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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






「素晴らしい! お前の事は覚えているぞ! 
 杏寿郎と戦った時にあの場に居たな! 
 あの時のお前は圧倒的弱者、ただの雑草だった。
 だが、今のお前はあの時の影も形も無い! 
 目を見張る成長だ! こうも短期間でよく鍛えたものだ! 
 純粋に嬉しい、心が踊る! 
 お前、名前は何だ!」

 己の攻撃を捌きつつ回避する伊之助へと、猗窩座は歓喜の表情と共に言葉を掛けた。
 無一郎は無視した猗窩座の戯れ言だが、伊之助は素直に己の名を答えてしまう。
 伊之助にとっては、煉獄さんと炭治郎と共に遭遇した際には何も出来なかった相手でもある事もあって、色々と因縁があるのだろう。
 戦いながら人と話す事が好きであるらしい猗窩座は、伊之助独自の呼吸であるが故に多くの隊士や柱と戦ってきた猗窩座にとっても初見であるらしい獣の呼吸に興味を示したらしい。
 流れる様な動きで連発してくる致命的な大技はどうにか抑え込めているが、そもそも軽く放ってきた単純な打撃だけでもこの鬼は容易く人の身を砕いてしまえるのだ。
 そう言った単純な攻撃をどうにか避ける事もかなり難しく、無一郎も伊之助も攻撃に転じる事が出来ないでいる。
 自分も、イザナギで黒死牟を抑えている負担がそろそろ限界に達しつつあり、攻撃の為に余力を裂ける状態では無い。
 このままイザナギを維持出来なくなり黒死牟と猗窩座を同時に相手取るとなると、無一郎と伊之助を守り切れない。

 無一郎も伊之助も、強い。
 しかし、猗窩座と黒死牟は更にその上を行く強さだ。
 そして先程まで戦っていた玉壺の様な、攻撃の隙と言うものも無い。
 どうにも虚ろな拳を握り続ける猗窩座も、そしてイザナギに取り押さえられながら狂乱した様にただただ周囲を斬撃で埋め尽くし続けている黒死牟も。
 二人と、そして消耗が限界に達して満足にペルソナの力を使えなくなった状態の自分で、どうにか勝てる相手では無い。
 イザナギが居なければ両方の攻撃を抑え続ける事など出来ない。

 どうすれば良い? 
 どうしなければならない? 
 どうすれば……二人を守れる? 

 この場を一旦離脱する事も一瞬考えたが、それは駄目だ。
 随分引き離したとは言え、それでもまだ安全とは言えない位置に鋼鐵塚さんたちが居るのだし。
 そして、此処からは離れているとは言え炭治郎たちは半天狗と戦っている。
 その場にこの二体が現れたらどうなるのかなんて、考えるまでも無い。
 此処で抑えるか、少なくとも今夜は手出し出来ない程に叩きのめして撤退させるか、或いはここでこの二体を倒し切るしかない。
 だが、どうやって? 

 赫刀の状態であっても、無一郎ですら黒死牟の頸を落とせなかった。
 無一郎や伊之助から日輪刀を借りて自分が頸を落とす……と言う手もあるが。
 しかし恐らくそうしてしまえばその日輪刀を確実に破壊してしまうし、何よりも。
 この猛攻の中ですら壊れない十握剣はともかく、日輪刀を猗窩座にしろ黒死牟にしろその頸に届く前に折られないと言う保証は出来ない。
 そしてこの状況下で日輪刀を喪うのは死刑宣告も同然だ。
 十握剣を代わりに渡したとして、十握剣は無一郎や伊之助の持つ日輪刀とはその重量も大きさも全く違う。
 そして黒死牟も猗窩座も、慣れない武器で戦える様な相手では無い。
 だから、この状況を日輪刀でどうにかする事はほぼ無理だと言っても良い。
 なら、どうすれば? 

