女監督性
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秋も深まり、明るい時間よりも暗い時間が伸びた時期。
頭から被っていた毛布から抜け出し、のっそりとベッドから起き上がると背中から頭のてっぺんまでゾクゾクと寒気が走った。
昨夜はそこまで寒くなかったけれども、今朝は身体の内側から冷える。
「今朝はずいぶんと寒いですね」
バイト先であるモストロ・ラウンジで提供する本日の料理の下ごしらえを済ませた私とジェイド先輩は、厨房で軽く朝食を摂っていた。二人が朝番のときはいつも授業に出る前にこうして少しおしゃべりをするのが日課になっていた。
私は温かいスープが入ったカップを両手で包んで暖をとった。じんわりと両手から伝わる温かさが全身のこわばりを緩めてくれる。
向かいに座っているジェイド先輩は目の前のカボチャスープ(本日のメニュー)をスプーンで掬って口に運んでいる。
「風邪ですか?」
「いえ、熱もないし、元気なんですけど、なんか今日は変なカンジなんです。背中がゾワゾワするような……誰かに見られてるような」
私のハッキリしない言葉に先輩は曖昧に相づちを打って少し考え込む。そして何かを思いついたのか、納得したような顔を私に向ける。
「なるほど、確かに貴方はもしかすると《あり得る》かもしれませんね」
「……なにがです?」
「今日は何の日か知っていますか?」
質問に質問が返ってくるのは良くあること。いちいち気にしてはいられない。特にこの先輩は誘導が上手いので抵抗しないほうが話がうまいこと進むことが最近分かってきた。
「ハロウィンですよね。変装してお菓子配ったり貰ったりするお祭り? だったと思います」
「大枠は合っていますが、此方の世界のハロウィンはゴーストに気を付けなくてはなりません」
「ゴーストって、あのオンボロ寮にいるゴーストですか?」
「同じかどうかは分かりませんが、僕の言うゴーストはもう少し悪戯好きです」
食事する手を止めてしっかりと私と目を合わせるジェイド先輩。私も姿勢を正して彼の話に集中する。
「ハロウィン当日から翌日の時刻になる間、此方の世界とゴーストの世界の境界線が薄くなります。この間に向こうの世界のゴースト達は、此方の世界の住人を自分たちの世界に引き入れようとしてくるのです。
ああ、怖がらなくても大丈夫です。ゴーストに悪意はありません。彼等にとっては単なる悪戯ですから。
ただ、その悪戯の内容は相手の願望や欲望に語りかけてくるものなので、人によってはそのまま引き擦り込まれてしまうことがあります。
まあそうなってしまっても、それはそれで幸せかもしれませんね。望む世界で楽しく暮らせることは良いことかもしれません」
ニコニコといつもの調子でサラッと物騒なことを言うジェイド先輩。
私の知ってるハロウィンは単なる秋のお楽しみイベントだったが、此方のハロウィンは全然違っているようだった。
さすが魔法のある世界。子供の頃に読んだ御伽話のような不思議で恐ろしいものだった。
しかし、それと私の悪寒と関係があるのか。質問する前にジェイド先輩が回答をくれた。
「ゴーストが悪戯に選ぶのは魔法力が弱い者と」
私を見る先輩の目が細くなる。どこか楽しそうな含みのある口元から言葉が紡がれる。
「魔法が使えない者」
「……とても怖い一日になりそうです」
「そうですね。なので、」
ジェイド先輩はジャケットのポケットから小さな透明の包みを取り出した。
先輩の大きな手の平にちょこんと乗っていたのは透明シートに包まれたミントキャンディ。
手を出して、と言われてテーブルの上に片手をだすと、先輩は私の手に触れた。一瞬、私の手をとった先輩の指先がピクリと震えたような気がした。
どうしたのだろうか、と先輩を見やると先輩は私に感情が読めない微笑みを浮かべた。
私の手を引き寄せてキャンディを静かに手の平に乗せた。手袋をしていない先輩の手の温もりが私の手をキャンディごと包み込む。
そして先輩のもう片方の手はマジカルペンを取り出し、キャンディに向ける。
「ユメさん、お菓子を貰うときに言う呪文は知っていますか?」
ハロウィンで言う呪文。多分あの言葉のことだろう。
『トリック・オア・トリート』
躊躇いがちに発した私の言葉に反応したのか、キャンディが淡く輝き出した。
ユラユラとキャンディの内部から輝いたと思うと、ゆっくり光はキャンディの中心に吸い込まれるように失われて普通のミントキャンディに戻った。私は目の前で披露された小さな魔法にわあ、と感嘆の声が漏れた。
「ゴーストに狙われやすい子供達は自らがゴーストに扮して誘いの手から身を護ります。
大人達は子供の安全を願ってお菓子を配ります。普通のお菓子でも効果は少しはあるのですが……魔法の使える家は専ら呪文付きのより強力なお菓子が主流です」
重なっていたジェイド先輩の手は一呼吸置いてから離れていった。
「このキャンディがゴーストの誘いから貴方を護ってくれるでしょう」
「ありがとうございます……すっごい心強いです!」
受け取ったキャンディをまじまじと見つめる。特に何も変わったところはない普通のミントキャンディ。
これは、ジェイド先輩が私のために安全を願ってくれた特別なキャンディなんだと思うと嬉しさで頬が熱くなる。
ユメさん、と声をかけられてキャンディから先輩に視線を移す。心配したような、真剣な表情のジェイド先輩と目が合う。
「ゴーストの質問に肯定してはいけません」
少し声音が硬く、緊張した面持ちにドキリとする。
「自分がいる場所がどこなのかをしっかりと見極めてください。知らぬ間に引き込まれるかもしれません」
サーッと頭から冷水を被ったように恐怖が再び襲ってくきた。私のビビリ顔を見てクスリと先輩は口元を和らげた。
「怖がらせてしまいましたね。大丈夫ですよ。このキャンディは御守りです。困った時に役立つかもしれませんので今日は身に着けていてください」
「……困った時って、どんな状況ですか?」
御守りをくれた先輩は手を口元に寄せて優しく応えてくれた。
「お腹が空いて耐えられなくなった時は大いに役に立つことでしょう」
ジェイド先輩はいつもの茶化しモードに戻ってしまった。
*******
ジェイド先輩のハロウィンの話が気になって授業に全く身が入らなかった。私の脳内はゴーストのことでいっぱいで学問の入る隙間なんて一ミリもなかった。
オンボロ寮でゴーストは見慣れているけれど、種類が違うようだし、見極められるのだろうか。あっちの世界にイタズラに引き込まれるなんて怖すぎる。
魔法が使えない者はこの世界では圧倒的に弱者であることを痛感する。
仕方ないとはいえ、自分の無力さが悔やまれる。この世界に来たときに魔法もオプションで付いてくれば良かったのに、と脳内で文句を垂れていると、目の前の光景にハッとした。
受けていた授業は既に終わって生徒が居なくなっていた。
「しまった、次は移動教室だ!」
私は慌てて教室を飛び出し、実験室に走って向かった。石造りの階段を一つ飛ばしに駆け上がり廊下を走る。
長い廊下を夢中で走っていると少しの違和感が身体に纏わりついた。
先ほどから他の生徒も教師も見かけない。気にし過ぎだろうか。いや、今はそんなことを考えている場合ではないので必死に走る。それにしても今日は本当に冷える。
一瞬頬をチリリと冷気が走り抜けた。
「ユメ! 廊下を走ってはいけないよ」
背後から良く通る声が私の名を呼んだ。
「リドル先輩」
振り向くとリドル先輩が険しい表情で腕組みをして立っていた。
急いでるのにな、と内心焦る。振り切って逃げるよりも謝って早足にその場を立ち去る作戦でいくことにした。
「すみませんリドル先輩。急いでいて走ってしまいました」
ハーツラビュル寮長は規則に厳しい。私は素直に謝り、頭を下げた。
リドル先輩は私の反省する姿に組んでいた腕を解いて小さく息を吐いた。どうやら許されたらしい。首は落とされずに済んだ。
「規則は守らなければいけないよ」
「すみませんでした。歩いていたら次の授業に間に合わないので走ってしまいました」
「なるほど。それは困ったね」
「はい、なので急いでいますので私はこれで、」
「規則が気に入らないなら、新しく作り変えれば良い」
「失礼しま……は、え?」
会話がおかしいことに気付いて下げていた頭を上げる。
「キミが女王になればいい。自ら法律を制定し、学園の生徒、教師を兵士のように統治すれば全て思うままに振る舞える」
素晴らしい話だと言わんばかりの自信と威厳に満ちた表情でリドル先輩は続ける。
「悪くない提案だろう?」
グレーの大きな瞳に吸い込まれそうな圧力をこの赤い寮長から感じる。トランプの兵士になってしまったかのように自分の意識とは違うところで女王であるリドル寮長の言葉に「はい」と返したくなる衝動が込み上げてくる。
女王の問いかけに頭が混乱する。はい、と言わなければならない。
「……ぁ、は」
「オイ、何やってんだ」
突然発せられた第三者の声にビクリと身体が跳ねた。
淀んでいた意識が晴れてくる。もう一度リドル先輩に視線を戻すと息を呑んだ。
目前には広い廊下があるだけだった。
「こんなところで突っ立ってる場合じゃないだろ」
「そこに、リドル先輩が」
