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第五章 【禍津神の如し】

◆◆◆◆◆






 新たに現れた鬼がその背に背負った太鼓の一つを叩いた瞬間、地面から爆発する様な勢いで巨大な樹で形作られた竜の首が何本も姿を現した。
 噴き出す様に姿を現したそれは、周囲の岩盤を捲り上げながら猛烈な勢いで成長しながら枝分かれし、最終的には巨大な九の首を備えた竜の姿になる。
 そしてその竜の首は、それらが姿を現した際に宙高くに放り投げた善逸を狙って、その巨大な咢で咬み潰さんとばかりに迫った。足場も無い空中では霹靂一閃で避ける事も難しく、善逸に成す術は無い。
 だが、その巨大な顎が善逸の身を呑み込むその寸前に。
 樹の竜の首を斬り刻みながら凄まじい速さで駆け上った影が、善逸の身体を搔っ攫う様にしてその場から助け出す。
 白い羽織を揺らし、まるで布の様にすら見える不思議な日輪刀を手にしたその人は。

「甘露寺さん……!!」

 一週間近く前にこの里を発って行った、恋柱の甘露寺さんだった。
 何故此処に。救援要請を受けて駆け付けてくれたのだろうか。
 どうであるにせよ、何よりも心強い援軍だ。

「大丈夫!? 急いだんだけど遅れちゃってごめんね! 
 これ、間に合ったかな!? もしかしてギリギリ!?」

 周囲を破壊する様にその咢で咬み砕こうとする竜の首の攻撃を足場など無い空中でも柔軟に避けたり斬ったりしながら、甘露寺さんは善逸を背に乗せた状態で竜たちから離れた場所に軽く着地する。

「あなた、善逸君よね! 頑張ったね、偉いぞ!!」

 素早く善逸を降ろした甘露寺さんは善逸を偉い偉いと褒め倒してから、その変わった日輪刀を子供の姿の鬼に向かって構える。

「ちょっとキミ、おいたが過ぎるわよ! 
 私、怒っているんだからね!」

 プンスコと音が聞こえてきそうなその言葉に、鬼が構う様子は無い。

「弱き者を甚振る鬼畜。不快、不愉快、極まれり。
 極悪人共めが……消え失せるが良い」

 子供の姿の鬼……その背に背負った太鼓に刻まれた「憎」の文字を見るに恐らくはその名を持つのであろう鬼は、そう言ってその背の太鼓を一つ打ち鳴らす。
 すると、何時の間にかその鬼の近くにまで逃げていた『本体』が、地中から伸びて来た木の根に囲われる様にして頑強な檻の中に自ら閉じ籠った。

「クソッ! 逃げるなっ! この、卑怯者っ!!」

『本体』からは終始「怯懦」の匂いしか感じ取れない事が、神経を逆撫でするかの様に苛立たせる。
 そしてその憤激のままに、俺は声を張り上げた。
 善逸もその耳でこの鬼の卑劣さを嫌と言う程に感じ取っているのか、怒った様にその眼差しに険を宿らせている。

 この鬼は、恐らく今までもそうやって逃げ回って、何をしても死なない分身に己の障害を全て叩き潰させてきたのだ。
 だがそうやって矮小な体躯となって無力な弱者を装っていても、その性根の悍ましさは全く隠せていない。
 その怯え切った匂いの更に奥、今懐いている感情の匂いでは無く、その身に染み付いた「性根」としか言えないものの匂いは、余りにも醜悪であった。
 以前浅草で遭遇した鬼舞辻無惨の匂いも、この世のものとは思えない程に臭かったが。
 この鬼から感じる匂いは、それとはまた別の感じではあるが同程度に腐り果てた匂いである。
 しかも、この鬼から感じる「人食い鬼」としての匂いは、今までに対峙した事のあるどの鬼よりも強い。
 あの猗窩座と名乗っていた上弦の参の匂いよりも、更に酷い臭いである。
 恐らく百人や二百人なんて数では到底足りないだろう人の命を、この鬼は貪り食っている。
 己を弱者だと阿り憐れみを誘いながら、その実醜悪な本性のままに命を貪り喰らう。
 それを、悍ましいと言わずして何と言うのか。

