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第四章 【月蝕の刃】

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「切見世」の周囲は良い環境とは言い難い場所だった。表通りからは遠く離れ、衛生的にもかなり厳しい環境だ。
 こんな場所に送られれば、「さっさと野垂れ死ね」と言われているも同然と思える。……まさに、見捨てられた場所とでも言うのが正しいのだろう。
 絢爛豪華な遊郭が立ち並ぶ表通りとは違い、粗末な掘っ立て小屋の様な建物が身を寄せ合う様にして無数に立ち並ぶそこは、間違いなく遊郭と言う場所の影の部分である。
 此処の何処かに雛鶴さんが居るのだろうか。話を聞いて情報を集めたくても、此処に居る人たちの多くはその目に光が無く死を待つばかりの者か、或いは一晩だけでも自分を買ってくれと縋って来る者達ばかりである。
 彼女等がその日の暮らしにも困窮している事が明白であるが、彼女等を一人一人助ける様な時間的猶予も金銭的な余力も何も無くて。心苦しくはあるが、縋って来るその手を振り解く事しか自分には出来なかった。
 自分は「神様」では無い。苦しむ人全てを救う事など出来ない。
 自分にとって何を優先するべきなのか、判断を間違えている余裕も無いのだ。
「切見世」の周囲を歩き回っていると、ふと何か奇妙な気配がある事に気付いた。
 微かに背筋がぞわぞわする様なそれを集中して追い掛けると、一件の粗末な小屋へと辿り着く。
 念の為戸を軽く叩くと、苦しそうな女性の声がそれに応えた。
 この人が雛鶴さんであるのかどうかは分からないが、この小屋に何か奇妙なものが居る事は確かである。
 目立たぬ様に十握剣は鼠たちに預けたまま此処に来てしまっているので、万が一この場所に鬼が潜んでいるのなら、破魔の力が効かない場合は中に居る人を抱えて逃げるしか成す術は無いだろう。
 とにかく慎重に行動しなくては、と。何時でもペルソナの力を使える様に準備をしながら小屋の戸を開ける。
 そこには、日光がろくに届かぬ暗い部屋の中で具合が悪そうな女性が粗末な布団で寝ていて、その枕元には場違いな程に豪華な帯布が置かれている。そして、異様な気配はその帯から感じるのだ。
 これが鬼の本体であるとは流石に思わないが、分身なり血鬼術で作り出された何某かである可能性は高い。
 帯布を警戒しながら、寝込んでいる女性に近付く。

「あの、貴女が雛鶴さんですか……?」

 そう女性に問い掛けた瞬間。帯が凄まじい速さで襲い掛かって来た。
 それを避けながら、寝込んでいる女性を抱き抱えてうねる帯から距離を取る。避けたその背後で畳がまるで刃物に斬り裂かれたかの様に切断されたのが見えた。どうやら、この帯は斬れ味も鋭い様だ。
 帯はまるで生きているかの様にグネグネとうねり、そして眼と口の様なものが浮き出てくる。
 ハッキリ言って物凄く気持ち悪い。列車と融合した鬼と言い、鬼の美的感覚はどうなっているのだ……。
 帯の強さ的には、上弦の弐には当然の事ながら遠く及ばず、何なら列車と融合していた鬼よりも弱い位だろう。
 しかし、狭い小屋の中と言う状況や、腕の中に病人を抱えていると言う状況が予断を許さない。

『雛鶴を監視する為に分けていたけど、こんなに早く獲物が掛かるなんてね。
 柱には到底見えないけど、まあ良い。鬼狩りが入り込んでいる事が分かっただけで十分よ。
 何なら、お前も見目は美しいから生かして捕らえて喰ってやっても良い』