「え!? ……居ないぞ。寝ぼけてないで早く行くぞ」
デュースに腕を引っ張られて、私は首を傾げながら再び走り出した。
寒さはもう感じなかった。
*******
「ハロウィンは主にミドルスクールまでの子供のイベントですから。僕等の年齢になると変装してお菓子を貰うことは殆んどしません」
「でもハロウィン限定のメニューはたくさん開発しましたよね。たくさん売れてましたよね」
「誰だって特別なイベントは心躍りますからね。楽しさの提供もカフェの役割りです」
ハロウィン当日のモストロ・ラウンジの営業が無事に終了して、アズール先輩は売り上げを計算している。
私はアズール先輩と対面するようにソファに座って彼のレシート捌きをボンヤリとただ見つめていた。売り上げ計算は魔法で管理しないらしい。
「そういえば、営業中からジェイド先輩を見かけませんが……」
「ああ、ジェイドは今晩しか生えない特別な食用キノコを採りに山に行っています」
「オレ山帰りのジェイド嫌なんだよねぇ。超土臭くなるしその日はキノコの話しかしなくなるし無理やり食べさせようとするしさー」
アズールの座っているソファの後ろからヌッとフロイド先輩が現れる。背もたれに腕を置いて気怠そうしている。
「あのリュックのデカさはヤバイって。絶対一週間はキノコ料理出してくる」
ゲロゲロと顔を崩すフロイド先輩。ジェイド先輩と双子だが、こうやって間近で見ていると顔の雰囲気はだいぶ違う。
大きなリュックにキノコを詰め込んで満面の笑みを携え、土だらけで帰宅するジェイド先輩を思い浮かべる。可愛らしいなあと緩みきった顔をしっかりとアズール先輩に目撃されてしまった。恥ずかしさを誤魔化すように話を変える。
「私みたいに魔法が使えない人にとって、今日は恐ろしい日ですよね」
売り上げチェックしている目が一瞬こちらを見るが、また元に戻る。
「そうですね。ですが、ゴースト対策もとられていますから大丈夫ですよ」
「私もこの世界に来た時に魔法が使える身になっていればなあ……」
はあああ、結構深いため息が漏れてしまった。ゴーストの件と朝から纏わりつく違和感に気持ちが滅入っていた。
「……ユメさんは魔法が使えるようになりたいですか?」
「そのほうが便利だし、こうやって危険に晒されることもないじゃないですか」
弱音ばかりの私に呆れるかな、と思ったけれど先輩の言葉は予想外だった。
「その願い、叶えられなくもないですよ」
アズール先輩の傍らに黄金に輝く紙が出現する。これは彼特有のユニーク魔法。
「ちょ、ちょっと先輩」
浮遊する羽ペンがアズール先輩に指先に収まる。
「無から有を生み出すのはかなり難易度が高い」
ギョッとする私を無視してしなやかにその羽先を私に近付けてくる。
「対価は……そうですね、その声をいただきましょうか」
焦る私の喉元を黄金の羽がサラリと撫でる。羽は滑らかに見えるが、短剣の刃のように鋭かった。
喉に触れるものを意識しないようにアズール先輩を見ると眼鏡越しに挑戦的な瞳とぶつかった。
代償を払う覚悟があるか見定めているような視線に呼吸が浅くなり苦しくなってくる。
「アズールは優しいから小エビちゃんのどんな難しいオネガイゴトにも真摯に向き合ってくれるよお」
アズールの背後に控えるフロイド先輩の垂れ目が昏く光る。
獲物を狙うような視線に身が縮こまる。ねっとりとした視線に身体を締め付けられたように動きがとれないが、なんとか声を絞り出した。
「……魔法よりも声を大切にしたいです」
瞬間、私の喉を触る羽は姿を消した。
「えー、小エビちゃん断わっちゃうのお?」
「そうですか。いつでも相談に乗りますよ」
「いえ、大丈夫です。無い物ねだりはやめます。お先にお疲れ様でした」
アズール先輩は残念そうな素振りをしているけれど、きっと何とも思っていないことが後ろのフロイド先輩の悪い笑みで察せられる。
私は荷物をバッグに押し込んでモストロ・ラウンジを後にした。
*******
学園からの帰り道は昼間よりも冷えた空気が肌を刺激した。
冷たい風に思わず身体が丸くなる。何となく空を見上げると満月が薄い雲に覆われてモヤがかかったように白く輝いている。ハロウィンという特別な日のせいか、少し不気味にすら感じた。
風が近くの木を揺らして黒色の頭上を舞った。聴き慣れた音も今は恐怖を煽ってくる。
心細さに制服のポケットから小さなキャンディを取り出して目の前に掲げてみた。
透明なシートに包まれた薄緑のミントキャンディ。私の安全を願ってジェイド先輩が魔法を施してくれた御守り。
眺めているだけで少し怖さが薄れて心が温かく満たされていった。キャンディをくれた先輩は私を心配してくれていたのだろうか。
「ジェイド先輩に会いたいな」
ぽつりと呟いて丁寧にキャンディをポケットに戻す。今晩はグリムを抱っこして寝たい気分だった。
寒さに腕を擦りながら歩いているとオンボロ寮の玄関前に立っている人物が居た。
「ジェイド先輩!」
今一番会いたいと思っていた人が目の前に現れて驚きと嬉しさに走り寄ると先輩も私に気付いて「こんばんは」と挨拶を交わした。
「夜食を作ったので良かったら一緒にどうですか?」
ジェイド先輩は手に持ったバスケットを私に見せてニコリと微笑んだ。
私に断わる理由なんてなかった。何も疑うことなく彼をオンボロ寮に招き入れた。
「グリムー、帰ったよ。いないのー?」
寮内は薄暗く、いつもは談話室の暖炉の近くでのんびりしているグリムが居なかった。
「夜なのにどこ行っちゃったんだろう……」
「お腹が空けば戻ってきますよ」
キョロキョロとグリムを探している私をよそに、ジェイド先輩は寮の談話室に入ると照明を点けてテーブルに持参した食事をテキパキとセットし始めた。
「それもそうですね」
私もグリムはそのうち戻ってくるだろうとそれ以上気にかけることなくお茶用のお湯の準備にキッチンへ向かうことにした。
今夜はかなり冷えるせいか、どの部屋もヒンヤリとしていた。寮のゴースト達の気配もしない。ハロウィン当日は彼等も忙しいのだろうか。
「ん? ってことは、今夜はジェイド先輩と二人っきり!?」
バイトでは頻繁に二人だけで作業していたけれど夜に会うのは初めてだった。
思いがけない事態に嬉しさとニヤニヤと緊張で本日二回目の緩み顔になった。バクバクする心臓を落ち着かせつつ、途中にある鏡で普段よりも念入りに服装の乱れを直した。
「さあどうぞ、召し上がってください」
テーブルにはジェイド先輩が作ってくれたお夜食が並ぶ。
ピーナツバターとイチゴジャムの厚い層で出来たサンドウィッチ、たっぷりのチョコレートクリームが乗せられたマフィン、他にもずらりと先輩の力作が並んだ。
さらに淹れた紅茶の近くにはハチミツの小瓶が置かれていた。
「随分とたくさん作ったんですね」
「今日はラウンジが忙しかったと聞いたので多めに作ってきました」
談話室のソファに隣り合って座ったジェイド先輩の眼差しがやけに優しい。もしかしたら山での成果が良くて上機嫌なのかもしれない。
彼がこうして隣に座ってることも夢みたいだ。チョロ過ぎる自分が悔しい。でも好きだから仕方がない。
いつもよりも穏やかな表情を今、自分が独り占めしている状況に胸がいっぱいでそれ以上は何も言えなかった。
「いただきます」
近くにあったフルーツと生クリームのサンドウィッチに噛り付く。口の中いっぱいに甘さが広がる。
イチゴが入っている筈だけれど、クリームの厚みに酸味は消えている。柔らかくて重いクリームを咀嚼する。嚥下する度に食道から胸にかけて焼け爛れるような熱を感じた。
「美味しいですか?」
隣から視線を合わせるように頭を傾けられ、静かに声をかけられた。
「結構、甘い、ですね」
「おや、お口に合いませんでしたか?」
「いえいえ! そういう訳じゃないですけど……」
「では、美味しいですか?」
見るからにションボリと悲しい顔をするので慌てて否定する私に再度尋ねてくるジェイド先輩。
身を乗り出した先輩と距離が近付く。穏やかなのに言葉にどことなく圧を感じる。
先輩の接近に気恥ずかしさと少しの怖さに長身の身体を遠慮がちに手で押し返すと、すんなりと離れていった。
いつもよりもスキンシップをとってくるジェイド先輩に戸惑いつつも、気付かれないように平静を保っている風で話題を変える。
「先輩、今日は山にキノコを採りに行ったんですよね?」
「それが何か?」
「キノコは採れましたか? 楽しかったですか?」
「今は貴方との時間を大事にしたいので、そんな話は後にしましょう」
私の話題変更には乗ってこず、遮るように先輩が喋ったと思ったら視界が反転した。あっという間に私の後頭部はソファに沈んでいた。
「えっ、えっ?」
状況に追い付いていない私の身体の上にジェイド先輩の影が落ちた。
身体の大きい先輩に覆い被さられた私は完全に逃げ場を失ってしまった。
視界いっぱいのジェイド先輩に押した倒されたと気付き、悲鳴を上げる前に先輩の指が動いた。
「ああ、こんなに怖がってしまって―――可愛らしい」
眉を下げて小動物を可愛がる手つきで私の頬を撫でる。そしてグッと上半身を倒し、私の頬に軽く唇を寄せた。
「!?」
チュッと啄ばむような音が近くから聴こえて思わず目を硬く閉じた。
今、キスされた? ジェイド先輩に??
