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第6話『挺身の大火』

◇◇◇◇




 降り頻る雨の中。
 その瞳に憎悪の焔を燃やし、クロムはただただ目の前の敵を斬っていった。
 自警団の仲間達の為に極力戦闘を回避出来る様に相手の防衛線が薄い場所を見極めそこを食い破らせる様に指揮しつつ、最早ルフレの制止すらも聞かずに突撃していくクロムのその様に、ルフレはせめてその行為でクロムが不利にならない様にとクロムに迫る敵を剣や魔法で排除していく。
 クロムを気にするルフレのその眼差しには、哀しみが浮かんでいるがルフレは何も言わない。

 例え憎悪に囚われその眼を曇らせてしまっているのだとしても。
 虚ろにただ立ち尽くしているよりは、まだマシであると。
 少なくともこの場の敵を倒し尽くすまでは、死のうとはしないだろうから、と。
 そんな判断が其処にはあったのかもしれない。
 何にせよ、クロムが憎悪に駆られてしまった事にルフレが心を痛めているのは確かであった。
 が、怒りにその眼を曇らせたクロムは、そんなルフレの眼差しにすら気付いてはいなかった。

 如何にクロムの現状に心を痛めていようとも、それでルフレの手が鈍る事は無かった。
 それ処かクロムを守る為だからなのか、振るうその剣は必殺の一閃となって敵の首を掻き取り、放たれた魔法は世界を焦がす程の威力と勢いで敵を呑み込んでゆく。
 崖上からクロムに接近しようとしていた竜騎士達はその手の斧を振り上げる前に烈風によって地に落とされ、クロムを囲もうとした兵士達はそれよりも先に疾風の様に飛び込んできたルフレの剣閃の前に倒れていった。
 クロムはただただ目に映った目の前の敵を屠る事だけを考えている為に、自らの身に降りかかろうとしていた危機に何一つとして気付いてはいない。
 だからこそ、無謀な突撃を続けていく。

 自然とクロムとルフレが居る場所にペレジア兵達が集中して行った事で、結果的に自警団の仲間達が食い破ろうとしているペレジア兵達の防衛線が薄くなっていった事は恐らく幸いな事であったのだろうけれども。

 クロム達は、地の利も無い異国の地で、全てを押し流さんとするこんな豪雨の中で、目的を喪い疲弊しきった身体に鞭打ちながらただ追撃の手から逃れんと敗走する逃亡者達であった。
 敵は中隊規模の軍勢。
 対してクロム達は小隊にも満たぬ寡兵。
 最早勝敗など目に見えていた。
 だが。

 幾ら斬れども尽きぬ憎悪に身を委ね、獣の如き咆哮を上げながら敵兵をただ只管に斬り捨て続けるクロムと。
 そんなクロムを守る様に彼だけに忠実な猛獣の如く獲物を屠ってゆくルフレの二人が、圧倒的に不利な戦況を支えていた。
 それ処か、荒れ狂う怪物の様なルフレとクロムを前にして、元々戦意が低かったペレジア兵達の攻撃の手はどうしても鈍る。
 戦況は徐々に徐々に……クロム達に優勢に傾き始め、それはある時を境に最早ペレジア軍に立て直しが不可能な程に一気に傾いた。
 クロムとルフレの通った後には無数のペレジア兵達の屍が残され、二人の前に立てば容赦なく魔法の雷撃に呑み込まれるか或いは猛獣にその首を刈り取られるか……憎悪に囚われた剣に袈裟斬りにされてゆく。
 そして──


「……来たか、イーリスの王子クロムよ。
 我はペレジアの将ムスタファー。
 生き残りたくば我を討ってみせよ!」


 この場のペレジア軍を率いている敵将、ムスタファーの元まで二人は辿り着いた。
 ムスタファーの名乗りに、クロムは何も言わずにファルシオンを構え直す。
 その瞳は変わらずに憎悪に支配され、ペレジアの強敵を前にして益々その炎は燃え盛っている。
 そんなクロムとは対照的に、ルフレがムスタファーに向ける眼差しには憎悪など何も無い。
 ルフレは一歩進み出て、この雨の中でもよく通る凜とした声を上げる。


