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第三章 【偽りの天上楽土】

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 この世界には、神様も仏様も居ない。
 大事な人達が明日も明後日も元気に生きていてくれるなんて、ただの願望でしかない事をよく知っている。
 誰からも愛されてその生を望まれる様な人が死んで、鬼の様に蛆虫みたいな存在がのさばっている。
 そんな残酷な世界でも、それでも誰もが大切な人達には生きていて欲しいと思う。
 喜びに笑って、悲しみに泣いて、怒りにその身を震わせて、心を動かしながら。そうやって生きていて欲しい、幸せになって欲しい。そう思うのだ。
 だけれども、本当に辛い事や悲しい事は、まるで嵐の様に突然やって来て全てを呑み込んでしまう。
 大事な人の命の灯が消えてしまう事を、人の小さな手では完全に防ぐ事は出来ない。
 だからこそ、少しでも力になりたかった。
 大好きな家族の力になりたかった、大切な皆から大事なものを奪った鬼を少しでも多く倒したかった。
 しのぶ姉さんに、生きていて欲しかったのだ。これからも、ずっと。

 カナエ姉さんが鬼に殺されてしまった時から、しのぶ姉さんは変わってしまった。
 ずっと笑顔を浮かべて、でもそれはしのぶ姉さんらしくないもので。
 まるで一生懸命にカナエ姉さんの「代わり」をしようとしているかの様に、しのぶ姉さんは変わってしまった。
 カナエ姉さんの残したものを背負わなければならないと言う責任の重さが変えてしまったのか、それとももっと別の理由なのか。無理をして欲しく無いのに、でもどうしたら良いのか分からなくて。
 あの時の私はまだ何も自分で決められなくて、だからしのぶ姉さんがそうなってしまう事を止められなかった。
 もしもあの時、カナエ姉さんが死んでしまった時に涙を流せていたら、心の声に従って動けていたら。
 何かは、変わったのだろうか。
 ……どんなに後悔しても人は過去には戻れないから、それはもう分からない事だけど。

 しのぶ姉さんもカナエ姉さんも、鬼殺隊に入る事は反対していたから稽古を付けてくれた訳では無かったのだけれど、私は幸い目が良いから見様見真似でも花の呼吸を使える様になって。それで勝手に最終選別に行って入隊してしまった。蝶屋敷に帰った時にはしのぶ姉さんを酷く心配させてしまっていたのだけども。でも、これでしのぶ姉さんの力になれると思ったのだ。……思えば、この時は硬貨を投げずに自分の意思で決めていた気がする。
 しのぶ姉さんは継子を何人も亡くしてしまったから、もう継子を取るつもりは無かった筈だった。
 でも、そんな素振りを見せていなかったのに急に鬼殺隊に入った私を凄く心配して、継子にしてくれたのだ。
 それからは修行しながらしのぶ姉さんと一緒に任務に付いて回った。
 何度も一緒に鬼を斬ったし、そして何時だって一緒に家に帰った。
 鬼が蔓延り日々誰かが傷付いている残酷な世界だけど、それでも私にとっては幸せで温かな日々だったのだ。
 大好きだったカナエ姉さんを守る事は出来なかった。だからこそ、しのぶ姉さんには生きていて欲しかった。
「心の声」は小さくて、他の殆どの事を自分では決められなかったけれど。でもその想いはずっと自分を動かしていた。

 私が鬼殺隊に入って暫くして、蝶屋敷に新たな住人が増えた。
 鳴上悠と名乗ったその人は、私やしのぶ姉さんと大して歳の変わらないだろう男の人で。
 治療を受けている傷病者以外は昔から女の子ばかりだった蝶屋敷にとっては初めての男の住人だった。
 他に住む場所も行く場所も無くて、鬼殺隊に協力する事になったのだと言う彼の事を、しのぶ姉さんから紹介された当初はあまりちゃんと認識していなかった気がする。
 あの時はまだ何を決めるにも硬貨が必要だったから。しのぶ姉さんが彼を蝶屋敷に置くと言うのならまあそれで良いのだろう、と言う程度の認識だった。
 彼に人を癒す不思議な力があるらしいと知った時には、これでしのぶ姉さんや蝶屋敷の皆の負担も少しは減るのだろうかと思ったけど、それだけで。
 そこで積極的に彼に関わろうとはしていなかった。
 今思い返せば、あの時点で彼はかなり私に親切に接していてくれていたのだと分かるのだけれど。あの時の自分の「心の声」はとても小さかったのだ。