 ……ふと、思い付いた手はある。
 しかし、今の自分にそれをやれる余力は無い。
 なら、それを考えるだけ無駄だ。現時点で自分が切れる手札で勝負しなくてはならないのだから。
 それに……そんな事をすれば、きっと。

 ━━ 君みたいな『化け物』も居るなんて……。
 ━━ この『化け物』がアタシを虐めるの!! 
 ━━ 人間のフリなんてするの止めちまえよなぁあ? 
 ━━ ……この世に在ってはならぬ『化け物』だ。
 ━━ 『化け物』より『禍津神』が相応しい。
 ━━ 何故『人間』のままで居たがる? 

 鬼たちの言葉が、ふと蘇る。
 違う、『化け物』なんかじゃない。
 自分は『人間』だ、フリなんてして無い。
『人間』以外の何かになった覚えは無い。

 ……でもそれは、果たして《《この世界に於いては》》どうなのだろうか。
 自分はこの世界の存在では無い。この世界に居るべき者ではない。
 自分の意志でこの世界に迷い込んできた訳では……この夢を見ている訳では無いのだけれど。
 だがそれは、《《この世界に居てはならない存在》》である事とどう違うのか。
 自分の存在が、この世界の在り方すらもしかしたら捻じ曲げてしまっているのかもしれないのに。
 現に、自分の存在の所為で、上弦の鬼たちが鬼舞辻無惨の手によって強化されてしまった。
 それどころか、最悪何かの選択を間違えるだけで、鬼舞辻無惨が自分がこの世に存在する限りは永久に姿を隠してしまう。
 今までの鬼殺隊の人たちの努力と執念が、自分の所為で水泡に帰す可能性すらある。

 もしも自分が居なければ。
 猗窩座や黒死牟が、柱が二・三人揃って戦っても果たして勝てるかどうかも怪しい様な化け物にはなっていなかったかもしれない。
 少なくとも、玉壺と戦った直後に二体が送り込まれてくるなんて事にはなっていなかった筈だ。
 もっともっと、色んなものの被害が小さくなっていたかもしれない。
 そもそもこうして里が襲われる事も無かったかもしれない。
 ……勿論、自分が知りえないものをその筈だったと断言する事は出来ない。
 もっとどうしようも無い被害が出ていた可能性だってあるし、自分が居たからと言って何もかもが悪い方向に進んだ訳では無いだろう。
 ……だけれども少なくとも、ただでさえ恐ろしく強かった上弦の鬼たちが、もう果たして人の手に負えるものかも怪しい程にまで強化されてしまった事だけは、間違い無く自分の責任だった。
 自分の存在の所為で、鬼殺隊の皆を苦しめる結果になってしまった。
 ……そんなつもりは無かったのだ。
 ただ、少しでも大切な人たちの力になりたくて。
 ただ少しでも、苦しむ人たちを助けたくて。
 自分に出来る全てを以て、出来る限りの事をしたくて。

 ━━ 『神様』、有難うございます。
 ━━ あなたは俺たちの『神様』です。
 ━━ 『神様』
 ━━ 『神様』『神様』『神様』『神様』『神様』

 鬼殺隊の人たちの声も、耳の奥で反響するかの様に蘇る。
 それは、鬼たちの『化け物』と言うそれを押し流すかの様に響く。
 ……自分は『神様』ではない。『化け物』でも無いけれど。
 ただの『人間』だ。ただ、ペルソナの力が使えるだけで。ただそれだけの、たったそれだけの……。
 …………でも、人が蘇る事は無い、不可逆の傷が忽ち何事も無かったかの様に癒える事も有り得ない。
 本来なら、救える筈が無い人たちをも助けてしまえる。
 それは、紛れも無く「神の奇跡」である。
 そんな事、本来なら誰にも起こせない筈なのに。

 ━━ そうやって圧倒的な力を振り翳して満足ですか? 