「あたしはクロム自警団の軍師ルフレ。
 あなたに恨みは無いけれど、ここを通り抜ける為に討たせて貰うわ!」


 そう名乗りを上げて剣を構えたルフレに、ムスタファーは一人の武人として喜びの笑みを浮かべる。


「成る程、一人の武人として相対するにこれ程相応しい相手も居まい。
 さあ、決着を着けよう!」


 その言葉を合図に、クロムが飛び出した。
 重く鋭いその一撃を斧で何とか往なしながら、隙を狙って攻撃を叩き込もうとする。
 が、そこを見逃すルフレでは無く。
 クロムがファルシオンを弾かれて体勢を崩された瞬間には、直ぐ様割り込む様にしてムスタファーの一撃をその剣で受け止め、そのまま斬り結ぶ。
 クロムが憎悪のままに振るうその剣は一撃一撃は重く鋭く強力ではあるが、怒りに支配されたその剣は、クロムの剣術が本来持っている柔軟性に著しく欠けていた。
 故に、歴戦の戦士であるムスタファーには、その隙を突くなど容易い事……なのではあるが、その隙は尽くルフレによってカバーされる。
 ルフレはどちらかと言えばクロムの援護に徹してはいたが、それ故に隙が全く見当たらない。
 幾合にも渡るクロムとの打ち合いの末に、ムスタファーの斧は度重なる衝撃に耐えかねた様に刃が大きく欠けてしまう。
 それを見逃すクロムではなく、素早くムスタファーの身体を上段から叩き斬った。
 致命傷を負ったムスタファーはその場に倒れ伏し、クロムの一撃が臓腑をも傷付けた為なのか吐血する。

 そんなムスタファーに、クロムは憎悪に燃えた目のまま近付いた。
 そして、再びファルシオンを振るおうとする。
 が。
 後ろからクロムの腕を取り押さえる手が、それを止めた。


「クロム、駄目。
 もう駄目よ、クロム……。
 その人はもう助からない。
 それなのに無意味に傷付けようとするのは、ダメ。
 それをしたら、クロムはクロムじゃなくなってしまう」

「……それが、どうした。
 コイツらが、姉さんを殺したんだぞ」


 昏く淀んだクロムのその声に、臆す事もなくルフレは静かに首を横に振る。


「いいえ、それは違う。
 この人はあくまでもペレジアと言う国の将軍と言うだけ。
 あの場でエメリナ様を殺したのはギャンレルや……助け出せなかったあたしたち。
 それを履き違えてはダメ。
 このままだと、クロムは憎悪に呑み込まれてしまう。
 そして、その憎悪は何時か必ずクロム自身とクロムが守りたいモノを傷付ける。
 憎むなとは、言わない。
 だけど、それに飲み込まれないで、その憎しみを向ける先を間違えないで……」


 ルフレの静かな眼差しが、クロムを……そこに芽生えてしまった憎悪を射抜く。
 まだ、その憎悪は消えてはいないが……。
 それでも、クロムはファルシオンの切っ先を下ろした。

 それを見てルフレはクロムから手を離し、地に倒れ伏しているムスタファーへと歩み寄る。


「何か、言い残す事はある?」

「見事だ、イーリス軍……。
 願わくば……残った兵たちの……助命を……」


 最期まで部下を案じるムスタファーのその姿勢に敬意を示し、ルフレは静かに頷いた。


「分かった。
 追撃してこない兵の命は取らない。
 ……追撃してきた場合は、容赦は出来ないけれど。
 それで、良い?」

「すまぬ、な……。
 イーリスの、軍師よ……」


 ふぅ……と心残りの一つが消えた様な、そんな僅かに安堵した様な顔で、ムスタファーは息を引き取る。
 そっとムスタファーのその目を優しく閉ざし、ルフレは立ち上がりその場のペレジア兵全員に聞こえる様に声を張り上げる。


「ムスタファー将軍は討ち取った!
 将軍の遺志により、我々を追撃しないならば、如何なる将兵でも命は取らない!
 繰り返す!
 我々を追撃しないならば、如何なる将兵でも命は取らない!
 即刻武装を放棄して、この場からの撤退を要求する!」


 ペレジア兵達が武装を放棄し、負傷した仲間や死亡した仲間の遺体……そしてムスタファーの遺体を回収しようとするのをルフレは見守る。
 このままここに留まる訳にはいかない。
 もう少しだけペレジア兵達を監視した後に、ルフレもこの場を撤退するつもりであった。
 既に自警団の仲間達は先に行かせた為、この場に暫し留まっているのは、ルフレとクロム……そしてフレデリクだけであった。