 彼との関わりが大きく変わったのは、炭治郎の言葉が切欠であった。
 自分の「心の声」を聞く切欠をくれた炭治郎と彼が共に赴いた先の任務から、昏睡状態になった彼が蝶屋敷に運び込まれて来た時。
 初めて、彼に対して「心配」をしたのだ。もしこのまま目覚めなかったらどうしよう、と。
 その時既に彼は蝶屋敷の皆に慕われていたから、もしそうなったら皆が悲しむ。
 しのぶ姉さんも、彼の事には気を配っている様だったから、きっと悲しんでしまう。
 だから、皆が悲しまない為にも、どうか目覚めて欲しい、と。そう思った。
 その祈りが通じたのか、蝶屋敷に運び込まれた彼は、それから三日もしない内に目覚めた。
 その時、「良かった」と心から安堵したのだ。
 そして恐らくその時には、私にとって彼は「どうでも良い誰か」ではなくなっていた。
 目覚めた後の彼は、私に対してもとても優しかった。いや、彼は元々とても優しかったし誠実だったのだろうけれど、私の方がそれに気付けていなかっただけだ。
 日常の細やかな事にも溢れていた彼の気遣いに、「ありがとう」と初めて言えた時。
 彼は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
 それからだ。彼の優しさにちゃんと気付ける様になったのは。

 例えば、彼がおやつにと作ってくれたお菓子を食べている時、或いは忙しいアオイの代わりに任務帰りに夜食を作ってくれた時。彼は、私がそれらを食べる姿を、とても優しい目で見ている。そして、「美味しい」と言う度に柔らかな笑顔を浮かべて喜ぶのだ。
 炭治郎に感じているものとはまた別の、どちらかと言うとしのぶ姉さんやカナエ姉さんに感じていた温かなものを彼に感じていた。もし自分に兄が居たのなら、彼みたいな人だったのだろうか、と。そんな事も思う。


 優しい人だと思っていた。とても温かな人だと知っている。知っていた筈だ。
 だからこそ、戸惑う。


 今、自分の目の前に居る存在は、本当に自分が知っている『人間』なのか、と。






◆◆◆◆◆






 しのぶ姉さんが、上弦の弐の鬼と戦っていると鎹鴉から聞いた時。
 胸の奥に冷たい氷の刃を突き立てられたかの様に、身体の芯まで冷えていく様な、そんな心地になった。
 上弦の弐の鬼と言えば、カナエ姉さんが最後に戦った鬼……カナエ姉さんの死の直接的な原因となった鬼だ。
 また、私は喪ってしまうのか、と。それが恐ろしくて、あの日の恐怖と絶望を繰り返したくなくて。
 だから、私は必死に走った。
 そして、力任せに抉じ開ける様に開け放った扉の先で。
 膝を突き苦しそうに血を吐くしのぶ姉さんに、扇を振り下ろそうとしている鬼の姿を捉えた。
 その瞬間、考えるよりも前に体は動く。

 ── 花の呼吸 肆ノ型 紅花衣! 

 全力で踏み込んでしのぶ姉さんと鬼の間に割り込む様に身体を滑り込ませ、そして薙ぎ払う様にして鬼の一撃を弾いた。
 弾いた瞬間に鬼の扇からキラキラと何かが零れ落ちたのを見て、悪い予感がしたのでそれを極力吸い込まない様に息を止めながらもしのぶ姉さんの身体を抱える様にして一気に後方へ下がる。
 鍔迫り合いにも満たない僅かな合間の接触で分かった。
 この鬼は、間違いなく自分より強い。コイツに比べれば今まで倒してきた鬼は雛鳥の様なものでしかない。
 何年も必死に鍛錬して経験と実力を付けたとしても……それでも敵わないだろう程の、圧倒的な存在。
 それが、上弦の弐と言う鬼だった。百年以上も人を喰い荒らしてきた化け物だ。
 鳥肌が止まらない、指先にまで神経を集中させて力を込めていないと、今にも震えて日輪刀を取り落としてしまいそうになる。
「死」と言うものを、明確なまでに意識した。