 しのぶさんの言葉が何故か蘇る。
 違う、自分はそんな事をしたい訳じゃない。
 力任せに何もかもを壊してしまいたいなんて思っていない、自分の気に食わない事を力を振り翳して踏み潰そうとなんて思ってない。
 誰かが抱いた想いを、滅茶苦茶にしたい訳じゃない。
 ……でも、傍から見ていて自分がやっている事はそうなのかもしれない。
 そしてその結果が、巡り巡って大切な人たちを傷付け苦しめる事になるのなら。
 この世界に居てはならない自分の存在や……そしてこの世界の理すらも逸脱した様な力の所為で。その報いが、自分だけでなくて大切な人たちをも苛んでしまうのなら。
 では、一体どうすれば良いのだろう。……一体どうすれば良かったのだろう。
 何もかもから目を逸らして閉ざして、自分の心の叫びからも耳を塞いで。そうして、何もしなかった罪悪感に塗れながら何時かこの夢が覚める時を待てば良かったのだろうか。

 ━━ 悠さんの力があれば、今度こそあの男を……。

 珠世さんの言葉が脳裏を過ぎる。
 そうかもしれない、でも《《それだけで終わらせてはいけない》》。
 自分は、この世界に居ていい存在じゃないのだから。
 そんな存在が全部終わらせてしまっては、絶対に何かが狂う。
 沢山の人たちの想いを踏み躙る。ダメだ、それはダメなんだ。
 だって、色んな人達が想いを繋いで此処まで頑張って来たのだから。
 人の心を解さない|機械仕掛けの神様《デウス・エクス・マキナ》の様に振舞ってはいけない。そもそも自分は「神様」ではない。

 ……ああ、でも。
 自分が全部終わらせてしまうのなら。
 何もかもを踏み付けにしてでも、上弦の鬼たちも鬼舞辻無惨も何もかも消し飛ばしてしまうなら。
 この世界に在ってはならない様な力で、何もかもを正面から捩じ伏せて終わらせてしまうなら。
 もう、これ以上新たに傷付く人は出ないのだろうか。
 しのぶさんの様に、まるで自爆する様な覚悟で大切な誰かが命を擲つ事を止められるなら。
 鬼舞辻無惨を倒す為に、その力になる事は確実なのであろう『痣』を求めて大切な人たちが己の寿命を差し出そうとする事を、それを炭治郎以外には悟らせずに未然に防ぐ事が出来るのなら。
 それは「最善」ではなくても、それでも悪い道では無いのかもしれない。
 大切な人たちのその命を守れるなら。
 それだけでも、それは決して「最悪」ではない。少なくとも、自分にとっては。

 でも、それは確実に『人間』としての道を大きく踏み外す選択だ。
 まるで己を『神様』だと振る舞うかの様なそれが、正しい訳がある筈も無い。
 それが「実行不可能な事」ではないからこそ、選んではならない。
 それこそが一番沢山の人たちを最も確実に守る事が出来る方法なのだとしても。
 短慮が何を齎し得るのかをあの一年でよく理解しているからこそ、安易にそれを選んではいけない事も分かっている。

 だがそれでも、守れない事に比べれば。
 大事な人たちを喪う事に比べれば。

 皆を助けられるなら、「死」を選ばさずに済むのなら。
『人間』ではなくなったとしても、『人間』で居られなくなったとしても。
『神様』にでも『化け物』にでも、成ってしまっても構わない。
 皆が生きて幸せになってくれるなら、ただそれだけで。

 ━━ お願いします、『神様』……! 

 善逸の言葉が、どうしてか強く蘇る。
『神様』。……そうである事を望まれるのか。
 それが皆の望みなのか。
 それが皆の『願い』であると言うのなら……。

 ━━ 助けたいなら助けたら良いのよ。

 甘露寺さんの言葉が響く。

 ━━ 君は、何一つとして取り零さなかった。

 煉獄さんの言葉が響く。

 そうだ、助けたいのだ。助けなくてはならないのだ。
 そして何一つとして取り零してはならない。
 大切なものの為にも。守りたいものの為にも。
 その為に何もかもを差し出してでも──

 突き動かされる様に、意識を集中させる。
 目の前の敵を全て討ち滅ぼす為の力を、引き出す為に。
 既にもう半ば限界に達しているけれど、関係無い。
 自分の成すべき事をするのだ。
 差し出せる物は全て差し出してでも、守らなければ。
 そうだ。『心を燃やせ』

 ━━ 貴方が支払うべき対価は一つ。
 ━━ ご自身の選択に相応の責任を持って頂く事です。

 何時かの誰かの言葉が蘇る。
 分かっている。その通りだ。
【選択した事には責任を負わなければならない】。
 だからこそ、助けると決めたのならば、それを選んだのならば。最後まで戦わなければ。