すると今度は閉じた瞼に唇の感触がした。今度はジェイド先輩の唇は体温を感じるほどゆっくり、たっぷりと時間をかけて、両瞼にキスを落としていく。
小さく服の擦れる音がした後、私の耳元を甘いテノールがくすぐった。
「その可愛らしい瞳を僕によく見せてください」
耳たぶに触れた小さなリップ音にひくりと身体が震えた。ゆっくり目を開くとそこには先ほどよりも近い位置でオッドアイと視線が交わった。
今まで見てきたジェイド先輩の表情の中のどれにも一致しない、うっとり蕩ける眼差しで見下ろされていた。
今までこんなに密着したこともないし、されたこともない。先輩の薄い唇にキスが出来てしまいそうな距離に頭も身体も沸騰してどうにかなってしまいそうだった。
先輩は身体中から熱を放出している私の頬を今も撫で続けている。先輩の態度に戸惑うも、私の中で何かを期待する気持ちが芽生えていた。
もしかするとジェイド先輩も私のことを――――?
とても信じられるものではないけれど、かすかな期待は思考を、感情を、ドロドロに溶かしていく。
このまま甘い空間に身体を預けてしまいたい。
「大丈夫ですよ。僕に身を任せてください。さあ、力を抜いて」
私の脚の間に先輩の脚が入り込んできた。自分の下半身に目をやると膝丈のスカートが捲れ上がり、私の太腿が先輩の目前に晒された。
その光景が酷くいやらしくて、ふわふわの夢心地から一気に現実に引き戻された。今すぐにスカートを直したい。しかしそれも先輩の身体で阻まれた。
「先輩やめてください、こんなのおかしいですよ、……ッ!?」
私の首元を先輩の長い指が這い、ターコイズブルーの頭が埋まると鋭い痛みが喉に走った。
本能的にこれ以上はダメだと察して再び彼の身体を押し退けようと手をバタつかせた。が、今度はその両手をソファに抑えつけられてしまった。
「ッ、ジェイド先輩……!」
私は必死で考えた。
この状況は一体どうなってるんだ。
甘い食事、キノコへの興味の無さ。
おかしい、こんな先輩は絶対におかしい。
それに私を好いて迫ってくるこの先輩。
まるで、まるで私の………
『悪戯は相手の願望や欲望に語りかけてくる』
脳が理解した瞬間、身体に纏わりついていた熱は急降下し、力いっぱい先輩の胸を押し退け彼の身体の下から這い出した。そして距離をとって彼を睨み付ける。
「あなたはジェイド先輩じゃない!」
どこからどうみてもジェイド先輩そのものだったが、間違いなくこの人は偽物だ。
先輩の偽物と思われる男はクスクスと笑う。ゆらりとソファから立ち上がると反論もせず、ただ私をじっとジェイド先輩と同じオッドアイで愉しそうに見つめてきた。
これはゴーストだ、と直感で判断した私は急いで背後のバルコニーに走った。
ここはオンボロ寮の二階。バルコニーから飛び降りたところで大した怪我はしない筈。
勢いよくバルコニーに続く大きな窓を開き、バルコニーに備え付けらえた手すりに足をかけた瞬間に身体にブレーキがかかった。
手すりの下はいつもの草だらけの地面ではなかった。
地面がなかった。代わりにあるのは吸い込まれそうな暗闇。
ここは二階なのに真下に広がる世界は学園の最上階から見える景色のように底が見えない。ゴオゴオと唸り声が底から響いている。あたりを見まわしても何もない。見上げれば雲一つなく満月が輝いている。
「なにこれ。どうして……」
一体どうなっているのか?
「そこから落ちたら危ないですよ」
後ろを振り返れば、先輩の偽物もバルコニーに出てきた。私の驚き具合を気に入ったのか機嫌が良さそうにしている。
ジェイド先輩の姿をしたゴーストはゆっくりと距離を縮めてくる。
「近寄らないで!!」
近付かれる恐怖に耐えられず私は手すりを跨いでしまった。足を置くスペースはほぼなく爪先立ちになってしまった。
もうこれ以上は逃げられない。暗い底から吹き上がってくる強風に何度もあおられて身体が揺れる。落ちないようにギュッと手すりを掴む手が小刻みに震えた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。足元が崩れる前に戻ってください」
「……ッ」
親が子供を宥めるような優しい声音から顔を背ける。これ以上ゴーストの演じるジェイド先輩を見たくなかった。
「本当はこうやって愛されたいんでしょう? 貴方の欲しいものは全て手に入りますよ」
「……」
「貴方の世界の彼とは違って僕は貴方しか見ない。貴方しか愛さない。僕の心も身体も全て貴方のものです」
大好きなジェイド先輩の声で残酷な現実を突きつけてくる。
本物のジェイド先輩は私に興味はないだろう。そんなことは分かっている。
現実は受け止めているけれど、心のどこかで相思相愛になりたい、と心の奥では願っていた。
そんな心の脆い部分がゴーストに付け込む隙を与えてしまった。
悲しさと悔しさで我慢していた涙が深い瞬きで零れ落ちた。
「僕は貴方の意思でこの手をとって欲しいのです」
「……やめて」
「さあ、【こちら】にいらっしゃい」
伸びる手から逃れるように大きく身をよじった瞬間、足場が崩れて身体が傾いた。
「あッ!?」
手すりから指が離れて一瞬の浮遊感。
―――落ちる!
脳が落下を認識する前に強い力で左手首を掴まれた。
手すりから身を乗り出して片手で私の手首をしっかりと掴まえてこちらを見下ろしているジェイド先輩の偽物。
足は完全に宙を蹴っている。左手首一本で全体重を支え、腕が千切れそうだ。
月光を背にしたジェイド先輩の偽物のシルエットは怖い程に美しく輝いて見えた。
目を離せない、抗い難い魅力に取り込まれそうになるのを唇を噛んでどうにか耐える。掴まれた腕がギリギリと軋む。落下の恐怖にこの不愉快なゴーストに縋ってしまいそうになる。
「この手を離したら貴方はどうなってしまうのでしょうか?」
大好きな人に似せた瞳が狂気の色を孕んで私に笑いかけてくる。歪んだ口元から鋭い歯が覗いていた。
私の身体が昏い底に沈むかは彼次第。
駆け引きは圧倒的に不利。彼の言葉を受け入れるか落ちるかの二択しかない。
私は掴まれている逆の手で制服のポケットをまさぐった。ソレをしっかり握ってそして決意した。
「さっさとその手を離しなさい!!!」
ギッと睨みつけてジェイド先輩から貰った御守りのキャンディを私の手首を掴む不愉快男に向かって全力で投げつけた。
「痛ッテェ!!?」
キャンディが男に当たる鈍い音と共に聞き覚えのない悲鳴があがった。
その衝撃でゴーストは私の手を離した。
途端に私の身体は重力に従って一気に落下をはじめる。
「良いザマよ。バカにしないでよね」
上方で痛がっているであろうゴーストに向かって思いっきり舌を出した。
空間を斬るように垂直落下していくなかで風圧とは違う声が聴こえた。
『ザンネン惜シカッタナア。今年ハ面白カッタ。マタ遊ボウネ監督生サン』
「二度と私の前に現れるな!!!!!」
ジェイド先輩に扮していたゴーストの本来の声だろう。
ガザガザと滲む声音に向かって出来る限りの拒絶を叫んだ。
ゴーストを拒んでから段々と恐怖よりも怒りが沸いて、見えないゴーストに向かって怒りをぶつけ出した。
「そもそも外見はそっくりだけど、中身は全然違うじゃない! 顔だけ似せて私を貶めようなんてバカにしすぎでしょ!! っていうか本物のジェイド先輩のお顔はもっと良いし、キノコを蔑ろにするなんてあり得ないし、それから、それから……!!」
収まらない怒りをギャアギャアとぶちまけながら、私はどこまでも深い底へ落ちていった。
*******
「小エビちゃん、ゴーストに遊ばれちゃったねえ」
翌日、モストロ・ラウンジの営業後。
昨日の出来事をジェイド先輩に(偽ジェイド先輩にキスされたことは伏せて)話した。
あの後、私はオンボロ寮の庭で目が覚めた。壊れた筈の手すりも元通りで異常はなかった。投げつけたミントキャンディは無くなっていた。
「オンボロ寮の部屋から別の高所へ移動する魔法……なかなかゴーストも張り切りましたね」
「感心するところじゃないですよ。メチャクチャ怖かったんですから!」
アズール先輩は私が遭遇したゴーストの技術が気になるようだった。
「僕も生徒達に扮するゴーストを見てみたかったです」
「ジェイド先輩まで……アズール先輩に扮したゴーストもそっくりでしたよ」
「いや、僕は本物……」
ジェイド先輩も私の恐怖体験を羨ましがっていた。他人事だと思ってこの先輩達め。
「本当にそっくりで騙されるところでした。でも本当にキャンディって効き目があるんですね。ジェイド先輩に貰ったキャンディをゴーストに投げつけたらすんなり元の世界に帰してくれました」
「小エビちゃんキャンディ投げつけたの!?」
私の言葉にフロイド先輩は再びゲラゲラ笑いだした。後ろの方でアズール先輩も俯いて肩を震わせている。
何かおかしなことを言ったのだろうか?
