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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 揺蕩う様な心地から目覚めると、そこは蒼の世界であった。
 何と無く、此処に招かれる予感はあったので驚きはそこまで無くて。
 だから目の前に座るその人に目を合わせる。
『鳴上さん』は緩やかに微笑んで、その金色の目を細める。

「……やあ、炭治郎。また今夜もこうして会えて嬉しいよ。
 今夜は試練の前に少しだけ話をしたいのだけれど、良いか?」

 勿論だと頷くと、『鳴上さん』は、「ありがとう」と静かにその目を伏せる。

「先ずは、おめでとう、と言わせて欲しい。
 よく、頑張ったな。炭治郎たちが生きていてくれてとても嬉しい。
 上弦の肆と言う大敵を相手にして、大きな怪我も無く、それを打ち倒す事が出来た……。
 これは、とても凄い事だ」

 しみじみとそう言った『鳴上さん』に素直に頷いた後に、それを成し遂げられたのは自分の力だけではないと続けた。

「それは、一緒に戦ってくれた皆のお陰です。
 あの場に居た誰が欠けても、あの時にあの鬼の頸を斬る事は出来なかった。
 それに、悠さんや時透君が沢山稽古を付けてくれたお陰ですし。
 何より此処で『試練』を受ける事が出来ているから……」

「ああ、炭治郎だけじゃなくて、炭治郎たち皆で掴み取った勝利である事は分かっているさ。
 その結果を掴み取れたのは炭治郎たち全員が頑張ったからだ。
 それでも俺は、あの場に於いて炭治郎が最も大きな役割を果たしたと思っている。
 ……炭治郎が何気無く誰かの為にした事が、巡り巡って炭治郎の力になった」

 そう言って微笑んだ『鳴上さん』は、そっと俺の頭を撫でる。
 そうだろうか? と首を傾げた俺に、そうだよと頷いた。

「……例えば、獪岳があの時踏み出す事が出来たのは、間違いなく炭治郎のお陰でもあるんだ。
 いや、正確には『炭治郎たち』なんだけどな」

 獪岳が? と少し首を捻ってしまう。
 獪岳が何か良い方向に変わったのなら、それは善逸や悠さんに影響されたのだと思うのだけれども。
 一緒に上弦の肆と戦ったとは言え、自分は獪岳の事をあまり良くは知らないのだし……。

「いいや、だからこそだ。
 勿論、鳴上悠や善逸が果たした役割は決して小さくはない。
 だけれど、炭治郎たちが何も言わずにその傍に居て同じ時を過ごしたと言う事もとても大きいんだ。
 ……人は、『孤独』では居られない。誰しもがそうだ。
 例え心の奥底で目を逸らす事の出来ない罪業に苦しんでいても、『生きる事』を何よりも願ってその為に足掻いているのだとしても。
 それでも、やはり『孤独』は辛い。自分の居場所を求めてしまう、そこに居ても良い理由を求めてしまう。……『生きる意味』を『生きた証』を、求め続ける。
『心の海』で誰しもが繋がっているからこそ、現実が『孤独』である事を意識的無意識的を問わず恐れるんだ」

 誰しもが、と。『鳴上さん』はそう言う。
 ……『孤独』が恐ろしいと言うそれは、俺にもよく分かる。
 あの雪の日、俺の幸せが壊れてしまったあの日。
 胸の中を吹き荒れたのは、愛しい家族を喪った事への絶望と哀しみと慟哭と、大切な家族を奪った「何か」への怒りと、そして。
『孤独』への絶対的な恐怖だった。
 禰豆子が居てくれたから……例え鬼になってしまっても禰豆子が生きていてくれたから、どうにか心が持っただけで。
 もし禰豆子すら喪われてしまっていたら、どうなっていたのか想像すらしたくない。
『孤独』は、恐ろしいものだ。

