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天泣過ぎれば

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 何時からか、クロムは気が付けば何時もルフレを目で追う様になっていた。
 戦場を共に駆ける時には何時も自然と背中を預けていて。
 誰一人として犠牲を出さないように必死に戦術を練るルフレのその横顔をずっとクロムは見詰めていた。
 クロムの傍には、何時だってルフレが居たのだ。
 思い返せば、ルフレと出会ってからのクロムの思い出の殆どがルフレとのモノであった。

 最初は、過去の記憶を全て喪ってしまったルフレが心配だったのだ。
 まるで産まれたばかりの雛鳥が必死に親鳥の後を追い掛けようとしているかの様な、そんなルフレの姿を見て、クロムが放っておける筈は無かった。
 しかしルフレが傍に居る事が『当たり前』になった頃、自分でももう何が切っ掛けかも思い出せない程にふとした拍子に。
 そうではないのだと……自分がルフレに向けている眼差しは、決して庇護欲だけから来るモノではないのだと、気付いてしまったのだ。
 守ってやりたいと言う気持ちは当然あって、でもそれは幼子へと向けるような庇護の感情ではなく。
 然りとて、仲間へと向ける想いや家族に向ける想いとも違う。
 時に激しく胸を焦がす様な焼け付く痛みすらをも伴うその想いを、未だかつて抱いた事が無かったクロムは、その想いを自覚した途端大いに戸惑った。

 その感情を近しい言葉で表現するのであれば、恋情であるのだろうけれども。
 それは、それまでうっすらと思い描いていた様な『恋』なんて綺麗な感情とは程遠くて。
 初めて懐いた執着にも似た感情に、クロムは大いに振り回された。
 ルフレが男女問わず自分以外の誰かと時間を過ごしているのを見ると、心の内に名状し難くも何処かどろりとした感情が生まれて。
 だがそんな澱の様な感情も、ルフレの微笑み一つで溶けて消えるのだ。
 きっとルフレは、クロムのそんな変化に気付いてないのだろうけれど。

 しかし、ある時……クロムにとって誰よりも大切な家族であった姉エメリナを喪った時を境として、ルフレはクロムとの間に線を引く様になっていた。
 “半身”だと誓い合った筈なのに、その心の距離は、以前よりも遠くなってしまったかの様にすら……。
 勿論、ルフレはクロムの軍師として、クロムの“半身”として、全力でクロムを支え導いてくれている。
 しかし、その微笑みには何時しかほんの僅かだが消えぬ翳りが差す様になり、ほんの少し手を伸ばせばそこにあった筈の温もりが遠くなった。

 それでも、ルフレを諦める事なんて出来なくて。
 クロムはずっと、ルフレを見詰め続けていた。

 だからこそ。
 ルフレを狙うその呪術師に気付けたのも、そしてルフレがまだその呪術師の存在に気付けていない事を察せたのも、ルフレをずっと見詰め続けていたから訪れた、奇跡とも言える必然だったのだろう……。



「ルフレっ!!」


 ルフレを狙う呪術師に気付いた瞬間、クロムは咄嗟にルフレを庇う様に突き飛ばした。
 だがそれとほぼ同時に、魂を直接掴まれているかの様な筆舌に尽くし難く悍ましい感覚がクロムを襲う。
 息をする事すらも苦しくて、まるで獣の唸り声の様な意味を成さない音が喉から溢れ。
 堪らずに地に倒れ、全身を襲う痛みと不快感からもがく様に指先で地を掻いた。
 目を開けている事すら出来ずに固く目を瞑って全身を襲う痛みと戦っていると、ふとした瞬間に先程までの悍ましさが幻であったかの様に身体が楽になる。
 まだ吐息は少し荒いがそれでも楽に息をする事が出来る様になり、ようやっとクロムは目を開けた。
 が、何も見えなかった。
 いや、正確には視界一杯に青と白の布地が広がっていたのだ。
 一体何が起きているのか理解出来ないまま、とにかくこの状態を脱しようともがいてみるが、どうにも身体が上手いこと動かない。
 訳も分からずパニックになりかけていると。


「クロム……?」


 と少し訝しむ様な声と共に、布地が退けられてルフレの顔がクロムを覗きこんできた。
 何だか妙にルフレを大きく感じるが……。


「……あなた、もしかして、クロムなの……?」


 恐る恐ると、信じられないとでも言いたげな顔でルフレは訊ねてくる。
 そんな訳の分からないルフレの言葉に、『勿論だ、ルフレ』と返事をした筈だった。
 だが。


「ガウッ!」



 クロムの口から出てきたのは、到底言葉とは言えるモノではなくて。
 何をどう聞き間違えたのだとしても、獣の吠え声の様な音だった。
 ちゃんとルフレと名を呼んだ筈なのに、どうして獣の……狼が吠えた様な声になるのだ。
 一瞬呆然としたクロムは、慌ててルフレへと必死に訴えかけた。


『ルフレ、俺の身に一体何が起きているんだ?
 俺には何が何だか分からないんだ』


 だが何れ程必死にクロムが言葉を並べても、その口から出てくるのは人の言葉とは程遠い獣の鳴き声だったのだ。
 喋れなくなっている事を理解したクロムは、あまりの衝撃に絶句する。


「あの、えっと、取り敢えずあなたがクロムなのは確かみたいね……、俄には信じ難いけど……。
 とにかく、一旦服を脱がさないといけないわね。
 身体が引っ掛かって動けなくなってるし……」


 ルフレ自身も混乱した様な表情で、それでも何とか四苦八苦しながらもクロムの身体を拘束する形になってしまっている服を取り除いてくれた。
 そして漸く自由に動ける様になったのだが、クロムとしては現状が到底自由であるとは言い難い。

 立つ事は出来ず四つん這いの様な姿勢しか取れないが、その状態が苦ではない。
 自分の手はどう見ても獣の前足と化しているし、振り返れば獣の尾が揺れている。
 ルフレが慌てて懐から取り出して見せてくれた小さな手鏡には、自分の姿ではなく、一匹の深蒼色の毛並みの狼が映っていた。
 驚いた様に耳をピンッと立てているその狼は、クロムが恐々と動いた通りの動きを鏡の中でしてみせる。

 ……どう考えても、この狼が自分であるのだろう。

 あまりもの衝撃と混乱から、訳も分からずその場をウロウロと意味もなく歩き回ってしまうが、そもそも四つ足で歩く事に馴れている筈も無くて、その足取りは生まれたての小鹿よりも覚束無いものだ。
 困惑するあまり、「クゥ……」と無意識に溜め息ではなく鳴き声が溢れた。
 何を伝えようとしても、狼となってしまったクロムの口からは獣の鳴き声しか出てこないのだ。
 頭の中身まで獣になっている訳ではないのでルフレからの問い掛けに頷いたりなどと何らかの反応を返す事は出来るのだが、クロムから何かを伝える術は殆ど無い。
 話せない事がこれ程までに苦痛であるとは……。


「とにかく、サーリャに診て貰うしか無いわね……。
 サーリャの天幕まで行こうと思うんだけど……大丈夫?歩ける?」


 そう言って気遣ってくるルフレに、大丈夫だと頷いて返した。
 流石に走ったりするのはまだ難しいが、ウロウロする内に歩き方に関しては何となくコツが掴めてきたので、少しぎこちないが移動する分には問題ない。

 これからどうなるのか、どうすれば良いのか。
 不安に苛まれながら、クロムとルフレは人目を忍ぶ様にしてサーリャのもとへと向かったのであった。




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