このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第四章 【月蝕の刃】

◆◆◆◆◆






 最初の印象は、「普通の奴」だった。
 当然それは見掛けの印象でしか無く。上弦の弐すら負傷者を守りながら五体満足で退け、その気になれば鬼舞辻無惨の齎す破壊と殺戮が児戯に見えてしまう程の破壊をこの世に振り撒く事すら可能であろうその存在は、まかり間違っても「普通」では無い。人間の形をした得体の知れない『化け物』の様なものだ。
 単純にその牙を今の所人々に向ける気配が無いと言うだけでしかない。
 お館様から謎の存在を鬼殺隊で保護したと言う話は聞いていたし、そしてその者が神の起こす奇跡にも匹敵する程の、この世の者ならざる程の癒しの力を持っているらしい事も報告に上がっていたから知っていた。
 それこそ血鬼術の様な人の世の理を捻じ曲げる力が無ければ叶わない筈の事を平然とやっているその者は、その尋常ならざる異能を隠そうとも惜しもうともせずに隊士たちに分け隔てなく揮うと言う。
 それだけならまあ、人に害の無い存在だとして拒否反応も無く容認出来たが。しかしその者は、任務で向かった先で会敵した上弦の弐を、文字通り完全に消滅させる寸前まで追い詰めたときた。
 明らかに常軌を逸した存在だ。だからどんな得体の知れない『化け物』が現れるのかと身構えていたのに。
 お館様の御前で初めてその姿を目にしたその者は、のほほんと地味に生きている一般人の様な、お人好しそうな気配を隠す事も無く漂わせている「普通の奴」にしか見えなかった。
 少なくとも、上弦の弐に何もさせないまま倒しかけたと言う派手な実力がある様には見えなかった。何と言うのか、覇気とでも言うべきものを特には感じないのだ。鬼殺の剣士たちの様に身体を極限まで鍛え上げている様な風でも無い。何なら最終選別を通ったばかりのひよっこ隊士の方が覇気と言うか威圧感があるだろう。
 最大限懐いていた筈の警戒心が、急速に凋んでしまうのを肌で感じた。
 鳴上悠と名乗るその得体の知れない男は、そうと分かっていても相手に「警戒させない」何かが在った。
 それがある意味で恐ろしくもあり、しかし同時に目の前の存在は全く恐ろしくは無い存在なのだと、その身が醸し出す雰囲気は伝えている。
 何とも奇妙な感覚だった。
 忍として鬼殺隊の柱として、様々な相手と対峙して来たが、此処まで「分からない」相手は初めてである。
 煉獄と親しそうに話し、やって来た胡蝶の姿を見付けて優しさの滲み出るその表情を更にふわりと明るくする。
 とにかく「普通」だ。派手さとはかなり縁遠い。少なくともその姿からは善良さ以外は感じ取れなかった。
 鳴上とあまり関りの無い連中も、各々が彼に懐いていた印象とは全く異なっていたからなのか、その姿を興味深げに見ていた。唯一変わらないのは、元々殆どの事に関心の無い時透くらいなものだった。

 しかし、そんな印象は鳴上が上弦の弐との戦いを具体的に報告し始めた時点で吹き飛んだ。
 鳴上が言っている事は、彼がお館様に当てて書いた報告書に記載されていたものの通りである。
 そして、その前に胡蝶の継子であり上弦の弐との戦いの一部始終を目撃していた栗花落隊士からの報告との矛盾点も無い。つまり、あの荒唐無稽としか思えない、人外と人外の戦いは紛れも無い事実であったと言う事だ。
 相手の手札を切らせ観察しながら可能な限り手を抜きつつも圧倒すると言う戦い方が常でありそんな戦い方をしていても尚どんな柱でも敵わなかった上弦の弐に対し、逆にその手札の全てを切らせた上でその攻撃の悉くを一蹴し切り札だろう大技すら掠り傷一つ与えさせない。
 僅かな欠片だけでも肺腑を凍て付かせ腐らせる程の冷気を自在に操る上弦の弐のその氷を平然と耐えるどころか、瞬時に鬼の肉体ですらほぼ灰すら残らない程に燃やし尽くす劫火を自在に操り、生半な膂力では薄い切り傷を付ける事も難しいだろうその頸を藁束か何かの様に何度も斬り落として。
 氷を操る鬼を逆に氷の中に閉じ込めて、更には広範囲に渡り全てを文字通りに消し飛ばす。
 そして、その人の世の理をどう考えても逸脱している神仏の戦いの顛末を、鳴上はただ淡々と語る。
 彼にとって、それは何て事も無い「普通に出来る事」なのだと、否応無しに悟らざるを得ない。
 何だったら、この場に鬼舞辻無惨の頸を引き千切って持って来たとしても鳴上は淡々とそれを語るのだろう。
 だが何より恐ろしいのは、そんな人外のものでしかない力を揮った事を淡々と語りながらも、彼の雰囲気や気配はポヤッとした善良な「普通の人」のものなのだ。
 思わずひれ伏したくなる様な神々しさとか、或いは羅刹の如き威圧感や、悪鬼の如き悪性など微塵も感じない。
 何も感じないというその事が、何よりも一番恐ろしい。
 目の前のこの男は一体何者なのか、誰もがそんな視線を向けている。
 全く変わらないのは煉獄くらいなもので、彼と一番多く接している筈の胡蝶でさえやや遠い目をしているのだ。
 そしてお館様だけは静かに微笑んでいた。先を見通すその目には、一体何が映っているのだろう。

