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彼岸と此岸の境界線

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【2011/07/09】


 午前中だけの授業が終わるなり、直ぐ様巽屋へと向かった。
 しかし今日の目的は巽くんから手芸を教わる事では無く、前々から約束していた様に、巽くんと今度の期末試験に向けた試験勉強をする為だ。
 テストまで後10日。
 その僅かな期間で、赤点回避・補習回避という大望の為には、巽くんの限界に挑戦して貰う必要がある。
 こちらも、全力を以て教える所存だ。

 先ずはと言う事で、八十神高校の一年生の授業の進捗を知る為に、巽くんにノートを見せて貰う。
 …………。
 ノートである筈のそれは、真冬の新雪の如く見事な純白に輝いている。
 そもそも、開いた形跡がほぼ無い。
 …………。
 何処まで捲っても何も無いそのノートをそっと閉じた。
 教科書を見せて貰うが、……開かれた形跡がほぼ無い上に、書き込み等は無い。
 どの教科も同じである。
 ………………。
 ……取り敢えず、教科書も脇に置いておく事にした。

 …………。
 ……さて、どうしようか。
 割りと困った事に、何処まで教えれば、何処から教えれば良いのかが分からない。
 仕方無しに、返却された前回の中間試験の回答を見せて貰う事にした。
 赤い×印が乱舞するその回答を見ながら、今回の期末の範囲がどの辺りであるのか、そして巽くんの理解の度合いを予測する。
 ……………………。
 ほぼ暗記科目の社会科系の教科は、天城さん辺りから去年のノートを借りるなりして対策を立てるとして。
 何よりも危険な理数系の科目をまず対策しなくてはならない。
 一部の分野に関して言えば、中学生辺りの範囲からの復習が必要そうである。
 ……先は長そうだ。
 一先ずは、数学から始めよう。
 数学の範囲は、“組み合わせ”の分野と“確率”の分野、それと“二次方程式”か。

「よし、取り敢えずは“二次方程式”から始めよう。
 手加減は一切しないからな。
 巽くんも、頑張ってついてきてくれ」

 二次方程式は公式さえ覚えれば、後は慣れだ。
 只管に問題を解いていくしか無い。
 若干冷や汗を浮かべながらも巽くんは確と頷いた。
 その心意気や善し、とフルスロットルアクセルベタ踏みで勉強会を開始する。

 只管に問題を作っては、巽くんに解いて貰い、直ぐ様それを採点・間違いを指摘し、再び類似の問題を解かせて……、と繰り返した。
 陽が傾き始める頃には、巽くんの目が虚ろになり、焦点が何処か遠くに結ばれている。
 流石に心が痛くなる状態だ。
 だがそれ程の代償を払った価値はある。
 只管解き続けた成果か、初めの頃よりは理解力が増し、解くスピードにも若干の向上が見られ、基礎中の基礎の様に簡単な問題ならほぼ確実に解ける様になっていた。
 キャパの限界に挑戦した巽くんは、今にも死にそうな顔をしている。
 ……自分でやっといて何なのだが、この調子で大丈夫なのだろうか?

「あー巽くん? その、大丈夫か……?」

「う……うっス」

 ヨロヨロとした動きで頷く巽くんの目には、生気が無い……。
 幾ら何でも、最初っから飛ばし過ぎたのでは……。
 次からは、適宜スピードを落とす事も検討しておこう。

「……それにしても、意外だな」

「……?」

 こちらの言葉に、何の事かとばかりに巽くんは首を傾げた。

「いや、赤点回避と言う目的があるとは言え、音を上げずにここまで着いてきたのは凄い事だ。
 だから、意外だな、と」

 実際、途中でリタイアする可能性も考慮していた。
 巽くんは根性のある良い漢だが、不慣れで苦手な勉強の類いに対してもここまで根性を見せられるとは思っていなかったのだ。
 そう言うと、巽くんは頬を掻きながら少しそっぽを向いた。

「あー……。
 ま、赤取って補習になんざなったら、お袋を心配させっから……。
 散々迷惑かけてんだし、一寸は安心させてやりてーんスよ」

 その言葉に少し目が丸くなったが、同時に思わず口の端が緩んだ。
 巽くんなりの、親孝行のつもりなのだ。
 うん、やはり良い事だ。

「それに、先輩がワザワザ一生懸命やってくれてんスから、そこでオレが弱音を吐いちゃ男が廃るっスからね」

 そう言いながら、巽くんは「またお願いします」と頭を下げる。
 それに勿論と頷いて、その日は巽屋を後にした。





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 前々からの約束通り、倉橋さんに料理を教える事になり、今は倉橋さんのお家にお邪魔している。
 旦那さんの帰りはまだらしいので、それまでにさっさと手早くやってしまおう。

 今日教えるのは、炊飯器一つで簡単に出来るツナを使った醤油と生姜と出汁ベースの炊き込みご飯だ。
 下手に下味を付ける必要がある料理にすると、倉橋さんがまたトンでも無い味を付けるかも知れないので、苦肉の策である。

 用意してある材料を、炊飯器にそれを一つずつ放り込んでゆく。
 各々の材料やその量にどういった意味があるのかも適宜説明しつつやっていくと、倉橋さんはとても熱心にそれをメモしていた。

 炊飯器のスイッチを入れ、炊き上がる迄の時間に更に料理を教える。
 春雨を使った所謂中華サラダと言うヤツだ。
 これなら、アレンジャーな倉橋さんでも、多分メイビーきっと大丈夫……だろう、うん。

 途中で、酢漬けになりそうなレベルでお酢を入れようとした倉橋さんを阻止したり、砂糖を追加しようとするのを阻止しつつも、何とか料理は完成し、後は炊き込みご飯が炊き上がるのを待つだけとなる。
 炊いている最中の炊飯器からは、醤油と出汁の良い香りが既に漂ってきていた。
 これならば、問題ない仕上がりになっているだろう。

「ありがとうね、悠希ちゃん」

 教わった事を一通りメモしたメモ帳を胸に抱えながら、倉橋さんは心底嬉しそうに微笑みながらそうお礼を言ってきた。
 教えるのは大した手間でも無いが、そう喜んで貰えて何よりである。

「こんなに美味しそうに出来たの、初めてだわ。
 これならきっと、お義母さんも食べてくれるわよね……」

 そろそろこちらも夕飯の支度をしなくてはならない時間になってきたので、倉橋さんに一言断ってから倉橋さんの家を後にした。






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