「何ぞ? 貴様ら、儂のする事に何か不満でもあるのか? 
 のう、悪人共めらよ」

 俺の言葉に、「憎」の鬼はギロリと此方を睨みつけて来る。
 不快極まりない、と。間違いなくそう言っているその視線に、「ふざけるな!」と叫びたくなる。
 恐らく、この「憎」の鬼は強い。先程まで戦っていた四体の分裂鬼の何よりも、その四体全てよりも。
 その圧倒的な威圧感が、それを何よりも雄弁に語る。
 だが、それが何だ。
 心を奮い立たせ、その奥底に決して消えぬ火を灯す様に、日輪刀を強く握り締めて大きく息を吸う。
 禰豆子の力によって赫く染まっていた刃は、血鬼術の基となる禰豆子の血を燃やし尽くしたからか既に元の黒刃に戻っているけれど。しかし、この鬼を許してなるものかと言う、その強い意志は変わらず此処に在る。
 さっきまでと同様に、幾ら強かろうとも『本体』では無い以上は「憎」の鬼を幾ら攻撃した所で鬼を倒す事は出来ない。
『本体』がその近くに隠れてしまった以上は、「憎」の鬼を無視して戦う事は出来ないが。
 しかし、この場には柱である甘露寺さんが居る、善逸が居る、玄弥が居る、禰豆子が居る。
 なら必ず、繋げてみせる。鬼の頸を斬る為に、必ず。

「……どうして。どうして、俺たちが『悪人』なんだ?」

「斯様な事も分からないとは。無知故の悪行か。
 それは決まっておる。『弱き者』を甚振るからよ。
 のう、先程貴様らは手の平に乗る様な『小さく弱き者』を追い詰め斬ろうとした。
 何と言う極悪非道。これはもう鬼畜の所業だ」

 しゃあしゃあと、さも当然の様にそう語る鬼の言葉に。その場に居た甘露寺さん以外の全員から怒りの匂いが立ち上ったのを嗅ぎ取る。
 状況がよく分かっていない甘露寺さんも、戸惑いつつも鬼の滅茶苦茶な論理には反発を感じている様だった。

「『小さく弱き者』だと? 誰の事を言っている。
 お前の本性は分かっているぞ。
 弱者を装い他人を貪る、己の醜さを顧みない薄汚い卑怯者だ……!! 
 何百人喰った? 何百人殺してきた? 
 その内の何人に、お前が言う様な罪があった? 
 人の命を何百と貪り食っていながら被害者ぶるその捻じ曲がり腐り果てた性根で何を語る……! 
 お前はただの醜い卑怯な悪鬼だ! 絶対に許さない!! 
 その頸、必ず斬り落としてやる……!!」

「自分の行いを顧みる事も無く自分以外に全部押し付けてるお前の心の音は、今まで聞いた事も無い程に最低だ。
 お前が言う、『小さく弱い者』の姿ですら、何処までも卑怯で自分勝手なその心の現れなんだろう! 
 鬼畜は、極悪非道は、お前自身の事だ!」

 鬼の言葉に反駁するかの様にそう叫んだ俺に続いて、善逸も本当に許さないとばかりに叫ぶ。
 俺が匂いから感じているものとはまた別の醜悪さを、その耳は捉えているのかもしれない。
 何であれ、この場にこの鬼のその言葉を許している者など居ない。
 玄弥は黙ってはいるがその額に青筋を浮かせているし、意味のある言葉を話せない禰豆子も怒りを抑えている様に唸る。
 この場の誰の胸にも、信じ難い程に醜い鬼のその言葉に、その心の内に怒りの炎が燃え上がっている様だった。
 この鬼が、鬼となったから此処まで歪んだのか、それとも生来そうであったのかなどもうどうでも良い。
 ただとにかく、目の前の存在が強大なものである以上に醜悪極まりないものである事だけが間違え様の無い事実だ。

「よく分からないけど、君がとっても悪い奴だって事は分かるわ! 
 見た目が子供でも許さないんだから!」

 そう言って甘露寺さんはその変わった形の日輪刀を構える。
 しかし、甘露寺さんはまだその鬼が『本体』では無い事を知らない。

「甘露寺さん! そいつは鬼の『本体』じゃない! 
 上弦の肆の本体は、アイツの近くにあるあの木の檻の中に隠れています! 
 でも、鬼は野鼠程度の大きさしかないのに、その頸は尋常じゃ無い位に硬いんです!」

