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ルフルキ短編

◇◇◇◇





 雪を孕んだ風が、辺り一面に広がる雪原を強く吹き抜けて行く。
 草木は厚い雪の下で息を潜める様に眠りに就いて、雪解けと共に訪れる春を待ちわびているのだろうか。
 冬籠もりしているのか或いは雪に同化する保護色に守られているのかは分からないが、動物達の姿も滅多に見掛けない。

 そんな、厳しい冬の景色が目の前に広がっていた。

 こんな寒さの中では、道を行く人々の姿すら疎らで。
 街と街を繋ぐ大きな街道であるにも関わらず、見渡す限りではルフレとルキナの他に道行く人は居ない。
 天気はまだ持ちそうだが、冬の天気は崩れるのが早い。
 吹雪になる前に早い内に宿に着く方が良いであろう。


「ルキナ、大丈夫かい?」


 横を共に歩くルキナを気遣い、ルフレは声を掛ける。
 雪が積もった道では無理に馬を使うよりは徒歩の方が早いから……と、ここまで歩いてきたけれども。
 それでも雪路を行くのは堪えるものだ。
 慣れていてもいなくても、辛いものは辛い。
 自警団とイーリス軍の軍師として行軍にその付き従っていた時に、ルフレは何度か雪中行軍の経験があったけれども。
 ルキナがクロムとルフレと共に行動する様になってからは幸いにもそんな経験は無くて。
 だからこそ、雪路を行くのに慣れていないルキナが無理をしていないかが心配であった。

 彼女がやって来た“未来”は『絶望の未来』と呼び表される程に過酷なモノであったらしいけれども。
 だからと言って、比較的温順な土地が多いイーリスを拠点として活動していたのであろうルキナに、雪中行軍の経験が豊富であるとはとても思えない。
『絶望の未来』での事を思い出したくは無いからか、ルキナがその“未来”での経験を口にする事はあまり無いから、全てはルフレの憶測でしかないのだけれども。

 しかし、もしルキナが雪路に不慣れであったのなら、酷な事を強いてしまっただろうか、とそう考えてしまう。
 ……どの道、戻ってしまうには来た道は遠く、このまま次の街へと進むしかないのだが。

 辺り一面を雪に覆い尽くされた景色を静かに見詰めていたルキナは、ルフレの言葉にも暫くは無言を返していた。
 だが、ふとその眼差しが、何処か『遠く』を、ここではない『何処か』へと、焦点を結ぶ。
 そして、目に見えない程の微かな皹割れから僅かに水が滴り落ちる様に、ポツポツと呟き始めた。


「……“未来”では、日の光は何時も分厚い雲に閉ざされていて。
 世界には、夕暮れの不気味な赤い空か、月や星の光一つ無い底無しの暗闇か、そのどちらかしかありませんでした。
 日の光が減った事で作物は多くが枯れ、僅かな実りも痩せ衰えたもので……。
 多くの人々が飢えの苦しみの中で命を落としました……」


 “未来”からやって来た子供達の多くは、王族や貴族や騎士の家系の者が多い。
 この世界では基本的に特権階級であり飢えとはほぼ無縁の筈であろうそんな彼等ですら、“未来”では充分に食べる事は出来なかった……とルフレは聞いた事があった。
 そんな“未来”では多くの民が餓死していただろう事は、それを実際に見た訳ではないルフレにも容易に想像がつく。
 幸いにも、記憶喪失の行き倒れなんて存在であったルフレではあるが、クロム達にはとても良くして貰っていて、行軍中に食糧が少し寂しくなった事は幾度かあったものの、餓えに苦しんだ事は一度も無かった。
 それはとても恵まれている事で……逆に恵まれていなくてはならない子供達の“未来”がそんな有り様であった事が、その惨状を際立たせていた。


「中でも一番過酷な状況に陥ったのは……フェリアでした。
 春になっても融ける事がない雪と氷に閉ざされて……皆、村や街に閉じ込められたまま、飢えと寒さの中で死んでいったと……。
 何とかイーリスまで決死の覚悟で逃げ出してきた者達から、聞きました。
 ……勿論、イーリスからフェリアへと何度か救援部隊を送りましたが、誰一人として……。
 そうこうしている内にイーリスも他国の民を気遣える様な状況では無くなってしまって、それっきりでした」