 何か。そう、取り返しのつかない「何か」を。そうと理解しながらも選ぼうとしたその瞬間。


 致死の乱打の嵐をスルりと抜けるかの様な足取りで駆け抜けた人影によって、目の前で拳を握っていた猗窩座のその腕が斬り落とされた。
 意識の外からの己の胴を袈裟斬りに薙ぎ払うかの様な一撃を回避する為に、猗窩座は大きく後ろに下がる。
 そして、突然の乱入者の姿を見て、猗窩座は大きく目を見開いた。

 裾がまるで燃える炎の様に揺らめく羽織を身に纏ったその姿を。
 まるで炎の様なその特徴的な髪型を。その存在を。
 見間違える筈は無く、現にその存在は確かに此処に居る。
 だが、何故。どうして此処に? 


「煉獄……さん……?」

 自分が直前まで一体何をしようとしていたのかも忘れる程の驚きと共に呟くと。

「すまない、遅くなった。
 ……よく、頑張ったな。
 さて、此処からはこの炎柱──煉獄杏寿郎も相手だ」

 安心させるかの様にそう微かに微笑んだ煉獄さんは。
 直ぐ様にその眼差しに熱い闘志を漲らせながら、猗窩座とイザナギに取り押さえられたままの次第に『人』の形が崩れていく黒死牟を見据える。

 そんな煉獄さんに対して。
 黒死牟は眼中に無いとばかりに、どうにかイザナギを倒そうとしているが。
 猗窩座は、この場で戦い始めて、初めてと断言出来る程明確に動揺していた。

「何故だ……何故、生きている、杏寿郎……!! 
 お前は、俺が殺していた筈だ! 
 生きている筈が無い……! 
 ……っ、それとも鬼になったのか? 
 気配は上手く隠している様だが──」

 何故、何故。と。
 余りにも様々な感情が吹き荒れているかの様に忙しなくその表情を変えつつ、戦慄く様にその身を震わせながら猗窩座は問う。
 人間があれで生きている筈が無い。
 生きているなら、『人間』である筈が無い、と。
 それはまるで、そう自分に言い聞かせているかの様であった。

「俺は鬼になどなっていない。
 確かに、俺は命を落としたも同然だったが……此処に居る鳴上少年に命を救って貰った」

 だからこうして此処に居る、と。
 そうキッパリと言い返した煉獄さんは、その日輪刀を構えて油断無く猗窩座を見据える。
 そして煉獄さんのその言葉に、猗窩座が此方に目を向けた。
 だがその視線は、先程までの……己の武をぶつける相手を見るかの様なそれではなくて。
 余りにも複雑な感情……後悔、嫉妬、羨望、虚無、絶望、悲嘆、慟哭、憤怒などと言った多様な感情が渾然一体となったものである。
 闘う事を望み欲し強者を求めて彷徨う拳鬼が抱えるものとしては、どうにも似合わないそれは。
 しかし空っぽの様にしか見えなかった先程までのそれとは違い、猗窩座と言う存在のその本質……その虚無の更に奥にある猗窩座の根本である様にも見える。
 だが、どうしてその様な感情を向けられるのか皆目見当もつかないので戸惑うしかない。

 ── 破壊殺・終式 青銀乱残光!

 動揺したまま、猗窩座はその拳を握って煉獄さんに向かって恐ろしい速度と威力の高速の乱れ打ちを放つ。
 筋や腱や関節の損傷など完全に無視出来る鬼であるからこそ実現可能な、ほぼ同時に感じる程の広範囲を殲滅する数百発もの乱打は、敢えて狙い過ぎない攻撃も織り交ぜる事によって極めて回避が困難になっている。
 何度かそれを防いだからこそ、その脅威をよく理解している。
 明らかに動揺していても尚、その拳の冴えに衰えは無かった。
 最早思考とはまた別の領域で身体が動いている様なものなのかもしれない。
 一発でも掠れば、「死」も同義の攻撃である。
 ここまで消耗した状態だと、それを救うだけの余力があるとは言い難いし、何よりもそんな隙は無い。
 何としてでも煉獄さんを守らなければ、と。そう前に出てその攻撃を捌こうとすると。
 まるでそれには及ばないとでも言いた気に煉獄さんが軽く手でそれを制する。
 そして。

── 炎の呼吸 伍ノ型 炎虎!

