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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 尋常ではない程の逃げ足で逃げ回る上弦の肆の『本体』を、やっと追い詰めたと思ったら。また新たな分身が現れて。
 本当にもういい加減にしろと、その場の全員の想いが一つになったかの様な次の瞬間には、俺たちは全員その血鬼術の影響を直接受ける事となった。
 そうやって現れた赤子の様な六体目の分身は、その無力そうな見た目とは裏腹に恐ろしく強力な血鬼術を使う存在であった。
 原理は全く分からないが、その赤子の鬼が泣き喚いていると、上から恐ろしい力で押し潰されていくかの如く、満足に動けなくなる程に身体が酷く重たく感じる様になったのだ。

 四つん這いになる事すら難しく、やっとの思いで這う様に動く事が精一杯で。
 それですら、骨ごと潰されていくかの様な異常な力によって徐々に難しくなっていく。
 肺が押し潰され、満足に息が出来ない。
 そして息が出来ないと言う事は、呼吸を維持出来ないと言う事だ。
 この状況で、全集中の呼吸が途絶えるのは「死」を意味する。
 どうにか気合いでそれを維持しようにも、自分たちを押さえ付ける力は益々強くなっていく。

『本体』が這々の体で逃げ出そうとしているのが見えた。
 怯えと恐怖の匂い以外に、更にその奥から腐り切った性根の匂いが漂って来る。
 心どころか魂すら腐り果てているのではないかと思う程に、その匂いは醜悪だ。
 六体目である赤子の鬼から感じる、「己を憐れみ嘆き、そして他の一切を拒絶する」かの様な匂いがその恐ろしい程の醜悪さを裏付けているかの様だ。
 自分を「完全なる被害者」だと信じ切って、それを哀れまないもの全てを拒絶し排除しようとする。余りにも傲慢で身勝手で恥を知らないその在り方は、「こんなものにまで堕ちる位なら、死んだ方がマシ」だとすら本気で感じてしまう。
『人』と言う生き物から生まれた存在が何処まで醜悪になれるのかを突き詰めているかの様な在り方には、その腐り果てた性根を「匂い」として感じ取ってしまうだけに、こうして相対しているだけでもキツいものがある。

 卑怯にも逃げ続けようとする『本体』を追い掛けたいのに、赤子の鬼の血鬼術によってそれすら儘ならない。
 泣き叫んでいるその声そのものが血鬼術であるならば、どうにかしてその声を止めればどうにか動けるようになるのかもしれないけれど。しかし、そもそもマトモに動く事が出来ない状態では喉や舌を斬るなどと言った対処法は取る事が出来ない。
 そして、赤子の鬼が扱う血鬼術は、その人の動きを抑制する泣き声だけではなくて。子供の鬼が使っていた、樹の竜を操る事も出来る様だった。喜怒哀楽の鬼の力も使えるのかもしれない。

 樹の竜の首が、俺と善逸に迫る。
 俺たちが、『本体』を探し出す力を持っているからこそ、先にそれを潰そうと言う魂胆なのだろう。
 それは分かっていても、そして逃げなければと分かっていても。
 しかし、立ち上がる事どころか這う事も儘ならぬ程に身体は重く、どうにもならない。

 眼前に竜の咢が迫る。
 樹で作られたそれに獣の様な生々しさは無いけれども、しかしだからこそ何の躊躇も無く、人間の身体を押し潰すのだろうと分かる。

 ああ、駄目だ……! こんな所で死んでいる場合じゃないのに……! 後少しの所まで追い詰めているのに……!! 

 心を燃やして動こうとはしても、身体が動かない。
 迫り来る「死」をただ見詰める事しか出来なくて。
 己の視界一杯に竜の咢が迫る。

 だが、それに呑み込まれる寸前に。
 鬼としての身体能力で無理矢理立ち上がって飛び込んで来た禰豆子が俺を庇う。
 骨が折れ関節が軋み筋肉が引き千切れる様な音を立てながら、それを鬼としての回復力で無理矢理に無視して。
 そして、俺を庇った禰豆子の身体は、勢い良く閉じられた竜の咢によってその半身を潰されるかの様に引き千切られた。

