このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第一章  【夢現の間にて】

◆◆◆◆◆






『隠』の人達がやって来るまで、炭治郎とは色々と話をした。
 その多くは当たり障りの無い話だったが、それでも炭治郎がとても優しい人間だと言う事はよく分かった。
 そして炭治郎が言うには、どうやら彼はとても鼻が利くらしい。感情の匂いとやらまで分かるらしく、だから人の気持ちや真意を察するのも上手いそうだ。そんな事が出来る人が居るんだなぁ……と感心してしまう。
 しかし、そうやって人の感情の匂いとやらまでもを嗅ぎ分けられるのなら、人混みが多い場所などは中々大変なのでは無いだろうか……。
 ちょっと訊ねてみるとやはり人混みは得意では無く、元々が山育ちで小さな村との交流が主だった事もあって、一度浅草に出向いた時には人に酔ってしまいそうだったと零した。成る程、感覚が鋭敏であると言うのもそれはそれで大変なのだろう……。炭治郎のその嗅覚は鬼殺にも物凄く役に立っているらしいのだが、あまりに人を喰っている鬼だったりすると余りの悪臭にかなり辛いのだとか。……悪臭は本当に辛い、分かる。脳裏にあの恐怖のムドオンカレーを思い浮かべながら頷いた。あれよりもキツイ臭いに遭遇するとか、ちょっと考えたくない……。

 そうやって炭治郎と話している内に、薄々何となく感じていた違和感の正体が判明し、思わず天を仰いで呻きたくなった。どうやらここは、自分の知る「平成」ではなく、「大正」の時代だった。何と無く家の感じが古い様な気がしてたし、昨日は暗いしそれどころでは無くてあまり見えてなかったが、思えばあの二人の服装も随分と年代を感じるモノだった気がする。具体的には、大正ロマンだとかと言った感じの写真で見た事あったなぁ……と言う感じに。ある種のタイムスリップまでしている『夢』に、思わず呻きたくなったのは仕方が無い事だ。
 此処が自分の知るあの『現実』に繋がっている「大正時代」なのかは分からない。
 鬼とか聞いた事も無かったし、もしかしたら並行世界だとかそう言うやつの「大正時代」なのかもしれない。
 とは言え、もし自分が下手な事をすれば所謂「過去改変」とかもやらかしてしまうのではないかと思うと、中々に恐ろしい。自分の軽はずみな行動が原因で何処かの未来で最悪のバタフライエフェクトが起きるとか、ちょっと洒落にならない。まあどうするにせよ何にも情報が無いのだ、どの道迂闊には行動出来ない。

 そして更にもう一つ、こちらも本当に洒落にならない事ではあるのだが。
 こうして『夢』を見てこの世界に居る自分には、帰る家も無いしお金も無いし縁故ある者も居ないし職なども無い。割と無い無い尽くしで普通に路頭に迷いかねない状態なのだ。割と真面目な話、炭治郎が「藤の家紋の家」まで連れて来てくれなければそのまま野宿生活に突入しかねなかった。有難う炭治郎、この恩は一生忘れない……。
 炭治郎に拾って貰えた今も、無い無い尽くしの状況が変わった訳では無いが。しかし有難い事には変わらない。
 取り敢えずどうにかして『鬼殺隊』の力になれる感じの職と住居を確保出来たら良いな……と思う。働かざる者食うべからず。此処は自分にとっては『夢』の中ではあるのだが、裸一貫の人間がある日迷い込んでも問題無く生活していく様なご都合主義の世界では無い、現実は厳しいのだ……。取り敢えず、「お館様」との話が終わった後にそれとなく炭治郎に訊ねてみようか……。力になるよと言った手前、早速年下の少年に頼りそうなのはちょっと情けない気もするが、このまま路頭に迷う方が大問題だ。必ず借りは何百倍にして返すので許して欲しい。