「炭治郎は、獪岳と言う人間を詳しくは知らない。でも、その存在を受け入れて同じ時間を過ごした。
 獪岳を『孤独』にはしなかった。
 ……心に罪の意識があるものは、それを暴かれる事を厭うものだ。
 霧が晴れる事を厭うシャドウの様に……な。
 それを直視する事を、向き合わねばならぬ事を、厭う。
 ……本当に歩き出す為には、何れ向き合う必要があるのだとしても、それでもその決心が着くには時間が必要な事もある。
 だが、己の犯した罪を知る者に囲まれていてはその時間を、向き合う為の覚悟と余裕を、己の心に養う事が難しい事も有る。
 だから、その傍に居たのが鳴上悠だけでも或いは善逸だけでも。獪岳が己の心に向き合い切る事は出来なかっただろう。……出来たとしても、もっと時間が必要だった。
 ……そしてそんな獪岳に、向き合う為の時間と余裕を与えたのは、間違いなく炭治郎たちなんだ」

 俺たちが意識していた訳ではなくても、それは確かに一人の心を救う切っ掛けになっていたのだと。そう『鳴上さん』は微笑んだ。

「そして、獪岳が己の心に向き合って、そして自分自身を少しだけでも変える事が出来たからこそ、『鳴上悠』は間違えずに済んだ……。
 ありがとう、炭治郎。獪岳を独りにしないでやってくれて。
 そして、『鳴上悠』を助けてくれて」

 そっと頭を下げた『鳴上さん』に、俺は思わず慌てた様に戸惑ってしまう。
 それに、獪岳の心を助ける手伝いが出来た事と悠さんを助けた事がどう繋がるのだろうか? 

「……前にも言った様に、俺の力は『心の力』だ。
 そして、心の力とは繋がりによって……出逢いによってより強く深まるもの。
 そうやって生まれた『心の力』を紡ぎ合わせ真に深めて、そうやって全ての可能性を見出したからこそ、『鳴上悠』は【世界】に辿り着いた。
 ……ただ、此処は俺にとっては本来存在するべき世界では無いから、その力の全てを十全に使える訳では無い。
 俺は、この世界の存在では無いからこそ、この世界の人々の無意識が集まり揺蕩う『心の海』その物には直接的には触れる事も其処から力を得る事も出来ない。
 ……だけれど、心の繋がりが、その絆が真に揺ぎ無いものになった時。
 俺はそうやって結ばれた絆を通して、『心の海』の力を得る事が出来る。
 ……いや、それは少し正しくないな。
 絆を介して力を得るだけなら、『鳴上悠』はこの世界にとって『無害』なままで居られる。
『人間』としていられる、と言うべきか……」

『鳴上さん』の金色の目が、物憂げに揺れる。
『鳴上さん』の言葉の全てが理解出来ているとは思えないけれど。
 しかし、どうしても引っ掛かる言葉があった。

「『無害』で、いられる……?」

 それではまるで、悠さんがともすればこの世界にとって災禍を齎す存在になりかねないとでも言っているかの様では無いか。
 悠さんが? まさかそんな。
 仲間想いで、優しく親切で、本当に色々と何でもやれてしまう位に凄いのに、それでも絶対に驕る事も無く。本当に心から誰かの事を考えてくれている人なのだ。
 そんな人が、何か害を与えうる存在だとは到底思えないのに。