「そうなの!? 分かったわ! 
 じゃあ、何とかしてみせるから!!」

 甘露寺さんがそう答えるなり、鬼はその動きを見せた。

 ドドドドドドドドドと、絶え間なくその太鼓を叩くと。
 九本の樹で出来ている筈のその首がグネグネと動き回り、そしてあの「喜怒哀楽」の分裂鬼たちの力を以て周囲を蹂躙する様にばら撒き出した。
 その全ての威力が、あの分裂鬼たちが使っていたそれよりも更に強いものになっている。
 それだけではなく、複数の分裂鬼の能力を同時に重ねて使えるらしい。
 烈風が、雷撃が、強烈な斬撃が、五感を狂わせる程の爆音が。
 俺たちを蹂躙するかの様に四方八方から絶え間なく降り注ぐ。
 一応、木の竜を動かす際には鬼がその背の太鼓を叩く必要があるようだけれど、それを止める事も難しい。
 其々の首は凡そ六十六尺の長さがあり、其々の頭部は俺たちの中で一番体格が良い玄弥ですら一飲みにしてしまう程に大きい。木である為にその中心の場から動く事は無い様だが、しかし『本体』がその中心付近に籠城している以上は接近しない事にはどうする事も出来ない。
 しかも、血鬼術によって操られているだけの樹であるからか、斬り刻もうが何をしようが、竜の首が怯む様な事も無いし、斬った所で直ぐ様に回復してしまう。
 ただ、その竜の首の硬さ自体は物凄く硬くてもあくまでも樹木のそれの範疇であり、あの『本体』の頸とは違って俺たちでも斬れる範疇である事だけは唯一の幸いとも言える。

 ── 恋の呼吸 参ノ型 恋猫しぐれ! 
 ── 恋の呼吸 陸ノ型 猫足恋風! 

 俺たちを圧殺するかの様に絶え間無く降り注ぎ続ける攻撃を、甘露寺さんがその独自の呼吸で攻撃ごと切り裂くと言う離れ技をやってのけて少しの隙を作り、そして僅かに生まれたそれを逃す事無く鬼の攻撃を回避し往なし時に斬っていく。
 どうにかまだ致命的な状態は避けられているが、しかしこのままでは甘露寺さんの負担が大き過ぎる。
 大技の連発なんて、そう長くは持たないだろう。
 幾ら甘露寺さんが柱でも、人間である以上は何処かで体力の限界が来る。
 それは余りにも不味い状況だ。
 何よりも、赫刀の状態にしても善逸でも『本体』の頸を落とせないのなら、今この場で『本体』の頸を落とせる可能性があるのは甘露寺さんだけだ。
 ならば、こんな所で徒に消耗させる訳にはいかない。

 しかし俺たちに出来る事は、とにかく足手纏いにはならない様に攻撃を回避する事位で。
 どうにか隙を縫って『本体』が逃げ込んだ木の檻に近付けないかとは試みてはいるものの、怒涛の攻撃を前にすれば攻撃に当たらない様にするだけでも精一杯だ。
 一度でも掠っただけで満足に動けなくなるだろう程のその攻撃を前にすれば、身を捨てる様に特攻した所で何の意味も無い。
 玄弥の弾丸も、あくまでも血鬼術で操られた木でしかない相手に対しては大した有効打にはならない様で、その動きを止める効果は発揮されない様だ。
「憎」の鬼本体に撃ち込むならまだ効果があるのかもしれないが、縦横無尽に動き回る九本の竜の首がそれを許さない。
 禰豆子に再び赫刀の状態にして貰えれば、斬った竜の首が再生するまでの時間を稼げるのかもしれないが。
 しかし、禰豆子にそれを頼むにしても即座に出来る訳では無いのだし、どうしたって隙は出来てしまう。
 そして、この状況下ではそれは命取りに他ならない。
 鬼の攻撃のその大半は甘露寺さん一人に集中している。
 甘露寺さんこそがこの場を支えている最も強い相手だと理解しているからだろう。
 しかし、甘露寺さんに向けられたものと比較すると大した事は無い程度の力であっても、俺たちにとっては必死に避けなければならないものである。
 そして甘露寺さんも尽きる事の無い怒涛の攻撃に防戦一方になってしまっていて、『本体』を狙える状況では無い。
 せめて、あと一人。柱では無くても、この状況を少しでも好転させられる誰かが来てくれれば。
 ほんの僅かな隙でも生まれれば、と。
 そう思っていても、そんな都合の良い事は早々に起きない。