説明を求めるようにジェイド先輩を見ると、彼も困ったように笑っていた。
「キャンディは普通に渡すだけでいいんですよ。お菓子を渡せばゴーストは満足して元の世界に帰してくれます」
「え、」
「トリック・オア・トリート《お菓子をあげるから悪戯はしないで》ってユメさん自身が仰ってたじゃないですか」
「いやいやいや、あの言葉はそういう意味じゃないですよね!?」
「仮に引き込まれてもハロウィンが終わればゴーストの世界との繋がりが弱まり、数日で戻ってこれますよ」
アズール先輩が震える声で補足してくれた。
「だってジェイド先輩、昨日めちゃくちゃ深刻そうに言うから……」
「ハロウィンで必死になってるヤツ初めてみたー! 小エビちゃんやっぱおもしれー!」
「そんなに笑ったら可哀想ですよフロイド。ユメさんは知らなかったんですから。フフッ」
兄弟を窘めるジェイド先輩の瞳は思いやりに満ちているけれど、その手で隠している口元は絶対にギザ歯が意地悪な弧を描いているのだろう。
何も悪いことはしていません、涼しい態度にジェイド先輩の黒い一束の髪を引っ張ってやりたい衝動に駆られた。が、実行した後が怖いので思いとどまった。
「と、とにかく! 本当の世界に戻ってこれて良かったです! ジェイド先輩、御守りありがとうございました」
お礼を言うとジェイド先輩は「大したことはしていませんよ」と悪い顔を引っ込めてゆっくり瞬きをして笑い返してくれた。
「ユメさんが無事にハロウィンを乗り越えたお祝いに今日の賄いは腕を振るいました」
気持ち良い程にキノコがどっさりと使われた料理のオンパレード。きっと昨夜摂ってきたものだろう。フロイド先輩がゲェと呻いている。
そしてジェイド先輩によって各々のドリンクが横に添えられた。私には砂糖が一切入っていない温かい紅茶。
甘い物が得意ではない私にジェイド先輩はスッキリとした後味の紅茶を淹れてくれた。
「? ニコニコとして嬉しそうですね、監督生さん」
無意識に口角が上がっていた私に気付いてジェイド先輩は同じように微笑む。
「ジェイド先輩は私の好みを良く知っていますね」
「ええ。見ていれば分かりますよ」
「……ありがとうございます」
嬉しい筈の言葉が心の柔らかい部分をチクリと刺した。
甘いセリフを囁かれたり特別扱いされる願望が無いと言えば嘘になるけれど、こうやって私自身を見てくれるジェイド先輩が嬉しかった。
本物の先輩との恋は全然進展する気配は見えないけれど、それでも私は目の前のジェイド先輩が大好きだった。
ジェイド先輩の視線が私の制服のネクタイ辺りにとまった。
「ユメさん、ソレはどうされましたか?」
「あ、これは……えっと」
今朝、鏡で喉の赤い痕に気付いた。
手すりは元に戻っていたのに、首の皮膚の赤色は消えていなかった。キャンディを投げつけたお返しなのだろうか。
しっかりとネクタイを締めて絆創膏も貼ったが、ギリギリ襟で隠しきれずやっぱり目立ってしまった。
絆創膏の下のうっ血。皮膚を強く吸われた感触が蘇る。昨晩押し倒してきたジェイド先輩(ゴースト)と目の前にいるジェイド先輩が重なって、ぶわっと顔が茹だったように熱くなった。
「あー!! もしかしてゴーストに襲われちゃったのぉ? 小エビちゃんエッチ!!」
「うあああ違いますゥーー!!」
ガシャンとテーブルに身を乗り出して最高に楽しいネタを掴んだとキラキラ輝く瞳のフロイド先輩の声を掻き消すようにさらに大きな声を被せた。
ジェイド先輩を目の前にしてそれ以上は言わないでほしい。それなのに本人から追撃を受けてしまった。
「それは気になりますね。ユメさんはどの生徒に、どんな欲望があるのか、詳しく教えて頂きたいです」
こういう話には興味を示さないジェイド先輩までも今回に限ってはフロイド先輩に乗ってきた。心なしか、笑顔が引き攣っているようにも見える。もしかしてドン引きされた?
こんな会話とても続けられない。昨日のことをジェイド先輩に知られたら色んな意味で死ぬ。
「昨晩ちょっと傷付けちゃっただけです!」
「誰に、傷付けられたのですか?」
「あはっジェイドちょっと怒ってる~」
「フロイド、キノコ料理のおかわりですか?」
答えを聞くまで絶対に話を終わらせようとしないジェイド先輩。助けを求めるように別席で静かにキノコ料理を食べるアズール先輩に視線を送る。目が合うとアズール先輩の表情がスウッとビジネスモードに切り替わった。
「僕の助けが必要ですか? あなたは何を差し出しますか?」
オクタヴィネル寮の先輩方はゴーストよりも恐ろしいと私は心底思った。
*******
本日の仕事を終えたアズールはソファの背もたれに背中を預け、ふぅと息を吐いた。
そして数時間前にオンボロ寮に逃げるように帰って行ったユメの発した言葉をなぞるように呟いた。
「本当の世界に戻ってこれて良かったです、か。彼女は別の世界の住人であるにも関わらず、まるで此方の世界を自分の住む世界のように話しますね」
「この世界だって小エビちゃんにとっては異世界。小エビちゃんにとって安全な世界とは限らねえのに。このままコッチの世界に留まり続けたら、小エビちゃん自分が元居た世界を忘れちゃうかもねぇ。そうなったらジェイド嬉しい?」
ニヤニヤと兄弟に問いかけるフロイド。
「フロイドは意地悪なことを言いますね。……彼女が望むならいくらでも此方側に縫い付けて差し上げますよ」
ジェイドはジャケットのポケットからミント味のキャンディを取り出した。
自身は好んで食さない薄緑色の飴玉。
以前、偶然彼女がミント味が好きだと知り、その時またまた偶然にもフロイドから貰ったミントキャンディを持っていた。深い意味はなく、気まぐれでキャンディを譲ると彼女は満面の笑みで喜んだ。
素直に喜びを表現する彼女の姿に悪い気はしなかった。それから何度か渡し続けている間にミント味を持ち歩くようになっていた。
無防備で騙されやすい、魔法が存在しない世界からきたという彼女。
昨日の朝、彼女の氷のような指先に触れた瞬間、何かが起こると確信した。それと同時に彼女をゴーストから護りたいと思った。
面白いものを見たいが、危険に晒したくない。矛盾した思考を天秤にかけた結果、自身でも驚くほど早く後者が選ばれた。
「あんなに興味深い 人、逃がしたくありませんからね」
アズールは大きな溜息を洩らし、フロイドは面白いと笑った。
ジェイドは指先で包み紙を解いてキャンディーを口に放り込む。
口内にミント特有の冷たさと甘さが広がっていく。
キャンディは甘い味、と決めていたが苦みの強い味も悪くない、と最近考えを改めた。
ふと、魔法付きのキャンディを渡した時の彼女が思い浮かび、自然とに口元が綻んだ。
頭から被っていた毛布から抜け出し、のっそりとベッドから起き上がると背中から頭のてっぺんまでゾクゾクと寒気が走った。
昨夜はそこまで寒くなかったけれども、今朝は身体の内側から冷える。
「今朝はずいぶんと寒いですね」
バイト先であるモストロ・ラウンジで提供する本日の料理の下ごしらえを済ませた私とジェイド先輩は、厨房で軽く朝食を摂っていた。二人が朝番のときはいつも授業に出る前にこうして少しおしゃべりをするのが日課になっていた。
私は温かいスープが入ったカップを両手で包んで暖をとった。じんわりと両手から伝わる温かさが全身のこわばりを緩めてくれる。
向かいに座っているジェイド先輩は目の前のカボチャスープ(本日のメニュー)をスプーンで掬って口に運んでいる。
「風邪ですか?」
「いえ、熱もないし、元気なんですけど、なんか今日は変なカンジなんです。背中がゾワゾワするような……誰かに見られてるような」
私のハッキリしない言葉に先輩は曖昧に相づちを打って少し考え込む。そして何かを思いついたのか、納得したような顔を私に向ける。
「なるほど、確かに貴方はもしかすると《あり得る》かもしれませんね」
「……なにがです?」
「今日は何の日か知っていますか?」
質問に質問が返ってくるのは良くあること。いちいち気にしてはいられない。特にこの先輩は誘導が上手いので抵抗しないほうが話がうまいこと進むことが最近分かってきた。
「ハロウィンですよね。変装してお菓子配ったり貰ったりするお祭り? だったと思います」
「大枠は合っていますが、此方の世界のハロウィンはゴーストに気を付けなくてはなりません」