 それでも、諦める事は出来ない、戦わない訳にはいかない。
 腕の中に抱えたしのぶ姉さんは、今にも死んでしまいそうで。
 かつて、冷たくなって蝶屋敷に帰って来たカナエ姉さんの姿がどうしたって重なってしまう。
 せめて、彼が……悠さんが合流してくれるまでは耐えなくてはならない。
 致命傷を負ったと言う煉獄さんすら救って見せたと言う彼の力があれば、きっとしのぶ姉さんは助かる筈だ。
 そうしたら、三人で戦う。それが一番勝機があるだろう。
 しかし、呼吸を使えないし日輪刀を持っていない悠さんが何処まで戦えるのかと言うと、私にはよく分からなかった。
 強かったと炭治郎は言っていたけれど、正直誇張し過ぎているんじゃないかと思う。思っていた。
 それでも、悠さんが来てくれるのを待つしかない。
 しのぶ姉さんを腕に抱えた状態ではまともに戦えるとは思えないし、しかしもう意識があるのかどうかすら怪しいしのぶ姉さんを何処かに置いて鬼と戦う事も出来ない。そんな事をすれば、この鬼は間違いなくしのぶ姉さんを殺して食べようとするだろう。

 どうしよう、どうすれば僅かな間でも時間を稼げるのだろう。
 悠さんは一体後どれ位の時間で此処に辿り着いてくれるのだろう。
 数分どころか、数秒後の命があるかどうかすら怪しいこの状況で、果たして彼が辿り着くまでしのぶ姉さんを守り切れるのだろうか。
 だが、やるしかなかった。自分がやらなければ、しのぶ姉さんは死んでしまう。
 一緒に家に帰る事も出来なくなる。それは嫌だった。帰るのだ、一緒に。三人で。
 もうあの日みたいな後悔はしたくない。

「やあ、君も来てくれたのかい? 今日は良い夜だなぁ。次から次にご馳走がやって来てくれる」

 鬼の発言には耳を貸す必要は無い。会話をした所で意味が無いからだ。
 それよりも、何時斬りかかられても対応出来る様に日輪刀を構える。
 しのぶ姉さんを庇いながらだから、何時もよりも動きが制限される。
 それでも、やらなければ、ここで二人とも死ぬ事になる。

「君じゃ俺を殺す事は出来ないと思うけどなぁ、それでも戦う? 
 無駄な努力をしてまで苦しむ時間を増やしている子は可哀想だなぁ」

 そう言いながら、鬼の目には何の感情も浮かんでいない。
 屠殺する寸前の家畜にも、もう少しマシな目をするだろうと言う位に、その目は空っぽだ。

「その柱の子も、物凄く頑張ったんだろうね。
 姉さんよりも才能が無いのに必死に努力して、鬼の頸を斬る代わりの方法を探して。
 無駄な努力を重ねてきたのが物凄く分かったよ。有限である時間をそんな事に費やして! 
 でも、そんな人間の愚かさや儚さこそが、人間の素晴らしさだと思うだろう?」

 にこやかな表層だけの笑みを浮かべながら、鬼はしのぶ姉さんを愚弄する。
 ああ、本当に頭に来る。カナエ姉さんを喪ってからしのぶ姉さんがどれ程の執念と努力でそれらを成し遂げてきたのかを知りもしないくせに、此処までこの鬼に愚弄されるのか、と。
 一刻も早く頸を落として地獄の釜の中へと叩き落してやりたい。
 だが、自分一人ではそれは不可能な事は分かる。それが理解出来るだけの実力はある。

 そして、鬼が動いた。

 ── 血鬼術 枯園垂り

 一気に踏み込んできて、その両手の扇を素早く幾度も振り抜いてその斬撃と共にその軌跡を追うかの様に中空に鋭い氷柱が生み出され、それが一気に襲い掛かって来る。

 ── 花の呼吸 弐ノ型 御影梅

 何とかそれを連撃で凌ぐが、細かく砕かれた氷の結晶が辺りに漂う様に滞留して、周囲の温度を一気に下げた。肺が凍りそうなそれに咄嗟に口元を覆って、同時に咄嗟の勘で片手ながらに日輪刀で首元を守る。
 その瞬間、金属を叩き折る様な音と共に手の中に在った筈の日輪刀が折られ、そして殺しきれなかった衝撃に体勢が崩されて。それを立て直す暇すらなく、左足が急速に冷やされると同時に深い切り傷を負う。
 痛みを堪えて、しのぶ姉さんを抱えたまま更に後方に跳ねる様に退く。
 斬られた足からの出血が中々止まらない。全集中の呼吸で傷口の血管を塞ぐ事が出来る筈なのに、血管周囲の筋が凍り付いてしまったかの様に止血出来なかった。