『遠く』を見詰めるルキナの目は何かの感情に揺れてはいない。
 だが、哀しみすら枯れ果てた後の様な、そんな感情の残滓が沈んでいた。
 剰りに多くのモノを喪ってきたルキナのその目は、一体何れ程の苦しみや哀しみを刻んできたのだろうか。
 窺い知る事など到底不可能な地獄が、そこにはあった。


「私は……。
 あの“未来”では、結局、私は何も守れませんでした。
 何も……何も出来なかったんです。
 ギムレーを討って世界を救う事も、人々を救う事も。
 ……イーリスの民を守る事すら、私には……出来なかった……」


 “それはルキナの所為では無い”と、そんな言葉を掛けて慰めるのは簡単だろう。
 だがそれは、一時ルキナの心を温める事は出来たとしても、結局何の解決にもなりはしない……そんな無責任な言葉でもある。

 その“未来”を見てきた訳でもそこで生き抜いた訳でもないルフレのそう言った言葉が、本当の意味で、ルキナの心に響く事はない。
 気休めに虚しく表面的な部分を撫でるだけだ。

 ルキナがほんの少しでも無責任な性格であったのなら、或いは理不尽でしかない境遇に怒りを覚えて運命や神へ怨嗟を吐ける様な性格であるのならば、また少し話は違うのかもしれないけれども。

 だが、そうではないのだ。
 ルキナの性格をよく分かっているからこそ、ルフレはそんな気休めを口に出来ない。

 過去を“無かった事”には出来ない。
 例え“過去”へと跳躍して“未来”を変えたのだとしても。
 そこに居るルキナ自身にはその“未来”を確かに辿ってきたと言う経験があるのだから。
 例えどんなにその“過去”を変えたくても。
 そうまでして変えた“未来”に生きるのは、自分ではなくて新たな“自分”だ。

 神らぬ身の、正確には“神”とやらに成り果てる事を拒否した“成りそこない”のルフレには、『“過去”を変えて“未来”を変える』と言う事が正確にはどう作用するのかはよく分からない。
 古き“未来”は“無かった事”になるのか、それとも数多ある“異界”の一つとして決して交わらぬ異世となるのか。
 目の前に居るこの愛しい人は、異なる“未来”からの異邦人たるルキナは、世界にとってどう扱われるのか。

 神の如き軍師と讃えられようとも、その策が神を称する存在すらをも討ったのだとしても。
 ルフレにとって“分からない事”は、世界に溢れかえっている。
 元より、世界の真理を探求するのはミリエルの様な学者達の生業であって、ルフレたち軍師の役割ではないのだが。

 例えこのルキナが世界にとって『異物』であるのだとしても。
 時の輪から外れた歪な存在だと、何時か世界から弾き出される未来が待っていたとしても。
 それでも、ルフレが愛しているのは目の前に居るルキナだ。
 イーリスの城で両親から惜しみ無い愛情を受けて育っていくのであろう幼子ではない。

 無論、あの幼い『ルキナ』もルフレにとっては掛替えの無い存在であるのは確かだけれども。
 ルキナか『ルキナ』かを選ばねばならぬのなら、ルフレが迷う事はない。
 世界がルキナを拒絶すると言うのならその時は、例え時の漂流者となろうとも、ルフレもまたルキナと共にこの世界を去るだけの事だ。

 消滅の定めを覆して再びルキナと巡り会えた時に。
 もう二度とその手を離さないと、もう二度とその傍を離れないと、死が互いを別つその時まで共に生きようと、そう決めたのだから。
 想いが重かろうと身勝手であろうと、ルフレはルキナに関しては何一つとして譲ってやるつもりはないのだ。