「お前みたいな気持ち悪い帯に喰われるのは嫌なんだが……」

 グネグネうねりながらそんな事を宣ってくる帯に、思わずそう零してしまう。
 いや、別に気持ち悪い帯相手でなくても喰われるのは絶対に嫌なのだが。

『ごちゃごちゃと煩いわねこの塵虫が! 
 私がわざわざ喰ってやると言っているんだから感謝しなさい』

 そんな滅茶苦茶な鬼の理論を振り翳して小屋の中を縦横無尽に切断しながら襲い掛かって来たその攻撃を軽く躱して、帯全体を視界に収めた状態で破魔の力を使う。

「──ハマオン!」

 そこまで強くは無さそうだから効く予感はあったが、やはりその勘は当たっていたらしく。
 悲鳴の様な絶叫と共に、帯は光の中に消えた。破魔の力が効いたのは恐らくは本体では無かったからだろう。
 しかし、あの帯が血鬼術によるものか、直接の分身なのかは分からないが、始末してしまった以上鬼の方にも何らかの情報が送られてしまった恐れがある。
 このまま此処に留まるのは再度の襲撃の恐れがある為、何処かに身を移した方が良い。
 腕の中の雛鶴さん(?)は本当に苦しそうだし、早くどうにかしてあげなくては。

「すみません、一旦場所を移します。苦しいのはまだちょっと続くと思いますが、耐えて下さい」

 そう声を掛けてから、「切見世」を出て街から少し離れた場所へと移動する。
 周囲に人気が無い事を確認してから、雛鶴さん(?)に『アムリタ』を使った。
 すると、苦しそうだった息が途端に楽なものになる。

「……あなたは……」

「俺は鳴上悠。宇髄さんの命令で、貴女を探していました。
『京極屋』に潜入していた雛鶴さんで合っていますか?」

「そう……天元様が……。ええ、私は雛鶴です」

 やはり、この人が雛鶴さんである様だ。となれば現時点で行方が分かっていないのは、須磨さんとまきをさんだ。二人は「ときと屋」と「荻本屋」に潜入していただけに、炭治郎と伊之助がその行方を掴んでくれている事を願うばかりである。
 雛鶴さんは確りと目を開けて答えるだけの力は戻って来たようだが、それでもまだ身体を動かすのは辛いだろう。
 どれ程長い間伏せっていたのかは分からないが、今は静かに身体を休めておいた方が良い。

「さっきここに来る途中で鎹鴉に合図を送ったので、多分そろそろ宇髄さんが此処に来てくれると思います。
 まだ少しお辛いかもしれませんが、一体何があったのか話して頂けますか?」

 そう言うと、雛鶴さんはそっと頷いて、連絡が付かなくなってから何があったのかを話してくれた。

 雛鶴さんは早々に『蕨姫』が怪しいと気付いたらしい。だが、気付いて警戒してしまったからなのか『蕨姫』の方からも警戒され目を付けられてしまった為表立っての身動きが取れなくなってしまい、そうこうする内に「ときと屋」に潜入していた須磨さんとの連絡が取れなくなった事から一旦「京極屋」を出ようとして毒を飲んで病に罹ったフリをしたらしい。だが、「京極屋」から放逐される寸前に『蕨姫』があの帯を渡してきたのだとか。
 あの帯が尋常なものでは無い事には気付いていたが、何か不審な動きをすれば直ぐ様に殺しにかかって来る事には気付いていた為、毒を飲んで弱っていた事も有って鬼と直接的に戦う力の無い雛鶴さんは、鬼の監視を受けながら解毒剤を飲む事すら出来ずに倒れているしか無かったそうだ。

「あの帯なら、跡形も無く消えたのでもう安心してください。
 宇髄さんが来てくれるまで此処で静かに待ちましょう」

「京極屋」を出た時には太陽は中天で輝いていたのだが、雛鶴さんを探すのに手間取った為既に日は傾き始めつつある。もうそろそろ、鬼が闊歩する時間だ。
 もしあの帯を通して鬼の方に何かの情報が伝わってしまったのなら、今晩が決戦の時になってしまう可能性がある。急いで「京極屋」に戻って善逸と合流する必要があった。
 だが、このまま此処に雛鶴さんを置いて行く訳にはいかないので、宇髄さんの到着は待たねばならない。