「凄いね! 確実に首を落とせたと思ったのに、今のに反応出来るんだ。
 君は目が良いのかな? 氷も極力吸わない様にしているみたいだし。
 君の目は折角だから凍らせて残しておいてあげようか?」

 不快極まりない戯言を宣う鬼に攻撃したいのに。
 足は踏ん張りが効かず、そして手の中の日輪刀は僅かな刀身を残して切断されたかの様に折られている。
 もし咄嗟に日輪刀で庇っていなければ、自分の首が落ちていた事は明白だった。
 今この瞬間も息が続いている事が奇跡としか言えない程に、鬼の攻撃は速く鋭く強烈であった。

「じゃあ、苦しまない様に殺してあげるから、安心してくれよ」

 そう言いながら、鬼はその扇を振るって今度こそ私たちの命を奪おうとする。
 逃げなくてはならないのに、動けなくて。だからせめてしのぶ姉さんだけでも守ろうと、自分の身を盾に庇おうとした。
 だが、その瞬間。

 何か大量の爆薬でも炸裂させたかの様な轟音と共に、突然壁が木っ端微塵に吹き飛んだ。
 更には、それとほぼ同時に目の前に居た筈の鬼の両腕が落ちていて。
 ほんの一瞬の内に鬼は一旦距離を取ろうと後方に下がっていた。
 そして……。

「カナヲ、しのぶさんは無事なのか……?」

 待ち望んでいた人が、そこに居た。
 日輪刀では無い剣を構え、隊服では無い衣装に身を包み、夜色の羽織の裾を揺らすその姿に。
 何故だか、どうしようも無い程の安心感を覚えてしまう。
 何時も優しいその眼差しが、大切な存在を傷付けられ脅かされた事による怒りに燃えていた。
 絶対にあの鬼を赦さない、と。その目は何よりも雄弁に語っている。

 私が手短に状況を説明すると、悠さんはしのぶ姉さんの手を優しく握ったまま少し集中するかの様に目を閉じた。そして、その次の瞬間。まるで今よりもずっと小さかった頃にカナエ姉さんが優しく抱き締めてくれた時の様な……そんな温かさが身体中に満ちて。そして、気付けば足の痛みはすっかり消えていて、驚いて確かめたそこからは傷が跡形もなく消え去っていた。
 そして、腕の中のしのぶ姉さんは、あれ程苦しそうに息をしていたのに、今はただ眠っているだけの様に安らかな呼吸になっていて。……ああ、もう大丈夫なんだ、と。そう理解して涙が零れそうだった。
 鬼はまだ目の前に居るのに。それでも、腕の中に居る大切な家族の命が無事救われた事に、安堵してしまう。

 だが、安堵しているばかりではいられない。
 未だ鬼は健在であるのだし、そして鬼は目の前で起こった不可思議な現象に興味をそそられた様であった。
 そして悠さんの方も、鬼が垂れ流す狂気の沙汰としか言えない様な『救い』の内容に、益々その眼差しを険しくする。
 そして、再び鬼がしのぶ姉さんを嘲笑った時。

 悠さんの気配が、一気に変わった。

 普段の優しくて温かなそれでも、或いは先程窮地に駆け付けてくれた時のものでもなく。
 鬼から庇う様に私たちにその背を向けているのにも関わらず。上弦の弐よりも更に恐ろしい「何か」を感じてしまう。