 そんな事を考えていると、『隠』の人達が「藤の家紋の家」にやって来た。
 一晩の寝床を貸して貰えた事や食事などの礼をしっかりと述べてから「藤の家紋の家」を後にする。
 自分は正確には『鬼殺隊』の人間では無いのに、こうして親切にして貰えたのは本当に嬉しかった。
 どうにか職と住処を見付けて落ち着けたら、また改めて礼を言いに伺いたい位である。

 とまあ、そんな風に「藤の家紋の家」の人達に見送られながら、『隠』の人達に背負われる様にして、『鬼殺隊』の本部……「お館様」の居るその場所へと向かうのであった。






◆◆◆◆◆






『鬼隠隊』の本部へと向かう道中の体験は、中々新鮮だった。
 何処にあるのかを悟られぬよう情報の機密保持の為に、道中は目隠しをされて運ばれるのだ。
 なお、鼻が良い炭治郎は目隠しの外にも鼻栓もされていた。
 どうやら全ての元凶である鬼舞辻無惨は、己を滅殺する為に追い続けている『鬼殺隊』を鬱陶しく感じているらしく、昔から「お館様」の居場所を探しているらしい。またその他に幾つかの『鬼殺隊』にとって重要な拠点も狙われているのだとか……。今の所情報の秘匿はほぼ完璧らしいのだが、用心に用心を重ねるのは重要であるし、もし鬼に相手の記憶を読み取る様な鬼血術の持ち主が居ればそう言った情報が筒抜けになってしまうかもしれないので、「柱」などの極一部の者しかそう言った重要な場所の情報を正しくは知らないのだそうだ。
 鬼舞辻無惨は己が鬼にした者達の記憶や視界を覗いたり、心を自由に支配出来るらしい。鬼にプライバシーの概念は無い。鬼と言う存在は、その全てが鬼舞辻無惨にとっては使い捨ての駒でしかないそうだ。……自分の都合で他人を鬼にしておいてその仕打ちである。何と言うのか本当に下衆過ぎて、「赦すべきでは無い存在」から「存在する事を赦してはいけない者」に更に格上げして心のブラックリストに載せておくべきな気がした。
 まあそんな感じで面識は無い鬼舞辻無惨への怒りを更に強めた一方で、こうやって目隠しされたりして運ばれると言う状況に実はちょっとわくわくしていた。スパイ映画だとか、秘密組織が出て来る映画だとかでこうやって目隠しされたりしながら運ばれるシーンをよく見ていたので、ちょっと楽しかったのだ。遊びでは無いのは分かっているので許して頂きたい。

 自分の少し前方で同じ様に運ばれているのだろう炭治郎の背中からは、少しだけ鬼の気配を感じる。
 その背に背負った大きな箱の中には、禰豆子ちゃんが眠っているそうだ。陽の光に当たる事の出来ない禰豆子ちゃんは、日中はそうやって箱の中で休んでいるらしい。禰豆子ちゃんを直接見た事はまだ無いが、確かに炭治郎の言う通り、禰豆子ちゃんの気配は昨夜出逢った鬼の気配とは全然違った。似ている部分こそ僅かにあるが、それ以上に優しさを感じる。
 本来は「お館様」の所に鬼を連れて行くなど言語道断らしいのだが、禰豆子ちゃんは「お館様」直々に認めたので、本部に連れていく事自体は許可されているそうだ。炭治郎にとっては喜ばしい事だろう。

 何回か自分を運んでいる『隠』の人達が交代した。『隠』でも「お館様」の下へ辿り着けるのは本当に極僅かなのだろう……。凄い徹底っぷりだ。そんな所に本当に自分が行って良いのかちょっと戸惑う。
 自分はペルソナが使えるだけの一般人なのだし、大正時代と言う事は華族やらも普通に存在しているだろうけれども、そう言った良家の子女の振る舞い的なものを自分に期待されても困る。本当に困る。
 それか、『鬼殺隊』と言う血生臭い組織を率いている事を考えると極道の組長みたいな人であるのかもしれない。……その場合もどうしようかとちょっと心配になって来た。

