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クロルフ短編

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 ボロ切れを纏う趣味など無いが、同時に己の身に纏うモノにそう頓着する事の無いギムレーがそれに気付いたのは、本当にただの偶然であった。
 自身が身に纏っているローブの胸ポケットにふと手を当てたその時、何かの小さな膨らみに気が付いたのだ。
 はて、そんな場所に「何か」を入れていただろうかと。
 ポケットの中からそれを取り出して中を確かめると。

 そこに、在ったのは。
 銀の鎖に通された、曇りなく銀に輝く指輪であった。

 豪奢な煌びやかさはそれ程無いが、指輪の表層に細かく彫り込まれた繊細な意匠は、女性が身に付ける事を意識したもので、指輪の質は最高級に等しい。
 華美に過ぎないからこそ、気品が何処までも引き立てられているその指輪に、ギムレーは僅かに目を眇める。

 喪う事の無い様にと大切に鎖に通されたそれは、ギムレーにとっては最早何の意味も持たないものだ。
 意味も、価値も、等しく何も感じない。
 まだ、こんな所に残っていたのかと。
 指輪を手の中で転がす様に弄びながらギムレーは、その指輪が何であったのかを思い出した。

 それは……、かつて自分がまだ『ルフレ』と……そう呼ばれていた……「人間」であった頃に。想い結ばれていた相手から永遠の愛の誓いと共に贈られた誓いの証であった。
 安らかなる時も、病める時も。如何なる苦難の中にあろうとも、共に苦楽を分かち合い、死が互いを分かつまで共に在ろうと。
 そんな誓いと「契約」の証であった。

 ……だが、その「契約」など、もう何の意味も無い。
 邪竜であるギムレーにとっても、或いは『ルフレ』であった自分にとっても。「契約」を交わした相手はもうこの世の何処にも存在しないのだから。
 故に、その様な愚かな「契約」などにギムレーを縛る力など無いし、その「契約」の残骸に感じるモノも無い。
 ギムレーとして「覚醒」する運命から『ルフレ』を守る力も無く、ギムレーの中に『ルフレ』の心を留める為の縁にすらもならないものでしかないのだ。
 全く、馬鹿馬鹿しい限りである。
 人間達は口を開けば直ぐ様「愛」だの「絆」だのと飽きもせずに喚きたてると言うのに。
 実際はその「愛」とやらには何の力も無いのである。
「愛」を誓っていようとも、運命を変える事は叶わず、『ルフレ』はギムレーへと覚醒してしまった。
 人間どもの言う「愛」にどんな苦難も乗り越える力が本当にあるのだとすれば、それを成し得なかったのならそこに在ったモノは紛い物であったのだろうか……?
 ……まあ所詮「愛」など、脆弱で愚鈍な虫ケラ共が、互いに拒絶し合うしかないその本性を誤魔化す為の虚言であり妄想でしか無いのだけれど。

 手の中で弄ぶ様に指輪を転がしながら、ギムレーは、「契約」を交わした相手──聖王の末裔であったあの男の事を、久方振りに思い浮かべる。
 ファルシオンに選ばれた、この世で数少ないギムレーを傷付け得る手段を持っていた男。
 尤も、『ギムレーの器』である事を知りながら『ルフレ』に「愛」を誓う愚かな行為に逸った挙句の果てに。
『愛』を誓ったその相手のその運命を変える事も出来ないままに、ギムレーと対峙するどころか、愛した『ルフレ』の手によってその命を摘み取られた哀れな道化。
 クロム、と。そう呼ばれていたその男の事は、ギムレーがふと思い出せる程度にはその記憶の底に存在した。

 とは言え、別にクロムの事を想起した所で、ギムレーにとっては大した感慨は抱けない。
『ルフレ』であった時の記憶は何一つ欠ける事無く全て存在しているが故に、『ルフレ』として生きた時間の記憶も、クロムと出逢い共に戦い愛し合った記憶も、そして子を成し育てた記憶も、その全てを鮮明に思い出せる。
 しかし、そのどれもがギムレーにとってはただの記憶でしかなく、自身の「経験」としては幾分か歪んでいた。
 何れ程想起しても、そこには何の感情も伴わない。
 ギムレーにとって『ルフレ』の記憶など、ただただ事実の確認になるだけで、無味乾燥なものでしかなかった。
『ルフレ』からギムレーへと覚醒した際に、その心が人のそれから竜のモノへと羽化したその時に、その在り方と言うモノがまるっきり変化してしまったのだろう。