 そして、お館様に促されて鳴上は鬼舞辻無惨の事をも話し出す。
 琵琶の音と共に現れた異空間へと通じる障子、その奥にあるこの世の理が歪んだ異質な世界、その奥に感じた醜悪極まりない鬼舞辻無惨の気配。
 未だ誰も突き止める事の叶わなかった鬼舞辻無惨の根城に関する情報すら、彼は既に得ていた。
 そして、何故鬼殺隊が数百年にも渡って総力を挙げて探し続けているのにも関わらず誰もその根城を突き止められなかったのかが明らかになる。異空間に根城があるなら、そこに通じる道を見付け出さなくては誰も其処に辿り着けないのだから。そして万が一潜入に成功したとして、そこは脱出不可能な鬼の蠢く常闇の城であり人間が足を踏み入れて生きて帰って来る事は不可能である。
 その異空間を構築しているのが鬼舞辻無惨自身の血鬼術なのか、それとも配下の鬼の血鬼術なのかは分からないが。どちらにせよ、その異空間の血鬼術をどうにかしなくては鬼舞辻無惨とまともに戦う事すら難しい。
 同時に、かの存在が余りにも神出鬼没過ぎて足取りをろくに追う事も儘ならない理由の説明も付く。
 その異空間を介して何処でも自在に移動出来るのなら、どれ程鬼舞辻無惨への憎悪と執念を懐いていようとただの人間がその足取りを掴む事など出来はしないのだし、鬼が生み出される事を事前に防ぐ事すら儘ならない。
 運良く邂逅した所で、鬼殺隊が対峙して来たどの鬼をも遥かに凌駕する強さを持つ鬼舞辻無惨には柱全員で戦ったとしても勝てるかどうかすら怪しく、そして少しでも不利を悟ったならば異空間に逃げ込まれてしまう。
 何ともまあ、ふざけた話だ。
 そして更に最悪な事に、鬼舞辻無惨は好きな時にその場に他の鬼を送り込む事が出来るのだ。
 よくよく考えれば、煉獄が上弦の参と会敵したその時も、鬼舞辻無惨によってその場に彼の鬼が送り込まれたのかもしれない。そうとでも考えないと、その邂逅は余りにも不自然なものだったからだ。
 夜明けも近い状況で、付近に何も無い普段なら誰も居ない場所に鬼が出没する事など本来有り得ないのだから。
 鬼舞辻無惨は己が生み出した全ての鬼をその支配下に置いている。その思考や五感の情報を鬼舞辻無惨は容易く掌握し、何かあれば鬼舞辻無惨を介して全ての鬼に情報を共有する事が出来る。
 事実、胡蝶が最近討伐された下弦の伍に使用した毒の情報は、上弦の弐にも共有されていたらしい。
 鬼舞辻無惨が生み出した鬼の数は膨大で、幾ら何でも木っ端の鬼どもの視界や情報まで一々精査しているとは思わないが。少なくとも十二鬼月相当の鬼に関してはある程度以上にその状態を小まめに把握されていると考えた方が良いだろう。つまり、十二鬼月を相手にしていると、その場に他の十二鬼月や鬼を寄越される可能性が何時も存在しているとも言える。下弦程度なら柱にとっては脅威では無いが、そこに上弦の鬼が送り込まれると一気に厳しい状況になるだろう。極めて由々しき状況とも言える。
 ただ、その可能性を事前に知る事が出来たという事は、とても大きな益があった。
 何も知らないままその状況に直面するのと、ある程度覚悟してその状況に遭遇するのとでは全く違う。
 その点でも、鳴上の功績は多大だと言っても良い。

 全てを報告し終えた鳴上は、所在無さ気に辺りを見回す。
 そろそろ此処から立ち去った方が良いだろうか? などとその顔と雰囲気は言っていたが、しかし此処で未知なる存在である鳴上と話す機会を逃がすつもりはこの場の誰にも無い。
 お館様が何も言わずに微笑んでいるのを見るに、「聞きたい事があるなら直接聞きなさい」と言う事なのだろう。
 だから、俺が先陣を切る様に鳴上に訊ねた。その人外の如き力の源は何なのか、と。
 そして返って来た答えは、『神降ろし』であった。……正確には、『神降ろしの様な物』であって『神降ろし』そのものでは無いらしいが。だが、俺たちにとってはどちらもそう大差の無い事であった。
『神降ろし』が可能であると言うのならば、この世には本当に神や仏が存在しているという事になる。
 ならば何故、鬼舞辻無惨などという悪鬼をこの世にのさばらせているのだろう。どうして、神仏に祈り縋る人々の嘆きの声に応えて彼の存在に天誅を下さないのか。全く以て意味が分からなかった。
 この世に神も仏も無いからこそ、幾百幾千幾万の命を積み重ねて想いを繋いででも人の手で鬼舞辻無惨を討ち取らねばならないのに。どうして、今更何故。
 そして何故、神仏はそれを信じ祈る人々やその助けを求める人々に応えずに、鳴上には力を貸すのか。
 鳴上を責め立てたい訳では無いのだが、この世の理不尽の一つを目の当たりにしているかの様であった。
 きっとその場に居た誰もが同じ気持ちになっただろう。
 鬼殺隊に身を置く者の殆どが、己の大切なものを鬼によって理不尽に奪われた者たちなのだ、神に祈ってもその手を一度だって差し伸べられた事の無い者たちなのだ。誰を責める訳にもいかない理不尽そのものだった。
 何故その様な事が出来るのかと鳴上を問い質しても、その答えは酷く曖昧で。出来るから出来るのだとしか答え様の無いと言った様子であった。