 そんな心配を他所に、『隠』の人が不意に立ち止まると、その背中から下ろしてくれる。そしてそっと目隠しを外してくれた。重かっただろうにここまで運んでくれた礼を言うと、『隠』の人はちょっと驚きつつも嬉しそうに様に微笑んでくれた。炭治郎も横で自分を運んでくれた『隠』の人に礼を言っている。そちらの『隠』の人も、ほっこりした様に目元を緩ませていた。
 こうして目隠しを解いて貰った事からも察していたが、どうやらここが『鬼殺隊』の本部……「お館様」のお屋敷であるらしい。物凄く丁寧に整えられた日本庭園に通されて、少し緊張してしまう。
 あの松の手入れ、どれだけの費用が掛かるのだろう……なんて、ちょっと現実逃避したくなる位に。

 炭治郎と共に庭に待機して待っていると、少ししてからまた新たな人影が現れた。
 蝶の羽根を模した様な柄の羽織を纏った、小柄な女性だ。自分と同い年か、少し年上位だろうか……? 
 背丈自体は自分よりも小さいが、多分……と言うか間違いなく滅茶苦茶強い人だ。「柱」って言う人達の一人なのかもしれない。どうやら炭治郎は知っている相手だったらしく、「しのぶさん」と小さく呟いている。
 もっと他の「柱」の人達も来るのだろうか……? と思ってちょっと身構えていると、どうやらこの場にやって来たのは「しのぶさん」だけらしい。偶々手が空いている「柱」が彼女だけだったのだろうか……? 
 まあ、昨日の今日でいきなりだったと言うのも大きいのかもしれないな……と思う。
 もしくは、もし得体の知れない謎の人物が何かしらの狼藉を働いても、「しのぶさん」一人で事を収めてしまえると言う信頼があるのか……。……後者なのかもしれないな……とぼんやりとだが感じた。
 多分、「しのぶさん」は物凄く足を鍛えている。本気で蹴られたり踏み込まれたらただではすまないだろう。
 当然、「しのぶさん」が動かなければならない様な事など仕出かすつもりは一切無いのだが。

「しのぶさん」は少し興味があるのかこちらを観察している様だった。
 十握剣は預けているのだし、観察されて困る所は無い……筈だ。格好は多分普通。…………普通、だろうか。
 よく考えれば、八十神高校の制服と言うのは大正時代的には少々浮いているのかもしれない。
 ブレザーではないのでいける気がしたが、駄目だっただろうか。とは言え今手持ちの服はこれしか無いのだ。
 今後は服装もちゃんと考えなくてはいけないと、確りと覚えておこう。取り敢えず今は見逃して欲しい。

 その時ふと、庭に面した一室の奥の襖の前に、小さな女の子が二人、何時の間にか立っていた事に気付いた。
 菜々子位の年頃の子、なのだろうか……? 双子なのか二人とも本当によく似ていて、しかもお揃いの高級そうな綺麗な着物を着ている。
 そして彼女たちは、まだ幼い声を凛と腹から出して告げる。

