このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

第三章 【偽りの天上楽土】

◆◆◆◆◆






「若い女ばかりが姿を消す」。
 その情報を鎹鴉から受け取った時。
 真っ先に思い浮かんだのは、最愛の姉を殺したと言う、上弦の弐の鬼の事であった。

 頭から血を被った様な、屈託なく笑い穏やかに喋りかけて来るもその言動に感情の無い、鬼。
 花柱を務める程に強かった姉に致命傷を負わせた、悪鬼。
 余りにも遅過ぎた夜明けの光に照らされたこの手の中で、最愛の姉が息絶えた時。
 何を引き換えにしたとしても、必ず自分がこの手でその鬼を殺す事を決意した。
 何をしてでも、何があっても。自分の手で、殺したかった。
 しかし、身体的な問題で体格に恵まれず腕を振り抜く力が弱過ぎる自分では、鬼の頸を斬る事は出来ない。
 そこらの雑魚鬼の頸を斬る事すら出来ないのだ。当然、上弦の弐なんて位階にまで辿り着いている鬼の頸を斬るなんて、神様が奇跡を起こしてくれたとしても有り得ない事だった。
 だけれども、諦めきれなくて。その為に、自分の手で直接頸を斬る事が出来なくても、「自分の力があったからこそ頸を斬れた」と言う討伐の為の要になる事を決意した。何を引き換えにしても。自分の命と引き換えだったとしても、何も躊躇う事は無かった。……それが、姉の最後の願いを裏切るものであったとしても。
 復讐に身を捧げなければ、息をする事すら出来なかった。姉の様な優しく素晴らしい人に、あんな惨い最期を迎えさせるこの残酷な世界を、姉が居なくなった後でも生きていく事なんて出来なかった。
「復讐」だけが、自分の心を支えた。自分の身体を支えた。生きる為の、この一呼吸をする為の、理由になった。
 何があっても、何をしてでも、誰を利用してでも。絶対に、殺すと。あの日、そう心に決めたのだ。

 しかし、上弦の弐の情報を掴む事は中々出来なかった。上弦の鬼と遭遇すれば、その時点で柱であろうと単独行動中であるのならば半ば死が確定する。柱でも無い一般の隊士なら、何人で徒党を組んでいようとも一蹴されて終わりだろう。上弦の鬼によるものかもしれない被害は時々報告されたが、しかしその行方はまだ誰も掴めていなかった。下弦の鬼は柱や力のある隊士たちによって頻繁に入れ替わるが、上弦の鬼は百年以上もその顔触れが変わっていない。……数多くの柱達が彼等に挑み、そして何の情報を持ち帰る事も叶わずに命を落とした。
 恐ろしく強いと言う事以外は何も分からない。……それが上弦の鬼だ。
 死ぬ間際に姉が残した僅かな情報ですら、当時の鬼殺隊にとっては喉から手が出る程に欲していたものだった。
 柱達は下弦の鬼を狩り、そして上弦の鬼に狩られる。鬼殺隊の歴史の中で歪に保たれていたそのバランスが僅かにでも崩れたのは、一体何が始まりだったのだろう。
 人を襲う事の無い鬼の妹を連れた隊士が鬼殺隊に入った事なのか、或いは日光とも日輪刀とも藤の毒とも違う手段を以て鬼を殺せる存在が鬼殺隊の前に現れた事なのか。
 何であれ、停滞していた何かが、大きく動き出したような。そんな大いなる流れを感じた事は確かだ。