「……取り敢えずここのペレジア達があたしたちを襲うつもりはもう無い、か……。
 クロム、フレデリク、早くバジーリオ様達と合流しなきゃ。
 皆が待っている筈」


 そう言って激戦の場となった峡谷を抜け、バジーリオが言っていた橋が遠目に見えてきた頃。
 ルフレの耳が、ふと遠くから此方に近付いてきている音を察知する。
 それはルフレ達が逃げてきた方向から近付いてきていた。
 音から判断出来る装備から、ムスタファーの配下では無い。
 ……追手のペレジア軍だ。
 雨の音に紛れていた為に、ルフレですらも何時もよりはその接近に気付くのが遅れてしまっていた。
 先行してきた部隊なのか、追い付きそうになっているのは追撃してきているペレジア軍の本隊ではないのだろうが……。


「三人では流石に不味過ぎる……。
 急げば逃げ切れる距離ではあるみたいだし、一々相手する必要も無い。
 急ぎバジーリオ様達と合流するべきね」

「ええそうですね、ルフレさん」


 ルフレの言葉にフレデリクは頷き、安全の確保の為にも二人の先に出て駆け出す。
 ルフレもまたクロムの腕を引きながらそれに続こうとして。


「えっ……?」


 クロムに、その手を振り解かれた事にルフレは一瞬呆然とした。
 そのルフレを置き去りに、クロムは来た道を戻ろうとする。
 慌ててルフレはクロムを止めようと、その腕を今度はやや強く掴むが、それでもクロムは止まらない。
 腕を掴むルフレごと、引き摺っていこうとする。


「クロム……!?
 どうしたの?
 そっちには追手しか──」


 明らかに様子がおかしいクロムに、ルフレも焦りが隠せない。
 そして、その目には。
 先程ムスタファーの軍勢と戦っていた時よりも、昏く激しい怨嗟の焔が宿っていた。


「ペレジア軍が、追ってきているんだろ?
 俺達から、姉さんを奪った……アイツらが。
 また、俺から奪おうとして。
 そんな事は、赦さない。
 俺が、一人残らず……」


 ブツブツと呟くクロムには、最早ルフレの言葉すら届いていない。
 燃え盛る憎悪のままに、クロムは暴走していた。


「クロム!?
 何言ってるの!
 そんな馬鹿な事は止めて、ほら、もう直ぐで馬車の所まで行けるんだから……!
 リズや皆も待ってる。
 早く行って、安心させてあげなきゃ……!」


 リズの名前を出してもクロムは止まらない。
 ルフレは何とか止めようとするが、腕を一本持っていく覚悟でもないと、今のクロムを止める事は出来そうにも無かった。
 クロムの異変に気付いたフレデリクが引き返し、ルフレと共に説得しようとするも、最早クロムには何の言葉も届かない。
 そうこうしている内に追手との距離はどんどんと詰められてゆく。
 最早後が無い状況に。
 迷っていたルフレの目が据わった。

 クロムから手を離し、「絶対に痛いだろうけど、手加減はするから安心して」と、耳に届いていないだろうがクロムに伝える。
 そして。

 ズドンッと。
 鈍い音と共に、クロムの腹にルフレの拳がめり込んだ。

 あまりのその威力にクロムの身体はその場に崩れ折れ、否応なしにその足取りは止まる。
 腹を抑えて踞るクロムを、ルフレはその胸座を掴んで無理矢理立たせた。


「クロム、いい加減にして。
 今のそのクロムの顔、とてもじゃないけどエメリナ様やリズに見せられたもんじゃないわよ?
 確かに、憎むなとは言わない……と、あたしはそう言った。
 でもね、呑み込まれるなとも言ったでしょ。
 今のクロムは、どう見ても憎しみに囚われて目が曇っている。
『憎しみに溺れるな、悲しみに縛られるな』……。
 それが、エメリナ様の言葉……。
 それを率先してクロムが踏み躙ってどうするの。
 エメリナ様の理想を守りたかったんでしょ?
 その手を汚してでもって、あたしに言ってたじゃない。
 そう想っていた心までも、憎しみに呑み込ませてはダメ」


 漸く、ルフレの言葉が耳に届いたのか。
 腹を押さえながら、クロムは苦しみを絞り出す様に呻く。


「だが……もう、姉さんは……」

「そうね、エメリナ様はもう居ない……。
 だけれども、それでエメリナ様が残したモノが全部無くなってしまったのだと、クロムは思っている訳?
 エメリナ様との思い出、エメリナ様の言葉、エメリナ様が目指していた理想……。
 それらは、エメリナ様が居なくなってしまったら、クロムの中から全て消えてしまう様なモノだったの?」