 上空から降り注ぐ雷撃と共に周囲一帯を叩き潰す様に吹き下ろされた烈風をギリギリの所で回避して。
 咬み潰そうと迫って来た竜の頭を、三人がかりでどうにか斬って。
 直後に背後から浴びせ掛けられた爆発する様な音圧の暴威を、玄弥に押し倒されながら飛び退く様にしてどうにか全員で回避して。
 横薙ぎにする様に無数に放たれた電撃を纏った斬撃の数々を、甘露寺さんを狙う為に俺たちの通り過ぎようとした竜の首に刀を突き立ててしがみつく様にしてどうにか回避して。
 周辺の森全体が、鬼の攻撃によって見る見る内に更地になりあちこちが陥没していくのを冷や汗と共に感じながら。
 とにかくどうにか生き延びる事だけでもかなり精一杯である。

 悠さんと時透君と一緒に特訓していなかったら、絶対にもう死んでいた。
 悠さんが、上弦の壱の攻撃の再現だと言ってやってくれていたそれを経験していなければ、もう既に死んでいたと思う。
「憎」の鬼のその攻撃はもう滅茶苦茶でまさに「化け物」と呼んでも良い様なものだけど。
 でも、悠さんが再現した上弦の壱を想定した攻撃の方がもっと速かったのだ。
 手数と物量で圧倒してくる鬼の攻撃は厄介だが。
 僅かに意識を逸らした瞬間にはそれを知覚する事すら出来ずに切り刻まれているだろうと確信してしまう様な、上弦の壱を模倣したそれに比べれば《《まだマシ》》だ。
 それに……もっともっと《《理不尽極まりない暴威》》と立ち向かった事がある様な気もする。
 そんなの何時の事なのか思い出せないけれど。
 ただ何であれ、今この瞬間に生きていられるのは、色んな人たちが助けてくれたお陰なのは確かだ。
 それでも、まだまだ足りない。俺は弱い。
 回避に専念するしか無い防戦一方の状況を打破するには至らない。
 あの鬼の意識は殆ど此方には向いていないのに、それでも隙を衝く事すら困難なのだ。
 夜明けまではまだ遠く、夜は長い。
 それまでをずっとこうして耐え続けると言うのは無理だ。
 人間は無限には動けない。
 俺たちも、そして甘露寺さんも。
 夜明けまでこうして戦い続けるのは無理だ。
 特に、甘露寺さんは怒涛の如き攻撃を防ぐ事に手一杯で、ほんの少しも回復に回せていないのだ。
 俺たちよりも先に限界が来てしまう可能性だってある。

 しかし鬼の方も、容赦無く攻撃を仕掛けているのに、柱である甘露寺さんはともかく、俺たちですら殺せていない事に苛立ったのか更に一段と激しく太鼓を叩く。

 ── 血鬼術 無間業樹

 その途端に、九本の竜の首の至る所から、枝が伸びる様に無数の様々な大きさの竜の首が生えた。
 幹であるその首の大きさを超えるものは無いが、ただでさえ九本の首を相手にするだけでも精一杯になっていたのに、この数では果たして回避出来るのかすら怪しい。
 枝分かれした首が発する術の威力は、幹から放たれるそれに比べると多少マシではあるけれど。
 しかし、もう空間の全てが滅茶苦茶になる程に術が全てを埋め尽くす様に飛び交っている。
 一旦攻撃が届かない場所に退避する事すらも困難だ。
 どうにか必死に避けるが、もう辺り一帯に血鬼術の濃過ぎる匂いが撒き散らされ、耐えず響く轟音に耳もまともに聞こえているか怪しい。周りが何がどうなっているのかも殆ど分からなくなる。