 何処から来たのか、何者であるのか。その正体すらろくに分からない謎の男の姿をお館様の御前で初めて見た時。正直な所、彼が鬼殺に利用出来るのかどうかにしか興味は無かった。
 鬼となった妹を連れた隊士……竈門炭治郎が青年を最初に見付け保護したのだと聞いた時は、彼はつくづく変わった出来事に遭遇する星の下に生まれたのだろうかなんて、運命など欠片も信じていないのにそんな事を考えはしたが、その程度だ。
 初めて彼を……鳴上悠を見た時には、一目見ただけでも彼が呼吸を使う訳でも無い、普通の人だと分かった。
 鬼殺隊の隊士たちの様に鬼に対する消えない憎しみを抱えていると言う訳でも無く、静かに落ち着いたその目には優しさ以外の感情は感じ取れなくて。鬼殺隊が守るべき対象である一般の人々と何も変わらなかった。
 これで一体どうやって鬼を倒したと言うのだろう。呼吸を知らない者でも激しい怒りなどによって鬼を一所に留め続け夜明けまで耐久したりする事は稀ながらもあると聞くが、彼は夜明けすら待たずに日輪刀も持たずに鬼を殺したと言うのだ。それは到底信じられない事であった。
 彼は、それを「血鬼術に似た様な力」のお陰だと、そうお館様に明かした。
「血鬼術に似た様な力」……。その様な力を持った人間の話など、一度たりとも聞いた事が無い。
 もしそんな力が本当にあるのなら、鬼殺隊はもっと鬼を狩れていただろう。
 お館様の先見の明などの様なある種の特異的な能力を持つ者は居るが、しかしそれは人世の理を捻じ曲げる様なものでは無いのだ。
 ……彼に本当にその様な力があるのなら。彼は果たして「人間」なのだろうか? 
 鬼が何らかの方法でその身を偽っているのではないか? と。そうも考えた。
 鬼であるかどうかに関して言えば、昼日中でも平気な顔で日光に当たっているので違うのだろうが。

 他者を癒す力を持つと言う彼を蝶屋敷で面倒を見る事になったのは、ある種当然の成り行きと言うものであった。何者であるのかすらよく分からない彼には柱による監視が必要であったし、彼の力を見極めると言う意味でも「実践の場」が必要なのだから。
 そしてそこで彼が見せた「力」は自分の予想を遥かに超えるものであった。
 本来なら後遺症を遺すだろう血鬼術をまるで何事も無かったかの様な状態にまで解除して、命すら危ぶまれる様な傷を負った者も癒して。彼が蝶屋敷でその力を揮う様になってから、蝶屋敷に運ばれて命を落とす者は格段に減少し、そして隊士たちが後遺症無く前線に復帰出来る割合も劇的に改善された。
 だが彼について何よりも特筆すべきはその力その物では無く、その善良な心根であると言う事には直ぐに気付いた。

 傷を負った隊士たちの手を優しく握ってその痛みに寄り添い、それを取り除こうと惜しみ無く「力」を使う。
「力」は無制限なのではなく、使えば使う程に彼を疲弊させ限界を超えてそれを行使すれば倒れてしまうのに。
 それを分かった上で、気を喪う事になろうが誰かを助ける為ならばそれを惜しまない。
 更には正確には隊士では無いにも拘わらず鬼殺隊の任務を受けて鬼を討つ為に駆け回る。
 特別な「力」を持っているが、その根本は優しく誠実な好青年であり、故にこそ鬼の被害を看過出来ずに戦う。
 蝶屋敷での仕事を何一つとして厭わず、「自分に出来る事をしたい」と何でも積極的にこなす。
 誰に対しても誠実に、そして相手を思い遣りながら接する。
 蝶屋敷に身を寄せている娘たちが程無くして彼に心を開くのは、ある意味では当然の事であった。
 自分も、最初はその力を使えるのかどうか程度にしか感じていなかった筈なのに、何時しか彼の事をまるで弟であるかの様に思い始めていた。