 確実に当たるものを正確に見極めて炎の呼吸の力強い剣技でそれを潰しながら、それ以外の攻撃を一切の無駄が無い高速の身体捌きで避けた。
 傍目には煉獄さんの身体を猗窩座の拳がすり抜けていっている様に見えるのではないかと思う程に、最小限の動きの動きで躱されたそれを、猗窩座は驚愕する様な顔をする。
 そして、まだ動揺を残しつつも、その表情に歓喜を浮かべた。

「素晴らしい! あの時よりも、いやあの時ですら比較にならない程に、更に己を鍛え上げたのか、杏寿郎!!
 何故生きているのかなど、もうどうでも良い。
 黄泉の国から這い戻って来たのだろうと、今再び俺の目の前に立つお前とこうして戦える事以上に重要なものなど無い!
 こうして数多の強者と戦える僥倖を、俺は歓喜せずにはいられない!
 嬉しい、楽しい! なあ、そうだろう、杏寿郎!!」

 そう吼える猗窩座に、煉獄さんは答えない。
 そして無一郎も、伊之助も。猗窩座の言葉に何も答えず、ただその頸を落とす為に極限に近い程に集中している様だった。
 無一郎の呼吸の深さが変わったのが、音を聞くだけでも分かる。
 まだ『タルカジャ』と『スクカジャ』の効果は持っているからか、無一郎が握り締める日輪刀がより深い赫に染まった。
 確実に仕留めると、そう言わんばかりの気迫が其処に在る。
 ……大分限界は近いが、しかしもう一度全員を強化出来るだけの余力ならあった。

 イザナギを維持出来なくなる前に、黒死牟が自由になる前に、せめて猗窩座の頸だけでも落とさなければならない。
 煉獄さんがこうして駆け付けてくれた分、僅かにでも何かを仕掛ける余裕が生まれた。
 出来るかどうかでは無く、やらなければ。
 皆で、生きて夜明けを迎える為にも。

 意識を集中させて、再び全員に『マハタルカジャ』と『マハスクカジャ』を掛ける。
 恐らく、これで数分は確実に持つ。
 だが、黒死牟も相手にしなければならない事を考えると、余裕は殆ど無い。

「煉獄さん、日輪刀を握る手に意識して力を入れてみてください。
 恐らく、煉獄さんの刀も赫に変わる筈です」

 恐らく『赫刀』に関しては知らないのだろう煉獄さんに、最低限必要な事を伝える。そしてそれを疑う事無く意識してくれたのか、煉獄さんの日輪刀の色がその赤から灼熱そのものの様な赫に変わっていく。

 その赫に変わった日輪刀を見て、猗窩座は不愉快そうにその眉根を寄せる。
 そして、何故だかは分からないが黒死牟の抵抗がより一層激しくなった。
 やはり、この『赫刀』は鬼にとっては「何か」を感じるものである様だ。
 その鬼の血の根源にある鬼舞辻無惨の、その全てに叩き込まれた縁壱さんへの恐怖からなのか、或いはそれが己にとって極めて有害なものであると感じ取る本能故なのかは分からないが。
 何にせよ、一気に警戒心が高まったのを感じる。

「よくは分からないが、その日輪刀……不愉快極まりないな。
 まあ良い、もうそろそろ終わりにしよう」

 そう言って、猗窩座は己の全力の攻撃を繰り出そうとする。
 ビリビリと大気自体を震わせるかの様なその気迫に、しかし誰も臆する事なくただその頸を狙う。


── 破壊殺・滅式!!