 そして当然の事ながら、その『神降ろし』の力とやらが本物なのかと言う疑問が湧き起こる。
 自分の目で確かめてもいないものを信じる事など出来ない。
 自分達の目の前でその力を示して見せろと言った伊黒の言葉に、鳴上は少し困った様に周囲を見回した。
 そして、お館様を見て。意を決した様に、癒しの力をお館様に使っても良いだろうか、などと言い出した。
 得体の知れない力をお館様に向けるとあって、煉獄と胡蝶……そして何故か悲鳴嶼さん以外は、疑心の様な戸惑いや或いは殺意にも等しい視線を鳴上に向ける。
 だがそれを他ならぬお館様自身が諫めた。既に彼の力は証明されているのだから、害は無いのだ、と。
 許可を与えられた事で、鳴上はお館様の下へと近付き、その手を優しく握る。お館様の傍に控えているご息女様方へと向けるその眼差しは本当に優しく温かなもので、成る程確かに害意など欠片も無いのだろう。
 しかし、その力が如何程のものかは知らないが、まるで神仏に呪われているかの様にその身を病魔に蝕まれ続け短命である事を宿命付けられているかの様なお館様のその身体を救う事など本当に可能なのだろうか。
 古今東西の名医と呼ばれた誰もが、匙を投げるしか無かったと言うのに。
 だが、そんな疑念は鳴上がその目を閉じて集中し始めた時点で霧散した。
 明らかに人智を超えた何かが起きようとしている気配を、生まれて初めて肌で感じた。
 それまで「普通の人」にしか感じなかった鳴上の気配が、明らかに別の物へと変わる。
 その気配に恐ろしさは微塵も無い。しかし、もしその身に宿る気配に何か名を付けるのだとすれば『神』であるのだろうと無意識の内にも感じた。成る程、『神降ろし』とはこう言う事なのか。
 そして、限界まで高まったその何かの気配は、一気にその場の空気を塗り替えるかの様に周囲を駆け巡り、そして霧散した。
 その途端に、お館様の手を握っていた鳴上の上体は力を喪ったかの様に揺らぎ、その場に倒れ込みそうになる。
 それを支えたのは、他ならぬお館様の手であった。
 もう自分の身体を支える事ですら辛い筈なのに。お館様は自身の手を驚いた様に見詰めた。

「これは……驚いた。こんなに身体を軽く感じるのは、一体何時ぶりだろう。
 ……有難う、悠。君は優しくてとても凄い子なんだね」

 気を喪ったらしい鳴上をそっとその場に寝かせて、お館様は慈しむ様な微笑みと共にその頭を撫でる。

「お館様、お身体の方は……」

「随分と楽になったよ。息も楽になったし、身体を動かしても痛みが少ない。
 これで、悠の力の証明になったね」

 その身を案じた悲鳴嶼さんの言葉にそう微笑むお館様に反論する者など、この場には誰も居なかった。
 目の前で起きたのは、紛れも無い『奇跡』の一つだ。
 その『奇跡』を起こした当人は、気を喪っているが……。そう言えば、今まで鳴上が関わってきた事柄の報告書の中ではかなりの頻度で彼は力尽きた様に昏倒していたな、と思い出す。
 やっている事が滅茶苦茶過ぎるのでつい見落としていたが、上弦の弐との戦いだってそうだったのだ。
 まさに神仏の如き力とは言え、何の負担も無くその力を揮える訳では無いのだろう。

「悠は間違い無く鬼舞辻無惨を討つ為の大きな力になる。
 恐らく、私の代で鬼舞辻無惨は完全にこの世から消えるだろう。そんな予感がするんだ。
 歴代を紐解いても始まりの剣士たちに匹敵する実力の柱が揃っている事、未だ嘗て記録にも無い一度も人を襲わない異端の鬼が現れた事、鬼舞辻無惨の姿を見て尚も生き残っている隊士が居る事。そして、悠が現れた事。
 千年もの間停滞していた全ての歯車が、今や鬼舞辻無惨の討滅に向かって動き出しているのを感じる。
 でも、悠の力はこうして見て貰っても分かる様に無尽では無いし、そして何より悠は《《優し過ぎる》》。
 恐らく悠は誰よりも自分を自身で縛っているのだろう。皆が危惧する様な事を、何があっても起こさない様に。
 だから、皆には悠の事を認めてその力になってあげて欲しい。そうすればきっと、悠は皆の為にその力を使ってくれる筈だよ」

 《《優し過ぎる》》。
 お館様がそう評したその鳴上のそれは、すとんと胸に落ちる様に納得のいくものであった。
 神仏の如き力を持っていても、上弦の鬼とすら比較にならない力があっても、それでも「普通」であるその理由。
 それは、本人の「優しさ」が故である、と。
 人外の力があっても鬼舞辻無惨の様な驕り高ぶる『化け物』となるでもなく、鬼の様に力無き存在を理不尽に踏み躙っていくでもなく、威圧感など欠片も無く善良さしかない「普通」で居られる。
 ちぐはぐで矛盾すらしている様に感じていたそれなのに、ただただ「優しさ」がそれを両立させていたとは。
 何ともまあ、人にとって「都合が良過ぎる神様」だ、と。そう思ってしまう。
 優しく善良であるが故に、助けを求められれば人としての良心を以てそれを助けるし、戦いなど好む性格では無くても大切に想う人の為ならば一生懸命に戦うし、苦痛を感じる人が居ればそれを取り除こうと尽力する。
 その美徳を備えている人は少なくは無いが、しかし本当に神仏の如き力を持っていてもそこまで人としての善良さに溢れている存在なんて、人の歴史を紐解いても指折り数える程も居ないだろう。
 そして優し過ぎるからこそ、どうしても消せない弱点が幾つもある事にも容易に想像が付く。
 鳴上は大切にしている誰かを絶対に見捨てられないだろう。古今東西歴史の影に日向に何度も繰り返されて来た「人質」と言う単純な作戦が鳴上にとっては痛恨の一撃になる。
 そして、それが有効だと判明した時点で、人としての道徳観など最初から無い鬼がそれを躊躇う事は無い。
 人の心など持ち合わせていない鬼と戦うには、間違いなく優し過ぎるのだ。甘過ぎるとも言っても良い。
 どうしたって血腥い戦いを常とする鬼殺隊に身を置くには、その身を滅ぼすだろう程に優し過ぎる。
 しかし、その優しさを俺は嫌いにはなれなかった。
 何故ならば、その善良さに付け込む様ではあるけれど。
 俺にはその力を利用してでも助けたい者が居るからだ。

