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天泣過ぎれば

◇◇◇◇◇






 ふわふわとした浮遊感の後、ゆっくりと意識は浮上する。
 まるで質の悪い酒で無理矢理酔った後の朝の様な……そんな気怠さと気分の悪さが背中合わせになったかの様な不快感と共に、徐々にルフレの視界は鮮明になっていく。
 しかし、はっきりと周囲の状況を把握出来るようになっても、ルフレにはそこが一体何処であるのかは把握出来なかった。
 どうやらルフレは全く見覚えのない何処かの部屋に、後ろ手の状態で転がされていた様だ。
 窓一つ無く光源は四隅の燭台のみの為、太陽の位置などの情報から一体あれから何れ程の時間が経ったのか推測する事も出来ない。
 ゆっくりと周囲を探ろうと手を動かそうとするが、後ろ手の状態からろくに動かせない事から、どうやら手は縛られている様だ。
 足の方も縛られている様であるのを見るに、ルフレを逃がしたり抵抗させないようにと随分と警戒している様だ。
 幸い猿轡まではされていないので、声は出せるものの……この状態で魔法を使う事は難しい。
 せめて意識がある時に縛ってくれていたなら縄抜けが出来たのだが、ルフレを戒める縄はちょっとやそっと動かした程度でどうにか出来るものではなさそうであった。
 下手人は……あの男で間違いないであろう。
 まさか王城であんな手に打って出るとは思っておらず油断していたのが敗因であった。
 しかし、この事態はあの男にとって予想していた事なのか、或いは突発的な事であったのか……。
 どちらかと言われれば後者の方だろうとルフレは思っている。
 あの正体不明の……あの男が言うに「呪術師が用意した薬」をその懐に忍ばせていた辺り、ルフレを最初から狙っていたのかどうかは別として何者かに危害を与えようという心積もりは確かに最初からあったのだろうけれども。
 それはあのタイミングを意図していたものであったのかと言われればそれは違う様な気がする。
 あの男自身が自らの言動の中でボロを出して、それをルフレが咎めたからこそ、焦ってあの薬を使ってきたのではないかと言うのがルフレの見立てである。
 幾らあの男が貴族であり、またあそこが人目の多い場所では無かったとは言っても、王城での誘拐など、例えその相手が貴族でも何でもない身元不詳の軍師であるのだとしても、非常に重い罪に問われるものなのである。
 良く言えば抜け目のない蝙蝠、悪く言えば小物であるあの男が、最初からそんな大それた事をしでかせる様には思えないし、そんな事を態々する意味も無い。
 ルフレを狙うにしろあんな場所ではなく、王城を離れている時に攫えばいいのだから。
 しかしそうであるのだとすれば問題は、そんな突発的な犯行であった筈のそれにも対応してこうしてルフレを何処とも知れぬ場所まで運び込めたその手腕である。
 間違いなくあの場の近くにあの男の協力者が居たのだ。
 それも、恐らくは複数の。
 あの場に居る事が出来る者の身分は限られている。
 これがルフレ個人に対する、何らかの恨みやそう言った負の感情に基づく犯行であるならばまだ良い。
 問題は、もしそれがもっと別の者……それこそクロムやリズに対しての害意による犯行の予定であった場合だ。
 あの男が言って事が事実ならば、その協力者の中には呪術師が居る可能性が高い。
 もし本当の狙いがクロム達にあった場合、あの男やその協力者の目的はそれこそ呪術によってクロム達を思うがままに操る事であるのかもしれない。
 それだけは、何としてでも止めなくては……。

 例え自由が利かず自分の身の安全の保証などある筈もない状況下であっても、ルフレが思考を巡らせるのはクロム達の事であった。
 ルフレがああでもないこうでもないと考えている内に、扉が開く様な音と共に部屋に光が差し込んできた。
 部屋に差し込むその光は、そろそろ暮れ始めようかと言う頃合いの茜色が僅かに差した光で。
 ルフレが気を失ってからの時間を逆算すると、この場所は王都の周縁部の何処かである可能性が高いだろう。
 一瞬でそれらの情報を整理したルフレは、部屋に入ってきた男を首を動かして見上げる。