「禰豆子ーッ!!」

 禰豆子の血が俺の全身にまるで雨の様に降り掛かる。
 必死に手を伸ばして禰豆子を助け出そうとすると。
 禰豆子はその手を掴まずに、自分の身体を噛み潰している竜の頭へと己の手を押し付けて。
 そして、自分の血を被ったその竜を、血鬼術の炎で燃やす。
 その炎は、己を拘束する竜の頭だけではなく、それを辿る様にして一気にその根元にまで燃え広がり。
 竜の首に守られていた赤子にも燃え移る。


「ギャァァァァァッッ!!」


 先程までの泣き喚くそれとは違う、苦痛への絶叫を赤子の鬼が上げた瞬間に、身体を押し付けていた恐ろしい力は掻き消える。
 燃え盛る頭から自力で脱出した禰豆子は、少し辛そうにしながらも傷付いた身体を再生させる。
 それと同時に。


「さっさと離しやがれっ!! 
 このっ!! クソッタレがァァァッ!!」

 玄弥がそんな雄叫びを上げながら、ミシミシと音を立てながら竜の咢を内側から抉じ開けようとしていた。
 その竜の口の端から、見覚えのある腕がはみ出ている。獪岳の腕だ。
 善逸を狙っていたその竜の首から、獪岳が善逸を庇ったのだろうか。
 そして、どうやら咢が閉じられる寸前に玄弥が己の腕を差し込んでつっかえ棒の様にしてそれを阻止したお陰で、獪岳はどうにかまだ生きている様だ。

「兄貴!!」

 身体を押さえ付ける力から解放された善逸が慌てて立ち上がって、獪岳を捕らえたその竜の頭の下顎を切り離す様にして素早く獪岳を救出する。
 玄弥の血を被っているものの獪岳の外見に大きな負傷は見られないが、竜の顎に押し潰されかけた影響で肺を圧迫されて肋などの骨を痛めたのかもしれない。
 竜の顎から解放された獪岳は、苦しそうに咳き込みつつ、微かに胸の辺りを庇っていた。

「っ、うっせぇ。
 兄貴って呼ぶんじゃねぇよ、善逸」

 そう悪態を吐くかの様に獪岳はそう言うが。
 しかし、そこに何か悪い感情の匂いは無い。

 どうにか全員の無事だ、と。
 そう安堵しそうになったその時。
 直接禰豆子の血を被った訳ではなかったからか、何時の間にか血鬼術の炎から逃れていた赤子の鬼が、再びあの凶悪な泣き声を上げた。
 ミシミシと音を立てて再び身体が押さえ付けられ始める。

「クソっ! これじゃあキリが無い!!」

 善逸が耳を劈く泣き声と身体を押し潰さんとする力に顔を顰めながらそう零す。
 泣き声だけでここまで強力な血鬼術を発動されてしまうのは、厄介なんてものでは無かった。
 どうにかしてまたあの泣き声を止めなければならないが、禰豆子の血鬼術を警戒してか、今度は竜の首で襲い掛かるのではなく、この身体を押し潰す血鬼術と喜怒哀楽の鬼の力で俺たちを殺す事に決めたらしい。
 大きく開けられた竜の口から、電撃と斬撃が迸る。
 身体が満足に動かない中では、それを避ける術は無い。
 しかし。

「本当、いい加減にしろこのクソ野郎!!」

 玄弥が善逸と獪岳を両脇に抱えて。
 そして、俺は禰豆子に抱えられて。
 俺たちはその攻撃を回避する。

 二人は無理矢理身体を動かしているらしく、その骨や関節などが絶えず傷んでいる音はしているけれど。
 しかし、それを鬼の回復力でどうにか誤魔化している様だ。
 禰豆子と玄弥は俺たちを抱えたまま、赤子の鬼から距離を取ろうとする。
 そうはさせじと、竜の首が分裂して俺たちを狙った。
 無理に動いている上に俺たちの様なお荷物を抱えた状態で鬼の攻撃を避け切る事は難しいけれど。


「皆はやらせないわよ!!」


 そこに俺たちを守るかの様に飛び込んで来た甘露寺さんの日輪刀が、その血鬼術ごと竜の首を切り刻む。そして。

「ここは俺たちに任せろ! お前らは『本体』を殺れ!!」

 何時の間にか赤子の鬼の背後から近付いていた宇髄さんが、その手元から無数の苦無を赤子の鬼に投げ付ける。
 赤子の鬼はそれに素早く反応したが、しかし投げ付けられた苦無の数が多過ぎてその全てを防ぐ事は出来ずに幾つかがその身体に突き刺さった。
 すると、まるで痺れたかの様に軽く痙攣した後に赤子の鬼はその泣き声を途切れさせる。
 その隙を見逃す事無く、宇髄さんと甘露寺さんは畳み掛ける様に赤子の鬼と周りを取り囲む竜の首を切り刻む。