 いや、記憶だけではない。
 ありとあらゆる事象、ありとあらゆる存在に対しての感じ方捉え方と言うモノも、かつて『ルフレ』であった時のそれとは全く異なるモノへと変わっていた。
『ルフレ』にとって掛け替えの無い程に「価値」の在ったモノのその殆どがギムレーにとっては最早無価値なモノであり、或いは蔑み唾棄すべきモノである。
 ギムレーとして覚醒したから、感情の揺らぎと言うモノは殆ど消え失せた。
 虫ケラの様に些事に心を囚われる様な事は無く、ギムレーには憎悪も悲嘆も無いが喜びの感情も薄い。
 群れる事でしか生きられず、それで尚相争い何かに縋るしか能の無い虫ケラ共は不快な存在ではあるが。憎悪や怒りと言った激しい感情を抱いているかと言えばそうでも無い。
 ただ単に目障りだから消すと言う程度である。
 生理的な嫌悪感に近いモノは在るかも知れないが……己の身を焦がし狂わせる様な感情では無いのは確かだ。
 そもそも、その存在の次元からして、ギムレーと虫ケラ共は全く対等では無い。
 人間共が幾ら蟻を踏み潰しても構うどころか心を痛めなどしない様に、ギムレーにとっても虫ケラ共を駆逐する理由に不快感以外に大した意味は無いのだ。
 まあ、蟻とは違い曲がりなりにもギムレーと同じ様に「言葉」解しはする。
 だが、だからどうと言う事も無い。
 虫ケラに何かしら「対等性」を見出す程では無いのだ。
 ……しかし、憎悪も悲嘆も存在しないが喜びも薄いが故に、ギムレーにとってこの世界とは何処までも退屈で平坦極まりないものであった。
 藻掻き苦しみ醜く命乞いする虫ケラ共を踏み潰す瞬間は少し楽しくはある。
 しかしそれは余りにも刹那的で、暇潰し程度の意味しかない。
 世界の全てを等しく滅ぼし平らかにしたとしても、後には退屈だけが残るだろう。
 だが……その未来は確実に見えてはいるが、それでもギムレーは人間共を……この世に生きる全ての存在を滅ぼし尽くし世界を平らかにする事を止めはしない。
 結局、それしかギムレーには無いのだ。
 滅ぼす事以外にやりたい事も無く、自分の気が少しでも紛れるものが虫ケラ共の絶望や破滅位しかない。
 それは、心の死と言う断崖に向かって、踊る様な足取りで向かっていく様なものであった。

 …………かつて、ギムレーが『ルフレ』であった時は。
『ルフレ』にとってこの世界は、喜びにも哀しみにも怒りにも……まるで色取り取りの宝石の様に輝く感情たちによって彩られたものだった。
『ギムレーの器』として産まれ落ちた事への諦念や、それに伴う虚無感も確かに存在してはいたが。
 だがそれ以上に、母親や……クロムや我が子達など、『ルフレ』にとって「特別」な人間達が存在したし。
 そして、彼らと共に過ごした時間は、関り合い折り重ねる様に積み重ねていった記憶は……『ルフレ』にとってはそのどれもが掛け替えのないモノであった。
 怒りや悲しみや絶望ですら……今のギムレーが感じる虚無感にも似たそれに比べれば、何もかもが輝いて。
 喜びも、そしてそこに在った心が揺れ動くその心地好さも、その何もかもが、鮮明であった。
 今のギムレーが虫ケラ共の絶望に感じる刹那的な愉悦など、色褪せて思えてしまう程に。
 ……それ程までに、『ルフレ』にとってその記憶が大切なモノであった事は覚えているのだ。
 しかし、ギムレーがそれを想起しても、そこにはもう何も無い。何も心は動かない。
 クロムの笑顔を、その言葉を、その背中を、その温もりを、共に過ごした時間を、彼を想っていた時間を。
 その全てを鮮明に覚えているのに。
 それでも、最早ギムレーにとってその男は、ただの虫ケラどもと同じ「人間」でしかなかった。
『ルフレ』であった時には確かに感じていた筈の溢れんばかりの愛しさは、それがただの泡沫の幻であったかの様に、その名残すら感じられない。
 ……有象無象の虫ケラとしてではなく、「個」として認めているだけまだ多少は「特別視」しているのかも知れないけれども……。
 ただそれにしたって、『ルフレ』にとっての「特別」であったからなのか、それとも。聖王の末裔でありファルシオンを扱う者と言う……ギムレーにも完全には無視出来ない要素故なのか。
 その何方が故であるのかも分からなかった。
 ただ、動かざる事実として、ギムレーは彼を愛してなどいないし、そして彼はもうこの世には居ない。
『ルフレ』で在った時の己が、その手で殺したのだから。
 だが……『ルフレ』にとっては、この世の全てをそして自分自身を呪い怨む程の絶望その物であったそれも、ギムレーにとってはただ人間と殺したと言う事実にしか感じられない。
 クロムを殺した絶望の中で程無くして『ルフレ』がギムレーとして覚醒した瞬間に、身を引き裂き己が身を呪ったその激情は、何の感情も伴わない「事実」に変わってしまった。
 ……それが『ルフレ』にとって「救い」であったのか、或いはただ絶望の深淵へと沈むだけであったのかは、もう『ルフレ』では無いが故にギムレーには分からない。
 その気になれば屍兵として造り直す事も出来たクロムのその亡骸をその場に捨て置いたのは、ただ単純にクロムと言う存在にもう興味を持てなくなったからだろうとは思う。
 もし『ルフレ』の執着がギムレーに残っていたのなら、彼を屍兵にして己の傍に置き続けていたのだろうか……?
 下らない人形遊びに精を出す自分と言うモノを想像してはみたが……今一つ現実感は無い。薄気味悪くはあるが。