 そして、近くで爆音が鳴り響いた事で少なからぬ影響を受けたのか、善逸の回避が僅かに遅れた所に、竜の口から放たれた無数の斬撃が迫る。

「善逸! 避けろ!!」

 そう叫んで、そしてそれよりも早く反応した善逸が急いで地面を蹴ろうとしても。
 そもそもギリギリの所で回避し続けていたのだし、何より竜の攻撃のその範囲はかなり広く避けきれるものでは無い。
 ああ……駄目だ、このままじゃ。と。
 そう焦った俺たちが、しかしその数秒にも満たない時間の中では何も出来ずに居たそこに。

 鬼の雷撃の音とはまた別の、雷が落ちた様な音が響いて。
 善逸を襲う筈だった斬撃はギリギリの所でどうにか防がれた。


「あー、クッソ! 何油断してやがるんだ、このカス! 
 こんな所で詰まらねぇ死に方してんじゃねぇぞ! 
 大体、お前らどんだけ奥に行ってんだよ! 
 あれが上弦の肆の『本体』ってやつなのか?」


 そう吼える様に、不本意だとでも言いた気な表情で。しかし間違い無く、まるで雷の様にその場の誰よりも素早く危地に飛び込んで善逸の危機を救ったのは。
 善逸の兄弟子である、獪岳だった。






◆◆◆◆◆





 不意に近くで弾けた爆音に、思いっ切り鼓膜を揺らされて。
 一瞬とは言え、前後不覚の状態になりかけた。
 その瞬間には、「不味い!」と自覚して、己を叱咤する様に直ぐに何とか持ち直したけれど。
 しかし、鬼の術が空間全てを埋め尽くすかの様に乱れ舞っている状況では、その一瞬ですら命取りになる。
 僅かに回避が遅れた俺を目掛けて、無数の斬撃が降り注がんとしているのが、どうにも非現実的な光景の様に見えてしまう。
 どうにか霹靂一閃で回避しようとしても、斬撃の範囲が広過ぎて回避しきれる様なものでは無いし、更に回避した先でもまた別の術が暴威を奮っている。
 降り注ぐ斬撃を斬って迎撃しようにも、霹靂一閃は回避はともかくそう言った防御よりの行動にはとことん向かない型だ。
 完全に袋小路に追い詰められ、狩られるのを待つだけの状況に陥ってしまっていた。
 生き延びる方法を探る為に、思考は極限まで素早く回転し、斬撃が身を切り裂くまでのほんの数瞬を可能な限り引き伸ばすかの様に全神経が集中する。
 まるで、悠さんの力で垣間見せて貰った『透き通る世界』とやらをまた感じているかの様に。
 世界に「音」だけが満ちている様な気すらした。
「音」よりも遅いものは全て止まっているかの様なその世界の中で。
 己に向かってゆっくりと降り注ぐ斬撃の一つ一つがハッキリと捉えられ、そして周囲を駆け巡っている鬼の術の全てを鮮明に感じ、神話の中の八岐大蛇の様に周囲を蹂躙する九つの木の竜の首のその一つ一つの急所や、それらを操る鬼の事も、そしてその鬼の近くに隠れたあの卑劣な『本体』の事すらも。この場の全てを掌握しているかの様に知覚出来る。
 しかし、知覚しているからと言って、知覚したそれそのままの速さで動ける訳では無くて。
 どうしたってその斬撃を避け切る事は出来ないと言う残酷な現実だけが目の前にある。
 それでも、少しでも足掻こうと、地面を蹴ろうとした、その時。

「音」の世界に、鮮烈な程の『雷』の音が鳴り響いた。
 それは、鬼が操っている雷撃の音とは全く違う。
 かつて何度も何度も聞いていた、「雷の呼吸の音」で。

 そして、目の前に瞬時に滑り込む様にして飛び込んで来ながら、降り注ぐ斬撃を弍ノ型である稲魂で叩き落としたのは。


「あー、クッソ! 何油断してやがるんだ、このカス! 
 こんな所で詰まらねぇ死に方してんじゃねぇぞ! 
 大体、お前らどんだけ奥に行ってんだよ! 
 あれが上弦の肆の『本体』ってやつなのか?」


