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『鳴上悠は鬼殺の夢を見る』(ペルソナ4×鬼滅の刃)

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 部屋を見渡すと、ふと溜め息が零れた。
 明日になれば、一年を過ごしたこの部屋とも暫しのお別れになる。
 荷物は既に纏めて送っているので今此処に残しているのは本当に最小限必要なものだけで、元から用意されていた家具以外は全て片付けられた部屋はどうにも寂しいものを感じてしまった。
 最初にこの部屋に入った時の状態に戻っただけとは言え、一年の時を過ごす内に大切な思い出たちと共に増えて行った様々な私物が視界に無いと、どうにもがらんどうの様に思えてしまうのだろう。
 長期の休みの時には皆に逢いに戻って来るつもりではあるが、「帰るべき家」として住む事と「一時的に逗留する場所」として滞在する事の差はどうしたって埋められない。
 住居を引っ越す事自体にはもう慣れていたが、ここまで後ろ髪を引かれる程に愛しく離れ難いと感じるのは初めてであった。出来ればもう一年、高校を卒業するまではと、そう思うけれど。
 元々の約束は一年だけと言う事であったのだし、それを急に自分の意見だけで覆して貰う事は難しく、そしてここを発った先にも大切な『家族』が居る。
 この街と、此処で得た大切な繋がりを愛しく離れ難いと心から想うけれど、一年越しに両親に逢いたい気持ちも当然に在った。 
 だから、行かねばならない。

 それに、やり残していた事はもう全て果たした。
 この街で起きた不可思議な事件の真実を見付け出して街を閉ざした霧を晴らし、そして最後には全ての駒を盤面の外から見ていた『神』に打ち克つ事で人の『心の海』に巣食っていた霧をも全て切り裂いた。
 もうこの街で、『神』の遊戯によって人生を狂わされてしまう者は出ないだろう。そして、「混迷の霧」によってこの世界全てが滅びてしまう様な事も。
 何十何百と言う年月が過ぎればどうなるのかは分からないが……そうならない様に自分達が居る。そして、自分達以外にも、「混迷の霧」の中を生きるよりも己の目を開いて生きる事を望む者達は多くは無くとも必ず居る。
 ならばきっと、大丈夫だろう。
「未来」と言うものを現実も見ずに夢想する事は出来ないが、無為に悲観する事もまた愚かな事であるのだから。

 明日の出立には仲間達が見送りに来てくれる。学校で得た大切な友人たちも、必ず行くと言ってくれていた。
 そうやって沢山の人に見送られる事は初めてなので、嬉しくて何処と無く浮ついた様に落ち着かない。
 だからこそ、寝惚けた様な顔なんかを見送りに来てくれた皆に晒したくは無いので、明日の出立に向けて今日はもう寝るべきだろう。
 イザナミとの激戦によって充足感と達成感の高揚に満たされつつも、今日は結構疲れていた。
 だからこそ、布団の中に入ると途端に、忍び寄っていた眠気によって意識はゆっくりと深い海の底へと沈んでいくのであった。






◆◆◆◆◆






 水面に浮かんだ泡が弾けた様に、不意に意識が外界を知覚した。
 そして、「奇妙な」現状にも同時に気付く。

 先ず、場所がおかしい。眠りに就いたのは間違いなく堂島家で与えられた自室であった筈なのに、何故か今居るのは見知らぬ夜の暗い森の中だ。夜行性の動物たちが様々に動いている微かな音が彼方此方から聞こえてくる。
 木々の間を緩く吹き抜けた風に揺れた葉が立てた擦れ合う様な音も、足裏から伝わる舗装された道路などと違った柔らかさを持った土の感触も、そのどれもが『現実感』を伴っている。
 ……一体此処は何処だろう。そして、どうしてこの様な場所に居るのだろう。
 そう戸惑っていると、更に奇妙な事に気付く。
 眠りに落ちる際に身に着けていたのは部屋着であったし、当然その手に武器など持ってはいなかった。
 だが、今の自分は一年ですっかり慣れ親しんだ八十神高校の制服を身に纏い、そして手の中でずっしりとした剣の重さがその存在を主張している状態だ。見ると、それは心の海の世界で手に入れた『十握剣』であった。
 手に入れた時からそれを握り締めて『心の海』の中を駆け抜けていた為、その重さは手にかなりよく馴染んでいる。
 だが何故この様な……『心の海』の中の世界を駆ける時の様な装備で居るのか、さっぱりと現状を理解出来ない。
 これが果たして現実であるのかどうかすら、あやふやだ。