 二人なら、あの鬼を抑え込む事も不可能じゃ無い筈だ。
 なら、俺たちは俺たちの出来る事を成し遂げなくてはならない。
 再び身体が自由になった俺たちは、甘露寺さんと宇髄さんにその場を任せて、再び『本体』を追い掛けた。

 匂いと、そして音と。
 俺と善逸で協力しつつ全力で逃げ隠れしている『本体』を追い掛ける。
 何処に逃げようが隠れようが、もうあの不快極まりない匂いは絶対逃さない。
 善逸も、今まで見た事が無い程に真剣な顔で集中して『本体』を追い掛けていた。
 そして。


「「──居た!!」」


 声を上げたのは善逸とほぼ同時だった。
 草葉の影に潜んでいたその醜悪な匂いの元は、再び俺たちに見付かった事を悟って、あの不快な悲鳴を上げて全力で逃げる。
 だが、逃さない、絶対に。
 夜明けを迎えるまでも無くその頸を斬り捨てる。

 真っ先に動いたのはやはり善逸だ。
 今まで見た事も無い様な速さの霹靂一閃で飛び出す。
 だが、善逸の狙いは『本体』の頸では無い。
『本体』を追い越した善逸は、追い込む様にその行く手を遮る。
 それに何の疑問も持たず善逸を避ける様にして曲がろうとしたそこに、善逸と同じ雷の呼吸の凄まじい速度で駆け出した獪岳が回り込む。
 そして、『本体』はそれを反射的に避けようとして。


「こそこそ逃げ回るのはもう終わりか?」


 追い込まれ目の前に飛び出て来た『本体』目掛けて、全力の「円舞」を放つ。
 比較的低い場所も狙えるその一撃は、『本体』の頸を正確に捉えた。
 しかし、やはりその頸は固く。
 刃先が僅かに喰い込んだだけでそれ以上は進まない。
 だが、獪岳も反対方向からその頸を狙って、その刃を喰い込ませた。
 俺も獪岳も、全力で踏ん張って、小さなその頸を斜めに叩き下ろす様に斬り落とそうとする。
 両側から頸を落とされそうになった『本体』は、悲鳴を上げていたが、もう分身を作り出す力は無いのか、新たな分身が現れる気配は無い。
 だが、俺と獪岳の日輪刀が少しずつその頸の奥へと喰い込んでいきかけたその時。
『本体』はぐるりとその頸を後ろに回したかと思うと、突然巨大化した。


「お前はああ! 儂がああああ! 可哀想だとは思わんのかァァァァアッ!!」


 そんな滅茶苦茶な事を口走りながら一瞬の内に野鼠程の大きさから八尺以上の大男の姿になった『本体』は、虚を突かれた獪岳を跳ね飛ばし、そして俺の頭を巨大な両手で掴んで握り潰そうとする。

「弱い者苛めをォするなああああ!!!」

ミシミシと頭の骨が軋む音がするが。

「テメェの理屈は全部クソなんだよボケ野郎がァァ!!
 被害者面してんじゃねェェェッ!!!」

 完全に潰される前に、玄弥が全力でその手の力に対抗してそれを防いでくれる。
 そして、善逸の霹靂一閃が鬼の両腕を斬り捨てた。
 あっさりと腕は落ち、そしてそれが回復する気配は無い。

「ハハッ! あんだけ分身が暴れてりゃあ流石の上弦の鬼でもバテるって事か!」

 それを見た獪岳が、しめたとばかりの笑みを浮かべる。
 無尽蔵にも見えたその力にも底があり、そしてもう上弦の肆も限界に近い事を理解して、尚の事此処で仕留めなければならないと決意する。

 巨大化した際にその頸に喰い込んだままの日輪刀を握り締めて、再びその頸を落とそうと試みた。
 巨大化した事で力を十分に入れやすくなり、そして鬼が消耗しているからなのかその頸は先程よりも柔らかく感じる。

「これで、終わりだ!!」

 力一杯に握り締めた日輪刀を一気に振り抜いて、俺は上弦の肆の頸を落とした。
 頸は地に落ちて跳ねる様に転がり、そしてその身体はよろよろと蠢き。
 丁度近くにあった崖から、その下に落下する。
 