 しかし、『鳴上さん』はそうだとでも言いたげに静かに頷いた。

「ああ、そうだ。俺がそれを望んだ訳では無くても。この世界にとっては『鳴上悠』はそんな存在であるんだ。
 ……此処とは似ているけれど違う世界で。
『鳴上悠』は、かつて世界の存亡を懸けて戦った。
 真実から目を背け現実を拒絶し、己の都合の良いものだけを見て、そして現実も虚構も何もかもの境を喪わせ、この世全ての存在を混迷の霧の中で蠢き続けるだけの影に変えようとした……そんな『人々の総意』に抗って、それを覆して打ち祓った。
 ……『鳴上悠』は、一人で『人々の総意』にすら抗う事が出来てしまった。
 勿論、何でもかんでも変えられる訳じゃない。
【世界】に辿り着き『幾万の真言』を示したとしても、人々の心全てが変わった訳でもこの世全ての人々の意識を思うがままに動かせる訳でも無い。
 それでも、その力は余りにも『強過ぎる』。
 望む望まずに拘わらず、その影響は必ず出てしまう。
 俺が本来居るべき世界でなら、まだ良いんだ。
 それが滅びを齎す負の連鎖を生む力にもなるのだとしても、『心の力』が現実に干渉し、そしてそれに対抗する為の力を生むと言う理が元々存在する。
 ……ちょっとマッチポンプな気もするけどな。まあそれは卵が先か鶏が先かと言う話なんだろう」

 だけど、と。そう言葉を切った『鳴上さん』は、少しばかり後悔しているかの様な、そんな顔をした。

「『心の海』に在る力が現実の世界に干渉する理が現状では存在しないこの世界では、話が異なる。
『鳴上悠』の存在は、この世界の『心の海』を大きく揺らし過ぎるんだ。
 それどころか、『鳴上悠』は《《それを望めば》》この世界の『心の海』に強く干渉出来るし、何ならそこから直接力を得る事だって出来てしまう。
 だがもしそうなれば、『心の海』に存在する普遍的無意識の力が、現実に干渉する理を持って現れてしまう可能性がある。
 普遍無意識は……『人々の総意』は、何時だって舌なめずりする様に人々を試す機会を窺っている。
 それは、現実世界に直接的には干渉出来ないこの世界でも恐らくは変わらない。ネガティブマインドの化身も、ポジティブマインドの化身も、どちらもろくなものじゃない。
 鬼舞辻無惨が可愛らしい小悪党に見える様な事を平然とやる。『試練』だとかと称してな。
 そしてそうじゃ無くても、『人々』は己の「滅び」に繋がる様な願いを何時だって懐いている。
 その「滅び」を叶える為の『神様』を、『人々』は無意識の海の中で望んでいる。
 そして、『心の海』の力が現実には干渉していないこの世界であっても、その願いを具現化する為の理を求めている。
 それが具現化するとなれば……。
 ……いや、それも正しくはないか。
 そんな存在が具現化するだけじゃない。『鳴上悠』自身が、《《そんな存在になってしまうかもしれない》》。
 そうなった時に、それに対抗する為の力も理も存在しないこの世界がどうなるのか……。まあ、正直想像もしたくはないな」

『鳴上さん』の言っている事がどれだけ不味い事態なのかは、正直俺にはよく分からないけど。
 でも、『鳴上さん』が決してそんな事は望んでいない事は分かる。

「どうしてそんな事に……。
 それに、じゃあ悠さんがそんな事をしなくても良い様にすれば……」

『心の海』とやらに過剰に干渉しなくても済む様にすれば済む話なのではないかと、そう思ったけれど。
 しかし、『鳴上さん』は静かにその首を横に振る。

「『鳴上悠』がこの世界の『心の海』に干渉するだけでなく、『心の海』の方から干渉される事はある。
 そしてそれに関しては俺がどうこう出来る事では無いんだ。
 ……皆、『神様』を望んでいる。
 どうにもならない現実をどうにかして欲しくて、自分を助けてくれる存在が欲しくて。それは、仕方の無い事だし、そう望む事が悪い訳じゃない。
 世界は理不尽で不条理で、どうにもならない事だらけだ。
 何も悪い事をしていなくても幸せが壊れてしまう事はある、犯した罪の報いを受ける事も無くのうのうと世に悪がのさばる事もある、何もかもが嫌になって死にたくなる事もある、自分の都合の良いものを見たい事だってある。
 そんな『願い』を叶えてくれる『神様』が欲しいんだ、皆。
 そしてそれは……」