「……カナヲ。しのぶさんを守ってくれ。そして、そこから一歩も動くな」

 悠さんが静かにそう言った次の瞬間。悠さんが目の前から消えた……様に見えた。
 実際には消えたのでは無くて、凄まじい程の踏み込みで一気に飛び出して、その手の剣を振るって鬼の肩を叩き割ったのだけれど。しかし、私の目を以てしても、その動きの結果を追うだけで限界だった。
 鬼は防御こそ間に合わなかったが僅かに身を反らす事に成功し、本来は唐竹割の様に頭の天辺から両断する様に叩き割っていたであろうその一撃をどうにか肩で受けた様だ。
 しかしその負傷は決して軽いものでは無くて。頸を斬られでもしない限りはどんな傷でも治る上に上弦の鬼としてその回復力は有象無象とは比べ物にならぬ程に凄まじい筈の鬼でも、流石に斬られた瞬間に傷を修復する事は出来ずにいた。
 そして、その僅かな合間に、悠さんは更に剣を振るって両腕を肩から再び切断する。更に、懐から出した何かを、鬼の左眼に叩き付ける様な勢いで突き刺し、それを直ぐ様引き抜く。
 以上の一連の攻防は、ほんの二呼吸程度の間に行われた。

 悠さんは更に間髪入れずに追撃を仕掛けようとしたが、それはさせないとばかりに鬼が足払いを掛けてきたので、僅かに後ろに下がる様にしてその足払いを避ける。
 そうやって稼いだ猶予で、鬼は再び斬り落とされた腕を生やし、叩き斬られた肩も元通りに繋げた。

「速いねぇ、驚いたよ。呼吸を使ってないのにそこまで動けるなんて、君、本当に人間? 
 でも、首以外を斬った所で無駄なんだよ?」

 そんな事も知らないのかな可哀想に、と。そんな事を嘯きながら鬼はその扇を振るう。

 ── 血鬼術 蔓蓮華

 鬼の周囲に幾つもの氷で出来た蓮の花が現れ、猛烈な勢いで氷の蔓を縦横無尽に伸ばして悠さんの四方八方を囲み、一気に締め付ける様に襲い掛かる。
 氷の蔓は圧倒的な冷気を放ちながら、触れれば容易に肉を切り裂く程の鋭さを伴って迫るが。
 しかし、悠さんはそれを一太刀で全て斬り捨てた。
 周囲に砕かれた氷の欠片が撒き散らされるが、悠さんは構わず一気に鬼との距離を詰めようとする。

 ── 血鬼術 寒烈の白姫

 鬼を護る様に、女性の上半身を象った氷像が両側に現れて冷気を吹き付ける。
 かなりの広範囲を一瞬で凍結させる程の冷気が吹き荒れ、急激な温度変化によって視界は細かな氷によって一気に靄がかった様に曇り、床下の水面は忽ちの内に凍り付き、かなり距離がある筈の私の下にまで、僅かに身を震わせる程の冷気が訪れた。
 避ける事も防ぐ事もせずに冷気の直撃を受けた筈の悠さんが無事だとはとても思えない程の攻撃だった。
 しかし、激しい烈風の如き一閃が女性の氷像ごと鬼の胴体を叩き斬り、周囲に漂っていた靄の様な霧氷を全て吹き飛ばす。
 靄が晴れたそこに居た悠さんは、全くの無傷であった。
 その髪筋一つとして氷結は無い。
 一体どうやってあの冷気を凌いだのか、私には全く分からなかった。
 鬼にも理解出来なかった様で、何の感情も浮かんでいなかったその瞳に初めて「驚き」と言う感情が揺れる。
 そんな鬼に構う事無く鬼の左腕を叩き折る様に斬り捨てて、鬼が距離を取る為の跳躍をするその僅かな隙に、悠さんの左手が鬼の顔を鷲掴みにした。

「──ラグナロク」

 悠さんが何事かを、呟いた瞬間。
 鬼が、爆ぜた。
 身体の内側から爆裂するかの様な勢いで吹き上がった炎は瞬時に鬼の身体を燃やし尽くし炭にする事すら無くそれを全て燃やし尽くす。
 強烈な熱波が部屋中を吹き荒れて、鬼の血鬼術によって冷え切っていた空気を一気に塗り替える。
 その傍に居るだけでも、呼吸するだけで肺の奥まで燃え尽きてしまうだろうと思う程の激烈な猛炎が鬼の身体を舐め尽くす。
 炭の様になった骨だけを残して鬼の肉体は消滅した。
 だが、悠さんは何かに気付いた様に咄嗟にその手を離して数歩後退る様にしつつ軽く身を屈める。
 その頭上を、炭の様になった骨だけ残った足が、首があった場所を刈り取る様に通過した。