 上弦の陸がそうであった様に、上弦の鬼は頸を斬られてからも他の鬼よりも長く身体が残るので完全に油断する事はまだ出来ないけれど。
 しかし頸を斬った以上は、これで……。

「終わった、……のか?」

 獪岳が戸惑った様にそう呟く。
 激戦の終わりがあっさりとしている事に、少し感情が追い付かないのかもしれない。
 だけれど。


「駄目だ! アイツまだ生きてる!!
 音が消えてない!!!」


 何かに気付いた善逸が、そう叫ぶ。
 それに驚いて思わず匂いを探ると。
 確かに、あの『本体』の匂いはまだ薄れる事無く存在している。
 何故、どうして。その頸を斬った筈なのに。

「クソッ! 舌の字が違う! こいつも分身だ!!」

 斬り落とした鬼の頸を確かめた玄弥がそう叫んだ。
 その言葉に一瞬目をやって確かめたそこに刻まれていたのは、「恨」。
『本体』の小さな舌に刻まれていたのは「怯」だ。
 字が違う。この鬼も分身なのか?
 なら、『本体』は何処に?

 混乱していると、禰豆子が焦った様に俺の服の裾を掴んで崖下を指差した。
 慌ててそこを見ると、頸を喪った鬼の身体がふらふらと動いている。
 そして、鬼がふらふらと移動していく先には。

「不味い……! 里の人たちが……!!」

 偶然その崖下が里の人々の避難路に近かったのか。
 恐らくは何処かへ避難している最中の里の人々の列があった。
 鬼の接近に気付いた鎹鴉たちが慌てた様に叫んで警告しているけれど、全員が逃げる事は出来ないだろう。
 今直ぐにでも里の人たちを助けなくてはならない。
 でも、『本体』は一体何処へ?

「炭治郎! アイツだ! あの身体の中の何処かに『本体』が隠れているんだ!
 身体の何処に居るのかはまだ分からないけど、あの身体の音に混じって、『本体』の音も聞こえる!!」

 逸早くそれに気付いた善逸はそう言うなり、身軽に崖に所々生えた木々を足場にする様にして崖を飛び降りる様にして素早く下る。
 俺たちもそれに続いて崖を下った。

 そして、どうにかして右腕を完全に再生させて人々に襲い掛かろうとしていた鬼のその腕を、善逸は再び霹靂一閃で斬り落とす。
 しかし、何度も全力の霹靂一閃を放った影響からなのか、その足を痛めてしまった様で踏み込んだ瞬間に善逸は苦しそうな顔をして。
 更に間の悪い事に、刃先が欠けてしまってボロボロになっていたその日輪刀が激戦の負担に耐え切れなかったのか、根元から拳二つ分程度の長さを残して折れてしまう。

 そして、刀を半ば喪ったも同然の善逸の頸を、不完全に再生しつつある鬼の左腕が掴んだ。
 少しでも鬼がその手に力を入れれば、善逸のその頸の骨は忽ち砕けてしまうだろう。
 一生懸命に全力で駆けても、俺の足じゃ間に合わない。
 だけど。

 ── 雷の呼吸って、一番足に意識を集中させるんだよな。

 ふと以前、任務の合間に善逸に教えて貰った雷の呼吸の極意が頭に浮かぶ。

 足の、その筋肉の繊維の一本一本。小さな血管の一本。それら全てに意識を集中させる様に、空気を巡らせて。
 足だけに意識を集中させて。
 力を溜めて、溜めて、溜めて──

 ── 一息に爆発させるんだ。
 ── 空気を斬り裂く雷鳴みたいに。

 まるでそれは音が置き去りにされたかの様な感覚だった。
 信じられない様な速さで、凄まじい距離を一気に駆け抜けて。
 そして、その速さを全て刀に乗せて、善逸の頸を絞めていた鬼の腕を落とす。

 雷の呼吸の要素を取り入れたその一撃は確かに凄い速さと威力であったが、雷の呼吸に適性がある訳でも無く雷の呼吸に適した身体にはなっていない俺には些か負担が大きくて、一気に消耗してしまった。
 それでも、間に合った。善逸を助ける事が出来た。
 善逸に教えて貰った、雷の呼吸で。

「炭治郎……」

 頸を絞められていた影響で苦しそうに咳き込みながら、善逸が俺の名を呼んだ。
 だが返事をしている余裕は無いし、何よりも此処でこの鬼の身体の何処かに潜んでいる上弦の肆の『本体』を探し出してその頸を斬らなければならない。