 だがふと、そう言えば以前もこの様な事があった事を思い出す。
 稲羽の街にやって来た最初の日の夜に、イザナミに誘われて夢を通してその領域に招かれたその時の感覚と、今の感じが何処と無く似ていた。
 ならば恐らく、これは夢の中だ。夢の中でそれを知覚している明晰夢とほぼ同じである。
 だが恐らくはそれと同時に、此処は『現実』であるのだ。
 あのイザナミの領域の様に『心の海』の中であるのか、或いは現実の世界なのかはまだ分からないが。どちらにせよ夢の中だけの世界では無くて何処かに本当に存在する場所なのだろう。
 だが、だからこそ何故? と言う疑問が胸の内に湧き上がった。

 以前イザナミに誘われてその様な夢を見た。だが後にも先にもそのたった一度だけの経験であったし、そしてそのイザナミは既に人の心の海の中へと静かに還っていった。それを己の目で直接見届けたのだから間違いない。
 人の『個の意思』で『人々の総意』を凌駕し覆した事を何処か感心した様に認めながら消えて行った彼の存在が、亡霊の様に迷い出て再び何かを始めるとは思えない。もしそうなるとしてもそれは随分と先の事になるだろう。
 昨日の今日では幾ら何でも早過ぎる、それでは往生際が悪過ぎると言わざるを得ない。
 イザナミはその様な見苦しい真似はしないであろうと言う確信はあった。
『神』として人を試す事はしても、その試練を乗り越えた者に対して何時までも粘着して敗北を認めない様な見苦しい真似はその矜持に懸けてしないだろうから。
 ならば、これはイザナミ以外の何物かに誘われて見ている夢なのか。それともそもそも誰かに誘われた訳では無く、単に自分が何処かに迷い込んだだけなのか……。どちらも考えられるが故に、今の時点ではその答えは出そうにない。だからこそ、何かを探す様に特に宛ては無いが森の中を歩き始めた。

 夢である以上は何時かは醒めると思うが、何時醒めるのかについては全く分からない。
 一秒後かも知れないし、或いは夢の中で気の遠くなる様な時間を過ごさないといけないかもしれない。
「邯鄲の夢」やら「南柯の夢」やらに言われる様に、夢の中で一つの人生程の時間を過ごしたつもりでも現実では一夜にも満たぬ程の短い時間の中でしか無い事もある様に。
 此処が夢であると明確に理解しても、だからと言って醒めるまでをぼんやりと待つと言うのも良い事にはなりそうにない。
 せめて何処かに人なり何なりが居れば良いのだけれど……と、宛無く彷徨っていたその時だった。

 夜闇を切り裂く様に、夜の森中に響く様な鋭い悲鳴が聞こえて来た。
 どう聞いても切羽詰まっている様子のその声に、半ば無意識の内にそれが聞こえて来た方向へと向かって駆け出していた。
 此処が何処なのか、一体今自分がどんな状況に置かれているのかはまだ全く分からないけれど。
 誰かが何かしらの危機に直面しているのなら、それを無視する事など出来ない。
 自分に何が出来るのかと言う問題では無く、そうしたいから走るのだ。行動しなければ何も出来はしない。