「これも避けちゃうのか、凄いねぇ。
 それより、今のをどうやったのかな? 血鬼術の一種かい? 
 君、人間じゃないよね」

 悍ましい音を立てながら、骨だけになっている筈なのに鬼の肉体は急速に再生されていく。
 その光景に、悠さんは僅かに眉を顰めた。

「俺は人間だ。それにこれは血鬼術じゃない」

 それ以上は話す気は無いとばかりに悠さんは更に攻撃を加えるべく大きく踏み込もうとする。
 そんな悠さんの足を止めようとするかの様に。

 ── 血鬼術 冬ざれ氷柱

 悠さんの頭上を中心に鋭く尖った巨大な氷柱が数十も現れる。
 そしてそれは巨大な質量を伴って落下し、砕け散っては周囲に氷片を撒き散らした。
 次第に部屋全体が異常な程に冷え始める。
 だが、悠さんには一切の影響が無い。
 直撃する氷柱だけを正確に叩き切った悠さんは、そのまま鬼の首を斬り飛ばした。
 日輪刀では無いから鬼は死なない。
 だが、首を斬られると言う事は、鬼にとっては避けるべき事だ。それが日輪刀ではないが故に致死の一撃ではないのだとしても。
 斬り飛ばされた頭を回収した鬼の顔には、先程まで浮かべていた余裕の表情は無い。
「遊び」を止めたのだと分かる。

 ── 血鬼術 凍て曇
 ── 血鬼術 散り蓮華

 鬼の連撃によって、最早鬼と悠さんの周辺は足を踏み入れるだけで全身が一瞬で凍り付き即死する程の極寒の地獄の世界となっていた。
 足元の床は凍り付き、悠さんが勢い良く踏み込む度に砕け散る様に壊れていく。
 例え範囲外からの強襲に適した速度に優れたしのぶ姉さんの刺突でも、鬼に一撃を加えるよりも前に凍死するしかない程の、一切の命を拒絶するだろう地獄の中で。
 悠さんは平然と鬼と斬り合い続けていた。
 その口から零れる吐息は直ぐ様凍り付いた様に白く靄に変わるが、悠さん本人は冷気の影響を一切受けていない様だった。
 肺腑を凍らせ腐らせる冷気の血鬼術も、触れるだけで全てを切り裂く扇の一閃も。その全てが一切その身に届いていない。
 それどころか、血鬼術の冷気に晒されれば晒される程、その力は増しているかの様に、一撃が重くなっていく。

「何で俺の攻撃が全然効かないんだろうね。
 そんなに俺の血鬼術を吸ってたら、とっくに肺胞全部が壊死して死んでいる筈なのに。
 これで自分は人間だって主張するのは無理が過ぎないかな」

 鬼との会話を拒否しているのか、悠さんは一切答えない。
 鬼が悠さんの攻撃を扇で防ごうとしてもその悉くが防御しようとした扇ごと叩き斬られ、血鬼術で氷柱を生み出しても瞬く間の内に砕かれる。
 とは言え、悠さんの方も、手足を斬り飛ばしても首を斬り飛ばしても、それは日輪刀では無いが故に決定打にはなりきれていない。
 しかし、全体で見れば悠さんの方が押している様に見えた。
 私自身の力では、そしてしのぶ姉さんの力でも、全く手も足も出なかった筈の相手を。
 悠さんは、全く焦る事も無く相手取っている。
 一撃ごとに、彼のその殺意にも似た怒りの刃が鋭く研がれていくのを肌で感じる。
 鬼以上に、悠さんから感じるものの方が、今は何処か恐ろしく感じてしまった。

 このままでは埒が明かないとでも思ったのか、鬼は悠さんが振るった剣を足で蹴り飛ばす様にして大きく後方へ跳ぶ。

「いやあ、世界は広いね。
 鬼以外に君みたいな『化け物』も居るなんて、初めて知ったよ」

『化け物』。
 悠さんの事をそう評した鬼のその言葉に、そんな事は無いと、そう思うべきなのに。
 しかし目の前で繰り広げられる人智を超えた戦いに、鬼の戯言と思いつつもどうしてもそれを否定し切れない自分が居た。