 何処だ、何処に隠れた。

 ただでさえ分身とは言え「同じ」鬼だ。その匂いは咄嗟には識別する事が難しい程に似通っている。
 だが、確かにその身体からあの腐り果てた性根の匂いが漂っている。

 匂いで捉えろ。他の全ての感覚を閉じる様に、それに集中するんだ。
 思い出せ。あの『透明な世界』の感覚を。
 限界まで研ぎ澄ませたあの感覚。匂いが世界の全ての形を教えてくれている様なそれ。体の中に流れる血液の一滴、細かな筋の収縮、その全てを知覚していたあの感覚の領域を。

 集中して、集中して、集中して、集中して……──


「……そこか」


 腐り果てた性根の臆病者が選んだ隠れ場所を探し当てる。
 まるでその全てを見透かしている様に、そこに隠れて身を縮こまらせて震えている姿すら把握する。
 今度こそお終いだ、見下げ果てた卑怯者。


「命を以て、その罪を償え!!!」


 鬼の身体のその心臓の中に隠れ潜んでいた『本体』の頸目掛けて、俺は全身全霊のヒノカミ神楽の呼吸と共に、力一杯に日輪刀を握り締めてそれを振るう。
 その刃は、再び『本体』の頸を捉え、中程まで喰い込んで。そしてそこで止まった。
 相変わらず信じられない位に硬い。
 本当にもう、いい加減にしろ。往生際が悪過ぎる。
 だけれども。


「炭治郎!!」「竈門!!」

 傍に居た善逸と、霹靂一閃の動きで崖下から一気に駆けて来た獪岳が。
 其々の日輪刀を、本体の頸に喰い込んでいる俺の日輪刀の刃先を更に奥へと押し込む様に、同時に全力で叩き付ける。
 その力によって更に刃は『本体』の頸に喰い込むが、それでもまだ少し足りない。
 まだだ、まだ足りない。
 だが此処で諦める訳にはいかない。
 この悪鬼をここで逃す訳にはいかない。

 《《心を燃やせ》》。
 もっと熱くなれ、もっと体温を上げろ、限界まで全身に血を巡らせろ、命を燃やせ。
 自分の全てを懸けて、悪鬼を討て……!
 轟々と己の中で炎が燃え盛る。
 そしてそれに焼べる為に、自分が差し出せるものを捧げようとしたその時。


 ── 自分から命の時間を絶対に差し出すんじゃない。


 ふと、悠さんの声がして。
 それに引き留められる様に一瞬躊躇ったその次の瞬間。

 日輪刀と共に、俺の身体が燃え上がった。
 いや、燃えているのは禰豆子の血だ。
 俺を鬼から庇った時に禰豆子が流した血が、燃えている。
 そして、燃える禰豆子の血によって再び日輪刀が、赫に染まる。
 また少し、奥へと刃が喰い込んだ。だが、後僅かの所で再び刃は止まってしまう。
 この場の三人とも、全員で必死に踏ん張ってその頸を落とそうと死力を尽くしているけれど。
 それでも後僅か、ほんの僅かが届かない。
 上弦の肆と言う存在の規格外さを思い知らされるかの様だった。
 ろくに回復出来ない程に消耗していて尚も、俺たちでは手が届かない。

 甘露寺さんも宇髄さんも、あの赤子の鬼を足止めする事に手一杯だ。
 此処に駆け付けられる余力は無い。
 時透くんも、悠さんも、何処にいるのか分からない。今この瞬間に駆け付けてくれる訳では無い。
 今ここでこの頸を斬れるのは、俺たちだけなのに。
 後、ほんの少しの一押しなのに……!!


「ああああああああ!
 これで、どうだああああああああ!!!!」


 崖下から此方に駆け寄ろうとしていた玄弥が、何かを力一杯に吼える様に叫んだその瞬間。
 善逸と獪岳の日輪刀が、爆ぜる様に燃え上がった。
 その炎は、禰豆子の血鬼術のそれとよく似ていて。
 その爆発する炎の勢いで、猛烈な勢いで刀が押される。
 そして──

 五人全員の力が合わさったその一撃は、終に鬼の心臓ごと『本体』の頸を斬り落として、ついでにその鬼の身体を真っ二つに叩き斬った。
 斬り落とされた頸は、耳を劈く様な絶叫を放って……そして、その悲鳴が消えるよりも先にボロボロと崩れ落ちて消える。
 鬼の身体は、今度こそ完全に消え去った。


