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冒涜の聖餐

◇◇◇◇◇




 鼻腔を擽る香しい匂いに釣り上げられる様に、ルフレの意識は深い水底から浮かび上がった。

 まだぼんやりとした視界に飛び込んできたのは、温かな湯気を昇らせているスープで。
 それは抗い難い程の香しい匂いでルフレの意識を支配する。
 その匂いに意識を抉じ開けられていく様に、ルフレは一気に覚醒した。そして状況を把握しようと周囲を見回す。
 すると、目の前のテーブル一杯に、所狭しと料理の皿が並べられている事に気付いた。
 そして、自分が豪奢な椅子に戒められる事も無く座らされている事にも。

 状況が飲み込めきれず、戸惑ったままにルフレがテーブルの正面を向くと、そこには。
 自分とその赤い瞳以外は殆ど同じ顔をした……かつて初めて邂逅した際には、ギムレー教団の最高司祭だと名乗っていた男が座っていた。そこに座る事が当然である様に、主として悠然と座り、ルフレへと底の見えぬ表情を浮かべている。
 それは、妖艶な微笑みにも、或いは憐みであるかの様にもルフレは感じ取ってしまう。

 ここは一体何処なのだろう。そして、目の前のこの男の目的は何なのだろう……。
 そんな事も思考の端には浮かぶのだが、それ以上にルフレの意識を支配するのは目の前に並べられた料理であった。
 身を蝕む飢餓感以上に、何故だか分らない程に抗えない『何か』を感じてしまうのだ。
 それは、ずっとずっと求め続け満たされぬが故に自身を苛み続けていたモノが目の前に与えられているかの様で。


「これらの料理は君の為だけに用意したモノなんだ。
 手荒に扱ってしまった詫びという訳ではないのだけれど、心行くまで味わって欲しい。
『食材』も、君の為の特別なモノなんだ。
 きっと、君も満足してくれると思う。
 勿論毒なんて入れてはいないよ。
 さあ、食べると良いさ」


 彼のその言葉に背を押される様にふらふらと、ルフレは目の前にあったスープの皿を手に取りそれを掬って、恐る恐ると一口食べる。
 その途端、餓え乾いていた全てが一瞬で満たされる様な、天にも昇る様な心地に満たされた。
 それに突き動かされる様に夢中でスープを飲み干していく。
 野菜と肉を贅沢に煮込み、隠し味なのか僅かに血を入れていスープは、出汁の旨味が滲み出ている。
 スープは瞬く間に飲み干してしまったが、極限に近い程の飢餓に蝕まれていたルフレの手はまだ止まらない。
 貪りつく様な必死さで、ルフレはテーブルの上に並べられていた料理を口にしていく。
 肉を使った料理が多いのだが、一体『何』の肉であるのかは分からない。
 だが、今まで口にした事も無い程にルフレの心を虜にする程に極上の味であった。
 一口噛み締める毎に、餓え乾いていた全てが満たされていく。身も、そして絶えず餓え乾き続けていた心の奥底まで。
 滴り落ちる肉汁一滴に至るまで、その全てがルフレを満たしていった。

 そして、ルフレが耐え難い苦しみから漸く解放されて人心地が付いたその時には。テーブルの上に所狭しと並べられていた皿はその殆どが空になっていた。
 それと同時に、拍手を鳴らす音がルフレを夢心地から現実へと引き戻す。


「いやはや、良い食べっぷりだったね。
 見ている僕の方も、昔を思い出して満たされる様な気分になったよ。
 ふふふ……最高に旨い肉だっただろう?」


 最高司祭の男のその言葉に、戸惑いつつも頷く。
 一体『何』の肉であるのかは分からないけれども。
 今までに食べてきたどんな料理も霞む程に「旨い」料理であったのは間違いないのだから。


「そうかい、それは良かった。
 僕と同じく、君もまた餓え乾いているだろう事は容易に想像が付いたからね。その為に、君をこうしてここに招いた。
 僕は既にもう『満たされた』のだから、君からその権利を奪う事は忍びなくてね。今の君は、もう満たされた筈だよ。
 『望んでいた者』の全てを、その身に受け入れたのだから」