 そんな罵声の様な声と、不本意極まりないとでも言いた気な顔をしながら。
 それでも、俺の命を助けてくれたのは。


「獪……岳……?」


 見間違える筈など無い、俺の兄弟子であった。
 一度目は、偶然の成り行きの様なものだろうと思った。
 でも、これは二度目だ。
 もう、偶然なんかでは無い。

 それに、俺に対しての罵声のその奥で、目の前の鬼に対する恐怖の音が確かに俺の耳には聞こえるのだ。
 かつて獪岳が対峙し、その心を完膚無きまでに折られた相手である上弦の壱に比べれば、この鬼から聞こえる音は《《マシ》》ではあるけれど。
 それでも、それを除けば今まで遭遇してきた様な鬼がただのヒヨコだとすら思える様なまでに圧倒的な強者であり、人にとっては暴威の化身でしか無い。

『死にたくない』と、そう叫ぶ獪岳が。
『生きたい』と、上弦の壱に跪いて鬼になる事すら受け入れようとしていた獪岳が。
 この鬼に、その暴威によって蹂躙されている領域に飛び込むのは。
 獪岳にとっては、並々ならぬ「勇気」が必要だった筈だ。
 実際、今の獪岳は必死に虚勢の様に何時もの調子を取り繕ってはいるけれど。
 恐怖の音は、命の危機に対しての本能的な逃避の欲求が奏でる音は、一瞬たりとも絶える事無くその心の中から響いている。
 それでも立ち向かうのは、その刀を握り締めているのは。

 獪岳が、確かに変わったのだと。少しでも変わろうと、必死に踏ん張ろうとしているのだと。
 そう、思っても良いのだろうか。
 そう信じても、良いのだろうか。

「間抜け面晒してんじゃねぇぞ、このカス! 
 死にたくなけりゃ、とっとと動け!」

 今度は横から飛んで来た斬撃を、参ノ型でどうにか防いで獪岳は怒鳴る。
 霹靂一閃に比べれば、弍ノ型以降はこうして防御寄りの戦い方も出来るけれど。
 しかし雷の呼吸自体が、素早く斬り込み見敵必殺とばかりに相手を倒す事を以てして最大の防御とする様な呼吸だ。
 他の防御に適した呼吸に比べると、どうしても無理が出てしまう事が多い。
 実際、獪岳は物凄く必死に攻撃を捌いている状態だ。

 追撃の様に放たれた全てを押し潰す烈風を、どうにかして二人で避けて。
 そして、炭治郎たちと一旦合流する様に、鬼の術がその暴威を奮って甘露寺さんを追い詰めようとしているその中心から僅かに距離を取る。
 それでも攻撃は容赦無く飛んで来るが、しかし鬼たちが居る中心のそれに比べれば微風みたいなものだ。

「助かったけど、どうして此処に?」

「何だ、文句でもあるのか? 
 戦ってた筈の鬼が急に姿を消したから、何処に行ったのか探してたんだよ。
 てか、今どうなってんだ? 
 あれは、何だ? 鬼の『本体』とやらなのか?」

 そう尋ねてくる獪岳に、あれは鬼の『本体』では無くて、鬼が生み出した分身たちがまた一つになって姿を変えたものだと説明し、『本体』はその分身の近くにある木の檻の中に自ら閉じ篭って隠れているのだと状況を説明する。
 また、鬼の『本体』は恐ろしく小さいのに、人の指一本分の横幅も無いその小さな頸は尋常では無い程に硬いと言う事も。

「って事は、あの中に飛び込んで、そこに隠れている『本体』とやらのクッソ硬い頸を斬らなきゃどうにもならねぇって事か……」

 厄介極まり無い、と。この場の誰もが思っているそれを口にして、獪岳はゲンナリした様な顔をする。
 とは言え、そうしなければこのまま擂り潰されて終わるだけなのだ。
 甘露寺さんは物凄く頑張って鬼の攻撃を見事に捌いているけれど、幾ら柱でもやはり体力の限界は何処かにあるのである。
 獪岳がこうして共に戦ってくれるのなら、少しは状況は良くなっている筈なのだけれど。
 しかしあの鬼が余りにも強過ぎて、それだけではまだ攻勢に回るには足りない。
 しかし、他に手段など無いのだ。
 ここで手を拱いていても何も変わらないし、此方側の「限界」はどんどんと近付いてくる。

