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第三章 【偽りの天上楽土】

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 蝶屋敷で目覚めたと同時に、自分があの上弦の弐の鬼を討ち漏らした事を思い出した。

 しのぶさん達を傷付けた鬼を、後一歩まで追い詰めたのに、絶対に殺すと決めたのに。
 それでもこの手は僅かに届かなかった。もっと力が戻っていれば、或いはもっとコントロールが効く状態であったのなら、最後の一撃で完全に仕留められていただろう。
『明けの明星』の様な強力な力を使う際は何時もより隙が出来てしまうから、予め『マハブフダイン』で拘束したのに。その拘束が甘かったからこそ、首だけでも逃がしかけてしまったのだ。もっと厳重に全身を氷の中に閉じ込める程に拘束していれば良かったのかもしれない。他にも、と。最後の最後で鬼を逃してしまった原因は幾つも考え付くし、あの時ああしていればという悔いも幾つか思い付く。

 だが、決して収穫が何も無かった訳では無い。
 多少は疲れるもののペルソナの耐性の恩恵を受ける事が出来る様になっていたし、そしてそれは鬼の攻撃にも有効であると示された。
 更には、完全に撃破する事は叶わなかったとは言え、九割半以上を完全に消し飛ばしたのだ。
 幾ら無限に再生する鬼とは言え、完全な復活までには多少の時間を要する事になるだろう。
 そして、鬼をその隠れ蓑にしていた『万世極楽教』から叩き出す事には成功している。上弦の弐の鬼の被害がこの先完全に消えると言う事にはならないが、無数の命が誰にもそうとは悟られずに貪り食われる様な事態は終わらせる事が出来たのだ。その成果を無視して、鬼を討ち損ねた事を後悔し続けるのは全く以て建設的ではない。
 他にも、炭治郎と珠世さんとの約束通り上弦の弐の鬼から血を採る事は出来ている。茶々丸に託せば、きっと有効活用してくれる筈だ。

 そして最後に何よりも、「鬼舞辻無惨の手の内」を知る事が出来た事が大きい。
 上弦の弐の鬼を討ち漏らしたとしてもお釣りが来るかもしれない情報だった。
 上弦の弐の鬼の僅かに残った頭部の肉片が星の墜ちた光の中で消え去る寸前に、琵琶の音が響くと共に出現した謎の障子の向こうの歪な空間が開いた時。その向こうに広がっていた歪な建物の群れの奥底から、己とは存在の根本レベルから合わないと瞬間的に悟る程の、悍ましく不愉快極まりない気配を感じた。
 上弦の弐の鬼に感じた以上の不快感に、恐らくそれが鬼舞辻無惨の気配なのだろうと理解する。
 汚物を汚水で煮込んで腐らせた様な不快感の極みの様なそれを、絶対に忘れない様にと自分の感覚に刻んだ。
 鬼舞辻無惨或いはその配下の鬼には、空間を超越して対象をその根城に連れ込む力がある様だ。
 後一歩の所で断片の様になった上弦の弐の鬼を取り逃がしてしまったのもその所為だ。
 同時にそれは、鬼舞辻無惨が好きなタイミングで任意の場所に鬼を送り込める事を示している。
 今回の上弦の弐の鬼との戦いの際中に他の上弦の鬼に乱入される事は無かったが、今後もそうとは限らない。
 少なくとも自分なら、己の配下で二番目に強い相手が蹴散らされる様に敗北したのであれば、以後上弦の鬼が苦戦しているならばその場所に他の上弦の鬼を送り込むだろう。上弦の鬼の討伐は鬼殺隊の目標の一つではあるが、一体を相手にするだけでも厳しいのに、そこに二体も三体も合流されては堪ったものでは無い。
 琵琶の音が聞こえた際には、より一層の注意が必要になる。これは早急に「お館様」へと報告しなくてはならない事柄だろう。

 情報を整理しつつ身を起こして部屋から出ると。
 慌てた様に走ってきたカナヲと出会した。
 目覚めていると思ってなかったのかカナヲは驚いた様な顔をしていたが、しかし直後には少し安堵した様な顔になる。何やらあった様だ。