 そんな中で、長く続いた十二鬼月との戦いの停滞を打ち破る出来事が起きたのだ。

 上弦の鬼の中でも上位の者である上弦の参。それと直接交戦した隊士としては初めて、炎柱である煉獄杏寿郎が生還したのだ。それも、左眼の視力を喪うのみと言う……軽くは無いがしかし上弦の鬼と対峙した者としては破格な程に五体満足と言っても良い状態で。
 本来なら死んでいた筈の傷を負った彼の命を繋ぎ止めその傷を癒したのは、同じ任務に同行していた悠であった。死者の蘇生にも等しい程の奇跡を成しただけではなく、悠は更に鬼を討った際に横転しかけた列車を神風としか言えない暴風を吹かせてそれを止めたとすら報告で聞いた。
 悠の「力」が、自分達が想像していた以上のものである事を知った時。
 自分の中で、悠のその力を借りれば「復讐」を果たす事が出来るのではないか、と。そんな暗い考えが芽生えてしまった。
 数年掛けてこの身に毒を蓄積させて、この身と引き換えにして上弦の弐に致死の毒を喰らわせて。
 その上で、頸を斬って貰う。それが自分の描いた「復讐」の方法だった。
 鬼の頸を斬るのは、継子であり大切な妹であるカナヲに任せるつもりだった。……だが、上弦の鬼と言う規格外の存在に対して、幾ら毒で弱らせるからと言ってもカナヲ一人でその頸を取れるのかと言う部分に関しては大分怪しいものがあった。だが、その場に悠も居てくれれば。確実にカナヲに頸を斬らせてくれるのではないか、と。……そう考えた。考えてしまったのだ。
 姉をあの悪鬼に奪われた自分とは違う、カナヲとも違う。上弦の弐とは本来全く関係無い悠に、自分の敵討ちをさせようと、それをお膳立てしようと、本気で考えてしまった。……そんな事をすれば、彼がどれ程傷付くのかは薄々分かっているのに。
 それでも、「復讐」だけを考えて来た自分が止まれる筈も無くて。それを見て見ぬふりするかの様に。
『万世極楽教』への潜入捜査に、カナヲだけではなく悠も共に連れて行く事にしたのだ。

 此処に潜む鬼が、上弦の弐でないならそれはそれで良い。何時も通り殺すだけだ。
 だがもし。上弦の弐であったのなら。その時は──






◆◆◆◆◆






 日が沈み辺りが夜闇に包まれた事を確認して、行動を開始した。
 日中は他の信者たちの目もある為中々自由に行動する事は難しい。
 鬼が闊歩する夜こそが、鬼殺隊の戦場である。
 鬼の所在を掴む為に、夜闇に紛れて移動する。
 向かう先は悠が目星を付けていた幾つかの場所の内の一つである。

 人目が無い事を確認しながら寺院の内部に潜入する。
 向かうは、寺院の内部の奥にあり、そこだけ妙に他の建物とは離れた位置に在るもの。
 一体何の目的のものなのかは、接触出来た信者たちの中に知る者は無く。
 ただ、そこに時折「教祖様」が出入りしているとだけ分かった。
 ……「教祖様」とやらが鬼である可能性は、それなりに高い。決して日の当たる所には出ないと言うその行動は、鬼である事を容易に想像させる。無論、「教祖様」はただの傀儡であり、その背後に『万世極楽教』を管理し信者たちを貪る鬼が居るのかもしれないが。何にせよ、「教祖様」に関して調べる必要があった。
 カナヲは少しだけ離れた場所を調査しているので、何かあれば比較的直ぐに駆け付けられる距離であった。
 ……上弦の鬼相手では、その少しの時間が命取りになる可能性もあるが。そう言った危険を冒さずして鬼殺隊の隊士は務まらない。

 慎重に廊下を駆け抜け、その場所に近付くと。僅かに血の匂いがする事に気付く。
 まさか、今この瞬間に誰かが襲われているのかと。警戒しつつも、その場所の扉を開くと。

「そろそろ来る頃かなと思ってたけど、早かったねぇ。
 若くて美味しそうな子が二人も紛れ込んでくれて嬉しいよ」

 ニコニコと、笑みを浮かべながら。しかしその瞳の奥には何の感情も宿していない、異質な鬼が。其処に居た。
 その手には、恐らくは若い女性のものだろう腕を持って。そしてそれを一呑みにしてから屈託の無い表層だけの笑みを向けた。
 床下に張られた水面に蓮が所狭しと並びその花を咲かせている、そんな何処か厳かさもある光景の中で。
 鮮烈な程に、鬼に喰い荒らされたのだろう人の血が床を赤黒く汚している。

