慕う涙
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グルグ族の襲撃から、ようやく島全体が立ち直ってきたところだった。
名無しはしばらくジルの食事係を離れ、城内の清掃に駆り出されていた。
あまりジルと関わっていない間に問題も起こっていたらしく、結婚パーティでアルガナン伯爵が雇ったという傭兵が今は牢獄にいるというのも、事件が二転三転した結果らしい。
いちメイドの名無しはそんなことを気にする暇もなく、清掃に大忙しだった。
ジルとお昼を共に過ごせないのは寂しくもあったが、目の前でみっともなく大泣きしたのも記憶に新しいため、距離をおけたのはありがたい。
今でも思い出すたび、顔が熱くなるのだ。
最近の悩みといえばジルのこと以外に、物の値段が高騰しているということか。
趣味の料理も、おちおちやっていられない。
床をモップで磨いていると、遠くから足音が聞こえた。
同期の子が交代に来たのかと思ったが、もうすぐ終わりそうだったためそのまま掃除を続ける。
「もう少しで終わるから、待っててくれる?」
「ならそうしよう」
聞こえた声は同期の子とは違う。それどころか、女ではない。
目に入った靴を見ると、メイドのそれではなかった。
不信に思い顔を上げると、立っていたのは主だった。
サッと血の気が引くのを感じる。
「申し訳ありません、ジル様……」
「ふん、間抜けな女だな」
すみません、とまた頭を下げる。
「……もういい。お前の間抜けさはこの間でよく分かったからな」
「この間」というのが、目の前で大泣きしたことを指していると分かり、熱が顔に集まる。
そっと顔を上げると、ジルは少し笑っていた。なんだか恥ずかしくなり、すぐさま床に視線を戻した。
「いつの間にか食事係がかわっていたんだな」
「すみません……何か至らない点がありましたらメイド長にお伝えしますが」
確か新しく当たった人は、自分より少しあとに入ってきた子だった。
といっても、ほぼ同期のようなものなので、よく話したりする。
ジルの食事係になってしまったと愚痴をこぼしていた記憶がある。
もしかしたら、何かやらかしたのだろうか。
「引き継ぎもできないのか、ここのメイドは」
「や、やはり何か……」
「卵焼きくらい作って持ってこないか」
名無しは目が点になった。卵焼きというのは、あの自分が作っていた卵焼きのことを言っているのだろうか。
少し考えていると、ジルは苛立ったように吐き捨てた。
「鈍いやつだな! お前の卵焼きのことを言っているのだ!」
「え、はい!」
怒鳴りつけられ、瞬時に背筋が伸びる。
が、言われたことを思い出してすぐ気が緩む。いや、気というより、頬が緩んだ。
にや、と少し笑ってしまい、ジルはそれを怪訝そうな顔で見る。
「気持ちの悪いやつだな」
「ふふふ、次から気をつけます」
卵焼きも、と付け足すと、ジルはいつだかのように顔を背けたまま何も言わなくなった。
「今日はそのことを言いに?」
「……ああ、いや」
ジルは少し言いづらそうにしている。ばつが悪いのか、はっきりと物申さない。
名無しが首を傾げていると、ジルは片手をポケットに突っ込んで何かを掴む仕草を見せた。
「お前、泣き虫だろう」
「ま、まだおっしゃいますか……恥ずかしい……」
「それで、とっさに拭くものがないと困るだろう」
「はあ……」
何が言いたいのだろう。いまいち要領を得ていない。
名無しが頭にはてなを浮かべているのを見て、ジルは半ば自棄になりポケットの中のものを渡した。
目の前にいきなり出されたものが一瞬何かわからなかったが、反射的にそれを受け取った名無しは、手触りを確認するとぎょっとした。
「お前にやる」
「これ……」
絹でできているハンカチだった。最近は物の価値も高騰し、絹の値段は上がり続けているというのに……。
このハンカチを、自分にくれると言った。
主が自分にプレゼントしてくれたのだ。