 ……だからこそ、ルフレは自分ではどうしてやる事も出来ない“過去”がルキナを苛んでいるのを見る度に、自分の無力さに行き場の無い哀しみと静な怒りを感じるのだ。
 それは、愛しい人が剰りにも理不尽な運命や苦しみを押し付けられた事に対する怒りや哀しみであるのと同時に。
 その理不尽を押し付けた最たる元凶が、『自分』である事への、そんな運命を押し付けられそれに押し潰された『ルフレ』への同情の様などうしようもない絶望を孕んだ怒りでもあり。
 そして何よりも。
 そこにはルキナの絶望が前提にあると言うのにも関わらず、こうしてそんなルキナと自分が出会えた事に喜びを感じてしまう事への昏く淀んだ哀しみであった。

 全く我が事ながら剰りにも業が深いな、とルフレはルキナに悟られぬ様に心中で溜め息を溢す。
 こんな、自分ですらも何処か歪だと思える感情を『愛』なんて表現して良いのかは分からないけれど、生憎とルフレにはそれ以外に上手い言葉が見付からないのだ。
『愛』とは全く便利な言葉である。

 しかしルフレが何れ程の『愛』を捧げていようと、ルキナに対してどうしてやる事も出来ない事は多い。
 過酷と言う言葉ですら言い表せない程の惨状であった『絶望の未来』が、ルキナの心に刻み付けた傷痕は剰りにも多く……そして底が見通せない程に深かった。
 その心に刻まれた傷痕は、多感な年頃をそんな状況下で生き抜いた事に対する代償、とも言えるのかもしれないけれども……。

 常日頃からそれについて考え、そこに囚われている訳ではないのだろうけれども。
 それでも、それらの傷痕は折に触れてルキナを苛むのだ。
 そして、『絶望の未来』の記憶を呼び起こすモノは、この世界にも何処にだって転がっていて。
 戦場から遠く離れ、剣を手に命をやり取りする事が非日常になってからは特に、ルキナがその傷痕に苛まれる頻度が増えている様にルフレには思える。
 それは、きっと一瞬先以外の事も考える余裕が生まれてきてしまった事への弊害、とも言えるのかもしれない。

 心の傷痕は肉体的な傷とは違って目には見えないのが厄介である。
 見えぬからこそ、その傷がちゃんと治ったのかは当人を含めて誰にも分からないし、傷痕から流れ出るその苦しみを他者が理解する事は難しい。
 その原因を取り除くと言う事も、“過去”を変える事は出来ない以上は不可能だ。

 ……そうではあるけれども。
 “過去”を変える事は出来なくても、ルキナが生きているのは最早どうする事も出来ぬ“過去”ではなく、ルフレと共に生きていく“今”だ。
 その傷痕が完全に癒える日は一生涯訪れないのだとしても。
 ルフレと共に積み重ねていく日々の記憶が少しずつ真綿でくるむ様にその痛みを和らげていけるのなら。
 その苦しみを傷痕を、微睡む様な暖かで幸せな記憶が雪が降り積もる様に癒していけるのなら。
 共に生きて過ごすこれからの時間全てが、その傷痕を“昔”に変えてくれるのなら。
 今は激しくその心を苛む苦しみも、何時かは少しの苦味を伴う静かな哀しみに変わるだろう。

 ルフレは、そう信じている。
 だからこそ。


「ルキナ、ほら、手を出して」


 ルフレに言われるがままに差し出されたルキナのその手を、ルフレは優しくそっと包む。
 雪風に曝されていたその手は温もりを喪った様に冷えきっていて。
 反対に、コートのポケットに忍ばせていた温石のお陰でルフレの手は少しばかり温かった。


「あの、私の手、冷たくないですか?」


 気遣う様なルキナのそんな言葉に、ルフレは「そうだね」と頷いた。


「でも、こうやって手を繋いでいた方が温かいだろう?
 僕としては、こうしてルキナの温もりを感じていたいからね」


 そう言うと、気恥ずかしかったのか途端にルキナは頬を赤く染め、繋いだその手も僅かに熱を宿す。
 そんな様子を微笑ましく見詰めながら。
 ルフレは、寄り添う様にルキナに歩幅を合わせて並んで歩く。

 雪風の向こうに、人々の営みを表す様な街の灯りが幽かに見えていた。
 きっともう直ぐ辿り着けるであろう。
 二人の長い旅も、後僅かだ。






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