 表面上は「慈愛」の様なその表情の向こうに何故か想像を絶する『狂気』の気配を感じて、ルフレは思わず息を呑む。
 そして、意図せず震えてしまう声で問うた。


「お前の言葉の意味が、僕には分からない。
 お前は何者だ、一体僕に何をしようとしているんだ?
 クロムは何処なんだ?」


 こんな所に招いて、料理を振舞うだけだとは到底思えず。
その意図やクロムの安否を問おうとしたのだけれども。
 最高司祭は、ルフレと同じ顔でキョトンとした表情を浮かべて、不思議そうに少し首を傾げた。


「言葉通り、君に食べて貰う為にここに招いたんだよ。
 僕が食べて満たされたのに、君は食べられずに餓え続けるだなんて、不公平だろう?
 僕たちは『同じ』存在なのに。
 それに、クロムは此処に居るじゃないか?」


 そう言って、最高司祭は。ルフレを指さした。


「え……? なにを、言って……」


 振り返っても、そこにクロムなど居ない。
 戸惑って辺りを見回しても、何処にもクロムの姿は無い。
 そんなルフレの姿に、最高司祭は再び首を傾げた。

「『何を?』も何も……たった今、君が食べただろう?」

「食べ、た……?」


 意味が分からず、茫然とそう呟くと。
 最高司祭は、ああと得心した様に呟き、指を鳴らす。
 すると、その手の上に、『何か』が現れた。
 ──それは。



「くろむ……」


 茫然と、信じられないと、嘘だと言ってくれと。
 混乱と絶望と。
 そんなそれらが全て綯い混ぜになったまま、ルフレは力無く呟いた。
 
 最高司祭の手の上に現れたのは。
 クロムの、首であった。

 だが、当然その下にあるべき身体は、何処にも無い。
 まるで眠っているだけであるかの様な表情で。
 だが、そこにあるのは首から上だけであった。

 最高司祭の手の上に血が滴り落ちてはこないのを見るに、切り離されてから時間が経っているのだろう。
 誰にもどうする事も出来ぬ、不可逆の『死』がそこにあった。

 どれ程目の前の光景を否定したくても、残酷なまでにその首は『クロムの死』を突き付ける。
 世界の全てが色を喪って崩壊していく様にすら感じる。
 それでも残酷な事に、例えクロムを喪ったのだとしても世界が終わったりはしなかった。

 クロムを喪い、それでも自分が命永らえている現実を受け入れたくなくて。
 発作的に、ルフレはテーブルの上にあったナイフを掴んでそれを己の首に突き立てようとするけれど。
 その切っ先が僅かにルフレの首元に当たった所で、ルフレの手は目に見えぬ手に押さえつけられたかの様に止まってしまう。


「おっと、危ない危ない……。
 そんな風に命を落としたら、折角君と一つになったクロムも浮かばれないだろう?
 やっと求めていたクロムと一つになれたんだ。
その幸せをもっと噛み締めるべきだろう?」

「ひと、つ……?」

「そうとも。
 君のクロムは、君に喰われて、君の血に、君の肉になる。
 君のその血の一滴に至るまで、クロムが存在するんだ。
 もう誰も、何事も、君とクロムを引き離せない。
 君の望みは、叶っただろう?」


 漸く。認めたくなかった現実の全てを理解し受け入れたルフレは、思わず自分の腹の中の『それ』を、全て吐き戻そうとするけれど。
 それは目に見えぬ力によって阻まれてしまった。
 ルフレが自由になるのは、言葉を発する舌と喉だけで。
 だからこそ、必死にルフレは言葉を紡ぐ。