 緊急の柱合会議が終わった後、柱の間での話題の中心はやはり鳴上であった。
 何が出来るのか、鬼殺にどの程度その力を有効活用させられるのか。
 嫌な言い方をすれば、その利用価値を量ろうとしていた。
 ほぼ死んでいる状態だった煉獄をも蘇生し傷痕一つ残さず回復させる力、どんなに悪質な血鬼術でも瞬時に後遺症無く解除してしまう力。極論、僅かにでも息が在れば、鳴上はその相手を助ける事が出来るとも言える。
 その代償としてこうして昏倒してしまう事はあるのだろうが、それを加味してもその力は破格と言う表現では到底足りない程に、まさに神の奇跡だ。それを自分の意思一つで起こせてしまう時点でその価値は計り知れない、
 そしてそれだけでは無く、上弦の弐との戦いの中で見せたその理の外にあるとしか言えない力の数々。
 その価値を正確に推し量る事すら難しい程に、鳴上と言う存在は「何でもあり」だった。
 まあ、流石に本当に何でもありと言う訳では無いだろうが。その辺りは本人の口から聞いた方が良さそうだ。
 屋敷の一室に寝かされた彼は未だ静かに眠っていて、周りを柱たちが取り囲んでも全く目覚める気配が無い。
 しかし正直少し焦っていた俺はその目覚めを大人しく待つつもりは無く、その身体を揺する様にして起こす。
 すると軽く唸る様にして身を起こした鳴上は、柱が自分を取り囲んでいる上に覗き込んできているという状況に驚いた様にその目を瞬かせ、そして真っ先にお館様の身の事を案じた。
 そんな鳴上にお館様の状態を教えた胡蝶は、まるで姉が弟を可愛がるかの様にその頭を優しく撫でる。
 それに少しだけ照れた様に微笑んだ鳴上は、相変わらず「普通」にしか見えない。
 そんな鳴上に、俺たちは次々に質問を飛ばした。
 俺たちと言っても、質問していたのは主に俺と不死川と時透で、伊黒は観察に徹する事にしたらしく、甘露寺は質問攻めにする気は無いらしい。何考えているのか相変わらず分からない冨岡は何時もの様に沈黙を貫き、悲鳴嶼さんは静かに涙を流しながら念仏を唱え、煉獄は特には何も言わずに鳴上を見守って、胡蝶は質問攻めにされている様子を少し心配そうに見ていた。
 矢継ぎ早に繰り出される質問に、鳴上はかなり誠実に答えている様であった。分からない事や出来ない事は誤魔化さずにハッキリとそう答えるし、出来る事は分かっている範囲内の事を正確に答える。
 しかしまあ……何とも「デタラメ」と言いたくなる程に、その力は滅茶苦茶な事が出来る様だ。
 常にそうである訳では無いらしいが、物理的な攻撃の一切を無効化するだとか、炎や氷や雷や風などによる攻撃の影響を無視出来るだとか。一体何と戦う為の力なのかと思わず首を傾げてしまう程に、滅茶苦茶だ。
 上弦の弐が手も足も出なかった理由はよく分かった。その攻撃の一切が最初から通っていなかったのなら、そりゃあどうする事も出来なかっただろう。鬼に同情するつもりは一切無いが、上弦の弐まで昇りつめたその力を以てしてもどうにも出来ない想像を絶する理不尽な存在を前にして何を思ったのだろうかとは考えてしまった。
 しかしそんな凄まじい力があっても欠点は多く、特に一番問題になるのは消耗が激し過ぎるあまり持久力が無い事らしい。
 まあ、疲れを知らない鬼であっても強力な血鬼術を連発して消耗すれば強烈な飢餓感に襲われるのだからそれも当然と言えば当然なのだろうけれど。
 そして強力な力を使えば使う程消耗して、最終的に限界が訪れれば糸が切れた様に昏倒してしまうそうだ。
 まあ、一応「人間」ではあるんだなぁ……と思わず感心してしまった。

 そして、夜が近付きその場が解散となった後で、俺は鳴上を呼び止める。
 ほぼ初対面で互いの事をそう知っている訳では無いのに、鳴上は俺の頼みを詳しく聞く事すらせずに了承してしまう。……何時か悪い奴らに騙されやしないか少し心配になる程だ。
 鳴上の顔立ちは少し化粧するだけで十分以上に美女に仕立て上げられるが、流石に体格がしっかりし過ぎていてどれ程衣服で誤魔化しても「女」を装う事は無理だろう。
 その為、潜入し簡単な情報収集をする役として、それなりに近場に在った蝶屋敷に居る女隊員を何人か見繕って連れて来ようとしたのだが、それはその場に居合わせた三人の隊士によって阻まれた。
 が、結果としてそれは失敗して良かったのだろう。
 別に客を取らせるつもりなど最初から無かったので化粧をしても不細工に仕上がろうとも労働力として放り込めれば良いかと思って仕方無く連れて行ったその三人の隊士と偶然仲が良かったらしい鳴上が、一体何があったのかを彼等から聞いた瞬間。
 鳴上の視線が明らかに殺意と怒りに満ちた冷め切ったものに変わった。
 ポヤッとした優しい目が一瞬で変化するそれは、人格が急変したのかと疑いそうになる程に漂わせる気配すら変化していて。彼がただ「優しい」だけの存在では無いのだとそう思い知らされる。
 そんな目をする鳴上を初めて見たのか、その場に居た三人は驚いた様に鳴上を見ていた。
 どうやら、触れるべきでは無かった逆鱗の一つに触れかけてしまったらしい。
 そう言えば、鳴上は蝶屋敷で面倒を見て貰っていた筈なので、もしかしなくても其処に居る者たちとは大層仲が良かったのだろう。鬼殺の任務と言う大義名分があったとしても、正確には鬼殺隊の隊士では無い鳴上が何処までそれを遵守する気があるのかと言う点では未知数である。
 とは言え、もう過ぎた事であるからなのか、それとも未遂で済んだ事だからなのか。鳴上はそれ以上は何も言わずにその作戦内容を静かに聞いていた。