 先程の乱打を遥かに上回る、大気ごと引き裂きそれに直接触れずとも範囲内の全てを打ち砕き吹き飛ばす程の、最早暴風の如き拳の嵐が吹き荒れた。
 その拳を十握剣で斬り飛ばす。だが赫刀どころか日輪刀でもないそれに幾ら斬り飛ばされようとも、まさに瞬きの間にその拳は再び再生する。
 だがその瞬き程の時間は、極限まで集中しそしてその身体能力も限界を超えて引き上げられている三人にとっては何十秒にも匹敵する時間であり、致命的なその嵐の中を駆け抜けるだけの余裕を生む。
 更に踏み込んで、今度は手首だけでなく腕や肩も狙った。
 猗窩座は此方の動きに対応してピッタリとそれに反応する様に攻撃を返すが、しかしそもそも自分一人に向けられた攻撃なら回避どころか防ぐ必要すら無いのでそれを正面から受け止めてそのまま十握剣を振り抜く。
 猗窩座が幾ら何らかの手段を以て相対する者の動きを完璧に先読みしているのだとしても、その身一つで対応出来る範囲は決して無限では無い。
 こうして自分が皆の盾となりながら真っ先に十握剣を振るえば、そちらへの対処が最優先になって他への対応はどうしても遅れる。
 それでも、無一郎や伊之助を同時に押さえ込めてしまえていた辺り、猗窩座は規格外の化け物であるのだろうけれども。
 十握剣による斬撃が決して己にとって致命的なものでは無いと分かっているからこそ、猗窩座はそれを避けるよりも正面から受け止めて鬼の尋常では無い回復力を以て無効化する事を選ぶが。
 だが、ほんの数瞬の差が己の命運を分ける事だってある。
 そう、今この時の様に。

 恐ろしい程の柔軟性を以て身を低くして斬り込んだ伊之助の刃が、猗窩座の左足を奪った。
 猗窩座がこの場に於いては最も《《脅威では無い》》と判断していた伊之助のその動きへの対処が、僅かに遅れていたからだ。
 僅かに体勢が崩れた所に、無一郎の刃が幾重にも斬り刻む様にその胴を断ち、ついでに右腕も半ば捥ぎ取る。
 反撃の様に無一郎に向かって繰り出された左腕を、それが届くよりも前に煉獄さんの日輪刀が斬り落として。
 回避しようとしたその右足を、弱めの雷神斬で斬り飛ばす。
 まさに数瞬の間に四肢を落とされた猗窩座の頸に、煉獄さんの日輪刀が勢い良く喰い込んだ。

 黒死牟のそれと同じく尋常では無い程に硬いその頸は、煉獄さんの渾身の一撃ですら数センチ程度喰い込ませる事で精一杯な様で。
 だが、この場に居るのは煉獄さんだけではない。
 無一郎が、猗窩座の頸に喰い込んだ煉獄さんの日輪刀に向かって己の日輪刀を叩き付ける様な勢いでそれを押し込もうとする。
 赫に染まった日輪刀と日輪刀が互いに叩かれた瞬間、更にその赫が増した様に見えた。
 無一郎の一撃によって、煉獄さんの日輪刀は更に奥へと喰い込み半ば程まで猗窩座の頸を落とそうとする。
 猗窩座は己の腕を再生させてそれを防ごうとするが、しかし二人の『赫刀』によって斬られたそれは再生が上手く進まない様で肘から先が少し修復された程度止まりで、ならばと再生された足で二人を吹き飛ばしその胴を泣き別れにさせようと足掻くが。当然それを許す筈も無く、伊之助と二人がかりでその足を再度奪った。

 地に押し倒された猗窩座のその頸を、煉獄さんと無一郎は己の全体重も掛けて更に斬ろうとする。
 更に日輪刀が奥へと喰い込んだ。
 猗窩座の表情が、明確な「死」を前にした驚愕に揺れる。
 身体をバネの様に跳ねさせて二人から逃れようとしたその身体を、その場に縫い留める様に十握剣を深く突き立てた。
 既に消耗が限界に達している為に物凄く辛いが。
 まだだ、まだ諦めるな、力尽きるなと、己を鼓舞し続けて。
 絶対にこの剣を離してなるものか、と。全力で集中して猗窩座の抵抗を意地と根性で抑え込む。