「お前は誰だ!?
 どうして……どうしてこんな事を!!」


 そう問い直すと、最高司祭は壊れた様な笑みを浮かべた。


「僕は君だ。……正確には、未来の君自身だ。
 邪竜ギムレーとして目覚め、そして時を越えてこの過去へとやって来た『ルフレ』自身だよ。
 尤も、僕が過去へと跳んだ影響なのか、それともあの娘の影響なのか、少し過去が変わった様だから、君と僕では少し違うのかもしれないけれどね。
 それでも、僕たちが『同じ』存在である事に変わらないさ。
 だからこそ、僕には分かるんだよ。
 君が、クロムへの叶わぬ『想い』を抱いてどれ程餓え乾き苦しんでいるのかと言う事を、ね。
 ……僕もかつてはそうだった」


 だけれども、と。
 最高司祭……否、邪竜ギムレーと。
 ……未来のルフレ自身だと名乗った男は。恍惚とした様に、その身を抱き締めた。
 ぞっとする程に妖艶なその表情に、ルフレは息を呑む。


「だけれども、僕はクロムの全てを手に入れたんだ。
 その肉も、血も、骨の一欠けらも、そしてあの美しい魂も。
 その全てを喰らって、僕たちは一つになった。
 今の僕の身体の全てに、クロムが居る。
この血の一滴に至るまで、全身で彼を感じられるんだ。
 それまでの苦しみも絶望も、決して癒えぬ心の渇きすら、クロムがこの身に溶け込んだ瞬間に全てが満たされた。
ああ……! あの瞬間の感動は、何度思い出しても決して褪せぬ最高のものだった……!
 もしかして、君と僕が混ざった時に、その記憶の一部が君に流れ込んでいるんじゃないかな?」


 ギムレーのその言葉と共に、ルフレの頭はずきりと痛む。
 そしてまるで『思い出す』かの様に、あの「悪夢」を……。
 ルフレが自らの手でクロムの命を奪ってしまった、記憶を失ったルフレがたった一つ持っていたその『記憶』が、まるで本のページを高速で繰っていく様に想起される。

 腕の中で物言わぬ骸となったクロムの姿。完全に零れ落ち、二度と元に戻す事の叶わぬ彼の命の欠片。空に溶け行こうとする彼の美しい魂…………。
 そして、『ルフレ』は。自身の腕の中の彼を……──
 

 それを『思い出した』瞬間。
 ルフレは目の前で満ち足りた様に微笑む邪竜に、言葉ではどうやっても表現し切れない程の、強烈な嫌悪感と忌避感を感じ。そして、今の自分が邪竜と大差無い畜生以下まで堕ちてしまった事にも絶望する。

 それを自身が意図したかどうかは異なるが。
 ルフレもまた、クロムを喰らったのだ。
 その肉を、最愛の人の命を、喰った。
 殺した。ルフレが、殺してしまった。

 だが、最も度し難く嫌悪と絶望を抱くのは。
 そうやってクロムの肉を喰らってしまったと言うのに。
 心の何処か、自身でも決して理解しえないその心の海の何処かで眠っていた『怪物』は。肥大し続け狂ってしまった、彼への執着心から生まれた自分の姿をした『化け物』は。
 こんな形でクロムを手に入れた事に、得も言われぬ「歓喜」の念を抱いているのだ。

 これで真実クロムは自分ただ一人のモノであるのだと。
 この世の誰も、何も、自分とクロムを引き離せないのだと。

 ああ、それは何と醜く悍ましい……──


「どうして……こんな事を……。
 何だって僕に……クロムを……。
 こんな事、僕は……」


 自身の悍ましい『怪物性』を認識してしまったが故に、力無くルフレはそう呟く。
 自身にその様な悍ましい一面があった事は、この際否定は出来ないのだけれども。
 それでも、こんな事を望んだ事など、ルフレは一度も無かった。決して無かったのだ。
 ルフレが望んでいたのは、欲しかったのは。
 クロムと自分が愛し合い共に生きる様な、そんな未来で。
 決して、こんな形でクロムと一つになる事では無かった。

 そして何よりも。
 ルフレが望んでいたのはクロムの幸せなのだ。
こんな事にクロムの幸せなど、ある筈は無いだろう。
 こんな絶望に狂った果てにある壊れた『幸せ』など……。