『神様』。
 その言葉に、最近鬼殺隊の中で悠さんに対してそんな言葉を使う人が増えて来た事を思い出す。
 それが、悠さんを追い詰める事に繋がるのだろうか。
 何時か、『鳴上さん』が言う様に、悠さんを『人々の総意』を叶える為の存在に変えてしまうのだろうか。
 ……それは、とても哀しい事だと思う。
 悠さんを『神様』だって思った人たちも、別に決して悠さんをそんな哀しい存在に仕立て上げたい訳では無いと思うのだ。
 純粋な感謝の気持ちからそう言った言葉や想いを向ける人だって居るだろうから。
 畏怖する様に或いは「特別視」する様に、そうやって悠さんの事を『神様』と思った人だって、別にそれで悠さんを苦しめようだなんて思ってはいないと思う。
 それなのにそんな『願い』を沢山向けられた所為で、悠さんがそんな事になってしまうのは……。
 悠さん本人がそれを苦しむだろうし拒否しようとするだろうと言う事もそうだけど、そんなつもりでは無いのだろう「願い」が、その相手を追い詰めてしまう結果になるなんて、と。そう思ってしまう。

『神様』に居て欲しい、願いを叶えて欲しいと言う気持ちはとても分かる。
 もしあの時に『神様』が願いを叶えてくれていたら、とか。
『神様』が助けてくれたら、とか。そう考えてしまう事は何度もある。
 でも、『神様』に縋り続けていたって何も変わらない。
 何もかも自分の思い通りにいく事なんて無いのだし、何もかもを望むが儘に叶えてくれる「都合の良い『神様』」なんて決して居ない。

 悠さんは確かに物凄く積極的に力を貸してくれるし、何時も俺たちを助けてくれるけれど。
 それでも、一度だって「全部俺がやる」だなんて言った事は無いし、そんな事をした事も無い。
『鳴上さん』も悠さんも、俺たちが強くなろうとする事を手助けしてくれる事はあっても、俺たちが強くなる為の努力を取り上げたりはしない。
 何でもかんでも叶えてくれる『神様』でも、人の努力や意思を嘲笑って踏み付けにする『化け物』でも無い。
 だからこそ、悠さんがそんな存在にならなくても良い様に、何とかしたい、と。
 そう強く心に思った。
 自分に何をしてあげられるのかは分からないけれど。
 知ってしまった以上は何かをせずにはいられない。
 だって、悠さんも『鳴上さん』も、俺にとっては大事な『仲間』であるのだから。

 そう決意すると、『鳴上さん』は「そうか」と静かに頷く。
 そして、そっと目を伏せて微笑んだ。


「……炭治郎。
 願わくばどうか、『鳴上悠』の事を忘れないでくれ。
『神様』でも『化け物』でも何でもない、ただの『人間』である『鳴上悠』の事を……」


 そして、と。『鳴上さん』は小さく呟く。


「……今話した事を、目が覚めた後も、そしてまた此処を訪れた時も、炭治郎が覚えている事は出来ないと思う。
 ある意味で、『人々の総意』による『試練』は既に始まっているから。
 それに向き合う事になる炭治郎たちに、カンニングさせる事は出来ないんだ。
 ……でも、信じている。
 炭治郎なら、必ず……──」







◆◆◆◆◆






 やっと満足に動ける様になったなぁ、と。
 俺は清々しさと共に思いっきり伸びをした。
 思えば随分と身体の修復に時間が掛かってしまった。
 あと一週間でも元に戻るのが早ければ、『神様』とまた直接戦う事も出来たのに。本当に残念だ。