「…………」

 全力を出し切った事で、力が抜けてしまって、思わずその場に座り込み、そしてそのまま仰向けに倒れ込んでしまう。
 周囲に鬼の気配や匂いは無いが、もしこの場を襲撃されたら成す術は無いだろう。
 しかし、もう一歩も動けないのではないかと言う程にまで、極限の疲労状態だった。
 横を見ると、善逸と獪岳も似た様な感じに倒れ込んでいる。

 上弦の肆を倒せたと言う達成感とか余韻とか、もう正直それどころでは無い。
 とにかく往生際の悪過ぎたあの鬼から解放された事に関して、ただただ「疲れた」と言う感想しか出て来ない。
『本体』を倒したと言う事はあの分身の赤子の鬼も消えただろうし、そうしたら甘露寺さんと宇髄さんが俺たちを探しに来てくれるんじゃないだろうか。
 何と言うのか、今はもうこの場を一歩も動けそうになかった。


「なあ、兄貴。
 今度さ、一緒にじいちゃんの所に帰ろうよ。
 じいちゃんさ、兄貴の事心配してたよ。
 一緒に上弦の肆を倒したって教えてあげたら、きっとじいちゃん喜ぶからさ」

「だから俺を兄貴って呼ぶんじゃねえ。
 お前みたいな弟を持った覚えは無い。
 大体、先生の事を『じいちゃん』って馴れ馴れしく呼ぶのは止めろって何回言ったと思ってるんだ。
 先生だとか師匠だとか師範だとか、幾らでも相応しい呼び方があるだろ。
 ……まあでも、鳴上とも約束してるからな。
 一回だけなら、お前と一緒に先生に会いに行ってやる」


 地に倒れて天を仰いだまま、善逸と獪岳はそんな言葉を交わしている。
 善逸からも、そして獪岳からも。その言葉と共に感じる匂いは、温かなものだ。

 天を仰いでみると、星灯が端の方から徐々に薄れていくのが見えた。
 ああ、少しずつ夜明けが近付いている。

 長い……まるで永遠に明けないかの様に思える程に、本当に永い一夜に感じたけれど。
 それでも夜は明ける、必ず。この世から太陽が消えてしまわない限り、何時か必ず朝が来る。
 ぼんやりと空を仰いでいると、追い付いてきた禰豆子と玄弥が覗き込んで来た。

「おーい、三人共大丈夫か? 立てるか?」

「今はちょっとこのままにして……」
「身体が重い……」
「ああ、ちょっと起き上がる位なら」

 玄弥の言葉に三者三様の答えを返しつつ、心配そうに抱き着いてきた禰豆子の為にも、俺は身を起こす。
 よしよしとその頭を撫でると、禰豆子は満足そうに微笑んだ。

「皆、ありがとう。
 善逸と獪岳のお陰であの鬼の頸に刀を通せたし、禰豆子と玄弥のお陰であの鬼の頸を落とせた」

 本当に、誰が欠けていたとしてもあの鬼を倒す事は出来なかっただろう。
 甘露寺さんと宇髄さんが助けてくれなかったら全滅していただろうし、途中で何処かに飛ばされて行ったものの時透くんが居なければかなり危ない時も多かった。
 全員の想いと行動が繋がって、上弦の鬼を討てた事がやっと胸の中に満足感と共に広がる。

 よく頑張ったなぁ……と禰豆子の頭を撫でているその最中、山の端が白む様にして夜が明けていく。
 今居るこの場所は広く拓けていて、何か陰になる様な場所は無い。

 不味い、と。そう思った瞬間。
 僅かに射し込んだ陽光に晒された禰豆子の肌が焼けた。
 
「ギャッ!」と苦痛に叫ぶ禰豆子の身体を、必死になって抱き締めて庇う。


「禰豆子!! 早く縮め! 兄ちゃんが陰になってやるから……!」


 何時も移動に使うあの箱は、宿の方に置いてきている。もしかしたら上弦の鬼との戦いの中で壊れてしまっているかもしれない。
 この場所では陽射しを遮れるものは、俺たちの身体位なものだ。
 しかし、まだ日は昇り切っていないのに、僅かに射し込んだ陽光ですら容赦無く禰豆子を焼いていく。
 小さくなった禰豆子を陽光から守ろうとしても、どうしても全てを覆い切れる訳では無くて。
 遮れ切れなかった陽光によって、ジュウジュウと痛ましい音を立てて禰豆子が焼けてしまう。


