慕う涙
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いよいよジルとカナンの結婚式当日である。名無しは昨日までの非日常からおさらばだと、朝から気合をいれていた。
そう、ジルと過ごした数日間の出来事は、忘れなければいけない。
メイドは早朝収集がかかり、飾り付け、式から披露宴の段取り、食事の用意も全て暗記させられた。
万が一のときは城にいる騎士だけでなく、アルガナン伯爵が雇ったという傭兵がなんとかしてくれるという話だったが、メイド個人たちも逃走経路を把握しなければいけなかった。
「名無しも気の毒ね」
同期にそう言われた。おそらく、ジルのきまぐれに付き合わされたことだろう。
どちらかというと「気の毒」なのは、昨日までの幸せなときを過ごしていた分、今日の結婚式がより辛くなることだろう。
せっかく忘れようとしたのに、と肩を落とす名無し。同期の言葉で悲しくなってしまった。
しかし、そうも落ち込んでいられない。
バタバタと城内の飾り付けに勤しむメイドたちを見て、「私も体を動かせば忘れるはず」と仲間たちの方へ向かった。
舞踏会場の飾り付けを終えた名無しは、次に大広間の清掃に向かった。
階段を上がり大広間への通路を通ろうとすると、そこでジルと鉢合わせてしまった。
「やあ、名無し」
ジルを見ると、結婚の場に相応しいきらびやかな服を身に纏っている。
名無しは現実が重くのしかかるよりも早く、それでもゆっくりと頭を下げた。
「ジル様、おはようございます」
「丁度良かった。ぼくは今暇していたところなんだ」
私は暇じゃない。と素直に思った。朝から城内整備で忙しいのだ。
今だって大広間の清掃に向かっていたのに。
目の前のジルはどこか楽しそうである。当たり前だ、今日はあの美しいカナン姫と結婚するのだから。
名無しはジルに向き直り、背筋を伸ばして力強く言った。
そうしないと、今にも泣いてしまいそうだったから。
「申し訳ございません、只今城内の清掃中でして……他のメイドをお当たりください」
ジルの眉毛がぴくりと動く。怒らせた、と名無しは思った。
ジルの様子を見て、また頭を下げる。
二人の間に沈黙が流れた。
先にそれを破ったのはジルだった。
「……そうか」
ああ、あの日と同じ。怒らせてしまった。きっと悲しい目をしていらっしゃる。
そう思っても、顔を見ることはしなかった。もう名無しの目からは、色々なものが溢れようとしている。
ジルは来た道と反対へ戻ろうとした。部屋に戻るのだろう。
「ジル様、ご結婚おめでとうございます」
深くお辞儀をしたまま、言った。本来目を見て言わなければならないのに。
目から溢れる感情を、我慢することができなかった。
ジルの不機嫌な足音と、涙の跡はすぐに消えたが、名無しの中にはずっと残ったままだった。
***
結婚パーティが始まった。
飾り付けたときはメイドたちの慌ただしい声でいっぱいだったのに、今は貴族たちのご機嫌な声ばかりである。
名無しは隅に立ち、貴族たちの持っているワインに目を配っていた。
殻になったらグラスを回収し、また新しいワインをお持ちするためだ。
私もあの場に立ちたい。そうすれば、もしかしたらジル様と……。
ハッとして、名無しは首を振った。
何を馬鹿なことを考えているんだ、と自嘲していると、バルコニー付近が騒がしくなる。
近くにいたメイドが息を飲むのを感じ、遠くでも「きゃあ!」という叫び声が聞こえる。
いよいよおかしいと感じた名無しは、ワインから目を離し、人々の視線の先を見た。
「グルグ族だ!」
名無しが認識するより早く、近くの男が叫ぶ。それをきっかけに会場内は混乱の渦になり、あちこちで悲鳴が上がった。
しばらく呆けていた名無しだったが、逃げてきた男が強く肩にぶつかり、我に返る。
朝覚えさせられた逃走経路を思い出し、恐怖の中頭を切り替える。
「みなさん、落ち着いて! 私たちが城外へ案内します!」
声をかけても、あまり効果はない。グルグ族の襲撃で混乱した貴族たちは聞く耳も持たず、我先にと逃げていく。
周りのメイドも声を張り上げている様子は見て取れたが、悲鳴や爆音、逃げ惑う人たちの足音にかき消されて何も聞こえない。
ふと、ジルのことを思い出した。彼は無事だろうか。そういえば、姿を見ていない。
名無しは周辺を見渡し、鎧を身につけた騎士のもとへ、人ごみを掻き分けながら走った。
「ジル様は!?」
「いや、見かけなかったが……」
そんな、と名無しは顔から血の気が引くのを感じる。