 そんなルフレに、邪竜はいっそ慈悲深い神であるかの様に慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべ。そしてその手の中にあるクロムの首を優しく撫でて、それをルフレの手に渡す。
 まるでこの世の悪徳を煮詰めた悪夢の様な光景だと、ルフレはそれに悍ましさを抑えきれず心の中で吐き気を催した。


「『僕』がギムレーに覚醒すると言う未来を変えさせない為に過去へと跳んだのだけれども。
 強大な存在が時空を超えるには中々大変でね。
 その時に、少しばかり力を喪ってしまった。
 だからこそ、ギムレーとして覚醒した君と溶け合って、より強大なる存在として蘇ろうと思った訳だ。
 そしてその為に、「同じ」未来へと収束する様に少しだけ世界に干渉した。
 ただまあ……僕の時と違って君をこうして招いたのはね。
『勿体無い』と、そう思ったからさ」

「勿体無い……」


 狂人……。否、その言葉通りであるのならば既に、目の前のこの存在は『人』ではないのだからそう表現するべきではないのかもしれないけれども。とにかく狂ったこの存在の言葉に一々耳を傾けるべきではないのかもしれない。
 だが、ルフレはもう、疲れてしまっていた。
 クロムをこの様な形で喪い。だがクロムの命を奪ったのであろう邪竜に対して憎悪の炎を燃やす事も、「クロムを喰らって満たされてしまった」自身の『怪物性』が故に踏み切る事が出来ず。
 ……有り体に言えば、生きる理由を喪っていた。
 もう何も考えず、ただ眠ってしまいたい。
 眠る様に死ねるなら、もう何も望みたくなかった。


「僕の時は、何の調理もせずに食べる事しか出来なかったからね。勿論、それでも極上の幸福ではあったのだけれど。
 しかし、より美味しく食べる為のその機会も手段もあるのに、ただ喰らうだけだと言うのは勿体無い。いや、クロムに対して余りにも失礼な事じゃないかな?
 だからこそ、こうして最上の状態でクロムを喰らうべきだと思ったのさ」


 最高だっただろう? と。そう言外に訊ねてくる邪竜に、ルフレは何も言い返せなかった。
 狂い切った彼には、何を言っても通じないだろうし。
 そして、何をどう言おうと、邪竜を翻意させようと。
 クロムが生き返るなんて事は、決して無い。
全てがもう、終わってしまった後なのだから。

 かつてはルフレであったのだという彼がここまで狂ってしまったのは、邪竜として覚醒してしまったからなのか、それともクロムを喰らうという凶行を成してしまったからなのか。
 それは分からないけれど。

 ……恐らくは、ルフレもそう遠くない内に、彼と同じ深淵まで狂い果てるのだろう。
 クロムへの罪悪感に、自身の悍ましさに、それでも満たされてしまった罪業に、心の全てを狂わせながら。

  その予感を感じながらも、ルフレはもうそれに抗おうなんて意思を持てなかった。
 この胸に残っているのは、クロムへの懺悔の念だけだ。


「『炎の紋章』は既に完成しているのだし、『覚醒の儀』は何時でも行える。
 だから、今は暫し眠ると良い。
 目覚めた時には、きっと世界が違って見える筈さ。
 最愛の人と一つになった喜びを噛み締めてから、僕と一つになろうじゃないか」


 邪竜のその言葉と共に、邪竜の何らかの力によってか、ルフレは抗い難い程の眠気に襲われる。堪らず閉ざされてゆく瞼の向こうで、邪竜は満ち足りた様に微笑んでいた。

 クロムの首を抱えたまま、ルフレは眠りの世界に誘われる。
 その心に最後まで浮かんでいたのは、最愛の人の姿だった。

 ……何時か、狂い果てた先で。こうして彼の姿を思い描く事も叶わなくなるのだろうか。
 …………ならばせめて、それが少しでも遠い未来になる事を願う事は、赦されるだろうか。

 そんな事を最後に想って。
 ルフレの意識は完全に闇に閉ざされるのであった。




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