 そうして夜の森の中を、足元に気を付けながら駆け抜ける事暫し。
 木々が開け、月明かりが照らし出した其処で。

「化け物」としか呼べない様な異形の存在が、人を襲っていた。
 一見そのシルエット自体は人間の様に見えなくはないが、その身体の様々な場所に眼球が蠢きあらぬ方向に視線をやっていて、そしてその額からはまるで角の様なものが肌を突き破る様にして生えている。
 女性の様な見目ではあるがその腕は異様に長く、昔絵本で見た「手長」と言う妖怪の姿を思い起こさせた。
 それは紛う事無く「化け物」であった。
 シャドウと言う人の心が生み出した怪物たちの姿をよく知っていても、それとは根本から異なる様な異質なその異形の姿に思わず息を詰める。
 だが、思いもよらぬ「化け物」の姿に戸惑っている様な余裕など無かった。

 その「化け物」の足元では既に男性が地に伏していて、女性が逃げる事すら出来ずに怯えた様に身を縮こまらせていて。そしてその場には噎せてしまいそうな程の濃い血の臭いが漂っているのだ。
 男性の胸の辺りは動いている所を見るにまだ生きてはいるようだが、しかし一刻も早く治療を必要としている状態なのは間違いが無い。
 更には「化け物」は女性に狙いを定めた様に、その長く異様な腕を伸ばそうとしていた。
 その手の指先に在る爪は、まるで肉食獣の鉤爪の様に鋭い。女性の柔肌など忽ち切り裂かれてしまうだろう。
「化け物」には明らかに女性に対する害意が在った。ただそれは殺意と言うよりは、獲物を屠殺しようとするかの様な……ある種当然の行為を行おうとしているかの様なもので。悪意らしい悪意が無くとも、この「化け物」は人間を容易く殺せるし、そして殺した事に何の痛痒も懐かない存在なのだと直感させる。故に、「化け物」が人とは相容れぬ存在である事を瞬時に理解した。

 だからこそ、迷う事無く地を踏み締めて己を撃ち出す様な勢いで「化け物」に向かって突撃し、手にしていた剣を強く握り締めて薙ぎ払う。
 眼の前で自らに迫って来ていた「化け物」の片腕が斬り落とされた瞬間を目にした女性は、恐怖と驚愕から思考が途絶したかの様に固まり。そして腕を喪った「化け物」は突然の攻撃に驚いた様にその意識をか弱い獲物である女性から自分に害を与えてきた第三者へと向けた。
 食餌をするにしても、先ずはこの外敵を排除せねばならない、と。まるで獣の様な目がそう言っていた。
 完全に「敵」として認識されてしまったが、それで「化け物」の意識が女性や足元に倒れている男性から離れてくれるなら十分以上だ。女性や男性がこの場から逃げてくれるのならそれが一番だが、どう見ても女性は腰が抜けているし男性は動ける状態では無い。ここで、自分がこの「化け物」をどうにかしなければ、彼等は助からないだろう。人二人分の命が自分の手に掛かっている事を意識すると、負ける訳にはいかないと言う重責を感じる。
 だがまあ、それは「何時もの事」だ。テレビの中に落とされた人を助けに行く時と、或いは強大なシャドウと対峙する時と。何も変わらない。だから落ち着け、と。そう自分に言い聞かせて集中する為にも大きく息を吸う。
 すると、その息を吸う音に反応したのか、「化け物」は僅かに警戒しつつも馬鹿にする様な雰囲気で口を開く。

「これから『仕込み』の段階だったのにもう鬼狩りに見付かるなんてついてないわ。
 でもあなた、ろくに呼吸も使えない剣士なんでしょう? 前に一度見た鬼狩りたちの呼吸とは全然違うもの。
 だから、最初から頸を狙わずに、腕なんて狙った」