「オオオオオオオオオオ!!!」

 吼えてるのは、煉獄さんなのか無一郎なのか伊之助なのか自分なのか、それとも猗窩座なのか、もう分からないが。
 とにかくその場の全員が必死だった。
 また少し、煉獄さんの日輪刀が更に奥へと喰い込む。
 後少し、後もう少しで、猗窩座の頸が落ちる。
 それを理解した伊之助が、最後のダメ押しとばかりに、己の日輪刀も煉獄さんの日輪刀に叩き付けようとしたその時。


 ──終に、恐れていた「限界」が訪れた。


 根性と気合だけではどうする事も出来ず、限界に達したが故に、イザナギの姿が消える。
 完全にペルソナの力が使えなくなった訳では無いが、しかしもう何かを召喚する事は不可能だ。
 そしてそれは。


── 月の呼吸…………


 その斬撃が周囲を蹂躙する直前に、本当に咄嗟の判断でペルソナを切り替えて『ボディーバリアー』を使う事に間に合ったのは、最早奇跡に近かった。
 限界の所を振り絞る様に使ったからか、その効果範囲は本当に狭いものになってしまったが、しかし三人共触れ合える程の近距離に居た事もあって、全員を恐ろしい斬撃から守り切る事が出来た。
 だが、その隙に、押し倒されていた猗窩座がその両足を再生させて、跳ね起きる様にして全員を蹴り飛ばして。
 そして、己の頸に喰い込んだ煉獄さんの日輪刀を投げ捨てる様にして引き抜いて、憤怒の表情を浮かべる。
 もう四分の三は斬り落とせていた頸は、痛ましい音を立てつつも再度繋がろうとしていた。
『赫刀』で斬られたからかその再生速度はゆっくりではあるけれど、しかし確実に塞がっていく。
 頸を落とされかけた事で、まさに修羅と化した様な表情で此方を睨み付けた。

 そして、イザナギの拘束から自由になった黒死牟も、全身から刀を生やし、更には人間のものとは思えない触手の様な何かをその身体から生やして、此方を見ている。
 絶対にお前を殺すと、その目は狂気の様なその意志に染まっていた。
 最早刀を握る事すらせず、だが余りにも人間にとっては致命的な攻撃を何時でも無制限に放てるそれは、まさに「化け物」だ。
 鍛え抜かれた剣技を喪っても、恐ろしい程のその冴えが消え果てても。
 そもそもの話、己に近付けさせず何もかもを薙ぎ払えば良いだけなのだから、それで何の不具合があると言うのかと言わんばかりであった。

 完全に『人間』としての……かつて人であった時の名残すら捨て去ろうとしているその姿は、恐ろしいだとか見苦しいだとかと言う感情では無く、どうしようも無く「哀しい」と感じてしまう。
 どうして彼が鬼になってしまったのかは分からない、恐らくこの先も知る事は無いだろう。
 それでも、縁壱さんが語ったのだと言う、その兄の姿からは余りにも遠い場所に堕ちてしまったその有様は、「どうして」とそう問わずにはいられない。
 誰かに大切に想われていた存在が、縁壱さんの心を確かに支え照らしてくれていた人が、こんなにも堕ちてしまったその成れ果ての姿を見ると。
 どうしても、痛ましいと感じてしまうのだ。
 しかし、その目にはもう、かつて縁壱さんが語っていた様な「優しい兄上」は残っている様には見えなかった。かつては人であったその残骸でしかない様に見える。
 そして、それはこの場に居る全員を殺し尽くすまでは止まらないだろう。

 何とかしなくてはならない。
 だが、もう自分に出来る事は……。
 余りにも激しい消耗に、既に強烈な眠気に襲われている。
 ほんの僅かにでも気が緩めば、その時点で昏倒しかねない。
 だが、この状況下で自分がそうなったらどうなるのかなんて、分かり切っている。

 どうにかしなくては。
 何とかしなくては。
 皆を守らなくては。
 皆の為に出来る事をしなくては。
 
 差し出せるものは全部差し出してでも。
 記憶も、心も、絆も、存在も、何もかも。
 己が差し出せるものは、まだあるのだから。
【世界】に辿り着いた己に、不可能は無い。
同じ力を持っていた【彼】が成し遂げた様に。
 さあ、選べ、差し出せ。
 皆を守る為に、助ける為に。