「おやおや、もう目覚めてしまったのか。
 ちっ……あの呪術師め……『丸一日は目覚めない』などと謳っていた癖にその半分程度の効果も無い薬を寄越してくるとはな……。
 まあ良い、これはこれで楽しみ甲斐があると言うモノだ」


 恐らくは協力者なのであろうこの場には居ない呪術師へと悪態を吐いた男は、直ぐ様嫌らしい笑みを浮かべてルフレに近寄った。


「あなたの目的は一体何? 
 言っておくけど、あたしを攫って殺した所で何の意味も無いわ。
 あたしはあなたの政敵でも何でも無いし、この国にとってのあたしなんて、態々こんな事をしでかしてまでどうこうする様な価値なんて無いでしょうに。
 それで態々王城内で誘拐をしでかすなんて大罪を犯すのは、幾ら何でも割に合わない話じゃないのかしら?」


 こんな下衆に一々形だけでも敬意を払おうなんて全く思えないので、ルフレは時には不敬だと咎められそうな普段の口調で挑発する。


「全く口の利き方を知らん小娘だな。
 この様な何処の馬の骨とも知れぬ娘がよりにもよってクロム様の傍に置かれていようとは……全く嘆かわしい。
 フレデリクとかいうあの近衛騎士も一体何をしているのだか。
 まぁ所詮あの男も、剣を捧げた筈のエメリナ様をお守りする事も、共に殉じる事も出来なんだ騎士の恥さらしの無能であるのだがな。
 ……が、まぁ良い。
 愚かにも己の身を弁えず聖王に近付く虫けらの喚き声程度、聞き流せぬというのも貴族としての在り方に悖ると言うモノだろう。
 不敬の罪でこの場で殺されないだけ有難く思うと良い」

 男はそう言って身動きの取れぬままのルフレの顎を掴んで無理矢理持ち上げる。
 遠慮を知らないその卑しい手に殺意を覚えるが、今のルフレにはこの状況を脱して男の腕を圧し折ってやる術がない。
 男は、ルフレの顔を見てニヤニヤと嗤った。


「よく見れば顔の造形は悪くはないな。
 いやはや、何処ぞの血を引くかも分からぬ卑しい身でなければ、連中に引き渡す前に遊んでやるのも良かったかもしれんが……。
 連中も詰まらぬ条件を付けるものよ。
 ……おや、自分の身の行く先が気になると? 
 なに、お前に恨みを持つぺレジア人どもに売り渡すだけだとも。
 まぁ……こちらに接触してきたぺレジア人の中には、恨みではなくまた別の目的の者も居る様だが……。
 良くて呪術の生贄にされるのだろうなぁ」


 哀れな小娘よ、と。
 男は確実にそう思っていないだろう薄っぺらな言葉を吐き捨てる。
 だがルフレとしては、こんな男の言葉など気にもならない。
 そんな事よりも。
 今回の事件には、ルフレに恨みを懐くぺレジア人が関与していた、……と言う事の方が重要である。
 ぺレジアとの戦争の中でルフレは大勢のぺレジア兵を手に掛けてきたし、そしてそれ以上のぺレジア兵の命をその策で奪った。
 彼らから恨まれる理由と言うのは十分過ぎる程にある。
 ルフレには、この事態に至った事に関してそのぺレジアの民たちに対しての怒りと言うものは浮かばない。
 ただただ、「ああそうなのか」という無関心に近い感想だった。
 だがそれと同時に、良かった……と心から安堵する。
 この者達の狙いがルフレであるのなら、クロムにまでこれ以上の害が及ぶ可能性は低いであろう、と。
 その恨みをクロムでは無くて自分の方へと向けてくれて本当に良かったと、そう思った。


「それにしてもあの呪術師も口ほどにも無い男だったな。
 賊討伐の戦闘に乗じて、お前に『死ぬよりも辛い苦しみ』を与えるなどと囀っておったが、結局何も出来ぬまま殺されたのだろう? 
 ああ、これだから口だけのぺレジア人どもは当てにならん。
 あそこまでお膳立てしてやったのに、私自ら出ねばならんとはな。
 無能と言うのも罪であるなあ」