 そう言いながら「化け物」は斬り落とされた己の片腕を拾い、それを傷口に押し付ける。すると不快な音と共に斬り落とした筈の腕は瞬く間に元通りの状態にくっ付いてしまった。
「化け物」が喋った事に驚くと同時に、警戒を強めた。かつて対峙してきたシャドウたちの中で会話するものは極めて稀であり、そしてそれらはどれも押並べて強力なシャドウだった。
 斬り裂いた時の手応えとしてはそこまで強力なシャドウと同程度の存在だとは感じなかったが。自分はそこまで分析に長けている訳でも無い為、素人判断は危険だろう。
『鬼狩り』だの『呼吸』だのと「化け物」が言っている意味は正直よく分からないが、どうやら自分は「化け物」たちを狩る何者かであると勘違いされているらしい。「化け物」の言葉から判断するに、彼等の弱点は頸なのだろうか? ……それがブラフである可能性はあるが、自分から己の弱点を晒す様な真似をしてくれるのは迂闊であるが此方としては有難い事だ。

 鋭い爪で敵の肉を斬り裂こうと、「化け物」の長い腕が此方に迫って来る。
 かなりの速さだが、来ると分かっていて避けるのは難しくない。半歩下がる様にしてそれを回避すると、「化け物」の腕はゴムかバネを伸ばす様に延び、此方を囲う様に迫って来た。それを一度身を屈めて避けつつ、勢いよく剣で斬り上げて今度は両腕ともを切断する。また回復されてしまうのかもしれないが、僅かにでも隙を作る事が出来るのであればそれで十分だった。
 一気に踏み込んで、その頸を狙って力一杯に振り払う。神話の中では神殺しにすら使われていた十握剣は、それその物ではなくとも凄まじい斬れ味を誇り、そしてそれを遺憾なく発揮して「化け物」の頸を斬り飛ばす。
 驚いた様な表情を浮かべたままの「化け物」の首が、地に落ちて転がった。
 これで、終わっただろうか、と。安堵の息を吐こうとしたその時だった。

 首を喪った筈の「化け物」の身体が、動いたのだ。
 そして喪った筈の腕が、生々しい音と共に身体から生えて来て、そしてその腕が斬り落とされた筈の首を拾う。
 そして、切断された筈の首すら、元の位置に戻すと元通りにくっ付いてしまう。
 頸が弱点では無かったのだろうか……? 

「ああ、吃驚したわ。呼吸もろくに使えない剣士だと思って舐めていたら、まさか呼吸も使わずに頸を落としてくるなんてね。私の頸はそこそこ以上に硬かったと思うのだけど……。でも、まあ良いわ。あなたのそれが日輪刀では無いのなら、何を斬った所で意味は無いもの。人間にしては強いみたいだけど、残念だったわね」

「化け物」相手に斬撃が全く効いていないと言う様子では無かった。
 無効化やら吸収やらしてくるシャドウたちに攻撃した時の感触とは全く違ったし、況してや反射している訳でも無い。強いて言うのならば、超回復とでも言うべき回復力によって斬撃で与えられるダメージの多くが無効化されている様だ。肉片になるまで細かく全身を切り刻めばどうなるのかはまだ分からないが、流石にそれをするにはペルソナの力でも使わないと無理である。しかし、ここが何処なのかはまだ分からないが、ペルソナを使えない可能性は高い為、ペルソナに頼る事を念頭にして戦う事は出来ない。
 だが、こうして剣での攻撃が決定打にはならないのであれば、一体どうすればこの場を切り抜ける事が出来るのだろうか。
 剣を構えて何時でも「化け物」の動きに反応出来る様に警戒しつつも、状況を打開する為の方法を必死に考えていると。「化け物」はその相貌を歪ませる程の、醜く悪意のある笑みを浮かべた。