しかしそうもうろたえてはいられない。騎士の鎧を掴み、しっかりと伝えたいことを喧騒に負けないくらいの声で言った。
「早急にジル様の捜索をお願いします。見つかり次第保護してください。私たちはお客様の避難経路確保に当たります」
騎士は分かったと頷くと、その場を離れてジルの捜索へ向かった。
名無しはまた人ごみに向き直り、大声を出して貴族たちを誘導した。
***
外に出ると、いくらか静かになった。
グルグ族は城の中に目的があるのか、あまり城下町に足を踏み入れてはいないようだ。
名無しは避難した人たちに毛布を配っていた。とはいえ、震えている人は寒くて震えているわけじゃないことくらい、分かっていた。
見渡すと、泣いている人、怒っている人、大怪我をした人……その場から逃げ出したいほど、凄惨な光景だった。
思わず、持っていた毛布を抱きしめた。名無しとて、怖くないわけではない。
しかし、怖がっている場合ではない、と自分を奮い立たせ、顔をあげると人の合間に見知った顔を見つけた。
「……ジル様!」
名無しは走り出した。ぶつかる人に謝りながら、必死にジルの元へ行く。
あと数メートル、というところで、ジルが名無しに気付いた。
こちらを向いた表情は、いささか驚いているように見えた。
ジルの元に来ると、少し距離をおいて立ち止まった。
手に持った毛布は、力を入れすぎてぐしゃぐしゃである。
「ジル様…?」
「……名無し」
持っていた毛布が、手をすり抜けた。ばさりと足元に落ちる。
ジルは毛布を見て「おい、落としたぞ」と声をかけたが、毛布にできた丸いしみが目に留まり、声が出なくなった。
名無しに視線を戻すと、大粒の涙を目にため、今にもこぼれそうである。
「よかった……よかった」
名無しが目を細めると、たまっていた涙も一気にこぼれた。
両手で口元を覆い、しゃくりあげている。
「ご無事で、何よりです…!」
「……泣くほどのことじゃあ、ないだろう」
「いいえ、本当に、ああ、よかった…!」
ジルは大きくため息をつくと、名無しに近づき、目元を乱暴にぐいぐいと拭いた。
名無しは驚き、その乱暴さに痛がりながら、涙が止まらなかった。
「痛いですジル様、袖も汚れてしまいます」
「うるさい黙っていろ」
お前は泣き虫なんだな、と乱暴に涙を拭かれた。
ジルの嫌味も、拭いてくれる優しさを持った手も、何もかもが嬉しかった。
忘れることなんて、最初から無理だった。
そう、ジルと過ごした数日間の出来事は、忘れなければいけない。
メイドは早朝収集がかかり、飾り付け、式から披露宴の段取り、食事の用意も全て暗記させられた。
万が一のときは城にいる騎士だけでなく、アルガナン伯爵が雇ったという傭兵がなんとかしてくれるという話だったが、メイド個人たちも逃走経路を把握しなければいけなかった。
「名無しも気の毒ね」
同期にそう言われた。おそらく、ジルのきまぐれに付き合わされたことだろう。
どちらかというと「気の毒」なのは、昨日までの幸せなときを過ごしていた分、今日の結婚式がより辛くなることだろう。
せっかく忘れようとしたのに、と肩を落とす名無し。同期の言葉で悲しくなってしまった。
しかし、そうも落ち込んでいられない。
バタバタと城内の飾り付けに勤しむメイドたちを見て、「私も体を動かせば忘れるはず」と仲間たちの方へ向かった。
舞踏会場の飾り付けを終えた名無しは、次に大広間の清掃に向かった。
階段を上がり大広間への通路を通ろうとすると、そこでジルと鉢合わせてしまった。
「やあ、名無し」
ジルを見ると、結婚の場に相応しいきらびやかな服を身に纏っている。
名無しは現実が重くのしかかるよりも早く、それでもゆっくりと頭を下げた。
「ジル様、おはようございます」
「丁度良かった。ぼくは今暇していたところなんだ」
私は暇じゃない。と素直に思った。朝から城内整備で忙しいのだ。
今だって大広間の清掃に向かっていたのに。
目の前のジルはどこか楽しそうである。当たり前だ、今日はあの美しいカナン姫と結婚するのだから。
名無しはジルに向き直り、背筋を伸ばして力強く言った。
そうしないと、今にも泣いてしまいそうだったから。
「申し訳ございません、只今城内の清掃中でして……他のメイドをお当たりください」
ジルの眉毛がぴくりと動く。怒らせた、と名無しは思った。
ジルの様子を見て、また頭を下げる。
二人の間に沈黙が流れた。
先にそれを破ったのはジルだった。
「……そうか」
ああ、あの日と同じ。怒らせてしまった。きっと悲しい目をしていらっしゃる。