しかし、名無しにとってジルからのプレゼントは、「主から」という意味以上の物を持っていた。
いけない、と反射的に思う。嬉しくて仕方がないのだ。こんなにいいものをもらえるなんて、幸せ者だとも思う。
けれど。
「ジル様……これ、受け取れません」
ジルが息を飲むのを感じた。
「こんなに高価なもの、いちメイドの私が頂くわけにはいきません。お気持ちだけ……」
名無しはそっと、それでも押し付けるように、ジルにハンカチを返した。
その手ごと、ジルはハンカチを掴む。
びくり、と手が震えたのは、ジルの手も震えていたからだ。
温度が、ひんやりとしている。
生きた心地がしない。
身動きが、取れない。
「ジル……さま」
「……」
ジルはするりと、名無しの手から器用にハンカチを取った。
名無しの奪われた体温が、あっという間に戻ってくる。
冷たい手が離れた。
握られていたのは一瞬の出来事だった。それでも、名無しには永遠に感じられた。
ハンカチの抜ける感覚に気付くと、弾かれたように顔を上げた。
ジルはもう背を向けて歩いていた。
「ジル様! お待ちください!」
立ち止まり、ジルは名無しの方を振り向く。
名無しはジルが、今にも泣き出すのではないかと思った。
しかし、次にはもう、貼り付けたような微笑みに代わっていた。
「……お前も、私と距離を置くんだな」
「ジル様!」
名無しは遠ざかるジルの背を追いかけたが、足元にあったバケツに引っかかり転んでしまった。
中の水がこぼれ、足から、膝から濡らしていく。
必死に叫んだが、ジルが部屋から姿を消したころには、もうその場にうずくまり嗚咽を漏らしていた。
「違うんです……ジル様……」
何が違うと言うのだろう。ジルにあんな微笑みをさせてしまったのは紛れもない自分だと言うのに。
本当は、弁解の言葉などなかった。自分はジルからの好意を無駄にしたのだ。
濡れた膝も、破けたタイツも、どうだってよかった。
幸せを踏みにじったことが、何よりも痛かった。
ジルが投獄されたと聞いたのは、それから1週間後のことだった。
名無しはしばらくジルの食事係を離れ、城内の清掃に駆り出されていた。
あまりジルと関わっていない間に問題も起こっていたらしく、結婚パーティでアルガナン伯爵が雇ったという傭兵が今は牢獄にいるというのも、事件が二転三転した結果らしい。
いちメイドの名無しはそんなことを気にする暇もなく、清掃に大忙しだった。
ジルとお昼を共に過ごせないのは寂しくもあったが、目の前でみっともなく大泣きしたのも記憶に新しいため、距離をおけたのはありがたい。
今でも思い出すたび、顔が熱くなるのだ。
最近の悩みといえばジルのこと以外に、物の値段が高騰しているということか。
趣味の料理も、おちおちやっていられない。
床をモップで磨いていると、遠くから足音が聞こえた。
同期の子が交代に来たのかと思ったが、もうすぐ終わりそうだったためそのまま掃除を続ける。
「もう少しで終わるから、待っててくれる?」
「ならそうしよう」
聞こえた声は同期の子とは違う。それどころか、女ではない。
目に入った靴を見ると、メイドのそれではなかった。
不信に思い顔を上げると、立っていたのは主だった。
サッと血の気が引くのを感じる。
「申し訳ありません、ジル様……」
「ふん、間抜けな女だな」
すみません、とまた頭を下げる。
「……もういい。お前の間抜けさはこの間でよく分かったからな」
「この間」というのが、目の前で大泣きしたことを指していると分かり、熱が顔に集まる。
そっと顔を上げると、ジルは少し笑っていた。なんだか恥ずかしくなり、すぐさま床に視線を戻した。
「いつの間にか食事係がかわっていたんだな」
「すみません……何か至らない点がありましたらメイド長にお伝えしますが」
確か新しく当たった人は、自分より少しあとに入ってきた子だった。
といっても、ほぼ同期のようなものなので、よく話したりする。