 隊士たちと鳴上を目星を付けていた店に放り込んだその翌日には、鳴上は女房の一人である雛鶴の行方を掴んでいて、流石に予想すらしていなかった速過ぎるその動きに仰天した。
 どうやら異様な程に人の口を割らせるのが上手いらしく、老若男女問わずコロッと手玉に取るかの様にその懐に潜り込んで一晩もしない内にその胸に抱えていたものや秘密などを自ら明かしてしまったらしい。
 まさかそれも鳴上の異能なのかと思ったが、どうやらそれは彼自身の素の話術の様だ。最早異能の一種と言っても良い程に、人誑しの才能も凄まじいらしい。天は二物も三物も与える相手には与えるものの様だ。
 鬼の目星も確りと付けてからそれらの旨をムキムキねずみたちを介してキッチリ報告する辺り、真面目でそつが無い。鬼の活動する時間では無い昼間とは言え独りで雛鶴を探しに行ってしまった事に関しては、俺が予め女房の保護を優先する様に頼んだからだろう。私情を挟み過ぎていると言われてしまえば耳が痛いが、そもそも息さえあればどんな状態からでも回復させられるその力と、上弦の弐を圧倒した力を見込んで此処に連れて来たのだ。
 鬼殺の任務を蔑ろにする気は毛頭無いが、女房を救う事はそれに匹敵する程の重大事であった。
 まあ、鳴上は女房たちを救い出す事に全面的に協力してくれるそうだが。

 そしてそれから程無くして、鳴上は鬼の手から雛鶴を救い出した。
 毒を飲み衰弱してしまってはいたが俺が辿り着いた時には解毒は既に済んでいて、衰弱した体力までは直ぐには戻せないと鳴上は言っていたが、俺にとっては五体満足で無事に生きて戻って来てくれただけで十分だった。
 鳴上には既に返しきれない恩が出来てしまったが、鳴上はそれを恩着せがましくしようなどとは欠片も思っていない様で、それよりも確実に鬼が居る遊郭に残してきてしまった隊士が心配だからとその場を去ってしまう。
 雛鶴がある程度回復するまで待った後は、激しい戦いが起こる事を予期して一般人の保護と避難を行う為の隠達を召集しつつも残る二人を探して街を駆けた。
 そして、鳴上が助けに行った筈の隊士たちによって、まきをと須磨を発見しその他にも行方知れずになっていた人々の保護にも成功した。
 まきをも須磨も多少疲れは見えているが、目立った傷も無く五体満足であった。
 大切な存在が誰一人欠ける事無く自分の下に戻って来てくれた事に、心から感謝した。

 そして、鳴上が足止めをしている「上弦の陸」との戦いに向かったのだが──






◆◆◆◆◆






 妓夫太郎と名乗った蟷螂みたいな動きをする鬼の攻撃を、鳴上はその力で凍り付かせ或いは烈風で吹き飛ばす。
 妓夫太郎の攻撃は厄介極まりなく、しかもその欠片に触れるだけで常人なら即死と言う凶悪な効果まで付いているときたもんだ。幾ら毒に耐性があるとは言え、妓夫太郎の猛攻を俺一人で凌ぐのは難しく出来たとしても攻めあぐねて防戦一方になってしまっていただろう。
 そう言う意味では、この場に鳴上が居た事は紛れも無い僥倖であった。
 鳴上ならば即死さえしなければ毒を喰らおうがそれを直ぐ様解毒出来るし、その猛攻の相手を鳴上に任せれば俺が頸を斬る事だけに専念する事が出来る。
 鳴上と共闘する事は間違い無くこの戦いが初めてであるが、鳴上の操る氷は決して俺の動きを邪魔する事は無く、俺を狙う攻撃だけを的確に無効化していく。派手さは少し足りないが、そう言った働きは非常に重要だ。鳴上は誰かと共闘する事に慣れているのかもしれない。
 恐らく兄妹同時にその頸を落としていなければ討伐する事の出来ない特殊な鬼であろうと目星を付けて、先ずは妹の頸を落とし、その頸が再び繋がるよりも前に妓夫太郎の頸を狙う。しかしその刃が届く直前に接近戦用の血鬼術に阻まれ弾き飛ばされてしまう。が、間髪入れずにその懐に飛び込んだ鳴上が力尽くで妓夫太郎を押さえ込んで拘束し、頸を落とす好機を逃させまいと繋げてくれた。
 まさかそこまで力尽くでやるとは思っていなかったが、鳴上ならきっと何かやってくれると信じていた為、既に追撃の用意は出来ていた。
 だが、頸を落とそうとしたその瞬間。

