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天泣過ぎれば

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 クロムが心配そうに着いてきているのは気付いていたが、しかし今のルフレにはそれに気を配っている余裕は無かった。
 自分の天幕に戻る気にもなれず、ルフレは野営地を離れ、独り人気のない森へと向かう。
 今はとにかく一人になりたかった。
 心配して傍に居ようとしてくれるクロムの優しさすら、今のルフレには鋭い剣で胸を切り裂かれた様な痛みを与えるのだ。

 自分を撒こうとしているルフレの意図に気付いたからか、森を彷徨い歩く内にクロムの気配が後を着けてくる事は無くなった。
 それでも、少しでもクロムや皆から離れていたくて。
 薄暗い森の中を走って、走って……野営地からの明かりや物音が一切届かない程遠くにあった大きな岩陰に逃げる様に辿り着いた。
 そして、その岩に凭れる様に倒れかかり、ズルズルと地面に膝をついて座り込む。


「うっ……うぅっ……」


 目からボロボロと熱い滴が絶えること無く零れ落ち、視界を滲ませた。
 聞いている人など誰も居やしないのだから、もっと声を上げて泣いてもよいのかもしれないけれど。
 そもそもルフレは『泣く』事に慣れていなかったのだ。

 軍師としてクロムと共に皆を引っ張る役目があったルフレには、どんなに苦しくても悲しくても、仲間達に動揺を与えない為にもそれを胸の中で押し殺す必要があった。
 エメリナ様の時だって、どうしようも無い程に辛く苦しく哀しかったけれども。
 皆を率いて圧倒的不利な状況の中で撤退戦を乗り越えなくてはならなかったルフレには、涙を見せる暇など一切赦されていなかったのだ。

 ……ルフレには、『泣き方』と言うものがよく分からなかった。
 勿論軍師として戦場を征く以上、ルフレは色んな人々の涙を見てきた。

 初めて人を殺した兵がその事実に耐え切れず嘔吐しながら溢す涙も。
 帰らぬ人となった戦友の骸を抱き締めて慟哭する兵士の涙も。
 手の施し様が無い致命傷を負った兵が、死への恐怖に震えながら「死にたくない」と溢す涙も。

 人々が哀しみや苦しみに溢す涙を、ルフレは沢山見てきたのだけれども。
 それでもルフレには、よく分からなかったのだ。
 どんなに辛くても苦しくても哀しくても。
 涙が零れ落ちた事など、無かったのだから。

 それは、過去の記憶の一切を喪ってしまった事による思わぬ弊害であったのかもしれない。
 だけれども、クロムの軍師として泣けない事で何かしらの支障を来した事はなかったが為に、それを問題として受け止める事が無かったのだ。

 でも、今。
 自覚している限りでは、初めて。
 ルフレは、泣いていた。


「クロム……」


 大切な……何よりも大切な人。
 自分の全てよりもずっと“価値”がある、誰よりも『特別』で、自分の全てを捧げたって何一つとして後悔は無い位に大切な、譲れないたった一人。
 誰よりも、愛している人。

 傍に居たかった、その力になりたかった。
 だからずっと、軍師として、半身として、共にここまでやって来た。
 けれども。

 自分の存在が、クロムに禍をもたらしてしまったのなら。
 自分の所為で、場合によってはただ死ぬよりも残酷な目に遭わせてしまったのなら。


 それなら、もう。
 自分は、彼の傍に居てはならない。


 クロムを愛し想い慕い傍に居たいと願う心とは裏腹に、何時だってルフレの心の片隅には『ここに居てはいけない』と言う思いがあった。
 夜毎に見る絶望の果ての様な悪夢が、『何時か自分はクロムに死をもたらしてしまう』のだと、そう心に幾度も訴えかけていたのだから。

 それだけではない。
 ルフレは、自分の存在が貴族や高官達から疎まれている事に気が付いていた。
 身元の保証も出来ない、記憶喪失を自称する流浪の軍師。
 幾度もの戦で策を練り、自らも剣を手に多くの血を浴びてきた者。
 血筋を尊び、エメリナの政策の意向もあって血生臭い者を善しとはしない貴族や高官達がルフレを拒絶するのも致し方が無い事であった。
 それに加え、ルフレは女だ。
 どうしたって、クロムに取り入ろうとしているのではないかと勘繰られたり、娘をクロムの后にと望む貴族達からは一際疎ましく思われていた。
 心無い言葉や罵声を浴びせかけられた事は一度や二度では無い。

 それでも、離れ難くて。
 クロムがくれた居場所を手離す事が出来なくて。
 クロムが求めてくれているのだから、と。
 まだ、クロムの為に軍師としての力が必要なのだから、と。
 何時かクロムの元を離れなくてはならない時が来るのだとしても、それは『今』ではないのだ、と。
 そう自分に言い訳を重ねて、ここまで来てしまったけれど。
 そんな自分の弱さが、クロムを苦しめてしまったと言うのならば。
 そして、その弱さが何時かクロムの命を奪うと言うのならば。

 もう、自分がクロムの傍に居て良い理由なんて、何処にも無い。

 元より、既にペレジアとの戦争は終わったのだ。
 国内の治安はまだ完全には回復しきってはいないとは言え、もう軍師を必要とする様な事も無い。
 これからこの国に、クロムに必要なのは、内政を任せられる官吏達である。
 …………もう、“軍師”ルフレには、出番がないのだ。
 ならばこそ、今が潮時と言うモノなのだろう。

 クロムの『呪い』が解け、それを見届けたら。
 この国を、クロムの元を去ろう。
 そして、遠く離れた地で、クロムの幸せを願おう。

 ……そうするべきだと、そうしなくてはならないのだと、そう思うのに。
 クロムから離れると決めただけで、ルフレの胸はズタズタに切り裂かれた様に痛む。
 目に見えない傷口から血が溢れ出ているかの様に、身も心も凍り付いた様に熱を失っていく。
 息を吸う事すら苦しくて、それでも喘ぐ様にクロムの名を溢す。
 頬を伝い流れる滴は、まるで土砂降りの雨に打たれているかの様に途絶える事を知らない。

 自分の心全てを吐き出す様に慟哭するルフレの姿を、月明かりだけが寂しく照らしていた……。






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