「やあやあ初めまして。俺の名前は童磨。良い夜だねぇ」

 口元を血で汚しながら喋るその声音は穏やかで優しい。……その様に聞こえるが、それは表層だけのものだ。
 本当に優しく穏やかな人の声と言うものをよく聞いているからこそ、目の前の鬼のそれが空虚なものでしか無い事に一瞬で気付く。
「上弦の弐」である事を示すその瞳に刻まれた文字に、私は腹の底で常に煮え滾っている怒りが溢れ出そうになるのを何とか留める。憎しみと怒りの刃をより鋭く研ぎ澄ます為にも。
「復讐」を果たす時が来た事に、胸を燃やし尽くす程の嚇怒の炎と共に、歓喜の念すら抱いていた。
 上弦の鬼を討伐する事など容易な事では無いので早々に起こり得はしないだろうが、この鬼だけは自分が殺すと決めているのだ。他の誰にも抜け駆けさせる事無く、こうして「復讐」の刃を突き立てられる瞬間が訪れている事に、自らの身を捧げて研ぎ続けていた刃が無駄では無かった喜びを感じる。
 だが、無抵抗に殺される訳にはいかない。
 命を捧げて毒を与えたとしても、尋常ならざる存在である上弦の鬼は時間さえあれば解毒してしまうだろう。
 毒が効き始めた頃合いにカナヲが頸を斬れる位置にいなければ、命を賭す意味が無い。
 そして、こうして目の前で対峙しているからこそ、カナヲ単独では幾ら毒で弱らせていても頸を斬り切れない可能性にも気付いた。だが、その為の戦力は既に在る。
 それもあって、カナヲと悠がある程度近くに来るまでは、喰われる訳にはいかなかった。
 鬼の姿を認めた瞬間、既に自分の鎹鴉を放っている。どれ程の時間を凌がねばならないのかは分からないが、必ずあの鎹鴉はカナヲも悠もこの場に連れて来てくれる筈だ。
 死を恐れている訳では無い。だが、姉の仇も取れず無駄死にし、更にはカナヲたちを喪う結果になる事は最も避けたい結末である。その為にも、慎重に時間を稼ぐ必要があった。

「俺は『万世極楽教』の教祖なんだ。信者の皆と幸せになるのが俺の務め。
 君は鬼殺隊の人間だけど、こうして此処に来たからにはちゃんと『救って』あげるとも」

 腐肉よりも悍ましい言葉だが、時間を稼ぐ為には会話に応じる必要がある。
 今この瞬間にも刺して毒を注ぎ込みたい衝動をどうにか抑えながら、私は口を開く。

「信者と幸せになる? 冗談を言わないで下さい。
 囲った生け簀の中でただ命を食い散らかしているだけじゃないですか」

 先程喰われた誰かも、恐らくは信者なのだろう。外で狩って来た獲物である可能性もあるだろうが。
 鬼の発言の一つ一つが不愉快でならなかった。

「生け簀だなんて随分と酷い事を言うんだねぇ。
 それにね、これは『幸せ』なんだよ。俺は優しいから、ちゃんと『救って』あげるんだ」

 己の胸に手を当てながら、鬼は嗤う。

「誰もが皆、死ぬのを怖がっている。死んでその身が腐り果て消えてしまう事が怖いんだ。
 だから苦しくて辛くて怯えて、此処まで逃げて来る。ああ、本当に可哀想だ。
 だからね、俺が食べてあげるのさ。だって俺は鬼で、永遠の時を生きられるからね。
 俺の一部になるって事は、永遠に共に生きる事と同じだろう? 
 信者たちの想いを、血を、肉を。その全てをしっかりと受け止めて、救済し高みへと導いているのさ」

 ほら、俺って優しいだろう? と。鬼は余りにも悍ましく狂った言葉を垂れ流す。
 ああ……こんな悪鬼に、あの優しく強かった姉は殺されたのかと思うと、本当に我慢がならなかった。
 こんな、存在する価値が何処にも無い畜生にも劣る害獣に、疑い様も無く素晴らしい価値があった存在の未来が摘み取られたなど、到底許される事では無かった。

「正気とはとても思えませんね。貴方、頭は大丈夫ですか? 本当に吐き気がする」

「えーっ、初対面なのに随分刺々しいなぁ。
 あっ、そっか! 可哀想に、何か辛い事があったんだね……? 
 聞いてあげるから、話してごらん? 俺が『救って』あげるからさ」