 血で出来た底なし沼の様なものが突如真下に現れて、そして妓夫太郎を押さえていた鳴上の身体ごと周囲の全てを呑み込もうとする。
 そしてそれだけでは無く、ほんの一瞬の内に無数の猛毒の血の刃が血の沼から凄まじい速さで飛び出してきた。
 鬼の頸を斬る為に振り被っていた為、その一瞬の内の攻撃の防御には間に合わず。
 血の刃をその全身に受けてしまう。
 四肢は半ば引き千切られる程に斬り裂かれ、このままではもう二度と使い物にはならないだろう。
 それでも辛うじて胸や頭部などの致命的な部位への致命的な損傷を避ける事が出来たのは、鳴上が咄嗟に妓夫太郎を押さえ込んでいたその手を離し、俺の頭部をその腕で抱き抱える様にして守ったからだ。
 しかし体格の差は如何ともし難く、鳴上の身体と言うこの場に於ける最強の盾で守られなかった部分は酷い有様になってしまった。
 血に乗って致死の毒が一気に身体を巡る。今までに喰らってきたどんな毒よりも強烈な毒であった。
 咳き込んだ拍子に口から血が零れ落ちる。
 これでは、幾ら毒に耐性があっても持って数分と言った所か。
 鬼の切り札を受けてすら無傷のままであった鳴上は、俺の血によって赤く汚れた。しかしそれに構う事は無く、鳴上は俺の身体を強く抱き抱えて担ぎ直し、一気に致死の沼を越えてその場を離脱しようとする。
 足元から追撃の様に放たれた攻撃の全てを鳴上は巨大な氷壁を瞬時に作り出して一気に跳躍する事で防いだ。
 一瞬の内に致命傷を負った俺の姿を見た鳴上は、酷く苦しそうにその表情を歪める。
 そして、何かに気付いた様に真正面を向いて、叫んだ。

「炭治郎! それに触れるな!! 今直ぐ退け!!!」

 それと同時に、血の沼のその直ぐ傍までやって来ていた竈門たちへと襲い掛かった巨大な血の棘を、再び巨大な氷を竈門たちの目の前に作り出す事で防ぐ。
 その時、鳴上の息が僅かに荒くなった事に気付いてしまった。
 そうだ、幾ら鳴上に神の如き人智を超えた力があるのだとしても、それは無尽では無いのだ。
 力を使えば使う程に消耗し、何時か限界が訪れる。
 まだ限界までには猶予はありそうな感じだが、しかし楽観視していられる状態では無い。
 鳴上抜きで凶悪過ぎる切り札を切った妓夫太郎を倒す事は不可能だ。況してや、妹鬼と同時に頸を斬る事など。

「あの兄の方の鬼の血鬼術には、触れるだけでも即死する程の毒が含まれている。
 砕いた欠片を僅かに吸い込むだけでも大変危険だ。だから炭治郎たちは極力近付くな。
 あの鬼は俺と宇髄さんで何とかするから」

 鳴上は自身が作り出した氷壁の上に俺を担いだまま身軽に飛び乗って、焦りを隠そうともせずに竈門たちに警告する。死ぬな、死なないでくれ、死なせない、と。そんな心の叫びが聞こえてくる程の声だった。
 そして鳴上は、一瞬も躊躇う事無く担いでいた俺を降ろすや否や、その癒しの力を使った。……お館様に使ったものと同じだと気付く。そして、その力を使った直後に鳴上がどうなったのかも思い出した。
 お館様の身体すら癒したその力の効果は絶大で、毒に侵されきっていた筈の身体はその影響を綺麗さっぱり拭い去られ、二度と使い物にならないと覚悟した四肢の裂傷ですら何事も無かったかの様に一瞬で治ってしまった。
 だが、そんな力を使った代償は決して軽くは無い筈だ、と。俺は最悪の状況を覚悟したが。
 しかし、あんな状態でもお館様の身体を癒すよりは負担が軽かったのか、鳴上の限界はまだ訪れなかった様で、その意識はまだしっかりと保たれている様だ。しかし明らかに先程よりも消耗している。あまり余裕は無い。

「すまん、助かった。まさかあんな切り札があるとはな……」

「間に合って良かったです。……しかしあれでは接近する事がかなり難しいですね。
 猛毒の血の沼に、そこから無数に発生する展開速度も形状も自由自在な血の刃。……質が悪い」

「それだけじゃないな。多分、あの鬼は単純に頸を斬るだけでは殺せない。
 妹の方の頸も同時に落としておく必要がありそうだ」

 その言葉に、鳴上は一瞬息を呑んだ。そしてその事実が何を示すのかを瞬時に理解し、だからこそそこに恐怖に似た感情を僅かに滲ませつつ唸った。

「流石にあの二体を同時に相手しながら、同時に頸を斬る事は出来ないと思います。
 俺の刀では、幾ら頸を斬っても殺せないので……。
 妓夫太郎の方は、俺たちで相手をするしか無いですね。
 なら、あの妹鬼の方は……」

 まだ経験も浅い三人に任せるより他に無い。
 だが、どう考えてもあの妹鬼ですらあの三人では手が余る相手だ。
 単独任務が多い隊士たちは、連携して戦うという事を苦手とする者が多い。
 一緒に同じ敵と戦うと言っても、余程息が合うか或いは相手の型やその動きや癖などを熟知していないと互いに足を引っ張るだけの結果になってしまう。
 そしてそう言った連携の妙技を体得する事はそう簡単に出来る事では無く、当然ながら最終選別を通ってまだ半年も経っていない新人隊士たちに出来る事では無い。
 だからこそ、それは彼等にとっては「死んでくれ」と言うにも等しいものであった。
 それが分かっているからか、鳴上はその言葉の続きを言えない。
 それでも、言わなければならないのだ。
 何故なら、彼等は鬼殺の道を自ら選んだ剣士たちなのだから。
 鬼と戦う事から逃げる事は、出来ない。
 そして、その事を誰よりも分かっているのだろう。
 竈門は鳴上が呑み込んでしまったその言葉を自ら口にする。

「俺たちが斬ります。だから、悠さんと宇髄さんはあの兄の方の頸を、お願いします」

 その瞬間、鳴上の眼差しは揺らいだ。
 だが、その直後に一瞬強く目を瞑ったあとには、その目に不安は僅かにも浮かんでいない。

「……ありがとう、炭治郎。伊之助も、善逸も、どうか、頼む。
 あの妹鬼の攻撃は、帯による斬撃だ。
 帯は伸縮自在で柔軟性に富み、切断には速度が重要だ。
 それと、恐らく兄の方の毒程では無いだろうが、妹の帯の方の攻撃にも注意してくれ。
 くれぐれも命を大事にして欲しい。
 絶対に死ぬなよ、三人とも」