「お膳立て? どう言う事?」


 この男の所為でクロムが『呪い』を受けたに等しいと知り、カッとルフレの身体が怒りで燃える様に熱くなる。
 だが怒りで喚き散らしても、今は何の意味も無いのだと、その燃え滾る怒りを何とか手綱を握る様に宥め、男の軽過ぎる口から更なる情報を引き出そうと努める。
 どうやら抵抗出来ぬ状態のルフレを言葉で嬲る事に喜びを感じている様で、男はちょっとでもルフレが苦しんだり困惑している様に見せ掛けるとボロボロと喋る様だ。
 まさに尋問要らずの口の軽さである。
 今も、如何にも理解出来ず困惑していると言う風を装えば、男は嬉々としてその顔を醜く嗜虐的に歪め意気揚々と口を滑らせた。


「なに、ごろつき崩れを端金で雇って、あの辺りで暴れさせてやっただけの事よ……。
 そうすればお前も必ずその地に討伐に訪れると踏んでなあ。
 後はまあ、何時そこにお前たちが向うのかの情報を流してやったりと、色々とお膳立てしてやったのだよ。
 お前に、その『死よりも辛い苦しみ』を与えてやる為に」


 ニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべるその顔は、果たしてクロム達と同じ人間なのか疑問に思ってしまう程に醜く浅ましい。
 その心根の、その魂の醜悪さがそこにそのまま表れているかの様なそれは、激しい生理的な嫌悪感を沸き立たせる。


「……あなたにそこまで憎まれる様な覚えは生憎無いのだけれど」

「人が人を憎むのに大層な理由も動機も必要ないのだよ。
 お前は邪魔だった。
 お前の存在が気に食わない。
 ただそれだけだとも。
 それを意図するしないに関わらず、お前の存在の所為で不利益を被る者、自分の価値を脅かされるもの……まあ、お前は方々でそう言った一種の『理不尽な』恨みを買っているのだよ。
 憎悪と呼ぶには細やかな恨みや憎しみではあるが、それが集まり降り積もれば、凄まじい憎悪になる。
 そう、お前が『死よりも辛い苦しみ』の中で消える事を願う程に。
 そして、私もその一人だと言う訳だ」


 それはルフレには理解しえない形の『憎しみ』であった。
 ルフレからすれば『その程度』の理由や想いで、人一人を絶望に落とそうなどとするものが居るなどと……。
 ルフレの知る人々の在り方から外れている様に思えるそれは、理解しようとすればする程気持ちが悪くなる。
 善だの悪だのと言う問題とはもっと根本的な所から外れているようなそれを一々理解しようとする事をルフレは賢明にも諦めた。
 どんな動機があるにせよ、結果は変わらないのだから。
 それよりも、クロムを『呪った』あの呪術師がこの男と繋がっていたのなら、この男を詳しく調べれば解呪への何らかの手掛かりが掴めるかもしれない。
 そちらの方が、ルフレにとっては理解不可能な男の思考なぞよりも余程重要な事である。


「さて、ぺレジア人どもが着いた様だな。
 残念ながらお前の苦しむ顔はあまり見れなかったが。
 精々、お前が苦しんだ末に死ぬ事を期待しているとしよう」


 男は開いたままの扉から部屋の外をチラリと見て、そう下卑た笑いと共に下衆な願いを口にし、弄ぶ様にルフレの身体を蹴った。
 そして、部屋の外に居たのであろうぺレジアの民を呼び入れる為に声を上げようとした。
 しかし──



「な、何だっ!?」


 怒り狂った唸り声と共に部屋に飛び込んできた蒼い陰に、男は驚きと恐怖の余り腰を抜かしかける。
 そして、ルフレを守る様に男との間に割って入ってきた蒼い狼は、毛を逆立てて怒り狂いながら、身を低くして何時でもその喉笛に飛び掛かれるようにして、男を鋭く睨み付けたのであった。






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