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天泣過ぎれば

◇◇◇◇◇





「やっぱり……妙ね……」

 外は既に日が沈み、深い夜の闇が静かに世界を覆っている。
 手にしていた古びた書物を閉じ、サーリャは何かを思案する様に口元に手を当てて黙りこんだ。


「妙、とは?」


 クロムと共に『呪い』についてサーリャの話を聞いていたルフレが、先を促す様に訊ねる。
 ルフレの問いに、サーリャは黒曜石の様な瞳に僅かに憂慮の色を浮かべつつ答えた。


「そもそも、どうしてこの『呪い』を掛けたのか……と言う事がどうしても引っ掛かるわ……。
 一般的な魔法と違って、“呪術”には特別な材料や儀式が必要になる……。
 それが古く強力な“呪い”である程、それはより複雑で難しくなるわ……。
 人を獣にする程にその身体を歪めてしまう『呪い』なんて、儀式自体が難解過ぎて、余程の事が無ければ使おうとすら思わない程のものよ……」


 単純に相手を害したいだけならばもっと簡便な『呪い』など幾らでもあるのに、とサーリャは呟く。
 クロムには呪術の類いはさっぱり分からないが、確かに、人を獣にする『呪い』なんかよりももっと手軽にかつ直接的に相手を害せる呪いがあるのなら、どうして態々こんな『呪い』を使ったのかはどうにも引っ掛かる。


「敢えてこんな『呪い』を使った意図が、何処かにある筈だと……?」

「そんな所ね……。
 ……こんな『呪い』を引っ張り出してくるなんて事は、相当の“悪意”が無ければ出来ないでしょうけれど……」


 “悪意”と言われて思わずクロムは首を傾げてしまった。
 人を害する“呪い”に“悪意”なんて付き物だろうに、この『呪い』は態々サーリャが『相当』なんて形容する程の……そんな“悪意”ある“呪い”なのだろうか、と。
 直接的に人を死に至らしめたりする様な“呪い”の方が、もっと質が悪いものなのではないかと思うのだが。

 そんな風にクロムが不思議そうにしているからか、サーリャは小さく溜め息を吐いた。


「人を人の面影すら無くなる程にその身を歪めて獣に堕とす様な『呪い』は、数ある“呪い”の中でもとびっきりに質が悪いものの部類よ……。
 人を人たらしめるモノを奪い、それでいて心だけは元の人のまま……。
 あなたの場合はルフレが傍に居たし直ぐに気付いてくれたから良いものの、そうでなくては誰もあなたがあなたであると気付けなかった可能性の方が高いのよ?
 心はあなたのままなのに、誰にもそれに気付いてすらもらえずに獣と同じ扱いを受け続け、あなたである事を否定され続ける……。
 そんな事になったら、簡単に歪んでしまえる人の心がどうなってしまうのかなんて火を見るよりも明らかだわ……。
 それは、単に殺傷するよりも、余程残酷な事じゃないかしら……?」


 サーリャの言葉に、思わずそうなった時の事を考えてしまい、クロムは怖気立つ程の恐怖を感じた。
 誰にも……ルフレにも気付いて貰えずに、獣として扱われ続ける……。
 姿が見えなくなったクロムを探し続けるルフレに、自分はここに居るのだと訴えても何一つ伝わらない。
 それ所か、狼の身であるが故に、人々を害する獣として追われてしまう事すら有り得る。
 誰も彼もに“クロム”としてではなくただの狼として扱われ続けていたら、何時しかクロムも自分を見失い狂ってしまっていたであろう……。
 思わず身震いしたクロムの身体を思わずと言った風にギュッと抱き締めてきたルフレの身体も、似た様な想像をしてしまったのか抑えようもなく震えていた。

 成る程、確かにこの『呪い』は飛びっきり質が悪いものだろう。
 人の心が残されている事すら、“悪意”によるものなのだから。

 クロムは、重ね重ね最初にルフレが気付いてくれた事に感謝した。
 そして、ふと気掛かりな事に思い至り、思わず小さく唸ってしまう。

 実際に『呪い』を受けたのはクロムであるが、この『呪い』は元々はルフレを狙っていたものだ。
 ならば、ルフレはこんな並外れた“悪意”を、あの術者に懐かれていたのだろうか……?


「この『呪い』はそもそもルフレを狙っていたもの……。
 ……術者個人がルフレに悪意を懐いてそうしていたのなら、もう既に術者が死んでいる事もあってこれ以上の害は無いわ……。
 でも、もし……。
 この『呪い』が別の誰かからの差し金なら……」


 術者が何者かの依頼を受けてルフレを呪おうとしていたのなら、こんな“悪意”をルフレにぶつけようとしていた“何者か”はまだ何処かに居る事になる。
 ならば、また狙われるかもしれない……と言う事か。

 居るかどうかも分からない『ルフレを狙う“何者か”』を想像するだけで、クロムはそいつを八つ裂きにしてしまいたくなる程に怒りを覚え無意識にも唸ってしまう。
 そして、熟とこの『呪い』を受けたのがルフレでなくて良かった、と思った。
 ルフレにそんな苦しみを受けさせなかった事は、間違いなくクロムにとって誇れる事である。

 しかし、ルフレにとっては──


「そんな……。
 あたしが……あたしが恨まれていた所為で、クロムが……。
 あたし、あたしの、所為で……」


 顔色を青褪めさせ、呻く様にぶつぶつと呟くルフレのその焦点は、何処か遠い所に結ばれていた。
 サーリャが呼び掛けても返事はなく、その思考は何処かに囚われているかの様で……。
 驚き慌てる事はあっても何時も何処か冷静に物事を考えているルフレがこうも取り乱すのは尋常な事ではない。


『ルフレ』


 そう呼び掛けながら前足でその身体を軽く揺すっていると、次第にその視線はクロムへと向けられる。
 しかしその瞳には、恐怖と不安と後悔が濁り降り積もった澱の様に浮かんでいて。
 クロムを見ているのに、それでも何処か遠くに焦点を彷徨わせているその瞳は、クロムを通して別の誰かを見ているかの様で。
 それはまるで、夜毎悪夢に魘されている時のそれの様相を呈していた。


『ルフレ、しっかりしろ!
 それはお前の所為じゃない!
 お前を恨み、呪ってきた奴の責任だ……!
 俺はここに居る! お前の傍に居る!
 俺は、お前を置いて何処にも行ったりなんかしない……!』


 きっと伝えようとしていた言葉のほんの一割も伝わっていないだろうけれど。
 それでも、ルフレの目は確かに、今目の前に居るクロムへと焦点を結ぶ。


「クロム……」


 しかしその目には変わらずに苦悶の翳りがさしていて。
 震える声には、深い苦悩が滲んでいた。


「ごめん、サーリャ……。
 今日は、もう……」


 そう断ってから椅子から立ち上がり天幕を後にしようとするルフレを慌ててクロムは追い掛ける。
 そんな二人を、サーリャは何時までも黙したまま見送っていたのであった……。





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