「お館様のお成りです!」

 そう言って畳に膝を突いた彼女たちが襖を開けると、奥から一人の男性がそっと部屋へと入って来る。
 その姿に、思わず息を呑んだ。






◆◆◆◆◆






 姿を現した「お館様」は、全く予想外の姿であった。

 その顔のほぼ上半分は、まるでケロイドの様に病魔に食い荒らされた跡が目立ち、本来なら整っている筈の目鼻立ちに無惨な痕を残している。眼もやられてしまっているのか、その瞳孔は白内障か何かの様に白くなってしまっていて……視線が殆ど合っていないのを見るに、もう殆どか全く目が見えていない状態なのだろう。
「お館様」として『鬼殺隊』を率いるその人は、恐らくはまだ二十代……。自分とも然程歳が離れている訳でも無さそうなのに。
 それでも、自分がかつて目にしてきたどんな人よりも。
 その身には、「死」が色濃く纏わり付いていた。
 稲羽で病院清掃のバイトをしていた際に幾度か目にした、末期がんなどで余命幾許も無い人の方が遥かに健康的に見える程に。その身を蝕む「死」の匂いは凄まじい。離れていても高級そうな香の匂いが僅かに香って来るのに、それ以上に。何処か甘い匂い……臓器が中から駄目になっている人特有の「死」の匂いを嗅ぎ取ってしまう。
 正直、この人が「お館様」なのだと言う認識が無ければ、早く病院に連れていけと叫んだだろうし、何なら担いででも病院に駆け込んだだろう。……それでも、恐らくは助からないのだろうが。
 現代の……自分の知る平成の時代の医療でも、正直手遅れな気がする。況してや、大正の時代の技術で一体何が出来るのだろう。……モルヒネなどで痛みを緩和する事すらも儘ならないだろうに。
 恐らく……いや、間違いなくその身体は限界だ。体中を蝕む痛みに動ける筈など無い程だろう。
 夜中に末期がんの患者の痛み止めが切れた時の、悲痛な呻き声が耳の奥で鳴っている様な気もする。
 あの壮絶な痛みを、それに匹敵或いは凌駕する程の痛みを、恐らくはその身に受けていると言うのに。
「お館様」は、子供に手を引かれながら縁側にまでやって来て、そして、微笑んだ。……微笑んだのだ。

 その瞬間、傍らで「しのぶさん」や炭治郎が膝を突いて頭を下げるのとほぼ同時に、自分もまた頭を下げた。
 恐らくは人生でも初めての、心からの「畏敬の念」としか思えない感情を懐いたのだ。

「こうして急な呼び出しに応じてくれてありがとう。よく来てくれたね、私の可愛い剣士こどもたち。
 今日もとても良い天気の様だ。空は青く晴れているのかな……?」

 そう言いながら、「お館様」は縁側に座った。
 ……本来はそうして座る事すらも苦しいのだろうと、分かってしまう。その身の「死」の匂いを感じてしまう。
 正直に言うと、自分が想像していたどんな「お館様」よりも、目の前の「お館様」は凄まじかった。
 最早その身を支えているのは、精神力としか言えない何かだ。その身を動かしているのは「心」だけだ。
 想像を絶する程の苦痛に全身を蝕まれているだろうに、その声が何処までも穏やかであるのが、泣いてしまいそうな程に苦しかった。……本当に苦しい人を前にして泣く事なんて、出来ないのだが。
 何がそこまでこの人を突き動かすのだろう。
 鬼舞辻無惨への憎悪か、それとも『鬼殺隊』を率いる「お館様」として、鬼との戦いの中で命を落としてきた無数の剣士たちの命の重さか。
 ……恐ろしい生き地獄の様な痛みの中を、それを見せない様に歩いている。
「執念」。そうとしか言えない、それ程の激しい想いのみが成せる事だろう。

 狼藉だとか礼儀作法だとかは無視して直ぐ様駆け寄って、ペルソナの力でも何でも良いから使って、その痛みをほんの僅かにでも良いから取り除きたかった。だが、それに意味は無い事も誰に言われずとも分かってしまう。
 あの心の海の中の世界での様な力を発揮出来るのならまだ見込みはあるが、今はまだ全く足りなかった。
 本当に弱くなっている現在の癒しの力では、例え自分の命と引き換えにする覚悟でペルソナの力を発揮させたとしても、その身を蝕む「死」の匂いをほんの僅か薄れさせる事ですら儘ならないだろう。
 だから、堪えた。苦しむ人を目の前にして自分が無力である事を痛感する事程、苦しい事は無い。

「お館様におかれましてもご壮健で何よりです。益々の御多幸を切にお祈り申し上げます」

 頭を下げたまま「しのぶさん」は静かに挨拶の口上を述べる。
 それに穏やかに微笑んだ「お館様」は、そっと自分の方へと意識を向けてきた。
 その視線はこちらを正確には捉えてはいないが、分かる。