「鬼狩りでないなら、あなたも私のお人形にしても良いかも知れないわね。
 呼吸も日輪刀も持たずにそれ程強いのなら、良いお人形になってくれそうだし」

 そして「化け物」は、既に倒れていた男性へと指を向ける。

「血鬼術──」

 すると、深手を負って倒れていた筈の男性がむくりとその身を起こした。
 虚ろなその目には何の感情も浮かんでいないが、しかし何かが明らかにおかしい。
 そして男性が動き出すと同時に、その身を深く切り裂いていた傷は、見る見る内に塞がって、終には傷痕すら消えてしまう。最早、彼が傷を負っていた事を示すのは、身に着けている衣服をどす黒く汚す血痕だけだ。
 まるで目の前の「化け物」の同類にでもなってしまったかの様な異常な回復力に、思わず息を呑む。
 もしや、この「化け物」は己が傷付けた相手を同類に変えてしまえる様なものなのだろうか。
 そうなると、宛らゲームや創作物のゾンビやら吸血鬼やらを相手にする様な感じに厄介極まりない。
 そして、「化け物」に弄ばれている男性は果たして無事なのだろうか……。

 そんな思考を遮るかの様に、「化け物」に操られている男性が襲い掛かって来た。
 手遅れなのかそうでないのかの判断は付かず、更に人間である彼を無暗に傷付ける事も出来ず。
 咄嗟に空いた手に持った鞘で男性からの一撃を防ぐが、本当に人間の力なのかと疑う程にその力は強い。
 だが、微かに聞こえる骨が軋む音や張り裂けそうな程の筋肉の状態を見るに、所謂「火事場の馬鹿力」を無理矢理引き出させられていると見た方が良いのだろう。そんな力を何時までも使い続けていたら、男性の身体の方が壊れてしまう。だから、何としてでも男性を無力化させるなりして動きを止めなければならない。
 腕での攻撃を防がれたからか、男性は思い切り蹴り上げてこようとする。
 そしてその動きに合わせる様に「化け物」も襲い掛かって来た。連携して仕留めに来るつもりなのだろう。
 男性の蹴りをどうにか身を捻って回避し、そして彼がまだ鞘を掴んでいるのを良い事に鞘ごと振り抜く様にしてその身体を離れた場所へと投げ飛ばす。伸びて来た「化け物」の腕は遠慮無く斬り捨てて、そして身を起こして反撃して来た男性の拳の一撃は身を屈めて避けた。背後の木々の幹を大きく削ったその拳は、その衝撃によって深く傷付いたが、その傷もやはり治ってしまう。尋常な状態では無い。……彼はまだ『人間』なのだろうか……。
 もし、「化け物」を倒しても彼が戻らなければ……、そして「化け物」の様に人を襲う様になっていたら、一体どうすれば良いのだろう。だが、迷っている様な暇など無い。
 それに、このまま対応にあぐねていれば、この男性はそう遠からず自滅する様に命を落としてしまうだろう。
 だが頸を絞めるなどして意識を刈り取ろうにも、それを邪魔する様に動いてくる「化け物」の存在が邪魔であった。

 様子のおかしい男性に対し、目の前で目まぐるしく変化する状況に頭が真っ白になってしまった様に固まっていた女性が、ふと我に返った様にその名を必死に呼びかけ始める。
「まさふみ」と言うのは、この男性の名だろうか。恋人なのか夫婦なのかは分からないが、かなり親密な関係なのか、名を呼ぶその声音は懇願する様なものになっている。
 ……だが、そんな必死の呼びかけにも男性は応えない。意識が無いのか、それとも一種の洗脳状態になっているのかまでは分からないが。親しい人の声ですら、届いていない状態なのは確かだ。
 女性の為にも、男性を傷付ける訳にはいかなかった。……最終的にそれ以外にはどうする事も出来ない状態になっているのだとしても、それを判断するのは今じゃなくても良い筈だ。……少なくとも、「化け物」の息の根を止めるまでは、後回しにしたい。