「悠さん! しのぶ姉さんも目が覚めたんだけど、様子が何だかおかしくて……」

 カナヲにそう言われ、直ぐ様しのぶさんの部屋へと向かう。
 カナヲはそのまま、他の皆にしのぶさんの事を伝えに行った。

 控え目にノックしても返事が無くて。行儀が悪いとは思いつつも、そっと戸を開けてしのぶさんの部屋へと入る。
 部屋の中で布団から身を起こしていたしのぶさんは、確かに何だか様子がおかしかった。
 ぼうっとしていると言うよりも、茫然としていると言った方が良い様な……そんな感じだ。
 ぱっと見た所、何か怪我が残っている訳でも無いし、上弦の弐にやられた肺の方も治っている様だけれども。
 しかし目には見えない場所、例えば心などに何らかの影響が残っているのかもしれない。
 心ここに在らずと言った状態のしのぶさんは、近付いても何の反応も無い。
 布団のすぐ横に膝を突いても、そもそも自分以外の存在にすら気付いていないかの様だった。

「しのぶさん、大丈夫ですか?」

 気を遣いながらも、何時もの様に声を掛けると。
 此処では無い何処かを見ていたしのぶさんの視線が、漸く自分に結ばれる。
 だが、何故か。ぼんやりしていたその目に次第に浮かんできたのは、「怒り」の感情だった。

「……そうやって圧倒的な力を振り翳して、満足ですか?」

「え……?」

 向けられた感情の理由も、そしてその言葉が示す意味も。分からなくて。
 困惑のままに、しのぶさんを見詰める。
 その目には、怒りだけでなく、悲しみや無力感、そして諦念が色濃く浮かんでいた。

「私の命を救って、上弦の弐を一人きりで倒して、満足ですか? 
 頸も切れず上弦の弐に成す術も無く殺されかけた私を哀れんでいるつもりですか?」

 しのぶさんの言葉に、そんな事は無いと首を横に振る。
 ……そんな意図は、断じて無かった。
 ただただ、しのぶさんに死んで欲しくなかっただけだったのだ。生きていて欲しいと望んだだけだった。
 だが、自分の行いはしのぶさんにとって触れて欲しくは無かった何かに触れ、それを侵してしまったのだろう。
 それは、分かった。
 そして……しのぶさんは、言葉を連ねる度に、本当に辛そうな顔をする。絶望している様な顔をする。
 自分で自分の傷口に爪を立ててそこを引き裂いているかの様な、そんな風にも見える。
 それが辛くて。その言葉の強さよりも、そのしのぶさんの表情の方が、自分にとっては何よりも苦しい。

「姉さんの仇を取る為に四年も掛けて準備して来たものを全て踏み躙って、一人だけで上弦の弐すら簡単に倒してしまって。悠くんにとって、私はさぞ哀れで弱い存在に見えているんじゃないですか?」

 姉さんの、仇。
 血を吐く様なしのぶさんのその言葉に、自分が一体何をしてしまったのかを悟った。
 そして、その申し訳無さの余りに、どう言葉を掛けて良いのか分からなくなる。

 決して、そんな意図は無かった。ただ、しのぶさんたちを助けたかっただけだった。
 それでも、しのぶさんにとって上弦の弐の鬼が並々ならぬ因縁を持つ相手であって、そしてそれを討つ為の努力を重ねていたのであれば。
 自分のした事は、しのぶさんのその努力を嘲笑うかの様に復讐の対象を横取りした様なものなのだろう。
 勿論、そんなつもりは欠片も無くても。しかし、しのぶさんがどう感じるのかは別だ。
 ペルソナの力と言うこの世界の理の外側の力を持ちこんで、それで「神様ごっこ」している様に感じられてもおかしくはない。或いは、人間の味方を気取る『化け物』か。

 あのままでは殺されていたかどうかなど関係は無い。自分が成し遂げると決めた事を横から勝手に奪われる事は、結果として万々歳であったとしても、当人が納得出来るのかどうかは全く別なのである。
 例えば、菜々子が生田目に攫われた時に、突然見知らぬ誰かが勝手にそれを解決したとすれば。感謝は間違いなくするとは思う反面、複雑なものを感じてしまっただろう。つまりはそう言う事だ。そしてそれ以上の事だった。