「……さて、今日ここに来て貰ったのは、そこに居る彼について、少し聞きたい事があるからなんだ。
 君の名前を聞いても良いかな?」

「鳴上、悠です」

 何をどう聞かれるのだろうと、頭の中で様々な場合を想定する。話すべきか、それとも黙するべきか。
 しかしそんな事を、この人の目の前で考える事自体が失礼な話なのでは無いかとも思ってしまう。

「そうか、悠。君が何者で、何処から来たのかは問わない。
 ただ、君がどうやって日輪刀にも日光にも頼らずに鬼を倒す事が出来たのか、教えて欲しい。
 そして、酷い怪我を負っていた筈の人間を、傷痕も無くその場で完治させる事が出来たのかも」

 鬼を倒した方法や人を癒した力については必ず訊かれるだろうと思っていた事だったので、それに関して覚悟は出来ていた。
 だが、何処から来たのかや何者かは不問とすると言うのは、予想外であった。
 恐らくこの人は、突如現れた未知なる存在に対して、調べられる限りの事を時間の許す限り調べただろう。
 そしてきっと、「何も分からない」と言う事が分かった筈だ。そして、その異常さを即座に理解しただろう。
 平成だろうと大正の世だろうと、完全な自給自足の世捨て人でもなければ完全に人や社会との関りを断ち切って生きる事は出来ない。どんなに些細なものであっても、そこにその存在を証明する痕跡は残るのだ。
 だからこそ、もし情報収集に長けた組織が本気で調べても「何も分からない」と言う時は、その対象は極めて異常な存在になる。だからこそ、本来ならば「お館様」はこの目の前の存在が何者であるのかを知りたい筈だ。
 ……しかし恐らく、「お館様」にとってはそれは「一番重要な事」では無かった。だからこそ、それを答えさせる事に固執したりして、最も聞き出さねばならぬ事を見失ったりそれについて口を閉ざさせる事の無い様にしたのだろう。……それ程までに、「お館様」にとっては自分達の知らぬ『鬼を殺す術』と言うのは重要なのだ。

 ……答えない訳にはいかないし、その「執念」に対して答えられる限りは応えたいとも思う。
 ……しかし、何回考えても純粋に説明が難しいのだ。
 妖術の一種ですとでも言えば良いのか、それともそう言う特殊能力ですと言えば良いのか。生得的なものなので後天的に身に着ける事は出来ませんと言うべきなのか……。
 まあ、ペルソナ能力自体は心の海の中の世界に行って己に向き合えば手に入れられる可能性は十分に有る。
 問題は、その心の海の中の世界に行く手段が無い。一応イザナミに押し付けられた……と言うか知らぬ内に与えられていた「心の海を渡る力」自体はイザナミを討ったからと言って喪われた訳では無いのだけれど……。あの街ではテレビの画面を介して彼方に渡っていたのだ。当然テレビなど存在する筈の無い大正の時代に同じ方法は使えない。テレビの画面を他の何かで代替するにしても何を選ぶべきかは分からないし、適当なものを選んだ結果、下手をすると恐ろしく深い領域にまで一気に飛び込んでしまう可能性もある。
 そして万が一入ったとしても、クマの様に協力してくれる彼方側の存在が居ない為帰って来れない可能性があった。それにそもそも「この世界」にペルソナ能力自体が存在するのかも分からない。

 日輪刀で頸を斬る以外に鬼を殺す術があるのなら、そしてそれを後天的に手に入れられるのなら、恐らく『鬼殺隊』の者達はその力を手に入れる事を厭わないだろう。しかし、可能かどうかもよく分からないものの為に命を賭けて欲しくなど無かった。心の海の世界は、危険だ。その危険性を誰よりも知っているからこそ、力を付けさせる為だけにそんな場所に誰かを態と連れて行く事など出来ない。更に、心の海の奥底からどんな化け物を呼び起こすかも分からない愚行を侵す事は、出来ないのだ。此処では無い世界で心の海の霧を晴らした者の責任としても。