 限界だった。
 一刻も早く、この不愉快な存在を黙らせねばならなかった。
 そうしなければ、息をする事すら儘ならない。

「辛いもなにもあるものか。私の姉を殺したのはお前だな? 
 この羽織に見覚えは無いか」

 姉の形見の羽織を、怒りと憎しみで壊れそうな心で握り締める。
 どうして、こんな害獣に殺されてしまったのか。息も出来ない苦しみの中で、死ななければならなかったのか。
 大事な、たった一人残された大事な肉親だったのに。この世の誰よりも大事な人だったのに。どうして。
 仇を目の前にしていると、あの日に感じた怒りと憎しみと絶望が鮮やかな程に蘇る。
 笑顔の仮面の下に隠してきた憎悪の炎が燃え上がる。
 鬼が姉の事を覚えていようが覚えていなかろうが、赦すつもりは一切無い。

「ん? ……ああ! 花の呼吸を使っていた子かな? 
 優しくて可愛い子だったなぁ。あの時は朝陽が昇っちゃって、食べ損ねてしまったからよく覚えているよ。
 ちゃんと『救って』あげたかっ──」

 最早我慢など出来なかった。
 渾身の力で床を蹴り、全速力の刺突──『蟲の呼吸 蜂牙の舞い 「真靡き」』をその左眼を貫通する勢いで喰らわせた。
 不意打ちの一撃は、鬼の尋常ならざる反応速度を上回っていた様で、咄嗟に防御した手すら貫通した一撃に、鬼は驚いた様に笑う。

「凄い突きだね。手で止められなかった」

 そう言いながら、鬼は一対の鉄扇を広げると、それで斬り裂く様に血鬼術を使う。
 一瞬の内に周囲に蓮の花を模した氷の塊が形成され、身を斬り裂き肺を侵す様な異様な冷気に襲われつつも何とか回避に成功した。
 それを回避した事を褒める様に、鬼はその手を叩く。

「う~ん、速いねぇ、速いねぇ。君は柱かな? 今まで戦ってきた柱の中でも一番速いかもしれないねぇ。
 だけど、可哀想に。どんなに速く鋭くても、突きじゃ鬼は殺せない。殺したいなら頸を斬らなきゃ」

「突きでは無理でも、毒ならどうです?」

 今まで、鬼を殺す為だけに毒の調合技術を磨いてきた。この鬼をこの世から消し去る為に。
 それが果たして通用するのか。それは賭けである。

 そして、その効果は程無くして顕れた。
 鬼の身体を蝕んだ毒に、鬼は血反吐を吐いて膝を突く。……だが、まだ喋る余裕がある様だった。

「これは……累くんの山で使っていたものよりも強力だね。
 鬼ごとに毒の調合を変えていると、あの方も言っていたなぁ……」

 やはり毒の情報は鬼舞辻無惨を介して全ての鬼に共有されている様であった。
 鬼舞辻無惨が、全ての鬼を己の管理下に置きその感覚や記憶すら自由に掌握出来るが故に、毒の共有は想定されていた事態であるとは言え、鬼を倒せば倒す程に己の手札を喪っていく諸刃の剣である事を突き付けられる。
 だからこそ、今日ここで、この鬼は何としてでも倒さねばならない。
 その為の準備は……己の身を捧げる覚悟は決めている。
 カナヲは、そして悠は何処だろう。今頃急いでこの場に駆け付けようとしているのだろうか。
 他ならぬ、この私を守る為に。
 そんな優しい子達の目の前で死ななければならないのは、僅かに申し訳無さを感じるが。
 しかし、それで躊躇う事など出来ない。

 ゴホゴホと何度か咳き込んでいる内に、鬼の身体の崩壊は止まる。

「あれぇ? 毒、分解出来ちゃったみたいだなあ。ごめんねぇ、折角使ってくれたのに。
 それに、その刀、鞘に仕舞う時の音が独特だね。そこで毒の調合を変えているのかな。
 うわーっ、楽しいねぇ!! 毒を喰らうのって面白いねぇ、癖になりそう。
 次の調合なら効くと思う? じゃあ、やってみようよ!」

 まるで無邪気な子供の様に……だがその奥に冷徹な程の冷め切ったものを滲ませながら。
 鬼は愉しそうに嗤う。お前のやっている事は無駄なのだと、そう見せ付ける為に。
 そして自分の知らぬ鬼殺の術を観察し解析する為に。その手札を明かしてみろと挑発する。
 それは、幼子が捕らえた虫の手足を捥いで、無邪気に観察しようとしている様なものだった。