 暫く待っていると、宇髄さんが元忍の身体能力を活かして凄まじい速さでやって来た。

「雛鶴!」

 宇髄さんは必死な顔で雛鶴さんの肩を掴み、抱き寄せる。
 その仕草の一つ一つに、雛鶴さんへの溢れんばかりの愛情を感じた。

「天元様、お役に立てず申し訳ありません……」

 そう言った雛鶴さんに構わないとばかりに首を振って、体力が回復し次第遊郭から離れる様にと宇髄さんは言う。
 夫婦の時間を邪魔するのは少し気が引けるが、自分もやらなくてはならない事があるので手短に報告して「京極屋」に向かおうとした。

「雛鶴さんが飲んだ毒は既に解毒しています。ただ、長く伏せっていた為喪われた体力までは直ぐに回復させる事は出来なくて……。
 雛鶴さんを監視していた鬼の分身の様なものは滅ぼしましたが、鬼本体は無傷ですし、もしかしたら分身を通して鬼に何らかの情報が渡ってしまった可能性があります。その場合、最悪今夜にも激しい戦闘になる事が予想されます。
 此処に潜む鬼は、着物の帯の様な分身を操る事が出来る様です。吉原中にそれを潜ませて人を攫っているのではないでしょうか。何処かに帯の巣の様な場所が在るのかもしれませんが、今はまだその場所を掴めていないので確かな事は言えません。
 鬼は、『京極屋』の『蕨姫』である可能性が高いと思われますので、俺はこのまま『京極屋』に戻って善逸と合流する予定です」

「そうか……もしその分身の帯の行く先を追えそうなら追ってみてくれ。だが無理はするな。
 お前はあいつ等を守ってやる事に集中しろ。俺も雛鶴の様子をもう少し見てからそちらに合流する。
 それと……雛鶴を助けてくれて有難う。何時かこの恩は返す」

 そう言って頭を下げた宇髄さんに頷いて、その場を後にした。






◆◆◆◆◆






 完全に陽が落ちる前に「京極屋」に帰りつき、屋根裏に潜んでいた鼠たちから十握剣を受け取って、服装も何時ものそれに変える。
 既に夜の街には活気が溢れ、表通りを行く人の波は途切れる事無く、店の中も慌ただしくなってきていた。
 こんな状況で鬼が暴れては、凄まじい被害が出てしまう事は間違いない。
 最悪の状況を想像してしまい、どうにかしなければと気が急いてしまう。
 そんな中、善逸を探して彼に与えられている筈の部屋に向かうと。
 善逸が、あの気持ちの悪い帯に呑み込まれかけている最中であった。
 まるで帯の中に閉じ込められていっているかの様に、帯の中に善逸の姿が描かれてゆくのと同時に善逸の身体は消えて行く。三次元から無理矢理二次元に変換されてゆくその様は、恐ろしいと言うよりも悍ましさを感じた。
 成る程、こうやって帯の中に人を閉じ込める力もあるのか。
 そうやって人を攫っては何処かに集めているのだろう。
 この帯はどうやら天井裏を伝って善逸を襲撃した様だ。
『ハマオン』で消し飛ばしても良いのかもしれないが、こうやって誰かが閉じ込められている時にそんな事をして良いのかは分からず。その為先ずは善逸を閉じ込める事を阻止せねばと、その姿が描かれている辺りの帯を斬り離す。閉じ込められる過程で恐ろしさからか気を喪っていた善逸は、受け身を取る事も出来ずに畳に落ちた。
 ちょっと額の辺りが赤くなっているが、命に別条は無さそうだ。帯の大元から切り離したからか、善逸の身体が帯に取り込まれる現象は停止し、ゆっくりとではあるが帯から身体が解放されてゆく。
 そして帯の大元が逃げる前に、『ハマオン』で消し飛ばした。
 帯は仕留める事が出来たが、ここに鬼の本体である『蕨姫』が居る以上こちらの動きは向こうに把握されている前提で動かねばならぬだろう。
 今はとにかく善逸を起こさなければならない。

「善逸、善逸! しっかりしろ! 鬼に襲われる前に炭治郎たちと合流するぞ!」

 完全に帯に取り込まれる前に助ける事が出来たからか、帯を消し飛ばすと同時に善逸は完全に解放される。
 身体を揺すりながら呼び掛けていると、ハッと意識を取り戻した善逸がその目を丸くしてパチパチと瞬かせる。