「とにかく、甘露寺さんの為に少しでも路を作ろう。
 多分、この場であの『本体』の頸を斬れる可能性があるのは甘露寺さんだけだ」

 この場に於ける一番の希望の光は甘露寺さんなのだから、と。
 そう言う炭治郎の言葉に、全員が頷く。
 五人居ても少しの攻撃を捌いたり避けたりするだけでも精一杯な俺達とは違って、甘露寺さんは瀑布の様に絶えず降り注ぐ攻撃を全て捌いて避けて防いでいるのだ。
 防戦一方ではあるが、そもそもあれを防げている時点で凄まじい。
 柱と呼ばれる人たちが次元の違う強さである事は知っていたが、こうしてそれを直接目にするとそれを実感するより他に無い。
 そんな甘露寺さんの為に出来る事をする、と言うのはこの場での俺たちの使命でもある。
 とは言え、このまま遮二無二に突撃してもどうにもならない。

 その為、鬼の意識がほぼ甘露寺さん一人に向かっているその隙を突いて、俺たちは僅かに後退した。
 恐らく鬼も気付いてはいる様だけれど、俺たちなど然程脅威でもないと舐めている為に、一々無理に追撃しようとまではしていない。
 そうやって僅かに稼いだその隙に、俺たちは反撃の準備を整える。

「禰豆子、すまない。……頼めるか?」

「ムッ!」

 それが必要だとは分かっていても、どうしても禰豆子ちゃんが傷付く事を厭う炭治郎が心苦しそうにそう頼むと。
 禰豆子ちゃんは、寧ろ「任せろ!」とばかりに頷く。
 そして、炭治郎が差し出したその日輪刀に再び自分の血を零した。
 そして、炭治郎の刀だけではなく、俺と獪岳の刀にも。
「玄弥は良いの?」とばかりに、禰豆子ちゃんは玄弥に手を差し出して首を傾げていたが、玄弥は構わないと首を横に振る。

「俺は良い。俺じゃあ、あの竜たちの首を斬るのも難しい位だろうからな」

 獪岳は、禰豆子ちゃんがそうする意味は今一つ分かっていない様だったけれど、しかしこれが何らかの力になる事は察したのだろう。特には反発する事は無かった。

「じゃあ、良いか。最後にもう一度確認するぞ。
 禰豆子の力で『赫刀』になった日輪刀で、出来るだけあの木の竜の首を斬るんだ。
 あの竜たちはあくまでも血鬼術で操られた木ではあるけれど、多分、鬼の分身を斬った時と同じ様に、首が再生するまでの時間をかなり稼げる様になる筈だ。
 ただ、禰豆子の力で『赫刀』に出来るのは、禰豆子の血が血鬼術で完全に使い切られてしまうまでだ。
 その時間はそんなに長い訳じゃない。
 だから、それまでに何としてでも甘露寺さんの為の路を拓こう……!」

 恐らくそれは間違い無く命懸けの戦いになる。
 それでも、他に方法は無い。
 その炭治郎の言葉に全員で頷いて。
 そして、構えた各々の日輪刀は、禰豆子ちゃんの血鬼術によって燃え上がりながら赫く染まっていく。
 人を焼く事は無いその炎は、こんなにも近くに在っても全く熱さを感じない。
 その燃え上がる刀を手に、俺たちは嵐の様な暴虐の中へと飛び込んだ。


 ── 雷の呼吸 一ノ型 霹靂一閃・八連!! 
 ── 雷の呼吸 陸ノ型 電轟雷轟!! 
 ── ヒノカミ神楽 灼骨炎陽!! 


 禰豆子ちゃんの力によって赫く染まった日輪刀の力は凄まじかった。
 以前、悠さんが上弦の壱との戦いでその身を大きく削った時の様に。
 鬼の術ごと斬り伏せて、そして斬った竜の首の断面は、まるで灼き切れた様になって、さっきまでは瞬時と言っても良かったその再生速度も物凄くゆっくりとしたものになる。