 鬼は一気に片を付けるつもりなのか、その扇を大きく翳して振るう。

 ── 血鬼術 霧氷・睡蓮菩薩

 その次の瞬間、まるで大仏像の様に巨大な氷で形作られた菩薩像が一瞬の内に形成されて。
 部屋全体の温度が危険な程に下がる。
 鬼の血鬼術を吸い込んでいる訳では無く呼吸が儘ならなくなる事は無いが、まるで厳冬の寒空に身一つで突然放り出されたかの様に、急激に体温が奪われていく。
 私は咄嗟にしのぶ姉さんの身体を抱え込む様に強く抱き締めて、少しでもしのぶ姉さんの身体から体温が奪われるのを防ごうとする。それでも、長くは持たない。体の端から凍りついて行く様に、熱が奪われていく。

 ── 血鬼術 結晶ノ御子

 寒さでろくに開けていられなくなってきた視界の端で、鬼が氷で出来た小さな人形の様なものを一気に七体作り出したのが見えた。
 そして、その人形達は菩薩像の一撃を防いだ悠さんを素通りする様に、私たちの方へと──

 だが人形達がその手に持った扇を振るうよりも前に、視界の全てが業火に包まれた。
 氷で出来た人形達は、何も出来ないまま成す術も無く瞬時に融け落ちる。
 部屋全体を支配していた冷気が一気に蹴散らされ、菩薩や人形を丸呑みにした炎はそのまま建物全体を飲み込もうとする。

「しのぶさんと、カナヲに、手を出すな……!!」

 それが自分に向けられている訳では無いと分かっているのに。
 悠さんのその赫怒の炎は、全てを消し去ってしまいそうな程に恐ろしいものだった。

 そして、次の瞬間。
 肉体の再生をしている最中であった鬼の身体を貫く様な勢いで、床一面から巨大な氷柱が生み出される。
 全身を巨大な氷柱に貫かれた鬼は、身動きが出来なくなった。
 氷柱が氷の血鬼術を扱う鬼の身体を大きく損なう事は無いが、昆虫の標本の様に氷柱で止め置かれた状態から脱出するのは鬼の膂力を以てしても即座に叶う事は無い様で。
 そして、そんな鬼から僅かに距離を取る様に軽く後方に下がった悠さんは、ほんの数瞬何かに集中する様にその目を閉じる。

 悠さんが目を開けた瞬間。
 その身に纏う気配が、一気に変わる。
 人智を超えた何かがその身に宿っているかの様に、この場の全ての空気を塗り替えていく。

 その瞬間、氷柱の拘束から脱しようともがいていた鬼が。
 まるで、何か素敵な宝物を見付けた子供の様な目をして、悠さんを見る。
 そして、氷で出来た蓮華の華を生み出し、その蔓を伸ばして。
 自分の首を捥ぎ取る様に切り飛ばさせ、そのまま横へと投げ捨てる様にしようとする。
 だが、その悪足掻きを完遂するよりも前に。


「──明けの明星!!」


 耳を潰さんばかりの轟音と共に、世界の全てが真っ白に塗り潰されたかの様に強烈な光が溢れる。
 耳を手で塞いで守り、激しい明暗差に咄嗟に目を瞑ってそれを耐えようとするが、目蓋の裏で目がチカチカと瞬いている様で気分が悪くなりそうだった。

 ━━ ベンッ! 

 何処かで琵琶を鳴らした様な音がした気もするが、耳を塞いでいる中での事なので本当にそんな音がこの場に響いたのかは自信が無い。
 音が止み、光が消え去ったのを僅かに目を開けて確認してから、恐る恐るとちゃんと目を開けると。
 辺りの光景は、一変していた。

 広いとは言え室内であった筈なのに、悠さんよりも前方には「何も無かった」のだ。
 壁も天井も床も、全てが消え去っていて。
 そして、かなり遠方の森まで地面が深く抉れた様になっていて、その上にあった物の一切合切が最初から存在しなかったかの様に綺麗さっぱりと消えていた。
 周囲に人が居なかったから良かったものの、もしこれが人の密集する場所で起きたらと思うと、ゾッとする。

 そして、そんな超常の天変地異の如き現象を引き起こした悠さんはと言うと。
 力尽きた様に膝を突き、そしてそのまま耐えきれなかったかの様に崩れ落ちる様に倒れた。


 上弦の弐の鬼は、跡形も無く消え去っていた。






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