そう思っても、顔を見ることはしなかった。もう名無しの目からは、色々なものが溢れようとしている。
ジルは来た道と反対へ戻ろうとした。部屋に戻るのだろう。
「ジル様、ご結婚おめでとうございます」
深くお辞儀をしたまま、言った。本来目を見て言わなければならないのに。
目から溢れる感情を、我慢することができなかった。
ジルの不機嫌な足音と、涙の跡はすぐに消えたが、名無しの中にはずっと残ったままだった。
***
結婚パーティが始まった。
飾り付けたときはメイドたちの慌ただしい声でいっぱいだったのに、今は貴族たちのご機嫌な声ばかりである。
名無しは隅に立ち、貴族たちの持っているワインに目を配っていた。
殻になったらグラスを回収し、また新しいワインをお持ちするためだ。
私もあの場に立ちたい。そうすれば、もしかしたらジル様と……。
ハッとして、名無しは首を振った。
何を馬鹿なことを考えているんだ、と自嘲していると、バルコニー付近が騒がしくなる。
近くにいたメイドが息を飲むのを感じ、遠くでも「きゃあ!」という叫び声が聞こえる。
いよいよおかしいと感じた名無しは、ワインから目を離し、人々の視線の先を見た。
「グルグ族だ!」
名無しが認識するより早く、近くの男が叫ぶ。それをきっかけに会場内は混乱の渦になり、あちこちで悲鳴が上がった。
しばらく呆けていた名無しだったが、逃げてきた男が強く肩にぶつかり、我に返る。
朝覚えさせられた逃走経路を思い出し、恐怖の中頭を切り替える。
「みなさん、落ち着いて! 私たちが城外へ案内します!」
声をかけても、あまり効果はない。グルグ族の襲撃で混乱した貴族たちは聞く耳も持たず、我先にと逃げていく。
周りのメイドも声を張り上げている様子は見て取れたが、悲鳴や爆音、逃げ惑う人たちの足音にかき消されて何も聞こえない。
ふと、ジルのことを思い出した。彼は無事だろうか。そういえば、姿を見ていない。
名無しは周辺を見渡し、鎧を身につけた騎士のもとへ、人ごみを掻き分けながら走った。
「ジル様は!?」
「いや、見かけなかったが……」
そんな、と名無しは顔から血の気が引くのを感じる。
しかしそうもうろたえてはいられない。騎士の鎧を掴み、しっかりと伝えたいことを喧騒に負けないくらいの声で言った。
「早急にジル様の捜索をお願いします。見つかり次第保護してください。私たちはお客様の避難経路確保に当たります」
騎士は分かったと頷くと、その場を離れてジルの捜索へ向かった。
名無しはまた人ごみに向き直り、大声を出して貴族たちを誘導した。
***
外に出ると、いくらか静かになった。
グルグ族は城の中に目的があるのか、あまり城下町に足を踏み入れてはいないようだ。
名無しは避難した人たちに毛布を配っていた。とはいえ、震えている人は寒くて震えているわけじゃないことくらい、分かっていた。
見渡すと、泣いている人、怒っている人、大怪我をした人……その場から逃げ出したいほど、凄惨な光景だった。
思わず、持っていた毛布を抱きしめた。名無しとて、怖くないわけではない。
しかし、怖がっている場合ではない、と自分を奮い立たせ、顔をあげると人の合間に見知った顔を見つけた。
「……ジル様!」
名無しは走り出した。ぶつかる人に謝りながら、必死にジルの元へ行く。
あと数メートル、というところで、ジルが名無しに気付いた。
こちらを向いた表情は、いささか驚いているように見えた。
ジルの元に来ると、少し距離をおいて立ち止まった。
手に持った毛布は、力を入れすぎてぐしゃぐしゃである。
「ジル様…?」
「……名無し」
持っていた毛布が、手をすり抜けた。ばさりと足元に落ちる。
ジルは毛布を見て「おい、落としたぞ」と声をかけたが、毛布にできた丸いしみが目に留まり、声が出なくなった。
名無しに視線を戻すと、大粒の涙を目にため、今にもこぼれそうである。
「よかった……よかった」
名無しが目を細めると、たまっていた涙も一気にこぼれた。
両手で口元を覆い、しゃくりあげている。
「ご無事で、何よりです…!」
「……泣くほどのことじゃあ、ないだろう」
「いいえ、本当に、ああ、よかった…!」
ジルは大きくため息をつくと、名無しに近づき、目元を乱暴にぐいぐいと拭いた。
名無しは驚き、その乱暴さに痛がりながら、涙が止まらなかった。
「痛いですジル様、袖も汚れてしまいます」
「うるさい黙っていろ」
お前は泣き虫なんだな、と乱暴に涙を拭かれた。
ジルの嫌味も、拭いてくれる優しさを持った手も、何もかもが嬉しかった。
忘れることなんて、最初から無理だった。