「ゴーストって、あのオンボロ寮にいるゴーストですか?」
「同じかどうかは分かりませんが、僕の言うゴーストはもう少し悪戯好きです」
食事する手を止めてしっかりと私と目を合わせるジェイド先輩。私も姿勢を正して彼の話に集中する。
「ハロウィン当日から翌日の時刻になる間、此方の世界とゴーストの世界の境界線が薄くなります。この間に向こうの世界のゴースト達は、此方の世界の住人を自分たちの世界に引き入れようとしてくるのです。
ああ、怖がらなくても大丈夫です。ゴーストに悪意はありません。彼等にとっては単なる悪戯ですから。
ただ、その悪戯の内容は相手の願望や欲望に語りかけてくるものなので、人によってはそのまま引き擦り込まれてしまうことがあります。
まあそうなってしまっても、それはそれで幸せかもしれませんね。望む世界で楽しく暮らせることは良いことかもしれません」
ニコニコといつもの調子でサラッと物騒なことを言うジェイド先輩。
私の知ってるハロウィンは単なる秋のお楽しみイベントだったが、此方のハロウィンは全然違っているようだった。
さすが魔法のある世界。子供の頃に読んだ御伽話のような不思議で恐ろしいものだった。
しかし、それと私の悪寒と関係があるのか。質問する前にジェイド先輩が回答をくれた。
「ゴーストが悪戯に選ぶのは魔法力が弱い者と」
私を見る先輩の目が細くなる。どこか楽しそうな含みのある口元から言葉が紡がれる。
「魔法が使えない者」
「……とても怖い一日になりそうです」
「そうですね。なので、」
ジェイド先輩はジャケットのポケットから小さな透明の包みを取り出した。
先輩の大きな手の平にちょこんと乗っていたのは透明シートに包まれたミントキャンディ。
手を出して、と言われてテーブルの上に片手をだすと、先輩は私の手に触れた。一瞬、私の手をとった先輩の指先がピクリと震えたような気がした。
どうしたのだろうか、と先輩を見やると先輩は私に感情が読めない微笑みを浮かべた。
私の手を引き寄せてキャンディを静かに手の平に乗せた。手袋をしていない先輩の手の温もりが私の手をキャンディごと包み込む。
そして先輩のもう片方の手はマジカルペンを取り出し、キャンディに向ける。
「ユメさん、お菓子を貰うときに言う呪文は知っていますか?」
ハロウィンで言う呪文。多分あの言葉のことだろう。
『トリック・オア・トリート』
躊躇いがちに発した私の言葉に反応したのか、キャンディが淡く輝き出した。
ユラユラとキャンディの内部から輝いたと思うと、ゆっくり光はキャンディの中心に吸い込まれるように失われて普通のミントキャンディに戻った。私は目の前で披露された小さな魔法にわあ、と感嘆の声が漏れた。
「ゴーストに狙われやすい子供達は自らがゴーストに扮して誘いの手から身を護ります。
大人達は子供の安全を願ってお菓子を配ります。普通のお菓子でも効果は少しはあるのですが……魔法の使える家は専ら呪文付きのより強力なお菓子が主流です」
重なっていたジェイド先輩の手は一呼吸置いてから離れていった。
「このキャンディがゴーストの誘いから貴方を護ってくれるでしょう」
「ありがとうございます……すっごい心強いです!」
受け取ったキャンディをまじまじと見つめる。特に何も変わったところはない普通のミントキャンディ。
これは、ジェイド先輩が私のために安全を願ってくれた特別なキャンディなんだと思うと嬉しさで頬が熱くなる。
ユメさん、と声をかけられてキャンディから先輩に視線を移す。心配したような、真剣な表情のジェイド先輩と目が合う。
「ゴーストの質問に肯定してはいけません」
少し声音が硬く、緊張した面持ちにドキリとする。
「自分がいる場所がどこなのかをしっかりと見極めてください。知らぬ間に引き込まれるかもしれません」
サーッと頭から冷水を被ったように恐怖が再び襲ってくきた。私のビビリ顔を見てクスリと先輩は口元を和らげた。
「怖がらせてしまいましたね。大丈夫ですよ。このキャンディは御守りです。困った時に役立つかもしれませんので今日は身に着けていてください」
「……困った時って、どんな状況ですか?」
御守りをくれた先輩は手を口元に寄せて優しく応えてくれた。
「お腹が空いて耐えられなくなった時は大いに役に立つことでしょう」
ジェイド先輩はいつもの茶化しモードに戻ってしまった。
*******
ジェイド先輩のハロウィンの話が気になって授業に全く身が入らなかった。私の脳内はゴーストのことでいっぱいで学問の入る隙間なんて一ミリもなかった。
オンボロ寮でゴーストは見慣れているけれど、種類が違うようだし、見極められるのだろうか。あっちの世界にイタズラに引き込まれるなんて怖すぎる。
魔法が使えない者はこの世界では圧倒的に弱者であることを痛感する。
仕方ないとはいえ、自分の無力さが悔やまれる。この世界に来たときに魔法もオプションで付いてくれば良かったのに、と脳内で文句を垂れていると、目の前の光景にハッとした。
受けていた授業は既に終わって生徒が居なくなっていた。
「しまった、次は移動教室だ!」
私は慌てて教室を飛び出し、実験室に走って向かった。石造りの階段を一つ飛ばしに駆け上がり廊下を走る。
長い廊下を夢中で走っていると少しの違和感が身体に纏わりついた。
先ほどから他の生徒も教師も見かけない。気にし過ぎだろうか。いや、今はそんなことを考えている場合ではないので必死に走る。それにしても今日は本当に冷える。
一瞬頬をチリリと冷気が走り抜けた。
「ユメ! 廊下を走ってはいけないよ」
背後から良く通る声が私の名を呼んだ。
「リドル先輩」
振り向くとリドル先輩が険しい表情で腕組みをして立っていた。
急いでるのにな、と内心焦る。振り切って逃げるよりも謝って早足にその場を立ち去る作戦でいくことにした。
「すみませんリドル先輩。急いでいて走ってしまいました」
ハーツラビュル寮長は規則に厳しい。私は素直に謝り、頭を下げた。
リドル先輩は私の反省する姿に組んでいた腕を解いて小さく息を吐いた。どうやら許されたらしい。首は落とされずに済んだ。
「規則は守らなければいけないよ」
「すみませんでした。歩いていたら次の授業に間に合わないので走ってしまいました」
「なるほど。それは困ったね」
「はい、なので急いでいますので私はこれで、」
「規則が気に入らないなら、新しく作り変えれば良い」
「失礼しま……は、え?」
会話がおかしいことに気付いて下げていた頭を上げる。
「キミが女王になればいい。自ら法律を制定し、学園の生徒、教師を兵士のように統治すれば全て思うままに振る舞える」
素晴らしい話だと言わんばかりの自信と威厳に満ちた表情でリドル先輩は続ける。
「悪くない提案だろう?」
グレーの大きな瞳に吸い込まれそうな圧力をこの赤い寮長から感じる。トランプの兵士になってしまったかのように自分の意識とは違うところで女王であるリドル寮長の言葉に「はい」と返したくなる衝動が込み上げてくる。
女王の問いかけに頭が混乱する。はい、と言わなければならない。
「……ぁ、は」
「オイ、何やってんだ」
突然発せられた第三者の声にビクリと身体が跳ねた。
淀んでいた意識が晴れてくる。もう一度リドル先輩に視線を戻すと息を呑んだ。
目前には広い廊下があるだけだった。
「こんなところで突っ立ってる場合じゃないだろ」
「そこに、リドル先輩が」
「え!? ……居ないぞ。寝ぼけてないで早く行くぞ」
デュースに腕を引っ張られて、私は首を傾げながら再び走り出した。
寒さはもう感じなかった。
*******
「ハロウィンは主にミドルスクールまでの子供のイベントですから。僕等の年齢になると変装してお菓子を貰うことは殆んどしません」
「でもハロウィン限定のメニューはたくさん開発しましたよね。たくさん売れてましたよね」
「誰だって特別なイベントは心躍りますからね。楽しさの提供もカフェの役割りです」
ハロウィン当日のモストロ・ラウンジの営業が無事に終了して、アズール先輩は売り上げを計算している。
私はアズール先輩と対面するようにソファに座って彼のレシート捌きをボンヤリとただ見つめていた。売り上げ計算は魔法で管理しないらしい。
「そういえば、営業中からジェイド先輩を見かけませんが……」
「ああ、ジェイドは今晩しか生えない特別な食用キノコを採りに山に行っています」