「ちょッ! 何あの気持ち悪い帯! 俺死んだの!? 
 いぃぃいぃぃやぁぁぁあぁぁあぁっっ!!! まだ死にたくない! 死にたくないよぉっ!! 
 禰豆子ちゃんとまだ結婚もしてないのに!!! ごめんよ禰豆子ちゃぁぁぁんん!!!」

 耳が壊れそうな程の絶叫を上げてわあわあと騒ぎ始めた善逸の口を咄嗟に塞いで落ち着かせる。
 この状況で騒ぐのは色々と不味い。

「善逸、落ち着け。今は一刻も早く支度をして一旦ここを離れよう。
 このまま此処で戦うと、此処の人達を巻き込んでしまう。
 先ずは炭治郎たちと合流するぞ」

 落ち着いて貰える様に努めてゆっくりと静かに言うと、どうやら動転していたのも治まった様で善逸は素直に頷く。
 そして、支度を手早く整えながら、昼間別れた後で何があったのかを教えてくれた。

 あの後、善逸は炭治郎たちと合流して其々に情報を共有しあった様だ。
 その結果、「荻本屋」では伊之助がまきをさんの姿が消えた直後の現場に出くわして、付近を這いずっていた怪しい気配を追跡したもののそれを逃してしまった事が判明したらしい。今思えばあの気持ち悪い帯に攫われてしまったのだと分かるが、取り敢えず手掛りを得た為に今日の夕刻に三人で集まってその気配の元を探す事に決めていたそうだ。
 しかし「京極屋」に帰って来た後で、善逸は『蕨姫』に遭遇してしまったらしい。
『蕨姫』に折檻されていた禿の子を庇ったらしいのだが、その時にどうやら不審に思われたのか。
 こうして一人になったその隙に、あの帯に襲われたそうだ。
 日輪刀を持っていなかった為成す術も無く、帯に閉じ込められた……と言う事らしい。

 支度を整えた善逸と共に、騒ぎにならない様にと窓から屋根伝いに炭治郎も向かっている筈の「荻本屋」へと急ぐ。
 一刻も早く、炭治郎たちと合流しなければならなかった。
 日はすっかりと地平線の向こうへと沈み、夜の帳が辺りをすっかり覆ってしまっている。
 表通りを行く人々は自分達の姿を認識していない様だが、彼等が其々の店の中に入っていくにはまだ暫しの時間が要る。この状況で戦闘になると最悪の状況になるだろう。
 宇髄さんは何処に居るのだろう。此方に向かっているのか、それとも攫われた人たちが何処にいるのかを探しているのか。
 彼方此方に人の気配が多過ぎて、炭治郎たち程には感覚が優れている訳でも無い自分には状況を完全に把握し切れていないし、かと言って善逸たちも人が多過ぎて特定の誰かを探す事は難しい状況だった。
 善逸が遭遇した『蕨姫』は、気配を隠すのが非常に上手く、声を掛けられる位の距離でも気をそちらに払わなければ卓越した聴覚を持つ善逸ですら鬼だと気付け無かったと言う。
 恐ろしい話だ。今この瞬間に襲撃されたとしても、直前までそれを察知する事はかなり難しいと言えるのだから。
 念の為に、ペルソナを物理攻撃を無効化出来るものへと切り替える。
 ペルソナの耐性を発揮させるのはその力を使うよりは消耗が少ないが、しかし確実に体力を削る行為である。
 出来れば攻撃を受ける直前に切り替える位が望ましいのだが、奇襲される可能性がある為それは難しい。