 死ぬな、と。その言葉をまるで祈りの様に口にして。
 鳴上は三人を死闘へと送り出す事を決意した。

 そしてその直後に頭上から降って来た無数の帯の攻撃を、鳴上は俺と共に斬り裂いて捌く。
 視界を一瞬埋め尽くしたその帯の奔流の中で妹鬼は竈門たちの背後へと回り込んでいて、そして今度は竈門たちを狙ってその帯の斬撃を浴びせ掛けた。
 鳴上はそれを捌こうとするが、しかしそれは妓夫太郎からの攻撃によって妨害される。
 血の沼から無限に精製される刃はどれも先程迄の比では無い程の速度と威力を以て襲い掛かって来る。
 そしてその刃は、自分達だけでは無く妹鬼と戦う竈門たちをも狙っていて。
 俺たちは竈門たちの方へ向かおうとするその刃を優先的に破壊するが、しかしその数が余りにも多くまた軌道が不規則である為に完全には防ぎきれない。
 妹鬼の猛攻によって、気付けば竈門たちとは随分と距離を離されてしまった。
 しかしその事に構い続けている余裕は無い。
 周囲の建物をまるで豆腐か何かの様に軽く切断し破壊しながら、妓夫太郎は血の沼の中心で無数の刃を自由自在に精製して嗾けて来る。その連撃の速さに防戦一方となってしまう。
 そもそも、致死の毒沼を踏破して妓夫太郎の下へ辿り着く術が無い。
 幾ら毒に耐性があるからと言っても、この沼に足を踏み入れてしまえばそう長くは持たないし毒で弱った状態で妓夫太郎の頸を斬れるとは思えない。
 このままでは、遠方から一方的に擂り潰されて終わりだろう。
 鳴上は力を温存する為か刀で攻撃を捌く事に専念しているが、しかしそれも何時まで続くかは分からない。
 まさにジリ貧とでも言うべき状況だった。

「鳴上! 何かこの毒を無効化出来る様な力は無いのか?」

「あるにはあります。そう長続きはしないんですけど、一定時間毒などの一切を無効に出来る力が。
 ですが、それを使うには。えーっと、降ろす神を変えなくてはいけないんです。
 でも、この状態だとその為に必要な一瞬を作り出せない……!」

 ダメもとで言ってみたが出来るらしい、本当に何でもありに近かった。
 しかし、その力を使う為の一瞬を作り出せないのだと、そう鳴上は言う。
 そして俺たちが何かをしようとしている事に勘付いたのか、妓夫太郎は更なる大技を繰り出してきた。
 血の沼が爆発したかの様な猛烈な勢いで吹き上がり、天を覆わんばかりに頭上を赤黒く染め上げた。
 そしてそれは最早目視で数える事など不可能な程の夥しい数の刃となって地上の俺たち目掛けて驟雨の如く降り注いだ。

 しかし鳴上は降り注ぐ無数の刃を臆する事無く見上げ、そしてその左手で照準を合わせるかの様にそれに指先を向けながら、襲い来る刃を真っ直ぐに見詰めて。


「──メギド!!」


 何か異国の言葉の様なそれを発すると、その次の瞬間その左手の先に恐ろしい程の何かが凝集する様に集まり、一点に収束した何かは降り注ぐ刃に向かって一気に解き放たれた。
 それはまるで、地上から天に向かって墜ちる巨大な光の矢の様だった。
 何処と無く美しくもあるのに、それ以上に恐ろしい光。
 血鬼術ですら恐らくそれを再現する事は叶わないだろう、全てを無に帰す滅びの光だ。
 光はその内に呑み込んだ刃を全て消し去り、その頭上に掛かっていた雲を全て消し飛ばし、その衝撃で周囲の雲すらをも吹き散らす。
 雲一つない夜空に輝く望月だけが、いっそ場違いな程に地上を明るく照らし出した。

「おいおいおいおい、あれをそうやって防ぐのかぁあ。
 本当に『化け物』なんだなぁあ、お前。
 でもまあ、随分と疲れて来ているんじゃないのかぁあ?」

 必殺の大技に等しかっただろう攻撃を想定外の方法で防がれた事に、幾ら鬼でも驚きを隠せなかったのか。
 妓夫太郎は心底驚き畏怖する様な顔をしながらそう言った。そして、鳴上の力が無尽では無い事にも、気付く。
 鳴上はと言うと、それに何かを返せる状態では無いのか、随分と荒く息をしている。
 恐らく先程の滅びの光は、その身体にかなりの負担を掛けたのだろう、明らかにその限界は近い。
 だが、その目はまだ戦う意志に輝いていた。

「そんな力があるなら、どうしてもっと早くに使わなかったんだろうなぁあ? 
 お前さては、仲間や誰かを巻き込む事が怖いんだなぁあ? 
 そうだよなぁあそうだよなぁあ。あんな力を使ったら、この辺り全部吹き飛んじまうもんなぁあ? 
『化け物』のクセに人間のフリなんかしてると、大変だなぁあ? 
 どうして虫ケラ程度でしかない人間たちをそうまでして守ろうとするんだぁあ? 
 人間のフリなんてするの止めちまえよなぁあ? 
 鬼になって、人間を食い散らかしてみたりさぁあ。そんだけ強いなら、好きに生きられるだろぉお?」

 鳴上の事を何処か嘲る様に、或いは憐れむ様に。
 再びその足元に血の沼を広げながらもそんな風に言葉を連ねる妓夫太郎への鳴上の返答は、至って単純なものだった。
 刀の切っ先をその喉元に真っ直ぐに向けて、絶対の拒否を示す。