 無惨様にお願いして見せて貰った『神様』の姿を思い出して、思わずうっとりとしてしまう。
 玉壺殿との戦いの時もそうであったが、何よりも。
 黒死牟殿と猗窩座殿を相手にしていた時のその姿を思い返すだけで胸が高鳴るのだ。
 俺と戦ったあの時ですら圧倒的な存在であったのだが、隠れ里への襲撃を迎撃する為に戦ったその時のそれは、もうまさに「神話」を直接目にしているかの様ですらあった。
 一目見た瞬間に、その存在が「神」その物である事を知った。
 その身に「神」を宿すだけでは無い。
「神」その物をああいった形で顕現させる事が出来るのか、と。
 それを一目見た瞬間に、歓喜の叫びを上げてしまった程だった。
「神」のその力は圧倒的だった。そして「神」は美しかった。
 そんな「神」を従えて戦う『神様』は、もうこの世のものとは思えない程の存在だ。
 この世全てをその秤の片側に載せてすら、その天秤を傾かせる事は出来ないのではないかと思う程に。
『神様』を想うだけで、心が分からなかった筈の俺のこの胸に、溢れんばかりの感情が湧き上がる。
 世界が鮮やかに彩付いて、何もかもが輝いて見える様であった。

 ああ、世界とはこんなにも美しいものだったのか! 
 否、『神様』が存在するこの世が美しくない訳など無かったのだ! 
 ああ、これが「生きる喜び」か! これが「生きている意味」なのか! 

 心からの感動で、涙が零れそうである。
 胸が高鳴る様に早く強く鼓動を打ち、頬は自然と熱を帯びた様に紅潮し、訳も分からずにこの感動を誰かと分かち合いたくある。

 とは言え、今残っている上弦の鬼の中に『神様』の素晴らしさを語れる相手は居ない。
 黒死牟殿と猗窩座殿は、『神様』の力を受けてその心に何かしらの不具合を抱えてしまったのか、抜け殻の様に呆然としているか、或いは発作的に自傷しようとしたり或いはよく分からない事を喚き立てたりと、少し話が出来る状態では無いし、『神様』の名を出そうものならその途端に喚く様に狂奔するのだ。
 これ以上上弦の鬼を減らす訳にはいかないと、無惨様が色々と手を尽くしてはいるのだが、中々根本的な部分を解決出来ないらしい。
 頭の中身を無理矢理弄って、その狂乱の原因を取り除こうとしても、ちょっと収まったと思っても些細な切っ掛けでまた発狂するのだそうだ。
 何より、黒死牟殿も猗窩座殿も、人を喰う事が出来なくなったらしい。
 無理矢理喰わせようとしても、発狂した様に拒絶するのだとか。
 仕方無しに無惨様が血を分け与えてはいるが、それですら中々上手くいかないそうだ。
 無惨様ですら手に負えない様な事を至極あっさりとやってのけた『神様』はやはり素晴らしい。
 どうにも、あの『神様』の攻撃は黒死牟殿と猗窩座殿だけでは無く、無惨様にも一時的にしろ影響を与えたらしいのだ。
 目の前に居た訳でも無いのに『神様』の力を味わえるなんて、この時ばかりは無惨様の事が羨ましくて仕方が無かった。
 いやだって、よく考えてみて欲しい。
 清廉潔白の様に見えるあの『神様』の中に、まさに「禍津神」の如き「神」も居るのだ。和魂だけではなく荒魂も同時に内包するその姿は、もう『神』以外の何者でも無い。

 一刻も早く『神様』に会いたかったのだが、無惨様の直々の命でそれは禁止されてしまった。
『神様』を下しつつ鬼殺隊を殲滅する為の大規模な戦いを想定している為、その前に戦力を削る訳にはいかないとの事だった。
 こうして動ける様になったのに『神様』にお目通り叶わぬのは何とも不本意ではあるけれど。
 無惨様には鬼にして頂いた恩があるのだ。鬼にならなければ『神様』に出逢う事すら出来なかった事を思うとそれを無碍にする事は出来ないし、何より総力戦ともなればもっともっと『神様』の力を目にする事が出来る筈だ。
 だからまあ、その命令には素直に従う事にした。