 その時、僅かに空気が揺らぐのを感じた。
 咄嗟に横に居た善逸を抱き抱える様にしてその身を引き寄せ、身を低くしながら一気に屋根を蹴る事で迫り来る「何か」を回避する。
 その直後、回避する寸前に手足のあった位置を薙ぎ払う様に幅が広く薄い何かが通過した。
 一瞬見えたそれは、あの帯と同じものだった。
 善逸を抱えたまま振り返ると、そこに居たのは紛れも無く鬼だと言える存在だった。
 その目には、「上弦の陸」と刻まれている。
 見目は目を見張る程に美しいが自分達に向けるその眼差しは醜悪であり、外見的な「美しさ」と内面的なそれが全く釣り合っていない事を否応無しに悟らせる。
 鬼の腰から伸びているのは、あの気持ち悪い帯と同じ柄のそれであり、この鬼が間違いなく「本体」である事を示していた。
 この鬼には破魔の力は効かないだろうと、様々な強さのシャドウを相手に戦ってきた経験が囁く。
 それは分かっている。そして足元に無数の人が蠢くこの状況下で自分が切れる手札の内、この鬼を確実に殺す方法は無い。
 ならば、日輪刀でその首を斬って貰うのを援護するのが最適解ではあるけれど……。

 脇に抱えた善逸を改めて目をやる。
 善逸は、強い。恐らく、三人の中で一番速く強いのだろう。三人の持ち味は其々違うので単純な比較は出来ないが、雷の呼吸による圧倒的な速度による居合いは鬼との戦いで強いアドバンテージになる。
 炭治郎が以前零していた様に、善逸は強いのに何故か酷く自信が無い。だから、怯えるし直ぐに「死ぬ」と喚く。
 だが、いざ逃げてはいけない状況で鬼を目の前にすれば、善逸が其処から逃げる事は絶対に無い。それは間違いなく善逸の本当の心の強さ故だろう。
 二人で連携すれば、ここでこの鬼の頸を斬る事は確実に可能だ。この場で二人で協力して速攻で頸を落とすのが、最も周囲に被害を出さずに済む方法だろう。
 しかし……。

 今目の前の「上弦の陸」を見ていると、どうにも違和感がある。
 比較対象が上弦の弐の鬼であるからなのかは分からないが、妙に弱い様に思うのだ。
 列車で戦った鬼よりは強いが……しかし、柱達が何人も殺される様な強さである様には感じない。
 想定していた程には、強くは無いのだ。だが、同時に何とも奇妙な気配も感じる。
 何だろう、この違和感は……。自分では未だその正体が掴めない。
 感覚が鋭敏である訳でも、分析に特化した力がある訳でも無いからこそ、慎重にならざるを得ない。
 この鬼ですら分身の類であった場合などを考えると、ここで一気呵成に攻める事は得策では無い。
 何せ、この遊郭の何処かには、攫われた人たちが今も尚監禁されていると思われるのだ。
 万が一そう言った人たちを人質にされれば……。どうしても、それを考えてしまう。
 今も足元に居る人たちを人質に取られている様なものだが、人質に成り得る人が少ないに越した事は無い。

 決断するまでは一瞬程度だった。
 腕に抱えた善逸を降ろし、炭治郎たちと合流してくれと合図する。今は此処で本格的な戦闘をするよりも前に、行方不明になっている人たちを救出して貰う方を優先するべきだ。
 善逸は戸惑い不安そうに見て来るが、此処は大丈夫だから行けと促すと、それに背を押された様に駆け出した。
 その背は直ぐ様夜の闇に紛れる様に視界から消える。

 そして、改めて目の前の「上弦の陸」へと十握剣を手に対峙した。
 此処でこの鬼を抑える事は、不可能では無い。周囲に被害を出さない様に、と条件を付けると途端に難しくはなるが。それでもやってやれない事は無い、とそう自分自身を信じる。信じるしかない。

「馬鹿ねぇ、黄色い頭の醜いガキを逃がした所で何になるの? 
 醜いってだけで生きる価値も無いのに、あんたに庇われなきゃならない様な弱いやつを気に掛けて何になるの? 
 アタシの帯をさっきから消しているの、アンタでしょ? どうやったのかは知らないけど。
 でも一つや二つ消した所で無意味よ。この吉原中に『私』は居る。
 あんな弱っちくて醜いガキを始末するなんて何時だって出来るんだから」

「……善逸は弱くなんて無い。それに、人の命の価値をお前が勝手に決めるな」

「醜い者には生きる資格も無いのよ? そんなのも分からないなんて、可哀想。
 まあ、アンタは『美しい』側の人間だからそう言えるだけね。
 アンタは綺麗だから、アタシがちゃぁんと喰ってあげる」