 だから、一度静かにだが大きく息を吸って、そしてゆっくりゆっくりと静かに吐いて、心を落ち着かせる。
 そして、確りと「お館様」へと目を向けた。

「俺には、不思議な力があるんです。それは……例えるなら、鬼たちが使う血鬼術にも似ている様な、時にこの世の理を捻じ曲げている様にも見える力が……。その力を使って、俺は人を襲っていた鬼を倒し、そして傷付いていた人を癒しました」

「成る程……。元々は人であった者達に血鬼術が存在するのなら、人である者の中にもそれに似た力を持つ者が居てもおかしくはないのかもしれないね。
 それで、その力は悠にしか扱えないものなのかい?」

 来た、と。思わず落ち着かせる為にゆっくりと息をする。
 そして、声が震えたりしない様に、静かに答える。

「恐らくは、そうでしょう。何か修行したりして得る事の出来る力では、無いです。
 ……俺のこれに関しては、生まれつきにも近いものなので」

 嘘は、言っていない。肉体をどれだけ鍛えたとしても、それはペルソナ能力を得るかどうかには関係無い。
 そして、「ワイルド」、と。そう呼ばれるらしい自分の特異性に関しては、ある種生得的なものに近い。

「悠だけの力、と言う事か。……他にその様な力を使う者に心当たりはあるかな?」

 それに関しては、心を揺らす事無くハッキリと否定した。
『夢』を見ているのは自分だけで、此処には特捜隊の仲間たちは居ない。

「いえ、居ないと思います。少なくとも俺は会った事が無い……。
 それにそもそも、鬼に遭遇した事自体が初めての事で、その時にこの力が鬼を倒せる事を初めて知りました」

 そもそもこの世界でペルソナの力を使える事すらも知らなかった。
 正直、この世界に関して何も知らないに等しい。

「……悠は、鬼を倒す事に協力してくれと頼まれたら、それに応えるつもりはあるのかな?」

「お館様」の声に、僅かに穏やかさ以外の感情が籠る。
 彼は、期待しているのだ。そして、計っている。目の前の存在が、鬼を滅する力の一つに成り得るのか、と、
 恐らく、いや確実に。その光を喪った目には、唯一つ、鬼舞辻無惨の存在が映っているのだろう。

 ……炭治郎は、「お館様」に禰豆子の存在を認めて貰えたのだ、と言っていた。
 それは確かに炭治郎が言っていた様に、「柱」の一人である兄弟子とかつては「柱」であった師匠が命を賭けて嘆願したからという理由はある、そして禰豆子ちゃんが実際に人を襲う鬼では無かったと言う理由も当然ある。
 だが最も、鬼を殺す為の組織である『鬼殺隊』と言う場所で禰豆子ちゃんの存在が認められたその根本たる理由とは、「お館様」にとって最も重要な事とは『鬼舞辻無惨を討ち滅ぼす』事であり、その為ならばどんな手段だって何だって使うと言う覚悟があるからだろう。だから、『鬼舞辻無惨討滅』に関し何か力に成り得るものであれば、それが人を襲う訳では無いとは言え確かに鬼である存在だろうと、或いは来歴不明で何もかもが不詳の存在であろうとも、使うつもりなのだ。その「執念」の重さを、「お館様」がその身体で動いて話していると言う事実だけで察する事が出来る。
 だから──

「…………俺は、鬼について何も知らなかったんです。そんな存在がこの世界に居る事も。
 そして、『鬼殺隊』の人達が、鬼を狩って人々を守っていた事も……。
 だけど、炭治郎に出逢って、俺は鬼が元々は人だった事を、知りました。
 俺が人を守る為に倒した……殺した、あの名も知らぬ鬼が、元々は人だったのだと、初めて知ったのです」