「禰豆子ちゃん!!」「禰豆子!」「……っ!」

 善逸が慌ててその羽織を脱いで禰豆子に被せてから、俺と同様に自分の身体で必死に影を作ろうとする。
 玄弥も獪岳も必死にその身体で禰豆子を陽光から庇う。
 それでも、それは完全では無くて。
 どうしても遮れない微かな陽光が禰豆子を苛む。

 ああ、神様、もし本当にこの世の何処かに居るのなら。
 どうかお願いします、禰豆子は見逃してください。
 禰豆子は誰も傷付けていない、鬼になってすら本当の自分を奪われてすら。
 それでも、誰も傷付けていないんです。
 優しい子なんです、強い子なんです。
 俺の、俺の命よりも大切な宝物なんです。
 後少しで、人間に戻してやれるんです。
 だから、だからどうか見逃してください。
 俺の大事な妹を、奪わないで下さい。
 お願いです。

 必死に心の中で祈る。
 何処の神様に祈れば良いのかなんて分からないから、取り敢えずもう手当たり次第に。
 もうこの場に於いて自分に出来る事は、祈る事でしかない。


「炭治郎!!」「炭治郎くん!!」

 その時、宇髄さんと甘露寺さんが崖の上から此方に叫んでいるのが聞こえた。
 事態を把握してくれたのか、急いで何か陽射しを遮れるものを用意しようとしてくれているのだろう。
 ああ、でも、でも……。

 その時だった。


「お、おに、おにい、ちゃん」

 腕の中の禰豆子が、何時の間にか大きくなっていた。
 一瞬、余計に陽に焼けてしまう、と焦ったのだけれども。
 しかし、その肌に陽光が射しても、もうそこが焼け爛れる事は無い。

「お、お、おはよう」

 何時の間にか何時も周囲の安全の為に付けている竹枷が外れていて。
 そして、辿々しくもハッキリとした意味のある言葉を喋る。

「禰豆子……? 大丈夫、なのか……?
 お前、人間に戻れたの、か……?」

 まさか自力で人に戻る事が出来たのだろうか、と。
 そう驚きながらその身体を確かめると。
 キョトンとした目で禰豆子は俺を見詰め返してくる。
 その眼の瞳孔は変わらず縦に細く割れた鬼のものであるし、口からは鋭い牙も覗く。
 鬼の特徴は確りとその身に残っている。
 それに、言葉を発する事が出来、以前よりもその目には確りと意識が宿っているが。それでも禰豆子本来のそれとはやはり違っていて。
 禰豆子が人に戻れた訳では無いのだと悟る。
 だが、禰豆子は鬼にとって致死である筈の陽光をその身に浴びても、全く気にする素振りも無い。

「禰豆子、ちゃん……?」

 善逸が驚いた様に声を掛ける。
 鬼と言う存在の常識を覆すその光景に、玄弥も獪岳も驚いた様に言葉を喪ってそれを見ていた。

「だ、だい、だいじょうぶ……」

 こちらの言葉を返すだけの様にも見えるけれど、しかしそこには確かに意識があって。そして、俺たちを見て、禰豆子はニッコリと笑った。
 それに、その表情に。思わず感極まってしまい、俺は禰豆子を強く強く抱き締める。


「あ、ああ、あああ…………。
 良かった、……良かった。禰豆子、本当に、本当に……。
 お前が、消えてしまわなくて、良かった……」


 どうして禰豆子が陽光を克服出来たのかは分からない。
 太陽の神様に赦して貰えたのか、それともまた別の理由なのかは分からないけれど。
 俺にとっては、禰豆子が無事であると言う、ただそれだけで十分だった。
 それ以上の事など、何も要らなかった。


「よかったね、よかったねぇ……」


 よしよしと、そう禰豆子に抱き締めたその背中を撫でられて。
 俺は、溢れ出してしまった感情と共にボロボロと涙を零しながら頷く。
 そんな俺の背を、「良かったな」とばかりに玄弥と獪岳が軽く叩いて。
 善逸は涙と鼻水でびしょびしょになった顔で、俺たち二人ごと抱き締めてオイオイと泣き出す。

 こうして、とても永かった一夜は、やっと終わりを迎えたのであった。






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