 無数に枝分かれしたそれを各々に駆け回って斬り落とし、余りにも太い幹の様なその首は三人がかりで斬り刻んで。
 途中で俺たちを食い潰さんと襲いかかってくる首は、禰豆子ちゃんと玄弥が二人がかりで食い止めてくれた所を、炭治郎がヒノカミ神楽で斬って落として。
 そうやって、一つ一つの首を減らしていく。
 しかし、それを支える禰豆子ちゃんの血鬼術は無限では無い。
 現に、今この瞬間も日輪刀を濡らしていたその血は徐々に消費されていっている。
 甘露寺さんが『本体』を狙える余裕を作れるだけの、首を斬り落とせるのが先か。
 或いは禰豆子ちゃんの血が尽きて日輪刀に限界が来るのが先か。
 そう言った勝負になっている。

 鬼の方も、此方が仕掛けているそれに気付いたのだろう。
 しかしかと言って俺たちの方に意識を大きく向けるには、甘露寺さんは余りにも脅威で。その為、どっちにも振り切る事は出来ないまま、俺たちの進撃を許してしまっている。
 だが、恐らく二度目は無い。
 こちらの手札を晒してしまった以上は、もう同じ事を許さないだろう。
 だからこのまま押し切るしかない。

 己を鼓舞するかの様な雄叫びを上げて、炭治郎が果敢に切り込む。
 轟々と周囲を荒れ狂う攻撃の海の中へと飛び込んで、死地の中に僅かにある活路を切り拓いていくその背に遅れぬ様に、俺達も飛び込んでそれを拡げて行く。
 九つの大きな首の内、三つを完全に斬り落とし、二つの首から枝分かれしていた首の多くを斬って。
 そして。


「「甘露寺さん!!!!」」

 僅かに、甘露寺さんに殺到する攻撃の嵐に、少しばかりの穴が生まれる。
 それを音と匂いで瞬間的に感知した俺と炭治郎は、ほぼ同時に叫んだ。
 そしてその瞬間。

 ── 恋の呼吸 伍ノ型 揺らめく恋情・乱れ爪! 

 一瞬生じた僅かな隙に捩じ込み、それを強引に切り拓く様に、甘露寺さんの日輪刀が自分を圧殺せんと迫ってきていた竜の首を瞬く間に切り刻む。
 そしてそれが再生するよりも速く、そこを抜け出て、竜の首を蹴る様にして一気にその中心へと近付く。


「みんな、ありがとお〜〜!! 
 任せて、私、頑張るから!!」


 己に一気に接近した甘露寺さんを迎え撃とうと背の太鼓を叩こうとしたその両手を、しなやかで長い鞭の様な日輪刀が斬り落とす。
 そしてそれが再生するよりも先に、鬼の背後にあった木の檻を、甘露寺さんは一気に斬り壊した。
 しかし。

「えっ!? 居ない!?」

 その檻の中に自ら閉じ篭っていた筈の『本体』の姿は、何処にも無かった。

 何処に逃げた? 何時?? 

 がらんどうになっていた檻の残骸を見ながら、思わずその場の全員の思考が一瞬止まる。
 そして、その一瞬を逃すかとばかりに。
 腕を斬り落とされたばかりの鬼が、その口を大きく開けて何かの力を放出しようとしてそれを甘露寺さんに向ける。
 避けて、とそう言葉にする事も。
 そして、己を狙う攻撃に気付いた甘露寺さんが避ける事も。
 もう、間に合わない。そんな一瞬の中で。


 爆音と共に、鬼の身体がその胸の半ば辺りまで一気に脳天から両断された。
 放たれようとしていた鬼の一撃は霧散し消える。


「おう、お前ら。随分と派手にやってるみたいだな!」


 何時の間にか音も無く鬼の背後を取っていた、大柄なその人は。
 吉原遊郭での任務を共にした、宇隨さんだった。

 宇隨さんは鬼の身体を力一杯蹴り倒しながら、襲い掛かって来た竜の首をその轟音を伴う呼吸で切り刻んでいく。


「救援要請を受けて駆け付けたら、まあ派手な事になってるじゃねぇか。
 大丈夫か、甘露寺? よく持ち堪えたな」

 そう言って甘露寺さんを労うと。
 甘露寺さんは、キュンっとその胸を高鳴らせて「良かった〜!!」と大声を出して喜ぶ。
 幾ら柱でも、一人であれを捌くのは本当に負担が大きかったのだろう。


「さぁて、じゃあ、ド派手に反撃するか!!」


 そう言って笑う宇髄さんの姿は、言葉にならない程に頼もしく見えるのであった。





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