 傷付けない様にと意識すると、どうしたって防戦一方になってしまう。そしてそれを好機と見たのか、「化け物」の攻勢は益々強くなる一方であった。
 男性の身体と命を守る為に早くどうにかしなくてはと、そんな焦りも募る。
 だが、男性の存在をある種の人質にしているからこそ己が優勢であると理解している「化け物」は、男性を無力化させる為の隙を与えようとはしない。

 だから、それはもうある種の無意識レベルでの癖で。
 シャドウと戦う「何時も」の様に、咄嗟にペルソナの力を使おうとした。
 傷付けるつもりは無い、ただ暫く「眠っていてくれ」と。
 その為、相手を眠りに落とす力を持ったペルソナを無意識に呼んでいた。
 その結果、一瞬の内に男性の意識は綺麗に刈り取られた。
 突然手駒が倒れた事に焦った「化け物」が再び男性を操ろうとするも、その力よりも引き摺り込まれた眠りの方が強い。男性は深い深い眠りに落ちたまま、微動だにしなくなった。

 咄嗟の反応で呼んでしまったが、幸運な事にペルソナの力を使う事は出来るらしい。
 ここが、自分にとっては『夢の中』だからなのか、それともまた別の理由があるのかは分からないが。
 だが、ペルソナが使える事自体は大変喜ばしいが、何時もの調子で使えるとは到底言い難い様だ。
 先ず、本来ならば呼び出したペルソナは完全に実体化してその力を発揮するのだが、その力を発揮させるほんの一瞬僅かに現れる事が精一杯な様で、これでは共に連携して攻撃する事は出来ない。そして更には、ペルソナの力を使った際の消耗が平時の比では無かった。
 幾度も『心の海』を駆けてシャドウとの戦いにその身を投じている内に心身共に鍛えられてきたし、その結果強力なペルソナやその力を遺憾なく発揮出来る様になった。だからこそ、イザナミに打ち克つにまで至ったのだから。
 しかし、この状態だと恐らくペルソナの力を連続して使うのは数度が限界だろう。
 ならばこそ、ここで勝たねばならない。

「何よ、一体何をしたのよ……!!」

 一体何故、自分の支配下に在った筈の男性が突如操れなくなったのか、「化け物」には理解出来なかったのだろう。「未知の脅威」を目の前にしたかの様に、明らかに動揺していた。
 そして冷静で頭が回る事に、「化け物」は自分では理解出来ない脅威からは逃げる事を選んだ様だ。
 踵を返す様に「化け物」は脱兎の勢いでその場を後にしようとするが、しかし人を襲う存在をここで見逃すわけにはいかない。此処に居る人たちは助かっても、また別の場所で犠牲者が出るのなら意味が無い。
 その為、効くかどうかに関しては半ば賭けではあったが、祝福属性の攻撃である『ハマオン』を遠ざかろうとするその背に向かって放った。
 悪魔の系統のペルソナは祝福属性に弱いものが多いので、この「化け物」が吸血鬼みたいな存在であるのなら、祝福属性の攻撃は効くのではないだろうかと言う直感は正しかった様で。
 何処か神々しさを感じる光の中に、「化け物」の姿は溶ける様に消えて行く。
 消えるその間際、獣の様な眼差しに宿っていた狂気的な光は薄れ、人のそれであるかの様な感情が浮かぶ。
 罪悪感にも似た感情を浮かべた「化け物」は、「ごめんなさい」と言おうとしたかの様にその唇を幽かに動かして……そして跡形も無く消えた。