「お前が……何を言っているのか、俺には、全然分からない。
 俺は、人間だ、『化け物』でも、況してや『神様』でも、無い。
 俺は、俺の大事な人たちを、守りたい。大事な人たちが守りたいものも、守りたい。
 それが、俺の望みだ、俺が今此処に立っている理由だ。
 だから、傷付けない。俺は、人の命を、身体を、心を、絶対に自分の意思で傷付けたりしない……! 
 それに、お前たちみたいに、人の心や命を踏み躙る者は、大嫌いだ。
 俺の大事な人たちを傷付けた者は、絶対に許さない。
 俺は、鬼なんかに、絶対にならない……!」

 消耗がかなり限界に近いのか、息も切れ切れになりながらも、鳴上はそう言い切る。
 その言葉には一片の嘘偽りも無い。
 それは何処までも真っ直ぐで、そして優しいが故の強さだった。

 恐らく、鳴上は本人がやろうとさえ思えば、こんな風に苦戦する必要も無く妓夫太郎を倒す方法があったのだろう。そもそも既に上弦の弐を圧倒しているのだ。幾ら相性というものがあるのだとしても、弐よりも遥かに数字の低い上弦の陸に勝てない道理など無い。
 しかし鳴上はその手札を切らなかった。正確には、切れなかったのだ。
 仲間達を、そして無辜の人々を、危険に晒す事や況してやその命を奪いかねない力を、どんな危機に追い込まれたとしても咄嗟にでも使ってしまわない様に無意識の領域ですら深くそれを戒めている。
『化け物』と罵るにはあまりにも誠実に他者の命やその尊厳を尊重し、『神様』と呼ぶには矮小な事柄の一つ一つを掬い上げようとしてしまう。
 成る程確かに、本当に《《優し過ぎる》》。
 だが、だからこそ鳴上は心から信頼するに値する仲間であるのだと、そう理解出来るのだ。

「鳴上は『化け物』やら『神様』なんかになるにはお人好し過ぎるからな、鬼なんかもっと向いてないだろ。
 それに、俺たちの仲間を勝手に鬼に勧誘するなんざ、到底見過ごせる訳ないからな」

 そろそろ「譜面」が完成しそうなのだが、あと僅かに何かの手が足りない。
 それを埋めるべく、少しでも時間を稼ごうとする。

 その時、妓夫太郎の顔から余裕の色が消えた。それと同時に、怒りの様な感情がその顔を彩る。
 恐らく、竈門たちと妹鬼との戦いの方で何かが起きたのだろう。
 俺たちと戦いながらも妓夫太郎が妹鬼の援護をしていた事にも気付いていた。
 頸を斬ったのか、或いは斬る寸前なのか。
 どちらにせよ、今この瞬間、妓夫太郎は意識の多くを妹鬼の方に向けている様であった。


「俺の妹を虐める奴は皆殺しだって言ったよなぁあ?」


 己の命よりも大切なものへと手を出されたその憤怒をそのままに。
 妓夫太郎は呆れる程に巨大な血の大鎌を作り出して、それを妹鬼たちが戦っている方向へと飛ばす。
 その刃に触れた周囲の全てを切り裂きながら大鎌は恐ろしい程の速さで周囲を斬り刻む。
 そんな攻撃にただの建造物が耐えきれる訳など無く、少し離れた場所から大規模に全てが崩壊していく音が聞こえて来た。
 この場所からでは、竈門たちがどうなっているのか全く分からないし、そして俺たちをこの場に釘付けにするかの様に再び血の沼からの熾烈な攻撃が始まる。
 そこに駆け付ける事が出来ない、竈門たちは無事なのか、妹鬼の頸を斬れる状態なのか。
 何も、分からない。

 だが、何かを感じ取ったのか。鳴上はその目を大きく見開く。
 何かに突き動かされた様に、何かを掴み取ろうとする様に左手の掌を上に向けた。
 その瞬間、その手の上には、眩いばかりに蒼く輝く何かが現れる。
 そしてそれを、一瞬も躊躇う事無く、鳴上はその手で握り潰した。


「──イザナギ!!!」


 轟く雷鳴の如き鳴上の咆哮と共に、蒼い輝きに包まれた大きな何かがその背後に現れた。
 圧倒的なまでの威圧感とその存在感に、肌がひりつく。
 しかしそれが何であるのかを見極めるよりも前に、現れた何かはまさに雷光の如き速さでこの場を離れ、竈門たちの方へと向かった。
 恐らく、竈門たちを助ける為に。
 あれは一体何なのか、俺には全く分からない。そして妓夫太郎も全く理解出来なかったのか、驚いた様にその口を開けていた。

「宇髄さん、多分もうちょっとしたら俺は限界が来てしまうでしょう。
 でも、絶対にあの血の沼を何とかして見せますから……その時は、お願いします」

 妓夫太郎に聞こえぬ様にと俺にだけ聞こえる様な小声でそう言いながら鳴上が構えたその刀には、まるで紫電が纏わり付く様にその刀身の上を走っている。
 少なくとも先程まではそうでは無かった筈だ。先程現れた何かの影響なのだろうか。
 それは分からないが、鳴上が「何とかする」と言ったなら本当に何とかするのだろう。どうやるのかまでは分からないが。ならばその好機を絶対に逃さない様に構えるだけである。
 そして今この瞬間、「譜面」は完成した。
 あの致死の毒沼さえ消えれば、何時でもその頸を斬れる。


 俺が刀を構えてその時に備えたその瞬間。
 少し離れた場所から、幾百もの雷が一度に落ちたかの様な轟音が鳴り響いた。






◆◆◆◆◆
8/13ページ
スキ