ジルの食事係になってしまったと愚痴をこぼしていた記憶がある。
もしかしたら、何かやらかしたのだろうか。
「引き継ぎもできないのか、ここのメイドは」
「や、やはり何か……」
「卵焼きくらい作って持ってこないか」
名無しは目が点になった。卵焼きというのは、あの自分が作っていた卵焼きのことを言っているのだろうか。
少し考えていると、ジルは苛立ったように吐き捨てた。
「鈍いやつだな! お前の卵焼きのことを言っているのだ!」
「え、はい!」
怒鳴りつけられ、瞬時に背筋が伸びる。
が、言われたことを思い出してすぐ気が緩む。いや、気というより、頬が緩んだ。
にや、と少し笑ってしまい、ジルはそれを怪訝そうな顔で見る。
「気持ちの悪いやつだな」
「ふふふ、次から気をつけます」
卵焼きも、と付け足すと、ジルはいつだかのように顔を背けたまま何も言わなくなった。
「今日はそのことを言いに?」
「……ああ、いや」
ジルは少し言いづらそうにしている。ばつが悪いのか、はっきりと物申さない。
名無しが首を傾げていると、ジルは片手をポケットに突っ込んで何かを掴む仕草を見せた。
「お前、泣き虫だろう」
「ま、まだおっしゃいますか……恥ずかしい……」
「それで、とっさに拭くものがないと困るだろう」
「はあ……」
何が言いたいのだろう。いまいち要領を得ていない。
名無しが頭にはてなを浮かべているのを見て、ジルは半ば自棄になりポケットの中のものを渡した。
目の前にいきなり出されたものが一瞬何かわからなかったが、反射的にそれを受け取った名無しは、手触りを確認するとぎょっとした。
「お前にやる」
「これ……」
絹でできているハンカチだった。最近は物の価値も高騰し、絹の値段は上がり続けているというのに……。
このハンカチを、自分にくれると言った。
主が自分にプレゼントしてくれたのだ。
しかし、名無しにとってジルからのプレゼントは、「主から」という意味以上の物を持っていた。
いけない、と反射的に思う。嬉しくて仕方がないのだ。こんなにいいものをもらえるなんて、幸せ者だとも思う。
けれど。
「ジル様……これ、受け取れません」
ジルが息を飲むのを感じた。
「こんなに高価なもの、いちメイドの私が頂くわけにはいきません。お気持ちだけ……」
名無しはそっと、それでも押し付けるように、ジルにハンカチを返した。
その手ごと、ジルはハンカチを掴む。
びくり、と手が震えたのは、ジルの手も震えていたからだ。
温度が、ひんやりとしている。
生きた心地がしない。
身動きが、取れない。
「ジル……さま」
「……」
ジルはするりと、名無しの手から器用にハンカチを取った。
名無しの奪われた体温が、あっという間に戻ってくる。
冷たい手が離れた。
握られていたのは一瞬の出来事だった。それでも、名無しには永遠に感じられた。
ハンカチの抜ける感覚に気付くと、弾かれたように顔を上げた。
ジルはもう背を向けて歩いていた。
「ジル様! お待ちください!」
立ち止まり、ジルは名無しの方を振り向く。
名無しはジルが、今にも泣き出すのではないかと思った。
しかし、次にはもう、貼り付けたような微笑みに代わっていた。
「……お前も、私と距離を置くんだな」
「ジル様!」
名無しは遠ざかるジルの背を追いかけたが、足元にあったバケツに引っかかり転んでしまった。
中の水がこぼれ、足から、膝から濡らしていく。
必死に叫んだが、ジルが部屋から姿を消したころには、もうその場にうずくまり嗚咽を漏らしていた。
「違うんです……ジル様……」
何が違うと言うのだろう。ジルにあんな微笑みをさせてしまったのは紛れもない自分だと言うのに。
本当は、弁解の言葉などなかった。自分はジルからの好意を無駄にしたのだ。
濡れた膝も、破けたタイツも、どうだってよかった。
幸せを踏みにじったことが、何よりも痛かった。
ジルが投獄されたと聞いたのは、それから1週間後のことだった。