 少しだけ首を傾げてそう訊ねるルフレには、その答えはとうに分かっていた。
 それでも、クロムの心を救い上げるべく、それを訊ねる。


「そんな事は、無い……!
 忘れるものか、無くすものか……!
 俺が、姉さんを忘れるなんて、そんな事……!」

「ええ、そうでしょうね」


 小さく頷いたルフレを見て、腹を押さえるのを止めてクロムは縋り付く様にその手をルフレの肩に置く。
 そして、心を吐き出す様な悲痛な叫びを上げた。


「だがな、ルフレ。
 苦しいんだ……。
 どうしようもなく、苦しいんだよ……。
 姉さんの思い出はここにあるのに、それでももう姉さんが居ないのだと思うと。
 耐えようもなく、苦しいんだ……。
 姉さんの事を思い出す度に、憎悪がこの胸に燃え上がる。
 あの男を、この手で殺してやりたいと……。
 姉さんを死なせた全てを、壊してやりたいと……そう……」


 大切だったからこそ、愛していたからこそ。
 それを喪った哀しみや憎しみは重く深い。
 愛していた分だけ、それはそのまま周りを壊そうとする危険な衝動へと変わってしまう。
 憎いモノを全て壊したくなってしまう。
 例えそれを望む様な人では無かったのだと、誰よりも理解しながらも。
 自らのその行為を、その人は何よりも哀しむだろうと分かっていながらも。
 それでも、止まれないのだ。
 それは、クロムの愛情深さ故だったのだろう。

 そんなクロムをルフレはそっと抱き締めて優しくその背中をあやす様に擦った。
 降り頻る雨に打たれ身体が冷えていく中、抱き締めてくるルフレの温もりがクロムの身体を温め、凍り付いていた心を柔らかく溶かしていく。


「クロムは、エメリナ様の事を本当に大切にしていたから……。
 その喪失の痛みに心が耐えられなくて、憎しみで心を麻痺させようとしていたのね……。
 でもね、そうやって心を麻痺させてしまっていると、クロムはもっと大切なモノを喪ってしまう。
 憎しみにその眼を曇らせていたら、本当に大切な事を見失ってしまう……。
 エメリナ様はもういないけれど、それでも、エメリナ様が託したモノは、確かにそこにあるでしょ?」


 そう言って、クロムの胸にルフレはそっと手を当てた。
 そこにある喪失の虚ろもまでをも癒す様に優しくそっと触れるその手に自分の手を重ねながら、クロムは「ここに……?」と呟く。


「ええ、エメリナ様が目指していた理想を、クロムは確かに一緒に見ていた筈。
 クロムとエメリナ様は別の人だから、エメリナ様自身の目に映っていたそれとは違うのかもしれない。
 でも、それはきっと確かに同じ方向にある。
 エメリナ様の想いを糧に芽吹いた、クロムだけの理想が其処にある筈よ。
 だから、クロムがその理想を諦めずに描けるなら、エメリナ様の理想は途絶えた訳ではない。
 それにクロム。
 貴方の命は、エメリナ様が守ったもの。
 ならば、クロムにはその命を大切にする義務がある。
 クロムが自分の命を粗末にすればそれは翻ってエメリナ様の命の価値を粗末にしたのと同義よ」


 静かなルフレの言葉に、クロムは知らず知らずの内に涙を溢した。
 それは降り頻る雨の中に混ざって消えてゆくけれど。
 確かにクロムの頬を熱く濡らしていた。
 エメリナを喪ってから初めてやっと流す事が出来た涙は、クロムの胸の内に激しく燃え盛っていた凶悪な衝動を、ゆっくりと鎮めてゆく。
 憎悪の炎が完全に胸の内から消えた訳ではない。
 それでも、もうその眼は確かに世界を捉えていた。

 クロムの心が憎悪の泥濘から抜け出せた事を悟り、ルフレは安堵した様に微笑みを向ける。
 そしてこの場を離れバジーリオ達と合流しようとして。

 ピクリと、その身体を強張らせた。


「不味い……包囲されかけている……」


 唸る様にそう呟いたルフレの耳は、無数の足音が自分達を取り囲む様に迫っている事を察知する。

 クロムを止めるのに時間を掛け過ぎたのだ。
 今から走って逃げても果たして間に合うか……。
 それでも。


「クロム、フレデリク!
 全力で走りましょう!」


 頷いた二人を伴って、ルフレは必死に走り出した。




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