 光の中に消えた「化け物」が蘇って来る様な気配は無く、そして周囲に似た様な「化け物」の気配は無い。
 一先ず危難は去ったのだろうか、と。完全には警戒を解く事は出来ないが、息を整える様に小さく溜息を吐く。
 その時、眠りに就いている男性に寄り縋っていた女性の焦った声が、意識をそちらに向かわせた。
 慌てて駆け寄ると、先程「化け物」に操られていた時には塞がっていた筈の傷が全て元通りに開いてしまっていて……そしてそれだけではなく、無理矢理動かされていたダメージまでその身体には現れてしまっていた。
 呼吸は既にかなり荒いものになっており、このままでは命を落としてしまう。
 この場から最も近い病院まで一体どれ程の時間が掛かるのかは分からないが、夜の森を抜けねばならぬ事を考えると病院に辿り着けるかどうかも怪しいだろう。
 既に手遅れなのかもしれないが、しかし。ペルソナの力を使える自分になら、彼を癒す事は出来るかもしれない。
 試しに、複雑骨折や多少の臓器損傷程度なら一瞬で完治させられる『ディアラマ』を使ってみるが、しかしどうにも期待した通りの効果は無い。更には、やはり何時もならば考えられない程にこちらの体力と気力を消耗してしまう。ペルソナの力を使うのは、後一回が限界だろう。
 男性の傷は僅かに塞がったものの、未だ予断を許さない状態である。
 その為、今度はもっと効果の強いものを……ほぼ全ての傷を癒す事の出来る『ディアラハン』を使う。
 柔らかな光が一瞬男性の身体を包んだかと思うと、彼の呼吸音は一気に安定したものになる。
 右手首で計った脈も安定している事から、少なくとも命の危機は脱したのだろう。
 その事に安堵して溜息を吐くと、途端に恐ろしい程の疲労と、それ以上に抗い難い眠気が押し寄せてくる。
 だが、こんな場所で倒れる訳にはいかない。
 女性の身で気を喪っている男性の身体を動かすのは厳しいだろうし、どうにか彼等を連れてこの森を抜けるまでは倒れる訳にはいかなかった。
 それに、此処が一体何処であるのだとか、一体彼等の身に何が起きたのだとか、あの「化け物」に何か心当たりはあるのかだとか。聞きたい事は幾らでも在るのだ。
 道すがらでも構わないので、何か状況を整理する為の情報が欲しかった。

 だが、女性に声を掛ける前に何者かが近付いてくる様な音が微かに聞こえ、万が一の奇襲を警戒して身構える。
 先程の「化け物」の様な気配は感じないが、しかし何かしらの悪意がある存在でないとは限らない。
 気を喪った男性と恐らく戦う術は無い女性を庇いながら、既に疲労困憊の状態で戦うのは厳しいものがある。
 救助に来てくれた者なら助かるが、そうで無いのなら気付かずに通り過ぎて欲しい位だ。
 だが、相手はこちらを捕捉しているのか、真っ直ぐに向かってくる。
 そして。

 茂みを掻き分ける様にして木々の陰から姿を現したのは。
 一つか二つか年下の様に見える、まだ少年と言っても良い様な年頃の男だった。
 一見して先程の「化け物」の同類の様には見えず、その気配も人間のそれだ。
 それに安堵しかけたが、しかし少年はその手に刀を携えている上に、その背後からは本当に微かにではあるがあの「化け物」と少し似た気配が漂っている事に気付いた。
 少年自身には害意などは無い様に見えるのだが、「化け物」に操られていた男性の様に、何者かに操られていないとも限らない。
 その為、女性たちを背後に庇いながら、既に限界になっている身体に鞭を打つ様にして十握剣を構えた。

「あの、俺は……」

 その様子を見た少年は慌てた様に何かを説明しようとしてその口を開こうとする。
 だが、彼が何を言おうとしているのかを聞き終えるよりも前に、限界が来てしまった。

 もう何をしても抗えない疲労と睡魔によって、意識は次第に薄れていって。
 硬く握り締めていた筈の剣を取り落として、身体はぐらりと揺れる様にして傾き倒れそうになる。
 崩れ落ちる様に倒れかけた身体を、刀を納めた少年が慌てて支えてくれた。
 意識が完全に途切れる寸前に、彼の耳に旭日を模した花札の様な耳飾りが揺れているのを視界に捉える。
 そして、そのまま白い霧の中に沈んでいく様に、意識は途絶えるのであった。






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