「オレ山帰りのジェイド嫌なんだよねぇ。超土臭くなるしその日はキノコの話しかしなくなるし無理やり食べさせようとするしさー」
アズールの座っているソファの後ろからヌッとフロイド先輩が現れる。背もたれに腕を置いて気怠そうしている。
「あのリュックのデカさはヤバイって。絶対一週間はキノコ料理出してくる」
ゲロゲロと顔を崩すフロイド先輩。ジェイド先輩と双子だが、こうやって間近で見ていると顔の雰囲気はだいぶ違う。
大きなリュックにキノコを詰め込んで満面の笑みを携え、土だらけで帰宅するジェイド先輩を思い浮かべる。可愛らしいなあと緩みきった顔をしっかりとアズール先輩に目撃されてしまった。恥ずかしさを誤魔化すように話を変える。
「私みたいに魔法が使えない人にとって、今日は恐ろしい日ですよね」
売り上げチェックしている目が一瞬こちらを見るが、また元に戻る。
「そうですね。ですが、ゴースト対策もとられていますから大丈夫ですよ」
「私もこの世界に来た時に魔法が使える身になっていればなあ……」
はあああ、結構深いため息が漏れてしまった。ゴーストの件と朝から纏わりつく違和感に気持ちが滅入っていた。
「……ユメさんは魔法が使えるようになりたいですか?」
「そのほうが便利だし、こうやって危険に晒されることもないじゃないですか」
弱音ばかりの私に呆れるかな、と思ったけれど先輩の言葉は予想外だった。
「その願い、叶えられなくもないですよ」
アズール先輩の傍らに黄金に輝く紙が出現する。これは彼特有のユニーク魔法。
「ちょ、ちょっと先輩」
浮遊する羽ペンがアズール先輩に指先に収まる。
「無から有を生み出すのはかなり難易度が高い」
ギョッとする私を無視してしなやかにその羽先を私に近付けてくる。
「対価は……そうですね、その声をいただきましょうか」
焦る私の喉元を黄金の羽がサラリと撫でる。羽は滑らかに見えるが、短剣の刃のように鋭かった。
喉に触れるものを意識しないようにアズール先輩を見ると眼鏡越しに挑戦的な瞳とぶつかった。
代償を払う覚悟があるか見定めているような視線に呼吸が浅くなり苦しくなってくる。
「アズールは優しいから小エビちゃんのどんな難しいオネガイゴトにも真摯に向き合ってくれるよお」
アズールの背後に控えるフロイド先輩の垂れ目が昏く光る。
獲物を狙うような視線に身が縮こまる。ねっとりとした視線に身体を締め付けられたように動きがとれないが、なんとか声を絞り出した。
「……魔法よりも声を大切にしたいです」
瞬間、私の喉を触る羽は姿を消した。
「えー、小エビちゃん断わっちゃうのお?」
「そうですか。いつでも相談に乗りますよ」
「いえ、大丈夫です。無い物ねだりはやめます。お先にお疲れ様でした」
アズール先輩は残念そうな素振りをしているけれど、きっと何とも思っていないことが後ろのフロイド先輩の悪い笑みで察せられる。
私は荷物をバッグに押し込んでモストロ・ラウンジを後にした。
*******
学園からの帰り道は昼間よりも冷えた空気が肌を刺激した。
冷たい風に思わず身体が丸くなる。何となく空を見上げると満月が薄い雲に覆われてモヤがかかったように白く輝いている。ハロウィンという特別な日のせいか、少し不気味にすら感じた。
風が近くの木を揺らして黒色の頭上を舞った。聴き慣れた音も今は恐怖を煽ってくる。
心細さに制服のポケットから小さなキャンディを取り出して目の前に掲げてみた。
透明なシートに包まれた薄緑のミントキャンディ。私の安全を願ってジェイド先輩が魔法を施してくれた御守り。
眺めているだけで少し怖さが薄れて心が温かく満たされていった。キャンディをくれた先輩は私を心配してくれていたのだろうか。
「ジェイド先輩に会いたいな」
ぽつりと呟いて丁寧にキャンディをポケットに戻す。今晩はグリムを抱っこして寝たい気分だった。
寒さに腕を擦りながら歩いているとオンボロ寮の玄関前に立っている人物が居た。
「ジェイド先輩!」
今一番会いたいと思っていた人が目の前に現れて驚きと嬉しさに走り寄ると先輩も私に気付いて「こんばんは」と挨拶を交わした。
「夜食を作ったので良かったら一緒にどうですか?」
ジェイド先輩は手に持ったバスケットを私に見せてニコリと微笑んだ。
私に断わる理由なんてなかった。何も疑うことなく彼をオンボロ寮に招き入れた。
「グリムー、帰ったよ。いないのー?」
寮内は薄暗く、いつもは談話室の暖炉の近くでのんびりしているグリムが居なかった。
「夜なのにどこ行っちゃったんだろう……」
「お腹が空けば戻ってきますよ」
キョロキョロとグリムを探している私をよそに、ジェイド先輩は寮の談話室に入ると照明を点けてテーブルに持参した食事をテキパキとセットし始めた。
「それもそうですね」
私もグリムはそのうち戻ってくるだろうとそれ以上気にかけることなくお茶用のお湯の準備にキッチンへ向かうことにした。
今夜はかなり冷えるせいか、どの部屋もヒンヤリとしていた。寮のゴースト達の気配もしない。ハロウィン当日は彼等も忙しいのだろうか。
「ん? ってことは、今夜はジェイド先輩と二人っきり!?」
バイトでは頻繁に二人だけで作業していたけれど夜に会うのは初めてだった。
思いがけない事態に嬉しさとニヤニヤと緊張で本日二回目の緩み顔になった。バクバクする心臓を落ち着かせつつ、途中にある鏡で普段よりも念入りに服装の乱れを直した。
「さあどうぞ、召し上がってください」
テーブルにはジェイド先輩が作ってくれたお夜食が並ぶ。
ピーナツバターとイチゴジャムの厚い層で出来たサンドウィッチ、たっぷりのチョコレートクリームが乗せられたマフィン、他にもずらりと先輩の力作が並んだ。
さらに淹れた紅茶の近くにはハチミツの小瓶が置かれていた。
「随分とたくさん作ったんですね」
「今日はラウンジが忙しかったと聞いたので多めに作ってきました」
談話室のソファに隣り合って座ったジェイド先輩の眼差しがやけに優しい。もしかしたら山での成果が良くて上機嫌なのかもしれない。
彼がこうして隣に座ってることも夢みたいだ。チョロ過ぎる自分が悔しい。でも好きだから仕方がない。
いつもよりも穏やかな表情を今、自分が独り占めしている状況に胸がいっぱいでそれ以上は何も言えなかった。
「いただきます」
近くにあったフルーツと生クリームのサンドウィッチに噛り付く。口の中いっぱいに甘さが広がる。
イチゴが入っている筈だけれど、クリームの厚みに酸味は消えている。柔らかくて重いクリームを咀嚼する。嚥下する度に食道から胸にかけて焼け爛れるような熱を感じた。
「美味しいですか?」
隣から視線を合わせるように頭を傾けられ、静かに声をかけられた。
「結構、甘い、ですね」
「おや、お口に合いませんでしたか?」
「いえいえ! そういう訳じゃないですけど……」
「では、美味しいですか?」
見るからにションボリと悲しい顔をするので慌てて否定する私に再度尋ねてくるジェイド先輩。
身を乗り出した先輩と距離が近付く。穏やかなのに言葉にどことなく圧を感じる。
先輩の接近に気恥ずかしさと少しの怖さに長身の身体を遠慮がちに手で押し返すと、すんなりと離れていった。
いつもよりもスキンシップをとってくるジェイド先輩に戸惑いつつも、気付かれないように平静を保っている風で話題を変える。
「先輩、今日は山にキノコを採りに行ったんですよね?」
「それが何か?」
「キノコは採れましたか? 楽しかったですか?」
「今は貴方との時間を大事にしたいので、そんな話は後にしましょう」
私の話題変更には乗ってこず、遮るように先輩が喋ったと思ったら視界が反転した。あっという間に私の後頭部はソファに沈んでいた。
「えっ、えっ?」
状況に追い付いていない私の身体の上にジェイド先輩の影が落ちた。
身体の大きい先輩に覆い被さられた私は完全に逃げ場を失ってしまった。
視界いっぱいのジェイド先輩に押した倒されたと気付き、悲鳴を上げる前に先輩の指が動いた。
「ああ、こんなに怖がってしまって―――可愛らしい」
眉を下げて小動物を可愛がる手つきで私の頬を撫でる。そしてグッと上半身を倒し、私の頬に軽く唇を寄せた。
「!?」
チュッと啄ばむような音が近くから聴こえて思わず目を硬く閉じた。
今、キスされた? ジェイド先輩に??