『神様』の力を目にするだけで、心は踊り、それまで一度も縁が無かった「感情」がこの胸一杯に溢れる。
 今なら、かつて一度も理解出来なかった様々な物事の全てを理解出来るだろう。
「感情」なんて「心」なんて、合理的な行動を取る事の出来ない頭の悪い人たちが見ている幻想だなんて考えていたかつての自分を恥ずかしく思う。

 心も感情も素晴らしいものだ! 
 何と言ったって、『神様』の力その物なのだから! 

 ああ、何と素晴らしき事か。
 この世に生まれてきて初めて、俺は「生きている」事を実感している。
『神様』も同じ空の下に居るのかと思うと、一呼吸一呼吸すらもが愛おしくて堪らない。
『万世極楽教』には「極楽」に行きたいと縋る人は多かったが、「極楽」は既に『神様』が存在するこの世そのものだったのだと諭してあげれば良かったのだろうか。
 まあ、俺が鬼である事を知っても「教祖様」と慕ってきた信者たちは、ちゃんと『神様』に合わせてあげなきゃいけないから、一人残らず食べたのだけれども。

 身体は完全に治ったけれど、案外やる事は無いものだ。
『万世極楽教』その物は、あの後半ば解体されてしまった様で残ってはいないし。
 無惨様に関しては、無限城を一瞬で消し飛ばされた事で、俺にあれこれ言ってくる暇は無いらしい。
 俺の身体を消し飛ばした『神様』のあの力は、無限城すらも一瞬で消し飛ばせるものであった。
 あの美しい堕ちる明星の如き滅びの光の下で消える事が出来るなんて、何と素晴らしい事か。
 まあ、鳴女ちゃんも黒死牟殿と猗窩座殿も間一髪のところで脱出に間に合ったのであの光で消えた訳では無いのだけれど。
 無限城を丸ごと消し飛ばされた影響で死に掛かった鳴女ちゃんは、無惨様の血で何とか回復しようと頑張っているけれど。また元の様な無限城を構築するには数か月は掛かるだろう。
 流石は『神様』だなぁ! 
 そして、無限城を消し飛ばされた事もそうだが、何よりも『神様』は「青い彼岸花」すらもその手に収めている上に俺たちがそれを探している事まで把握していたらしい。それを知った時の無惨様と言ったら、顔を土気色にしたり蒼褪めさせたり怒りで真っ黒にしたりと、随分とコロコロと表情を変えている様だった。
 もし逃げ隠れを続ける様なら「青い彼岸花」を根絶やしにされるって宣言されたのは、無惨様にとっては相当な脅しになったらしくて。
 どうにかして『神様』を捕らえて「青い彼岸花」を手に入れようと、無惨様は必死になっている。そのお陰で、何れ『神様』と戦えるんだから、本当に嬉しいなぁ。

 でも、本当に暇だなぁ。
 黒死牟殿と猗窩座殿はお喋りが出来る状態じゃ無いし、鳴女ちゃんも『神様』の話題を出すと本気で怒るし、無惨様にはどれだけ話し掛けても返事をして貰えないんだよね。
 どうしようかなぁ、と考えて。
 ああ、そうだ! と名案を思い付いた。

 こんなにも素晴らしい『神様』の事を、人間たちは殆ど誰も知らないだなんてそれは可哀想だ。とんだ人生の損失だ。
 信者たちと幸せになるのが俺の務めであるのだし、取り敢えず『万世極楽教』をもう一度立て直してみよう。
 名前も変えて、今度は広くその信仰の扉を開こう。
 そうやって、信者たちにあの『神様』の素晴らしさを教えてあげなくちゃ。


 また『神様』に会える時を楽しみに心待ちにしながら。
 俺は、新たな信仰を広める為に、夜の闇の中を足取り軽く進むのであった。






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