「上弦の弐に、『化け物』だって言われたそうですね。
 簡単に人を救えて、鬼だって呼吸すら使わずに簡単に倒して。
 さぞかし楽しかったのではないですか? 弱い人間たちを救うのは」

 そう言った瞬間のしのぶさんの顔は、今にも死んでしまいそうな程に酷いものだった。
 言葉にした以上の感情が、しのぶさん自身を苛む様にその心を傷付けているのが明白であった。
 しのぶさんは弱くない。断じてその様な事は無い。積み重ねた鍛錬の成果も、そして重ねて来た様々な研究の成果も、間違いなく力になっているし、鬼殺隊の人達を数多く救っている。
 しのぶさんの作った薬で一命を取り留めて蝶屋敷に運ばれてくる人がどれ程居る事か。
 それなのに、しのぶさんは自分を卑下する様な事を言う。
 自分自身が成してきた様々な努力を、その結果を、まるで否定するかの様に。

 ……確かに、目の前に同じ様な傷を負った相手が居た場合には、ペルソナの力の方が助けられる範囲も広いだろう。
 上弦の参と戦い落命しかけた煉獄さんの様に、或いは上弦の弐に殺されかけ片肺を完全に駄目にされてしまったしのぶさんの様に。
 ……ある意味で「反則」としか言えない力を以てしか助けられなかったものは多いだろう。
 だが、そう言った「反則」は何度でも何度でも出来る事では無いし、実際しのぶさん達を助けた時の様な威力の『メシアライザー』なんて、今の自分には余力がある状態であっても一日一回が限界だ。
「それ以上」を望めば、また代償を捧げる必要がある。
 いざとなれば代償を捧げる事に躊躇いは無いが、一つのアルカナを丸ごと喪った結果、本来なら助けられた筈の誰かを将来的に助けられなくなる可能性もあるので、軽率に出来る事では無い。
 そして、消耗し切ってしまえば、自分に出来る事は無いのだ。
 上弦の弐との戦いに関しては、力尽きる前に追い払う事が出来ただけとも言える。
 下手なタイミングで『明けの明星』を狙っても、どうしても生まれる隙の所為でもっと五体満足の状態で逃がしてしまっていたかもしれないし、何なら一瞬の隙を突かれてしのぶさんたちを守り切れなかった可能性だってあった。

「簡単」に人が救えた事なんて、一度たりとも無い。今までも、そしてこれから先もきっと。
 そもそも人を本当の意味で「救う」事は、難しいのだ。
 窮地に手を差し伸べれば、それで「救えた」と言って良いのか。命の危機からその身を守ってやれれば「救えた」と言えるのか。……それは、違う。少なくとも自分にとってそれは「救い」では無い。
 その「心」を置き去りにしてしまったのなら、「救い」とは言ってはならないのだ。
 今こうして目の前でしのぶさんが、その心の傷口から見えない血を流し続け、その苦しみに喘いでいる様に。
 自分がやった事は、しのぶさんの「心」を置き去りにしてしまう事だった。それは「救い」とは程遠い。
 本気で「救いたい」のなら、その心の奥底に秘めたどの様な感情や願望とも向き合う覚悟を決めなければならない。……ただ幸いにもと言うべきか、その覚悟を決める事自体は自分にとってはそこまで難しい事では無かった。八十稲羽で過ごした一年の間に繰り返してきた事を、やれば良いのだ。
「心」を本当の意味で救えるのは、その人自身だけなのだけれど。それを傍で寄り添う様に見守り続ける事は自分にも出来る。本当に必要な時に、その背を少しだけ押してあげる事も、出来る。
 大事な人の心を助ける為に、自分に出来る事をするのだ。結局、それしか無い。