 名も知らぬ誰か。きっとかつては、誰かにとっての大切な人だったのだろう誰か。
 鬼舞辻無惨によって鬼に変えられ人を喰う事でしか生きられず……そして鬼となった時に大切だった何かを壊してしまったのだろう憐れな存在。それなのに、鬼に変えた鬼舞辻無惨にとっては「どうでも良い駒」でしか……いやきっと駒ですら無かったのだろう、誰か。罪を重ね続け、そして最後の最後にその全てを思い出してしまった人。……例え己の意思では無かったのだとしても、その手を罪に染めた事は変わらず、そしてそれを呵責する心を最後に取り戻したが故に堕ちる先は地獄だろう、誰か。鬼になどされなければ、きっと犯さなくても良かった罪に塗れてしまった存在。
 自分は、その名を知らない。人であった時の名も、そして鬼となった後の名すらも。その存在を示す血鬼術の名すらも知らない。……それが、本当にただただその事が。どうしようもなく哀しいのだ。
 あの鬼を殺した事自体は後悔していない、もうその罪を重ねさせない方法はそれ以外に無かっただろう。
 人を殺す事を説得するなり或いは無理矢理にでも止めさせたとしても、己の罪を思い出し「人」となった瞬間に、それに耐える事など出来ないだろうから。……あの鬼の最後の表情は、それを訴えていた。
 だから、あれで良かったのだ。あれ以上の事は誰にも出来なかった。それこそ、時を巻き戻して名も知らぬ誰かが鬼にされる事を防いでやる事でしか、救う事など出来なかったのだ。そして、イザナミと言う「神」をも凌駕する力を以ても、自分には時を遡る事など出来ない。そして万が一技術的に可能であったとしても、きっと自分はしないだろう。「知らない」相手の為に己の全てを差し出せる程、自分の価値を安くは見積もっていない。何時だって、命を賭けるのであれば、それは自分にとって喪い難い大切な人達の為なのだと決めている。
 自分があの哀れな存在にしてやれる最善が、あれだった。それだけの事なのだ。

「……俺は、鬼に何かを奪われた訳ではありません。命を捨ててでも鬼を狩らなければならない理由は無い。
 炭治郎や……そして「お館様」、あなたの様な。何処までも強い執念や覚悟や動機がある訳でもありません。
 でも……俺は……」

 正直、自分でも本当に驚いている。
 此処は、炭治郎たちにとっては間違いなく現実の世界であるのだが、少なくとも自分にとっては『夢』。
 目覚めた時にはどんなものだったのかすらも思い出せないかもしれない様な、そんな夢現の中の微睡みの出来事だ。……だが、それが一体何だと言うのだろう。
 心の海を駆け、罪の無い人達が暴かれた己の心に喰い殺される事を防ぎ、そして心の海の中を搔き乱した一連の出来事のその全ての真実に辿り着き、そして最後には盤上を用意した神を下した。その経験の全てが叫ぶ。
 そこが『夢』であるかどうかなど関係無い、自分の心が在る場所こそが「世界」なのだ、と。
 過去改変の可能性やバタフライエフェクトの恐怖など、己の心の奥に灯ったこの衝動を殺す事は出来ない。
 もしそうなったなら、それすらも含めて全て変えてやる、と。この心は傲岸不遜にも叫んでいる。

「……俺は、鬼舞辻無惨と言う、逢った事も見た事も無い相手を、赦したくないのです。心の底から。
 何もかも奪われてしまった名も知らぬ無数の誰かの痛みを、全部まとめて叩き付けてやりたい、と。
 俺は、そう思っています。執念と言うには淡く、覚悟と呼ぶには底の浅い感情かもしれませんが」