すると今度は閉じた瞼に唇の感触がした。今度はジェイド先輩の唇は体温を感じるほどゆっくり、たっぷりと時間をかけて、両瞼にキスを落としていく。
小さく服の擦れる音がした後、私の耳元を甘いテノールがくすぐった。
「その可愛らしい瞳を僕によく見せてください」
耳たぶに触れた小さなリップ音にひくりと身体が震えた。ゆっくり目を開くとそこには先ほどよりも近い位置でオッドアイと視線が交わった。
今まで見てきたジェイド先輩の表情の中のどれにも一致しない、うっとり蕩ける眼差しで見下ろされていた。
今までこんなに密着したこともないし、されたこともない。先輩の薄い唇にキスが出来てしまいそうな距離に頭も身体も沸騰してどうにかなってしまいそうだった。
先輩は身体中から熱を放出している私の頬を今も撫で続けている。先輩の態度に戸惑うも、私の中で何かを期待する気持ちが芽生えていた。
もしかするとジェイド先輩も私のことを――――?
とても信じられるものではないけれど、かすかな期待は思考を、感情を、ドロドロに溶かしていく。
このまま甘い空間に身体を預けてしまいたい。
「大丈夫ですよ。僕に身を任せてください。さあ、力を抜いて」
私の脚の間に先輩の脚が入り込んできた。自分の下半身に目をやると膝丈のスカートが捲れ上がり、私の太腿が先輩の目前に晒された。
その光景が酷くいやらしくて、ふわふわの夢心地から一気に現実に引き戻された。今すぐにスカートを直したい。しかしそれも先輩の身体で阻まれた。
「先輩やめてください、こんなのおかしいですよ、……ッ!?」
私の首元を先輩の長い指が這い、ターコイズブルーの頭が埋まると鋭い痛みが喉に走った。
本能的にこれ以上はダメだと察して再び彼の身体を押し退けようと手をバタつかせた。が、今度はその両手をソファに抑えつけられてしまった。
「ッ、ジェイド先輩……!」
私は必死で考えた。
この状況は一体どうなってるんだ。
甘い食事、キノコへの興味の無さ。
おかしい、こんな先輩は絶対におかしい。
それに私を好いて迫ってくるこの先輩。
まるで、まるで私の………
『悪戯は相手の願望や欲望に語りかけてくる』
脳が理解した瞬間、身体に纏わりついていた熱は急降下し、力いっぱい先輩の胸を押し退け彼の身体の下から這い出した。そして距離をとって彼を睨み付ける。
「あなたはジェイド先輩じゃない!」
どこからどうみてもジェイド先輩そのものだったが、間違いなくこの人は偽物だ。
先輩の偽物と思われる男はクスクスと笑う。ゆらりとソファから立ち上がると反論もせず、ただ私をじっとジェイド先輩と同じオッドアイで愉しそうに見つめてきた。
これはゴーストだ、と直感で判断した私は急いで背後のバルコニーに走った。
ここはオンボロ寮の二階。バルコニーから飛び降りたところで大した怪我はしない筈。
勢いよくバルコニーに続く大きな窓を開き、バルコニーに備え付けらえた手すりに足をかけた瞬間に身体にブレーキがかかった。
手すりの下はいつもの草だらけの地面ではなかった。
地面がなかった。代わりにあるのは吸い込まれそうな暗闇。
ここは二階なのに真下に広がる世界は学園の最上階から見える景色のように底が見えない。ゴオゴオと唸り声が底から響いている。あたりを見まわしても何もない。見上げれば雲一つなく満月が輝いている。
「なにこれ。どうして……」
一体どうなっているのか?
「そこから落ちたら危ないですよ」
後ろを振り返れば、先輩の偽物もバルコニーに出てきた。私の驚き具合を気に入ったのか機嫌が良さそうにしている。
ジェイド先輩の姿をしたゴーストはゆっくりと距離を縮めてくる。
「近寄らないで!!」
近付かれる恐怖に耐えられず私は手すりを跨いでしまった。足を置くスペースはほぼなく爪先立ちになってしまった。
もうこれ以上は逃げられない。暗い底から吹き上がってくる強風に何度もあおられて身体が揺れる。落ちないようにギュッと手すりを掴む手が小刻みに震えた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。足元が崩れる前に戻ってください」
「……ッ」
親が子供を宥めるような優しい声音から顔を背ける。これ以上ゴーストの演じるジェイド先輩を見たくなかった。
「本当はこうやって愛されたいんでしょう? 貴方の欲しいものは全て手に入りますよ」
「……」
「貴方の世界の彼とは違って僕は貴方しか見ない。貴方しか愛さない。僕の心も身体も全て貴方のものです」
大好きなジェイド先輩の声で残酷な現実を突きつけてくる。
本物のジェイド先輩は私に興味はないだろう。そんなことは分かっている。
現実は受け止めているけれど、心のどこかで相思相愛になりたい、と心の奥では願っていた。
そんな心の脆い部分がゴーストに付け込む隙を与えてしまった。
悲しさと悔しさで我慢していた涙が深い瞬きで零れ落ちた。
「僕は貴方の意思でこの手をとって欲しいのです」
「……やめて」
「さあ、【こちら】にいらっしゃい」
伸びる手から逃れるように大きく身をよじった瞬間、足場が崩れて身体が傾いた。
「あッ!?」
手すりから指が離れて一瞬の浮遊感。
―――落ちる!
脳が落下を認識する前に強い力で左手首を掴まれた。
手すりから身を乗り出して片手で私の手首をしっかりと掴まえてこちらを見下ろしているジェイド先輩の偽物。
足は完全に宙を蹴っている。左手首一本で全体重を支え、腕が千切れそうだ。
月光を背にしたジェイド先輩の偽物のシルエットは怖い程に美しく輝いて見えた。
目を離せない、抗い難い魅力に取り込まれそうになるのを唇を噛んでどうにか耐える。掴まれた腕がギリギリと軋む。落下の恐怖にこの不愉快なゴーストに縋ってしまいそうになる。
「この手を離したら貴方はどうなってしまうのでしょうか?」
大好きな人に似せた瞳が狂気の色を孕んで私に笑いかけてくる。歪んだ口元から鋭い歯が覗いていた。
私の身体が昏い底に沈むかは彼次第。
駆け引きは圧倒的に不利。彼の言葉を受け入れるか落ちるかの二択しかない。
私は掴まれている逆の手で制服のポケットをまさぐった。ソレをしっかり握ってそして決意した。
「さっさとその手を離しなさい!!!」
ギッと睨みつけてジェイド先輩から貰った御守りのキャンディを私の手首を掴む不愉快男に向かって全力で投げつけた。
「痛ッテェ!!?」
キャンディが男に当たる鈍い音と共に聞き覚えのない悲鳴があがった。
その衝撃でゴーストは私の手を離した。
途端に私の身体は重力に従って一気に落下をはじめる。
「良いザマよ。バカにしないでよね」
上方で痛がっているであろうゴーストに向かって思いっきり舌を出した。
空間を斬るように垂直落下していくなかで風圧とは違う声が聴こえた。
『ザンネン惜シカッタナア。今年ハ面白カッタ。マタ遊ボウネ監督生サン』
「二度と私の前に現れるな!!!!!」
ジェイド先輩に扮していたゴーストの本来の声だろう。
ガザガザと滲む声音に向かって出来る限りの拒絶を叫んだ。
ゴーストを拒んでから段々と恐怖よりも怒りが沸いて、見えないゴーストに向かって怒りをぶつけ出した。
「そもそも外見はそっくりだけど、中身は全然違うじゃない! 顔だけ似せて私を貶めようなんてバカにしすぎでしょ!! っていうか本物のジェイド先輩のお顔はもっと良いし、キノコを蔑ろにするなんてあり得ないし、それから、それから……!!」
収まらない怒りをギャアギャアとぶちまけながら、私はどこまでも深い底へ落ちていった。
*******
「小エビちゃん、ゴーストに遊ばれちゃったねえ」
翌日、モストロ・ラウンジの営業後。
昨日の出来事をジェイド先輩に(偽ジェイド先輩にキスされたことは伏せて)話した。
あの後、私はオンボロ寮の庭で目が覚めた。壊れた筈の手すりも元通りで異常はなかった。投げつけたミントキャンディは無くなっていた。
「オンボロ寮の部屋から別の高所へ移動する魔法……なかなかゴーストも張り切りましたね」
「感心するところじゃないですよ。メチャクチャ怖かったんですから!」
アズール先輩は私が遭遇したゴーストの技術が気になるようだった。
「僕も生徒達に扮するゴーストを見てみたかったです」
「ジェイド先輩まで……アズール先輩に扮したゴーストもそっくりでしたよ」
「いや、僕は本物……」
ジェイド先輩も私の恐怖体験を羨ましがっていた。他人事だと思ってこの先輩達め。
「本当にそっくりで騙されるところでした。でも本当にキャンディって効き目があるんですね。ジェイド先輩に貰ったキャンディをゴーストに投げつけたらすんなり元の世界に帰してくれました」
「小エビちゃんキャンディ投げつけたの!?」
私の言葉にフロイド先輩は再びゲラゲラ笑いだした。後ろの方でアズール先輩も俯いて肩を震わせている。
何かおかしなことを言ったのだろうか?