 お前の言葉は所詮は「持てる者」の傲慢でしか無いのだと、その鬼は嘲笑う。
 ……「美」に拘り自分の御眼鏡に適わない者を不細工だの醜いだのと断じてその命の価値すら否定するその歪んだ感性は、鬼であるが故なのか、それとも生来のものであるのか……。それは分からないが。
 この鬼にとって人間の価値などその「美」にしか無く、そしてその命を奪う事に何の痛痒も懐いていない事はこの短いやり取りでもハッキリと伝わった。
 この鬼は、何としてでも倒さなければならない。
 善逸たちや宇髄さんが合流するまでは、周囲に被害が出ない様にして何とか粘らなければ。
 人を、守るのだ。この場には鬼に摘み取られて良い命なんて一つとして無いのだから。

 十握剣を強く握り、鬼の姿をしっかりと見据えると。
 鬼は何かを思い出そうとするかの様な顔をして、そして数瞬後に歪んだ笑みを浮かべる。

「夜色の羽織に、鬼殺隊の隊服では無い服装に、日輪刀では無い刀を持った剣士……。
 アンタ、もしかしてあの方が言っていた『化け物』ってやつ?」

「知るか、俺は人間だ」

 あの方とやらは鬼舞辻無惨か? 
 上弦の弐を倒しかけた事で、向こうからもその存在を認識されていたのだろうか。
 それにしても、鬼の首魁から『化け物』呼ばわりされるとは、笑い飛ばして喜ぶべきか、それとも訂正するべきか迷う所だ。

「まあ良いわ。アンタがその『化け物』ってやつなら、アンタを捕らえてあの方の前に差し出すだけだもの。
 良かった、あの方に喜んで頂けるわ。アンタを捕らえる為に、あの方から沢山血を分けて頂いたんだから。
 特別に美しいアタシには期待しているからって。
 アンタを捕まえたら、アタシはもっともっとあの方に認めて貰える。
 ねぇ、羨ましいでしょう?」

 何故、鬼舞辻無惨の寵愛などを欲するのか皆目理解も共感も出来ないが。
 鬼の言うそれは聞き捨てならぬものであった。
 どうやら、自分は鬼舞辻無惨に狙われているらしい。しかも、殺す目的では無く、捕らえろとの事の様だ。
 全く以て意味が分からない。始末したいと言うのなら分かるのだが、何故。
 鬼舞辻無惨に狙われていると言うのであれば、自分はこの先他の上弦の鬼と戦う機会が何度も訪れるだろう。
 それは構わない、全て返り討ちにすれば良いだけだ。
 しかし、自分を捕らえる為に鬼舞辻無惨が上弦の鬼たちにその血を分け与えたと言うその情報は、かなり事態が深刻な様相を呈してしまった事を指し示す。
 上弦の鬼たちが、より一層の強さを得てしまっているのだ。百年以上も柱たちを屠り続けて来た真の『化け物』共が強化されたと言うのは、鬼殺隊にとっては由々しき事態である。
 あの上弦の弐の鬼ですら、次に会う時には更なる力を得ている可能性は高い。
 しのぶさんの『復讐』を止める気は無いが、その計画に多少の修正が必要になるかも知れない。
 これは、本来ならばこの世界に存在する筈の無かった自分が、こうして此処に居る為に起きてしまった悪い変化なのだろうか……。
 少し悩みはするが、今更どうする事も出来ないのだし、自分が消えたからと言って上弦の鬼たちが弱くなる訳でも無い。結局、戦うしかないと言う事は何も変わっていないのだ。

「全く羨ましくも無いし、それにお前に捕まってやる様な気は一切無い」

「そう、まあアンタの答え何てどうでも良いわ。
 手足の一つや二つ引き千切ってからあの方の前に差し出しても良いんだから」

 そんな言葉を吐き捨てると同時にまるで蛇の様に蠢きながら迫って来た帯を細かく切り裂いて。
 何も知らず日々を過ごす人々を守りながらの鬼との戦いの、その火蓋は切られたのであった。






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