 その覚悟を決めてしのぶさんの言葉に向き合うと、そこにあったのは痛々しいまでのしのぶさん自身を責め苛む言葉の刃だ。しのぶさんの心は、既に傷付き果てて悲鳴を上げている様だった。
 鬼の頸を斬れぬ無力を責め、復讐を果たせなかった事を責め、そしてこうして自分に言葉の刃を突き立てている事自体を責め立てて。
 それでも抑える事の出来ない衝動と共に、言葉を連ねて自傷し続ける。
 その姿を見て、どうして手を離す事が出来ようか。

「じゃあどうして、もっと沢山の人を助けてくれなかったんですか? 
 どうして、炭治郎くんと出逢う前から、戦ってくれなかったんですか? 
 その時に悠くんが居てくれたのなら、カナエ姉さんは死ななかったのかもしれないのに」

 しのぶさんのその言葉に、そういった言葉をぶつけられると覚悟はしていたが、一瞬息を詰まらせてしまった。
 当然の言葉だ、当然の願いだ。どうして、そんな力があるならもっと早くに助けてくれなかったのか、どうして大切なものを喪う前に守ってくれなかったのか。……誰もが抱いて当たり前の、「怒り」だ。
 例え、その時にはこの世界自体にこの身が存在していなかったのだとしても、そしてただの人でしかない自分には全てを救いきる事など到底不可能なのだとしても。
 自分だって、何度も考えた事なのだから。

 自分が『夢』で迷い込んだのがもっと前だったなら、防げていたのかもしれない悲劇があった、助ける事が出来ていたのかもしれない命もあった。
 もし、自分が目覚めたのがあの雪の日の山の中であったなら、炭治郎の大切な家族を一人でも多く守れていたのかもしれない。もし自分が目覚めたのが、しのぶさんのお姉さんが命を落とす前であったのなら、その命を繋ぎ止める事は出来ていたのかもしれない。
 もし、もしも、と。そう考えてしまう事は一度や二度では無い。
 自分が決して万能でも「神様」でも無い事を分かっていても、そこに居合わせる事が出来たのなら……と。
 大切な人達の喪失の苦しみに触れる度に、そう考えてしまう。思っても考えても願っても、もうどうする事も出来ない事なのだとしても。そんな、絶対に叶わない「もしも」を考えてしまうのだ。

 そしてそう考える度に、自分の手の小ささを思い知る。自分の手が届く範囲の狭さを知るのだ。
 自分は「神様」にはなれない、何もかもを救う事なんて出来ない。
 何時だって目の前の命を助ける事で精一杯で。自分の手の届く限りの、大切な人たちを守る事で精一杯で。
 それですら、あの日の菜々子の様に取り零してしまう事がある。
 それが悔しくて、哀しくて。何時だって、自分の力の及ばなさを痛感している。
 ……それでも、惨めに蹲る事なんて出来ない。自分が「何も出来ない」訳では無い事も分かっているからだ。
「神様」じゃなくても、何もかもを救う事なんて出来なくても。それでも出来る事はある。
 大切な人たちの為に、自分が差し出せるものがある、この手を伸ばす事が出来るのなら。どうしてそれを最初から放棄出来ようか。みっともない位に足掻いた先で大切な人たちが笑って生きてくれるなら、自分は何だって出来るのだ。
 だからこそ、今自分が成すべき事を、ちゃんと果たす。

「……しのぶさんにとって、上弦の弐の鬼は、お姉さんの仇、だったんですね。
 ……大好きなお姉さんの仇を討つ為に、ずっと、しのぶさんは、頑張っていたんですね……。
 しのぶさんが、笑顔の奥に隠していたものは、それだったんですね……」

 しのぶさんの心の傷にそっと指先を触れさせるかの様に、ゆっくりとそう言葉にする。
 言葉は大切なものだ。どんな想いも、言葉にしなければ、行動で示さなければ、伝わらない。

「俺は、しのぶさんが何かを抱えていたのには気付いていたのに。
 しのぶさんの力になりたいと思いながら、何もしませんでした。
 気付いたその時に訊ねていれば。
 ……しのぶさんが自分をそんな風に傷付ける前に、何か出来たかも知れないのに。
 ……ごめんなさい、しのぶさん。何も、出来なくて。
 しのぶさんには、とても沢山のものを、貰っていたのに。俺は、何も返せませんでした」