 それはきっと、正義感なんて綺麗な感情では無い。道徳観や倫理観からの怒りでも無い。
 別に、鬼舞辻無惨と言う存在が居ようが居まいが、……鬼がこの世に存在するか否かに関わらず、人の世には人間同士が引き起こす想像も絶する程の絶望と地獄が生まれる事も知っている。恐ろしい悲劇がこの先幾つも起きる事も、人の命が紙切れ一枚よりも安くなる時代がこの先訪れてしまう事も知っている。それを知っていても、その「未来」を「良い方向」へ変えてやろうなどとは思わない。今行動すれば何万何億の命が救えるかも知れないと分かっていても、絶対に何もしない。だから、そんな風に救えるのかもしれない命を救わない事に決めた自分の胸に宿ったこの感情は、正義感だなんてものじゃないのだろう。
 でも、とにかく鬼舞辻無惨と言う存在が起こしているその全てが、心の底から赦せないのだ。

 そして何よりも。

「それに……俺は炭治郎の力になりたいんです。
 自分の大切な家族を、鬼舞辻無惨に奪われたものを、本当の意味で取り戻そうとしている、炭治郎の力に。
 その為に、俺が出来る事があるのなら、俺が鬼を倒す事に協力する事で何かを変えられるのなら。
 俺は、戦えます。戦わせて下さい」

 そう本心から答えると、「お館様」は穏やかな笑みを浮かべた。
 恐らく次に望まれるのは、どの程度目の前の存在が鬼舞辻無惨に対抗する為の力になるのかと言う確信だろう。弱い鬼を倒す事で精一杯なのか、それとも鬼舞辻無惨そのものの命にすら届き得る鬼札に成り得るのか、と。
 正直、そこに関しては自分でも知りたい部分はあった。
 今の状態では、まともに戦うのは難しいだろう。
 今のままだと継戦能力が著しく欠けているし、何なら強力な力を使っただけでも一発で昏倒しかねない。
 だが、あの八十稲羽で過ごした一年で、ペルソナの力……心の力を最も強くするものが何であるのかはもう知っている。心からの絆を満たす事。結局の所、それが全てなのだ。
 炭治郎との間に【太陽】の絆を感じた時、確かに、僅かにではあったが自分の力が増したのを感じた。
 まだ生まれたばかりであるけれど、この力を高めていけば他ならぬ炭治郎の力になる事も出来るだろう。
 心からの絆を築くには一朝一夕では到底不可能だが……しかし、もし今の自分が新たにこの世界で築き上げ得る全ての絆が満たされ切った時。その力は自分の大切な人達を傷付け大切なものを奪っていった存在に対してその命に届き得るのではないか、と。そう直感が囁いている。

「そうか……有難う、悠。
 さて、話は少し変わるのだけれど、君には何処か身を寄せる宛てはあるのかな?」

「いえ、俺には身を寄せる先はありません」

 身を寄せる宛どころか、お金も無いし職も無い。割と真面目にこの世界で自分はある意味天涯孤独の身に近い。
 まあ、職に関して言えば『鬼殺隊』の人達と一緒に鬼を倒していれば、慎ましく生きていける程度にはどうにか出来る気はするが。

 身を寄せる先は無いと答えると、「お館様」は何かを思案する様な顔をして、そして「しのぶ」と。
 挨拶の口上を述べた後は静かに見守っていた彼女の名を呼んだ。

「蝶屋敷の方で、悠の面倒を見てあげてくれないかな。悠には人を癒す力もあるらしいから、蝶屋敷で療養している剣士こどもたちの力にもなってくれるかもしれない。
 悠、君の癒しの力も貸してくれるかい?」

「勿論です。俺に出来る事なら、何でも」

 と言うよりも、傷付いた人たちを癒すのは性格的には向いている。
 ……まあ恐らく一番向いているのは、大切な者を傷付けようとする相手をぶっ飛ばす事だろうが。
 幾らペルソナの力でも出来ない事は出来ないが、癒せるなら可能な限り癒せた方が良い。
 痛い時間が早く過ぎ去るに越した事は無いのだ。強過ぎる痛みは、それが肉体のものであれ心のものであれ、長く続けばその人を壊してしまうのだから……。

 その返答に満足した様に「お館様」が微笑んで、その場での話し合いは終わったのであった。






◆◆◆◆◆
2/5ページ
スキ