説明を求めるようにジェイド先輩を見ると、彼も困ったように笑っていた。
「キャンディは普通に渡すだけでいいんですよ。お菓子を渡せばゴーストは満足して元の世界に帰してくれます」
「え、」
「トリック・オア・トリート《お菓子をあげるから悪戯はしないで》ってユメさん自身が仰ってたじゃないですか」
「いやいやいや、あの言葉はそういう意味じゃないですよね!?」
「仮に引き込まれてもハロウィンが終わればゴーストの世界との繋がりが弱まり、数日で戻ってこれますよ」
アズール先輩が震える声で補足してくれた。
「だってジェイド先輩、昨日めちゃくちゃ深刻そうに言うから……」
「ハロウィンで必死になってるヤツ初めてみたー! 小エビちゃんやっぱおもしれー!」
「そんなに笑ったら可哀想ですよフロイド。ユメさんは知らなかったんですから。フフッ」
兄弟を窘めるジェイド先輩の瞳は思いやりに満ちているけれど、その手で隠している口元は絶対にギザ歯が意地悪な弧を描いているのだろう。
何も悪いことはしていません、涼しい態度にジェイド先輩の黒い一束の髪を引っ張ってやりたい衝動に駆られた。が、実行した後が怖いので思いとどまった。
「と、とにかく! 本当の世界に戻ってこれて良かったです! ジェイド先輩、御守りありがとうございました」
お礼を言うとジェイド先輩は「大したことはしていませんよ」と悪い顔を引っ込めてゆっくり瞬きをして笑い返してくれた。
「ユメさんが無事にハロウィンを乗り越えたお祝いに今日の賄いは腕を振るいました」
気持ち良い程にキノコがどっさりと使われた料理のオンパレード。きっと昨夜摂ってきたものだろう。フロイド先輩がゲェと呻いている。
そしてジェイド先輩によって各々のドリンクが横に添えられた。私には砂糖が一切入っていない温かい紅茶。
甘い物が得意ではない私にジェイド先輩はスッキリとした後味の紅茶を淹れてくれた。
「? ニコニコとして嬉しそうですね、監督生さん」
無意識に口角が上がっていた私に気付いてジェイド先輩は同じように微笑む。
「ジェイド先輩は私の好みを良く知っていますね」
「ええ。見ていれば分かりますよ」
「……ありがとうございます」
嬉しい筈の言葉が心の柔らかい部分をチクリと刺した。
甘いセリフを囁かれたり特別扱いされる願望が無いと言えば嘘になるけれど、こうやって私自身を見てくれるジェイド先輩が嬉しかった。
本物の先輩との恋は全然進展する気配は見えないけれど、それでも私は目の前のジェイド先輩が大好きだった。
ジェイド先輩の視線が私の制服のネクタイ辺りにとまった。
「ユメさん、ソレはどうされましたか?」
「あ、これは……えっと」
今朝、鏡で喉の赤い痕に気付いた。
手すりは元に戻っていたのに、首の皮膚の赤色は消えていなかった。キャンディを投げつけたお返しなのだろうか。
しっかりとネクタイを締めて絆創膏も貼ったが、ギリギリ襟で隠しきれずやっぱり目立ってしまった。
絆創膏の下のうっ血。皮膚を強く吸われた感触が蘇る。昨晩押し倒してきたジェイド先輩(ゴースト)と目の前にいるジェイド先輩が重なって、ぶわっと顔が茹だったように熱くなった。
「あー!! もしかしてゴーストに襲われちゃったのぉ? 小エビちゃんエッチ!!」
「うあああ違いますゥーー!!」
ガシャンとテーブルに身を乗り出して最高に楽しいネタを掴んだとキラキラ輝く瞳のフロイド先輩の声を掻き消すようにさらに大きな声を被せた。
ジェイド先輩を目の前にしてそれ以上は言わないでほしい。それなのに本人から追撃を受けてしまった。
「それは気になりますね。ユメさんはどの生徒に、どんな欲望があるのか、詳しく教えて頂きたいです」
こういう話には興味を示さないジェイド先輩までも今回に限ってはフロイド先輩に乗ってきた。心なしか、笑顔が引き攣っているようにも見える。もしかしてドン引きされた?
こんな会話とても続けられない。昨日のことをジェイド先輩に知られたら色んな意味で死ぬ。
「昨晩ちょっと傷付けちゃっただけです!」
「誰に、傷付けられたのですか?」
「あはっジェイドちょっと怒ってる~」
「フロイド、キノコ料理のおかわりですか?」
答えを聞くまで絶対に話を終わらせようとしないジェイド先輩。助けを求めるように別席で静かにキノコ料理を食べるアズール先輩に視線を送る。目が合うとアズール先輩の表情がスウッとビジネスモードに切り替わった。
「僕の助けが必要ですか? あなたは何を差し出しますか?」
オクタヴィネル寮の先輩方はゴーストよりも恐ろしいと私は心底思った。
*******
本日の仕事を終えたアズールはソファの背もたれに背中を預け、ふぅと息を吐いた。
そして数時間前にオンボロ寮に逃げるように帰って行ったユメの発した言葉をなぞるように呟いた。
「本当の世界に戻ってこれて良かったです、か。彼女は別の世界の住人であるにも関わらず、まるで此方の世界を自分の住む世界のように話しますね」
「この世界だって小エビちゃんにとっては異世界。小エビちゃんにとって安全な世界とは限らねえのに。このままコッチの世界に留まり続けたら、小エビちゃん自分が元居た世界を忘れちゃうかもねぇ。そうなったらジェイド嬉しい?」
ニヤニヤと兄弟に問いかけるフロイド。
「フロイドは意地悪なことを言いますね。……彼女が望むならいくらでも此方側に縫い付けて差し上げますよ」
ジェイドはジャケットのポケットからミント味のキャンディを取り出した。
自身は好んで食さない薄緑色の飴玉。
以前、偶然彼女がミント味が好きだと知り、その時またまた偶然にもフロイドから貰ったミントキャンディを持っていた。深い意味はなく、気まぐれでキャンディを譲ると彼女は満面の笑みで喜んだ。
素直に喜びを表現する彼女の姿に悪い気はしなかった。それから何度か渡し続けている間にミント味を持ち歩くようになっていた。
無防備で騙されやすい、魔法が存在しない世界からきたという彼女。
昨日の朝、彼女の氷のような指先に触れた瞬間、何かが起こると確信した。それと同時に彼女をゴーストから護りたいと思った。
面白いものを見たいが、危険に晒したくない。矛盾した思考を天秤にかけた結果、自身でも驚くほど早く後者が選ばれた。
「あんなに
アズールは大きな溜息を洩らし、フロイドは面白いと笑った。
ジェイドは指先で包み紙を解いてキャンディーを口に放り込む。
口内にミント特有の冷たさと甘さが広がっていく。
キャンディは甘い味、と決めていたが苦みの強い味も悪くない、と最近考えを改めた。
ふと、魔法付きのキャンディを渡した時の彼女が思い浮かび、自然とに口元が綻んだ。
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