 訊ねても何も変わらなかったかもしれない、でも、変わっていたのかもしれない。
 もうそれは分からないけれど、だからこそあの日に手を差し伸べられなかった自分の怠慢を、謝った。
 しのぶさんに貰っていた沢山のものを返す事も出来ないまま、こうしてその心を傷付けてしまったのは間違いなく自分の罪だ。
 だからこそ、もうこれ以上傷付いて欲しくは無かった。もうこれ以上自分自身の心を苛んで欲しくは無かった。
 生きる希望を喪ったかの様な顔をして欲しくは、無かった。

「俺は……『化け物』なのかもしれません。
 それでも、どんな力があっても、俺には過去を変える事は出来ない。
 しのぶさんのお姉さんを……カナエさんを、助ける事は、出来ません。
 人を『救う』事は、とても難しくて……。俺に出来るのは何時もほんの少しだけで。
 精一杯を尽くしても、出来ない事は沢山あって。届かなかった手も、沢山あります。
 でもしのぶさんは、違う。しのぶさんは、弱くない。憐れだなんて一度も思った事は無い」

 自分も「無力」の辛さを知っているからこそ、しのぶさんの苦しみも少しだけであっても理解出来る。
 自分で自分を傷付けるのは、苦しい。自分を認められない事も、辛い。努力が報われない事は、虚しい。
 それでも諦めないで歩き続けるその姿を、どうして「憐れ」だなんて思えるのだろう。
 寧ろ、何よりも眩しいと思う。だからこそ、その輝きを否定して欲しくは無かった。

「鬼の頸を斬る事が全てじゃない。しのぶさんの成した事で、沢山の人が助かったんです。
 毒を研究する事、薬を研究する事。そう言ったしのぶさんの力は、本当に大勢の人を救っている。
 俺が簡単に人を救えるだなんて、そんな事は無いです。だって、俺の力で助けられる範囲はとても狭い。俺は一人しか居ない、それを超えたら……助かる人も助けられません。
 でもしのぶさんが開発した薬は、その使い方さえ知っているなら誰だって扱える。そうやって助かった命は数え切れない程あるんです」

 その手を包む様に握って、しのぶさんが否定しようとしたそれを、その手に載せる。
 それを否定しないで欲しいと、そう訴える。
 しのぶさんが諦めなかったその証を、捨てないで欲しいと願う。
 自分と比べると、華奢と言っても良い様な手だ。だが、その手に刻まれた無数の努力の痕は、しのぶさんの不屈の心を何よりも雄弁に伝えてくれる。
 鬼の頸を斬れるかどうかなど関係は無い。この手は、誰よりも強い人の手なのだ。

「しのぶさん自身が、しのぶさんの歩いてきた道程を否定しないで欲しいです。
 悔しくても、無力に泣いても、傷付いても。それでも蹲らずに、自分に出来る事を探して実行し続けて来た。
 そんなしのぶさんの生き方を、俺は心から尊敬しています。
 だから──」

 ……今この瞬間。上弦の弐を取り逃した事を、ほんの僅かにではあったが、感謝した。
 この先、上弦の弐を取り逃してしまった事で出る犠牲は全て自分の責任になるけれど。
 それでも、今ここで、大切な人の心を救えるのならば。その罪を背負う覚悟は出来ている。


「上弦の弐の鬼の頸を、斬りましょう。
 今度こそ、しのぶさん自身の手で。
 その為に、俺は何だって力を貸します」


 復讐は何も生まないと、人はよくそう言う。
 確かにそうだ。復讐から生まれるものは無い。
 ただ、復讐する事によってしか救われないものがある、晴らせない憎悪もある。
 そして、しのぶさんの心を本当の意味で救うのに必要なのも、『復讐』であった。