 もしまだ彼が生きていて、己の目の前に現れたとして。
 その時自分はどう思うのだろうか、何を感じるのだろうか、と。
 ギムレーはふと、益体も無い事である筈のそれを、考えた。
 それは何の意味も無い「もしも」……下らない「仮定」の事ではあるけれど。
 どうせ何をする事も無く退屈しているのだから、そんな戯れも悪くは無かった。

『ルフレ』としての感情が蘇り、ギムレーではなく『ルフレ』として彼に接するのであろうか?
 そして、『ルフレ』として生きようと足掻くのだろうか?

 ぼんやりと想像はしてみるが、どれも現実味が無い。
 そもそも、どうして己が『ルフレ』であると振舞う様に仮定してしまうのだろう?
 自分は『ルフレ』では無くギムレーであると言うのに。

 …………そもそも仮定してみるまでも無く、恐らくは何も感じられないのだろう。
 愛も無く、憎しみも無く。
 ただ、虫ケラの中の一人としか感じないのか、或いはクロムと認識した上で何も感じないのかは違うかもしれないが。
 どちらにせよそこに感情は無い。『愛』は無い。

 ……クロムは、そんな自分を見てどう感じるのだろう。
 どう接しようとするだろう。どう言葉を掛けるだろう。
 人の世を滅ぼそうとする邪竜として殺そうとしてくるのか。
 或いは愛した女の紛い物として憎悪するのか。
 それとも…………──

 ふと頭を過った愚かな「想像」に、ギムレーは無意識の内に自嘲する様にその口の端を歪めた。
 もしそうだとしたら、だったら何だと言うのだろう。

 ギムレーはもう『ルフレ』では無い。人間では無い。
 例え記憶の中の通りに振舞って「人間」を演じたとしても、もう『ルフレ』では無いのだ。
 万が一、心から望みそれを演じたとしても、何も感じないただの空虚な紛い物にしかならない。
 ギムレーと「人間」が交わる瞬間は、未来永劫訪れないのだ。

 例え目の前にかつて愛した男が居ても、或いは己の血を分け腹を痛めて産み落とした「我が子達」が居ても。
 それでも彼らが「人間」である以上、共に生きる事など出来ないし、そんな事をギムレーである己は望まない。
 例え手を伸ばされたとしても、その手を取る事など在りはしない。
 そんな事をする意味など無いのだから。
 彼等がギムレーの側へと堕ちてくる事はありはしないだろうから、共に生きる事はどうあっても不可能だ。

 ただそれでも、そんな愚かな事を僅かにでも頭の端に過らせてしまうのは。
 ギムレーにとってはただの虫ケラ……愚かで無力な「人間」であったのだとしても。
『ルフレ』として生きた時間の事を、忘れられないからだろう。
 もう、存在もその心の在り方も、世界の捉え方も。
その何もかもが変わったと言うのに。
 かつては輝いていた、温かなモノだと感じられた「記憶」の欠片が、もうそれを感じられなくなっていても、かつては『ルフレ』であったギムレーを捕らえている。
 そしてそれは、僅かにであっても、「苦み」の様な「何か」を、ギムレーであるこの胸の奥に落としてゆく。
 忘れてしまえば、或いはもう二度と思い出さなければ。
 その「苦み」が胸の奥に現れる事は無いのだろう。
 ただ……もう何の意味も無い「記憶」でしかない筈のそれを、ギムレーはどうしてか己の内から消しきれない。

 ギムレーは手の中の指輪を、静かに見詰める。
 これを破壊する事は、ギムレーにとっては余りにも容易い。
 僅かな欠片すら遺さず、消し去る事も出来る。
 捨て去る事も、壊す事も。ほんの一瞬あれば事足りる。
 そしてこれは、ギムレーには何の意味も無いモノでしかない。
 だから──

 ギムレーは、指輪を破壊しようと手を握った。
 手の中で指輪が軋む音がする。
 後僅かにでも力を籠めれば砕け散る。
 だけれども。指輪が砕ける寸前で、ギムレーはそれ以上力を籠める事を止めた。  
 そして、溜息と共にそれを元々在った胸のポケットへと仕舞い直す。

 ギムレーにとって何の意味も持たないモノだ。
 持ち続けても何がある訳でも無く、価値も無い。
 そして、持つ価値が無いのと同時に。
 捨てる意味も、或いは壊す価値も無いモノなのだ。
 こうして持っていても、どうせ直ぐに持っている事すら忘れてしまうだろうモノなのだから。
 壊さなくたって、何も変わらない。


 ギムレーはまた一つ、空虚な溜息を吐く。
 そして、退屈から暫し逃れようとするかの様に。
 静かにその瞼を閉じるのであった。




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