「……そうですね。まあこの辺りまでは想定内ですから」

 新たな毒を調合し、構える。
 恐らく、この毒も早々に分解されるだろう。それもまた想定内だ。
 本命の毒は、これらとはもっと違う調合で、そして分解など到底間に合う筈の無い量である。
 しかしこの分解速度を考えると、ただ喰われるだけでは毒を鬼の身体のその端々にまで巡らせる事は難しいかもしれない。吸収される様に、髪の一筋残らずその身に取り込まれる必要があった。
 だがその目的を悟られる訳にはいかない。
 だからこそ、ろくに効かないのは分かっていても、戦うのだ。
 哀れで無力な虫ケラが、蟷螂の斧を振り翳しているだけなのだと。そう心からこの鬼を油断させる為に。
 本命の刃は、この身体その物なのだから。


 何度も調合を変えて打ち込んではいるが、次第に分解に要する時間は短くなっていく。
 そしてそれ以上に、肺が壊れてしまったかの様に息が苦しいのが問題だった。
 本来ならまだまだ戦い続けられるのに、呼吸が上手くいかなくて肩で息をしてしまう。

「ああ、可哀想に、息が苦しいんだね。肺胞が壊死しているからね、辛いよねぇ。
 さっき俺の血鬼術を吸っちゃったからね」

 周囲を凍らせながら、鬼は可哀想にと嗤う。
 ああ、こうやって姉も殺されたのか。呼吸を要とする剣士にとっては、致命的な程に相性が悪い。
 こうやって何も感じていないのに、薄っぺらい笑みを貼り付けて、殺していたのか。
 ああ、本当に腹が立つ。
 今から自分が死ぬのは分かっているが、こんな害獣に哀れまれて死ぬのは我慢がならない。
 カナヲは、悠は何処なのだろうか。恐らく喰われて数分の内に毒の効果が顕れる筈だ。
 その機会を逃す訳にはいかないのに。

 鬼は、まだまだ全力など出していないのだろう余裕たっぷりの顔で、無力な人間がどう抗うのか……その為にどんな手段を使おうとするのかを観察している。ああ、本当に、腹が立つ顔だ。

 最後の抵抗として連撃で少しでも多くの毒を打ち込むべく、『蟲の呼吸 蜻蛉の舞い 「複眼六角」』を使う。
 神速にも等しい程の強烈なその連撃は過たず鬼の身を穿ち、……そしてすれ違いざまに鬼の鉄扇が左胸を大きく切り裂く。血鬼術によって既に損傷していた肺は不可逆な程に潰されて、肋は折れて肺に突き刺さっている。
 息が出来ない。苦しくて一歩も動けない。喪った血が多過ぎて意識が朦朧とする。

「ああ、ごめんねぇ。中途半端に斬っちゃったから、苦しいよね。可哀想に。
 頑張ったのに、頸が斬れないから殺せなかったねぇ。ああ、可哀想に。
 無駄だって分かっているのに頑張るなんて、本当に大変だっただろう? もう休んで良いからね。
 苦しまない様に首を落としてから食べてあげるからさ。安心してね。
 何か言い残す事はあるかな?」

 鬼がニコニコと笑いながら近寄って来る。
 身体はもう動かない。苦しくて涙が出そうだ。だが、これで良い。目的は達した。
 カナヲの気配が急速に近付いているのを感じる。恐らくは悠も程無くして辿り着くだろう。
 そうすれば、二人が力を合わせて、この鬼の頸を斬ってくれる筈である。
 二人とも自分の事を心から大切に想っていてくれているからこそ。そんな自分を殺した憎き相手を何としてでも殺してくれる。心優しい悠も、その力を揮う事を躊躇ったりはしないだろう。
 ……優しい心を利用して踏み躙る様な行為だけれど、それでこの手で「復讐」を果たせるのなら、迷えない。
「復讐」が完遂される瞬間を確信して、だがその歓喜の念を鬼に悟られる訳にはいかなくて。
 だから、憎悪と共に吐き捨てる。


「地獄に堕ちろ」


 鬼がその鉄扇を振り上げようとしたその瞬間。
 扉が勢いよく開かれた。






◆◆◆◆◆
3/9ページ
スキ