 上弦の弐を、その手で殺す。しのぶさん自身の力で、その頸を落とす。
 それが必要なのだと、分かるのだ。
 しのぶさんは、物凄く愛情深い人なのだ、優しい人なのだ。
 だからこそ、己の愛する存在を奪った者に対して、自分自身すら顧みさせない程の激しい憎悪の炎を燃やす。
 苛烈なまでに激しいその心を痛みから救うには、『復讐』をしのぶさん本人が思っている形で遂げるしかない。
 ……しのぶさんが上弦の弐を倒す為に何を準備していたのかまでは知らないが、恐らく自分の命を引き換えにするかの様な策だったのではないかと思う。
 自身の命すら懸ける程の想いは、やはりそれを遂げさせなければどうする事も出来ないだろう。

「俺は、しのぶさんに生きていて欲しい。
 あんな鬼の為にしのぶさんが死ぬなんて、絶対に嫌だ。
 仇を討った後で、笑って幸せに生きていて欲しい。
 しのぶさんが死んでしまったら、皆悲しいんです。
 しのぶさんの事が大好きな人たちを、置いて逝ったらだめです。
 だから、俺が手伝います。しのぶさんの『復讐』に、最後まで力を貸します。
 死ぬ為の『復讐』には手を貸せないけど、生きる為の『復讐』になら、俺は出来る限りの事をしたい。
 ……俺は何でも出来る訳じゃ無いけれど、それでもきっと、しのぶさんが『復讐』を遂げる為の力にはなれます」

 死んでも良い、命を擲っても良い。そんな考えの『復讐』には断固反対するけれど。
 その先で笑って幸せになる為に必要な『復讐』であると言うのなら、どんな困難な事にも力を貸す覚悟はある。
 大切な人の笑顔と幸せの為なら、自分は何だって出来るのだ。

「……上弦の弐は、悠くんが倒したのでは?」

「いいえ、ほんの僅かな欠片程度ではありましたが、鬼舞辻無惨の介入によって取り逃してしまいました。
 恐らく、完全に消滅させられた訳では無いので、上弦の弐はまだ生きているでしょう。
 完全に復活するまでにどれ程の時間が掛かるのかまでは分かりませんが……」

『復讐』の相手がまだ存在すると言う事を知って、しのぶさんの目に僅かに光が戻る。
 しかし、それも次の瞬間には曇ってしまった。

「私には、鬼の頸を斬る事が出来ません。だから、私の手でなんて、そんな事は──」

「出来ます」

 その可能性をしのぶさんが否定する前に、自信を持って肯定する。
 出来るかどうかではなくやるしかないと言う話ではあるが。
 自分が持ち得る全ての力を使ってしのぶさんを補助すれば、それは不可能では無いと、そう確信していた。

「俺が、必ずしのぶさんにあの鬼の頸を斬らせてみせます。
 その為の方法は、ちゃんとあります。
 ……出来れば、俺以外にも誰か他に協力してくれる人が欲しい所ではありますけど。
 でも、必ずしのぶさんに鬼の頸を斬らせます」

 自分が切る事の出来る手札の中で、あの鬼との戦いで使えるだろうものを吟味して。
 不可能では無い、と結論付けた。
 無論、このままの状態で再戦してもあの鬼の頸は斬れない。
 しのぶさんにやって貰わなければならない事は多いし、何より手数を補う為にも仲間が必要だ。
 この方法は、味方が多ければ多い程効果が高いのだから。
 最低でも一人、出来れば二人以上。
 恐らく、カナヲは事情を説明すれば協力してくれるだろう。
 多少厳しいかもしれないが、それでも出来る筈である。
 問題は、あの鬼に何時出会うのか、と言う事だ。
 暫くは復活の為に時間を使うだろうけれど、その後どうなるのかは分からない。
 もしかしたら、自分達とは全く別の柱の誰かがあの鬼と戦って討ち取ってしまうかもしれないけれど、それは流石にどうしようもないのでその時はその時と言う事で諦めるしかない。
 ただ……何となくと言っても良い、勘の様なものだけれど。
 あの鬼とはまた何処かで戦う事になる様な……そんな変な因縁をちょっと感じたのだ。
 案外こういう時の勘は当たるのだと言う事を、経験的に知っている。


「だからしのぶさん。
 生きる為の、しのぶさんが幸せになる為の『復讐』を、俺と一緒にしましょう」


 大切な人の幸せを希うからこその『復讐』は、こうして始まった。






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