もかも終わった。
これ以上ないくらい、傷つけてしまった。
もう永久にこいつが俺に笑顔を向けることはなくなった。
俺が望んでいたことは…もう、叶わない……。
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