 心の中で何かが己を引き留めようとするけれど。
 でも、この状況で皆を守る為には、それしか無いのだ。ならば。
【絶対に後戻り出来ない事】を感じ取りながら、それでも何かを選ぼうとした、その時だった。


 胸の奥で、温かな何かが満たされた様な気配がして。
 既に消耗が限界に達していた身体に、再び力が漲ったのを感じた。
 絆が完全に満たされた時のその感覚に、驚きと共に大きく目を見張る。
 何故なら、それは……今この絶体絶命の瞬間に己を満たしたその絆は。
【魔術師】と、そして……【欲望】。その二つだったからだ。
【魔術師】はまだ分かる。善逸との絆だ。どうして今このタイミングで満たされたのかは分からないけれど、まあそんな事もあるのかもしれない。
 だが、もう一つ。【欲望】のそれは、それが生まれていた事自体、自分は気付いていなかったものだった。
 だが、それが誰との絆であるのかは分かる。獪岳だ。
 獪岳に何かをしてあげられた覚えなど無いのだけれど、しかしどうしてだか今この瞬間に獪岳との絆は満たされていた。
 何でなのかなんて、理由は後で幾らでも考えられるだろう。

「負けるな」、と。そう二人に背中を押されたかの様な気がした。
「諦めるな」、と。そう鼓舞された気がした。

 人は独りでは生きられない、目の前に居ても居なくても必ず誰かと繋がっている、そして真の繋がりは限り無い力になる。
 ……それはよく分かっていたのだけれど。
 しかしこうして直接その力を感じると、やはりどうしようもなく支えられている事を実感するのだ。
 ああ……今だったら何だって出来てしまう様な気がしてくるのは、些か現金なのだろうか。
 でも、ならばこそ、応えなくてはならない。
 自分は独りでは無い、例えこの世界に居てはならない存在なのだとしても、こうして結ばれた絆が「偽物」でも「間違ったもの」でもない事を、知っている。
 善逸と獪岳だけでは無い。
 煉獄さんも、無一郎も、伊之助も、炭治郎も、玄弥も、しのぶさんも、カナヲも、宇随さんも、それだけではなくもっと沢山の人たちが、支えてくれている、信じてくれている。
 その全てに、応えたい。だから、今は。
 自分が出来る事を、全力で果たすだけだ。


「マガツイザナギッ!!」


 満たされたばかりの、【欲望】のアルカナの最上位のペルソナ。
 己に最も近い『イザナギ』とは対極の存在。
 足立さんとの絆によって己の中に生まれた、足立さんのペルソナと同じもの。
 誰かと全く同じペルソナに目覚める事なんて、ペルソナと言うそれの在り方を思えば有り得ない事だと思うのだけれども。しかし足立さんと自分は共に「駒」として選ばれた者だったからなのか。進んだ道こそ違えども、やはり何処か似ている部分があったのかもしれない。
 自分のペルソナなのだが、何と無く足立さんの存在を感じてしまう。
 マガツイザナギは、そんな風にある意味ではかなり特殊なペルソナだった。

 目の前に新たに現れた、『イザナギ』の様で『イザナギ』では無いその存在に、黒死牟と猗窩座は警戒心を向ける。
 だが、何か攻撃を仕掛けられる前に、マガツイザナギは動いた。


「──マガツマンダラ!!」


 まるで闇を煮詰めた様な禍々しい渦に、黒死牟と猗窩座が回避する暇すら無く呑み込まれる。
 闇に食い潰されながらその身体は大きく削られ吹き飛ばされるが、それでもやはり上弦の鬼と言うべきか、その一撃では身体を全て吹き飛ばす事は出来なかった。
 虫食いだらけの様にボロボロになりながらも、どちらも立っているし、その身は再生を始めている。
 そう、「身体」は無事だ。
 だが、『マガツマンダラ』の狙いはそこでは無い。

 禍津の闇が晴れたその直後。
 狂乱の絶叫と、それによる混沌がその場を支配した。 






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